メスガキサキュバスに理解されるお話
「理解らせる」お話じゃなくて、
「理解される」お話を書いてみました!
3月31日深夜、俺は一人でビールを飲んでいた。
今日の終わる午後12時、俺は40歳になる。
それだけだった。
六畳間の独り暮らし、仕事尽くめの中モテない境遇を嘆いていたら、いつの間にか天涯孤独の道を選んだことになっていたらしい。
ケーキもなく、花束もなく、誰かからのメッセージもなく、ただコンビニで買った第三のビールと少しばかりのつまみがあるだけだった。
今日はそれだけじゃ物足りなくなって、数年ぶりにテレビをつけてみた。
久しぶりに見るバラエティ番組には俺の知らない芸能人ばかり映っていて、俺よりも一回りも二回りも若く顔立ちの良い有名俳優が、場を笑いに包んでいた。俺には縁のない世界の話で、すぐに切ってしまった。
「こんばんは、おぢさん♡」
そこに、メスガキサキュバスが現れた。
黒い布地は衣服と呼ぶには面積が足りず、肩と太ももはほとんど剥き出し。で、腰のあたりで細いヒモが結ばれているだけ。太ももには、アダルティなグッズを留めるためとしか思えないレッグバンドを巻いている。
腰まで流れる茶髪、背中にコウモリみたいな小さな羽根。
ヘソが丸見えのお腹の下には、薄紅色の紋様が刻まれていて、それがぼんやり光っていた。脈打つように、ゆっくりと明るくなったり暗くなったりを繰り返す。
一緒に歩いているだけで通報されそうな、キワどい格好の子供だった。
「……え?」
「はじめまして♡ うわぁ、この部屋くっさぁ~♡」
メスガキはにっこり笑い、棒付きアイスを妖艶に舐める。悪いことを企んでいそうな笑顔だった。
「な、なんで……これって、もしかして?」
「わたし、リアーナ。おぢさんならこのカッコで分かると思うけど、サキュバスやってま~す♡」
リアーナがくるりと回ると、腹の紋様がそれに合わせて一瞬強く光った。
俺の頭の中に数々の創作物がよぎる。ガキの頃ゲームに出てきたやつ、ネット小説に転がってたキャラクター。そして、俺だけの秘蔵フォルダに格納してる音声作品の数々――。
俺は呆然と、目の前で無防備に微笑む少女を見つめる。
「……まさかサキュバスって、あのサキュバス? って、どっから入った!?」
「ん? ベランダの鍵は閉めようよ、不用心な、お、ぢ、さん」
リアーナは食べ終えたばかりのアイスの棒を、俺の目の前に突き立てる。棒の先に絡みついたこの子の唾液がべとっと垂れて、俺の顔に――。
俺は目を逸らし、ベランダを見た。洗濯物を干すから、ベランダの鍵は開けっ放しにしているのだ。3月の夜風は、おしとやかにカーテンを揺らしていた。
「ここ、5階だぞ……」
「なに、信じらんないの? 目の前の現実見よーよ」
「……マジか」
「うん、マジなやつ。おぢさんのを搾り取りにきました♡」
きゃっきゃとメスガキが跳ねる。
「……疲れてるな、俺」
俺は缶ビールを一口飲んだ。
それだけじゃ足りなくなって、なんとなく、もう一口飲んだ。
「驚かないの?」
「驚いてる。驚いてるけど……まあ」
「まあ?」
「酔いが回ったんだなって。俺にもとうとう幻覚が見えるように――」
「いや現実だから!」
リアーナは一瞬きょとんとして、それからまた八重歯を見せた。さっきよりも意地悪な笑顔だった。
「おぢさんならわかってるね? わたしが何しに来たか♡ どうせおぢさん、ロリコンでしょ」
あ、俺――。
ここで犯られるんだ――。
39年と364日分の人生ハードモードが、ようやく報われる――?
