真メリーさん
深夜二時。男のスマートフォンが、無機質なバイブレーションの音を震わせた。
画面に表示されたのは「非通知設定」。
男は、自嘲気味な笑みを浮かべて通話ボタンを押した。スピーカーから聞こえてきたのは、ひどく高くて硬質な、人工知能の合成音声に似た女の声だった。
『……私メリー。今、ゴミ集積所にいるの』
ツ、ツ、ツ……と切れる電子音。
男は驚かなかった。むしろ、待ち侘びていたとさえ言える。
「メリー」とは、数日前に彼が海外の怪しいサイトから大枚をはたいて購入した、最高級シリコン製の等身大ドールの商品名だった。人間と見紛うほどの美貌、吸い付くような肌の質感。しかし、ワンルームの狭い部屋にそれを置いたとき、あまりの「生気のなさ」に薄気味悪さが勝り、男は昨夜のゴミ回収に合わせてそれを不法投棄したのだ。
だが、捨ててから気づいた。あの圧倒的な虚無感。冷たいシリコンの感触が、奇妙な依存症のように男の脳裏から離れなくなっていた。
ジリリ、と再びスマートフォンが鳴る。
『私メリー。今、十字路の角にいるの』
男はベッドから起き上がり、部屋のクローゼットを開けた。
『私メリー。今、あなたのアパートの階段の下にいるの』
外からは、怪談の原典にはない、生々しく重苦しい音が響き始めていた。
ペタ……ペタ……、ズズ……ズズ……。
百キロ近いシリコンの塊が、自らの意思でコンクリートの階段を這い上がってくる、摩擦と不快な打撃音。それは確実に、この部屋へと近づいている。
『私メリー。今、あなたの部屋のドアの前にいるの』
ガタガタ、と玄関のドアノブが激しく揺れた。チェーンはかかっていない。鍵もあらかじめ開けてある。
だが、そこから音が止んだ。静寂が部屋を支配する。
男は静かにベッドの上に腰掛け、スマートフォンを耳に当てた。画面はまだ通話状態のままだ。
沈黙を破り、男の背後の闇から、冷たい空気とともにあの声が直接響いた。
『私メリー。今、あなたの後ろにいるの』
ゆっくりと振り返った男の目は、暗闇の中でらんらんと輝いていた。恐怖など微塵もない。そこにあるのは、ねっとりとした狂気的な歓喜だった。
「――待ってたよ、メリー」
男は、ベッドの上に丁寧に並べてあった「それら」を愛おしそうに掲げた。
男の手には、妖しく光る深紅のシルク製ランジェリーとTバックショーツ。そして、枕元には様々なサイズや形状をした、禍々しい存在感を放つディルドやローターといったアダルトグッズの数々が、完璧な戦闘態勢でセッティングされていたのだ。
男はシャツのボタンを一つずつ外しながら、メリーに向かってじりじりと這い寄る。
「捨てるなんてとんでもない。ちょっと部屋を片付けて、君を迎える準備をしてただけさ。さあ、一晩中可愛がってあげるから……こっちにおいで」
その瞬間、暗闇の中で等身大ドール「メリー」の端正なシリコンの顔が、見たこともない形に歪んだ。
生気のないはずのガラスの瞳が恐怖に大きく見開かれ、顎の関節がガタガタと震え出す。
「……いやぁぁぁぁぁぁぁーーーっっっ!!!」
鼓膜が破れんばかりの、人間のものとは思えない絶叫をあげたのはメリーの方だった。
彼女は、持っていたはずのスマートフォンを床に放り出すと、凄まじい筋力とスピードで反転。開け放たれた玄関のドアへと猛ダッシュで逃げ出した。
ドタドタドタドタ!! ズズゥゥン!!
巨体を激しく壁にぶつけながら、夜のアパートの廊下を、文字通り脱兎のごとく逃げ去っていくシリコンの足音。
「あっ、待ってよメリー! サイズもぴったり合わせて買ったんだからさぁ!」
男は深紅のランジェリーを片手に、夜の廊下へと消えていく哀れな怪異の後ろ姿を、名残惜しそうにいつまでも追いかけていた。その日以来、男のスマートフォンに非通知の電話がかかってくることは二度となかった。




