踏み切る理由
大型乾燥施設の前。夕方。
コンバインのエンジン音が、もう収穫を終えた田んぼの向こうから微かに聞こえる。
風が吹き、乾いた稲わらが擦れ合う音を立てる。
田中(大規模農家・50代)は、倉庫のシャッターを見上げたまま動かない。
……結局さ。
一番怖いのは、「作った米が邪魔になる」ことなんだよ。
去年のことが、勝手に頭に浮かぶ。
天気は申し分なかった。
出来も、文句のつけようがなかった。
なのに、値段は下がった。
倉庫は埋まった。
JAは言った。
「様子見ましょう」
様子見で……給料は出ない。
従業員の顔が浮かぶ。
家族の顔も浮かぶ。
通帳の残高も浮かぶ。
田中は軽く首を振る。
事務所。
夕日がブラインドの隙間から差し込み、机の上に横縞の影を落としている。
スマホの画面。
「新制度米」
「平時:飼料用」
「非常時:業務用・主食用に転用」
田中は小さく鼻で笑う。
……うまい話すぎる。
こういうのは、たいてい裏がある。
画面を閉じようとして、やめる。
もう一度、最初から読み直す。
ドアが開く。
若手社員の直人が入ってきた。
「親方、知ってます?」
田中
「なにを?」
若手社員
「要らない農地をタダで手放せるやつです」
田中
「当たり前だろ。ここは特区から外れてるけどな」
そう言いながら、窓の外を見る。
草に覆われた田んぼ。
水が来なくなった用水路。
崩れかけた畦。
(心の声)
……もう土地はあるんだ。
“作らない理由”があるだけで。
机に戻り、もう一度、制度資料を見る。
「平時:飼料用」
「非常時:業務用・主食用に転用」
これが本当なら……
作った米は、
売れなくならない。
その一文が、妙に引っかかる。
ドアが開く。妻が入ってくる。
妻
「またそれ?」
田中
「ああ……なあ。俺はもうさ、
うまい米より、“詰まらない米”が欲しい」
妻
「詰まらない?」
田中
「出口があるって意味」
ホワイトボードにペンを走らせる。
・値崩れしない
・在庫を抱えない
・最低価格がある
・国が出口を持つ
一つずつ、書きながら確認するように。
田中
「これってさ……“農業”じゃなくて、“インフラ契約”なんだよ」
その言葉を口に出した瞬間、自分でも少し驚く。
……俺、こんな言い方するようになったか。
田中は、ふと外を見る。
夕焼けに染まる田んぼ。
広がる余白。
田中
「これが本当なら……」
少し間を置く。
田中
「もう少し土地が欲しい。
もう少し人手が欲しい」
妻
「……珍しいね。
あんたが“広げたい”なんて」
田中
「今まではな。
広げる=賭けだった」
少し言葉を探す。
田中
「でもこれは……
広げる=安定だ」
スマホを手に取る。
一瞬、ためらう。
指が止まる。
……賭けじゃない。
“賭けなくていい”って話だ。
発信ボタン。
田中
「あ、鈴木さん。
あの空いてる田んぼ、まだ貸せます?」
「貸すのはいいが、あの特区の話し知らんか?貸すより引き取って欲しいんだが」
「わかりません。今度聞いときます。いや、今年じゃなくていい。
来年からでいい」
通話を切る。
田中は、窓の外を見る。
何も変わっていない風景。
でも、自分の中では何かが一つ、決まった感覚。
……怖くない拡大、か。
彼は、ゆっくりと椅子に腰を下ろした。