いや期待するな、と頭の隅で誰かが言った。たぶん俺自身だ。
だが心臓は跳ねてドクドクと脈打つ。無意識に股間が熱くなる。
「手始めに、おぢさんの部屋、見るね?」
リアーナは軽やかな足取りで、俺の生活の匂いが染みついた部屋を物色する。
俺はそれを呆然と眺めていた。断る理由が特になかった。いや、あった気もするが、言語化できなかった。
「あ~、ここに来るまで大変だったんだよね~、なんか甘いのちょうだい」
リアーナは襟元あたりを掴んで、ない谷間に空気を送り込んでいた。それから冷蔵庫を開けて中身を確認する。冷蔵庫には第三のビールが六本と、コンビニのプリンが一個だけ入っていた。
「うげ……プリンしかないし~。おぢさん、お腹出てるし少食ってわけじゃないよね。普段なに食べてんの?」
「家では食べないな。ずっと牛丼かそこらのラーメン屋うろついてるよ」
「料理しないんだ。太るよ~? ……おぢさん、おいくつ?」
「明日で40、働き盛りの30代も今日で終わりさ」
「え、明日お誕生日なんだ?」
リアーナはプリンを戻して冷蔵庫を閉めた。遠慮したのだろう。
それからゆっくり振り返って、俺をじっと見た。俺の何を見てるのだろうか……。リアーナは値踏みするような目で、あるいは、標本を眺めるような目で、俺の全身をくまなく観察する。
「おぢさん、彼女は?」
「いない」
「じゃあ、結婚も……?」
「してない」
「友達は?」
「……一応、いるよ」
「連絡してる?」
「…………」
間があく。苦虫を噛み潰したような表情を見せながら、俺は答える。
「してない。もう、何年も――」
「だよね♡ 隠れリア充じゃなくて良かったぁ~。おぢさん優秀だねぇ♡ 最高ランクのドーテーじゃん」
リアーナはにっこり笑った。その表面上の褒め言葉は、全く褒めてない皮肉だが、それが褒め言葉のように響いた。
メスガキはやがて本棚を眺めると、「ふ~ん」とまたにんまり悪巧みな笑顔を浮かべた。
「救いようのキモヲタ♡ 変態♡ 生きる価値のないゴミクズ♡ こんなに罵倒されてるのに顔はニヤけちゃって♡」
彼女は俺のコレクションを指先でなぞりながら、からかうような視線を向ける。
未開封のゲームパッケージに、大昔に買ったライトノベル、マンガ、いつぞやのイベントで買った薄い本が数十冊。そして――大人向けのそれらも。
「趣味は~、コンシューマゲームと読書……に見せかけて、本命はこれだね♡」
リアーナが成年向けゲームのパッケージを手に取った。俺は顔が熱くなるのを感じた。
ぷちでミニでひよこ系な――、死んでも人に見せられない秘蔵コレクションの1つだ。
「置けよ」
「でもさ、最近は電子の人も多いって言うけど、おぢさんはちゃんと現物で買うんだね。えらいえらい♡」
「置けって言ってんだろ」
「返してほしい? いやで~す♡ ロリコンバレしてだっさ~惨めだね~♡」
「ガキがっ――。大人を舐めてると――」
「や~ん♡ こわ~い♡」
俺は缶ビールを一気にあおり、缶を握りつぶす。
このガキ、サキュバスだろうがなんだろうが関係ない。
襲う――いや違う。思い知らせる――いや、そうでもない。
理解らせる――!!!
全身の筋肉が強張る。力が漲るのが分かる。この力なら――。
俺は、目の前のガキを押し倒した。
「――キャッ♡」
成人男性の全体重でガキい馬乗りになり、真上から覆いかぶさる。
肩が本棚にぶつかり、激しく揺れた。
「おぢさん、目、血走っててこわいよ……♡ 鼻息荒いし~? どうしちゃったの~?」
「このガキ、理解らせる――」
「え~、なんて言った~? よく聞こえなかった~♡」
リアーナは瞳にハートマークを浮かべ、短く呟いた。その目を見ていると――ますます物事が考えられなくなって。
「はい、催淫完了、おぢさん一人ごあんな~い♡」
彼女の下腹部では、紋様から薄紅色の怪しげな光を発している。それがどんな意味をもっているかなんて、関係ない。
俺はこのガキを理解らせるだけだ――。
理解らせる――。
一貫した意志のもと、ゴツい手で少女の華奢な肩を掴み、その柔らかな肌に指を食い込ませたとき。
ガタッ――。
「ひぎゃっ!」
頭に鋭い痛みを覚え、俺は床へと崩れ落ちた。
「え? なになになに?」
間抜けな声を漏らしたのはリアーナだ。
床に伏す俺を、きょとんとした顔で眺めていた。
背後で倒れ込んだ本棚から、鈍器のような分厚い本やらが落ち、俺の頭部を直撃したのだった。続けてルーズリーフやキャンパスノートが、床にバサバサと落ちてくる。
頭の芯がじんと痺れていた。痛みのせいか、それとも別の何かのせいか、わからなかった。さっきまで全身に漲っていた熱が、嘘みたいに引いていく。股間も、頭も、すっかり冷えていた。催淫だかなんだか知らないが、あの本棚の一撃で、何もかも吹き飛んでいた。
「――痛ってえ」
俺がうずくまっていると、
「キッテル、固体物理学――?」
リアーナが、床に転がったそれを拾い上げて、表紙を声に出して読む。
キッテル固体物理学――、大学生で物理に触れるなら必ずといってもいいほどお世話になる、分厚い教科書だ。
「こっちはノートかな、知らない文字がいっぱーい。あれ、樋口、誠? へぇ、誠っていうんだ。モブみたいなお名前♡ でも、おぢさんはおぢさんで良いよね♡」
学生時代のノートと返却済みのレポートを拾い上げる。本名バレしてしまった。
そしてまずいことに、次の瞬間――。
雪崩が伝播したのか、倒れた本棚の奥にある本たちが、続々と滑り落ちてくる。ダムの放水のように、一気に押し寄せてくる。
それは、隠してきたエロゲの更に奥に押し込んで、最深部に隠していたものだ。それは、もう"終わった"はずのものだった――。
過去の残骸が、床一面に広がった。
「やめ――」
俺は床に這いつくばって、それを掻き集めようとした。
みっともなく、両手で、覆い隠すように。
でも遅かった。
「なになに~? こんなに無様に撒き散らしてどうしちゃったの?」
リアーナは『キッテル固体物理学』を脇において、別の本を拾い上げる。
「『ポケット六法』。うわぁ、デッカぁ――♡ こんなのポケットにしまいこむつもりだったの? わたしのポケットちっちゃくて、全然入んないよぉ♡ ……おぢさんの、デカすぎてわたしのこどもポケット壊れちゃう♡」
軽い口調で、リアーナは次々と本を拾い上げていく。
「やめろ……」
「お次は……『独習C++』。なにこれ、プログラミング? うわぁ♡ 先っちょに付箋がいっぱいだぁ――♡ もぉ、溜めすぎだよぉ♡ 先っちょだけ、ね♡」
「やめろぉ…………」
「中はどうなってるかなーっと――、あはは、新品みたい! 最後まで使ったことないでしょう」
「あっ……ああっ……」
止めなきゃ――、俺は何か言おうとして、固まってしまった。
「あ~、っとこれは下にあったやつで、えっと――」
リアーナの細い指が、いちばん下に沈んでいた一冊を拾い上げる。一時期狂ったように中身を読んではいたけれど、ある日をきっかけに、最後にはもう開かなくなった本。
「『ゲームシナリオの書き方』だって。ぷっ、おぢさん、もしかしてゲーム作ってたの? 夢みすぎ♡ そんなんで作れるわけ――あれ? おぢさん?」
ガタガタと、全身が震えていた。
思い出したくない記憶ばかり引きずり降ろされて、目元がじんわりと熱を帯びてくる。
怖かった。その本に触れられることが、何よりも恐ろしかった。
ただ、その本に手を伸ばすことが、その本の中身を思い出すことが、過去の自分を思い出すことが、どうしようもなく怖かった。体の芯が冷たくなって、心臓だけが嫌な感じに速くなっていた。さっきまで脈打っていたのとは、まるで違う波打ち方だった。
「うう……」
俺は、床に這いつくばったまま、動けなくなった。
「……おぢさん? どうしたの?」
リアーナの声のトーンが低くなった。
目の前のサキュバスは、本を手に持ったまま俺を見つめていた。さっきまで散々俺を小馬鹿にしてゲラゲラ笑っていたメスガキだ。煽り文句の1つくらい続ければいいのに、その声は止まっていた。
たぶん、見えてしまったのだろう。俺の相当ひどい顔が。
今にも泣きそうな、情けない成人男性の素顔が。
メスガキの八重歯が、引っ込んだ。
「……あ」
小さな声だった。
悪巧みも、からかいも、何もない声。
リアーナは、分厚い本をそっと床に置いた。乱暴に投げたりしなかった。むしろ、壊れ物を扱うみたいに、慎重な手つきだ。
部屋が静かになった。季節の変わり目の肌寒さが襲ってきた。
俺はようやく、震える手で本を引き寄せた。
読み上げられた4冊も、その他の分厚い本も全部、胸の前に抱え込んだ。誰にも見えないように。もう、誰にも触らせないように。
「……こいつらは」
声がかすれていた。
「こいつらには、触れないでくれ……」
リアーナは、何も言わなかった。
ただ、こくりと、小さく頷いた。
それから、しばらく誰も喋らなかった。
俺は本を抱えたまま床に座り込んでいて、リアーナはその向かいに、いつのまにか膝を抱えて座っていた。さっきまでの、部屋中を跳ね回っていた勢いは、どこかに消えていた。腹の紋様だけが相変わらず、ゆっくりと明るくなったり暗くなったりしていた。
「……おぢさんさ」
ずいぶん経ってから、リアーナが口を開いた。
声がさっきまでと違った。明るいのは変わらないのに、どこか慎重だった。
「その本、なんで隠してたの?」
俺は抱えた本に目を落とした。
もう誰にも話すつもりはなかった。
墓場までもっていくつもりだった。
でも――。
「……聞きたいかよ、ガキ」
「うん」とリアーナは言った。「聞きたい」
今度は、馬鹿にする響きが、どこにもなかった。
だからなのかもしれない。
俺が、過去の全てを振り返ったのは。
* * *
「学生の頃は、ゲームが作りたかった」
俺は、抱えた本の中から『ゲームシナリオの書き方』を、少しだけ上に出した。
「ゲームが好きってわけじゃなかったんだと思う。だけど、このまま普通に働きたくもなかった。普通の生き方にウンザリしてただけだったのかもしれないけど、それでも、俺にもそういう時期があったんだよ」
「ふうん」
リアーナは、もう茶化さなかった。膝を抱えたまま、聞いていた。
「これでも大学は出てんだ。有名な理系大学の工学部に入ったは良いけどさ、結局、高校で漸化式解かされてたのが、大学だと微分方程式解かされるだけになってさ、このまま就職して大人になっていくことが億劫になって、ふとゲームを作ろうって思い立ったんだ…………」
…………。
「物理エンジンを入れて、シミュレーションに使うプログラミングも始めてみたさ。簡単な遊び程度のものなら組めるようにはなったけど、それだけだった…………」
…………。
「アイデアが足りないんじゃないかって思って、これまで得ようともしなかった知識を求めたこともあったさ。アイデアの元になりそうだなって思って、そんな軽い理由、ファッションでポケット六法も買ったんだっけ、あの頃は文系の知識人が羨ましかった…………」
…………。
「今度は技術が足りないんじゃないかと思った。シナリオの技法にも興味があったし……どう作るんだろうと思って、小説とシナリオの書き方にもハマってた。絵も描き始めたことあったっけか。ペンタブを買って、イラストを投稿してみたりもした…………」
…………。
「んで、今の俺がいる」
「え? そんな話だったっけ。ゲームは?」
言葉に詰まる。
無意識に、本当の自分を伏せたいという防御反応が出てしまったみたいだった。
だが、ここまで打ち明けたのなら、全部言わなければいけない。
「ゲームは、作れてない」
「え……おぢさん、めっちゃ努力してたんじゃないの」
「結局学生時代にゲームは作れなかったし、就活でゲーム会社にエントリーしたけど、どこもダメだった」
「どれだけ応募したの?」
「3社」
「すくな……」
「うるさい」
言ってから、自分でも少し笑った。今度は、ちゃんと声が出た。
「なんで3社だけ?」
「……怖かったんだよ。落とされるのが。まるで、俺そのものを否定されてるみたいだろ。全部受けて全部落ちたら、俺がゲームに注ぎ込んでた時間はなんなんだって話で、3社なら、まだ言い訳できた。本気じゃなかった、って」
リアーナは、しばらく黙っていた。
それから、ぽつりと言った。
「だから本も隠したの? 本棚の奥にしまいこんで」
俺は答えなかった。その沈黙が答えになっていた。
「実は、彼女もいたことあるんだよ。32のとき」
俺は続けた。話すつもりはなかったのに、口が勝手に動いていた。
「マチアプで知り合った女性だった。結婚も考えての付き合いだった――少なくとも俺はそうだった。でもあるときのデートで『麺類のすすり方が汚い』って言われて、多分そこからすれ違い始めたんだと思う。気付けば、いつの間にか別れてた」
「あー、おぢさん、クチャラーなんだ……」
「なんだよその軽蔑した目は。それと、あのとき言われたのはそばの食べ方だけだ。クチャラーとは違う」
「同じことだよ」
「まあ、そうなのかもな」
俺は天井を見あげた。
「親父も五年前に死んだ。でも葬式で泣けなかった。なんでかは、今もわからん。仲が悪かったわけでもないのに。仕事熱心だったし、学費も出してくれたんだけどな。死んだとき思ったんだ。俺の人生は何も進んでいないのに、時間だけがどんどん過ぎていくんだなって、次は俺が死ぬんだなって。親父が死んだってのに、俺は俺のことばかり考えてた……」
リアーナは、何も言わなかった。
でも、ちゃんと聞いていた。腹の紋様が、俺の声に合わせるみたいに、ゆっくり明るくなったり、暗くなったりしていた。
そうして語っているうちに、時計の針は午前0時を指していた。
「誕生日だね。おめでとう、じゃ、ないかな?」
「ありがとう、最悪な気分だな」
「……どうする? 40代のはじめては」
「このまま、語らせてくれないか?」
今は、目の前のメスガキに、ひたすら己を押し付けていたかった。
* * *
俺は、ひたすら話し続けた。
メーカー子会社の総務部に配属されたは良いが、入社当初から怒鳴られて雑用をこれでもかと押し付けられ休職しかけたことも、転職を目指してみたけど資格を持っておらず理想の履歴書が作れなくて結局諦めざるをえなかった話も、社会に出て資金に余裕が出て自宅のPC環境に投資できるようになりガジェットブログを始めたがネタが尽きてすぐにやめた話も、お腹まわりが気になってダイエットのために契約したジムで密かに一目惚れしていた女性がいたのにあるとき拒否反応を示されそれから行けなくなってしまったことも、それからたまに実家の母親の杞憂な電話がかかってくる話も……。
目の前のメスガキに、全てを吐き出していた。
こんなに喋ったのは、いつぶりだろう。
思い出せなかった。だが、こんなにも心がつらくなるのは初めてだったから、多分そういうことなのだろう。
リアーナはずっと、床に座って聞いていた。膝を抱えて、羽根をたまにぱたぱたさせて。たまにはバカにして、たまには同情して。そして本当に触れられたくない心の傷には、そっと蓋をして。
でも一度も、聞き流さなかった。
彼女は、俺の全てを、理解してくれていた。
俺は、メスガキサキュバスに理解されていた。理解らせるのではなく、理解されていた。
そして、身体の蠱毒を吐き出し尽くした時――。
俺はぐったりと、うなだれた。
「――おぢさん」
「なんだ」
「もう、出ないの?」
「……出ないな、たぶん。空っぽだ」
「そっか♡ 全部出しちゃったんだね――」
リアーナは、大きく伸びをした。リアーナも疲れているようで、小さな羽根も一緒にはばたいて広がって、でもやっぱり小さかった。
「ねえ、樋口誠さん」
「……恥ずかしいな、急にフルネームで呼ばないでくれよ」
「じゃあ、誠さん。もう40歳になっちゃったけど、これから何かするの?」
俺は窓の外を見た。空の端が白くなり始めている。
朝がきてしまった。時間は、待ってくれない。
「……わからん。お前みたいなやつに、相談することでもないしな」
「ひっど♡ これでも、一夜を共にした関係じゃん♡」
リアーナは言った。でも、怒ってはいなかった。
「わたし、ちゃんと聞いてたんだけど~?」
「聞いてくれたのは、感謝してるよ」
俺は抱えていた本を、そっと机の上に置いた。もう、隠さなかった。
「リアーナ、あのさ」
「なに急に名前呼びして、キモ♡」
「お互い様だろ……。ところでサキュバスってさ、話し相手になるのが仕事なのか?」
「あ……」
リアーナが固まる。
「わたし、ぜんっぜん仕事してなかった! 違うの! これはおぢさんのせいだから!!」
「俺のせいかよ」
「そういうこと♡ おぢさんが勝手に話すからだもん、あまりに真面目になるもんだからつい聞いちゃっただけで、いつもは道行くオスをすぐにハツジョーさせちゃう、チョー魅力的なロリサキュバスなんだから!」
俺は少しだけ笑った。笑うつもりはなかったのに、口の端が勝手に動いた。
このサキュバスも、可愛らしい子どもなんだなって初めて思えた。
窓の外が、少しずつ白んでいった。鳥がどこかで鳴いた。新聞配達のバイクの音が聞こえる。一日が始まる前の、いちばん静かな時間だった。
「――そろそろ時間だね。帰らなきゃじゃんか」
「帰るのか?」
「日の出が終わるまでには帰らないといけないの。サキュバス社会だって、そういうとこは厳しいんだから」
「サキュバスの世界にも、労働基準法はあるんだな」
リアーナは立ち上がった。服ともいえない服を払って、茶髪を片手でさらっとかき上げる。そのしぐさだけは、やけに様になっていた。腹の紋様が最後にもう一度ゆっくりと光った。
「誠さん」
「なんだ」
「その本さ――」
リアーナは、机に並んだ本たちを見た。さっきまでと、少しだけ違う目だった。
「もう、いちばん奥に、しまわなくていいんじゃない?」
俺は、何も言わなかった。
言わなかったが、聞こえていた。
ちゃんと、聞こえていた。
* * *
リアーナは、ベランダを開けて柵に飛び乗った。そこから羽ばたいて帰るらしい。
俺は、床に座ったまま動かなかった。動く気力もなかったし、動く理由も、特になかった。徹夜したのはいつぶりだろう。夜ふかししたからか、今になって眠気と気だるさが襲ってきた。改めて、身体は死に近づく一方なのだということを思わされる。
「じゃあね、おぢさん♡」
「ああ」
「やっぱりプリンはいただくね、お腹空いちゃったし」
「あっ、結局あのプリン盗ったのか!」
「今日のお代♡」
リアーナが冷蔵庫に入っていたプリンを片手にとって見せびらかす。俺の気付かぬ間にくすねていたようだった。
リアーナは小さな羽根をぱたぱたさせて、それでもちゃんと宙に浮いた。どういう原理かはわからなかった。彼女の茶色の髪がなびくと、腹の紋様がそれにつられて薄く瞬いて、それから――見えなくなった。
俺はベランダの窓を閉め――、それから鍵を掛ける。
部屋には、ビールの空き缶が六本と、分厚い本たちが残された。
「キッテル固体物理学、ポケット六法、独習C++、ゲームシナリオの書き方……」
俺は1人、乱雑に散らかったそれらの本を、名前を読みあげながら、順番に本棚に戻していく。
過去の自分を押し込んでしまった罪を払うように――。
今度はいちばん奥じゃなくて、手前のほうに――。
そして、作業が終わりかけた頃――。
俺はふと呟いた。
「……結局、童貞は捨てれなかったな」
* * *
これは、後でどこからか伝わってきた噂話。
サキュバスの世界で、信じて送り出した新人サキュバスが、成果ゼロで帰ってきたことがあったんだとか。
当の本人はというと、標的と接触したところまではいいが、ずっと相手とお話をしていたようで、「リアルなオスの話聞いてきたよ~♡」と満足そうな表情を見せたそうだ。上司にしこたま怒られた後も、悪びれる様子は一切なかったらしい。
今は、仕事を真面目に受けているのか、次の仕事先でも聞き役に徹しているのか、それとも仕事自体飛んでしまったかは、今持って不明のままだ。
一方の俺はというと、40代に突入してからというものの、ベランダの鍵を閉めるようになった。正直、開けるのが正解か、閉めるのが正解か、どちらが良いのかよく分かっていない。サキュバスを名乗る不審者に不法侵入されないよう、これからも鍵は掛けておこうと思う。
あとこれは非現実的な話だが、巷で噂の聞き上手なサキュバスにうっかり出会った場合に備えて、彼女が理解できる話の1つや2つは用意している。語る機会はないだろうが。
そして、仕事を終えた心地よい疲れの身で、俺は今日も本を開く――。




