戻ってくる音
早朝。
まだ空は完全に明るくなっていない。
田んぼに張られた水が、鈍い色をしている。
風が冷たく、頬に刺さる。
田中は、軽トラの荷台に腰を下ろし、保温缶のコーヒーを両手で包んでいる。
指先の感覚が、少しずつ戻ってくる。
遠くで、トラクターのエンジン音。
それ以外は、静かだ。
ラジオから、地元ニュース。
「道立農業高校に、新しい学生寮が建設される予定です。
予定収容人数は約200人。
記者会見で北海道知事は、道外からの学生も入寮予定で、地域の農業人材拠点としての活用が期待されていると――」
健一は、無意識に音量を上げていた。
「……200人?冗談だろ。今さら」
そう言ったが、声に力はなかった。
頭の中に、いつもの言葉が浮かぶ。
「息子は継がない」
「娘は都会」
「もうやめた」
何度も聞いた。
何度も言われた。
何度も、自分でも思った。
増えるなんて話、
聞いたことがない。
昼。
JAの集荷所。
人はいるが、声が少ない。
会話も短い。
知り合いの農家
「聞いたか? 農高の寮」
「ああ……聞いた」
知り合い
「本当に本州から学生くるのか?」
「……わからん」
わからない、という言葉が、
そのまま自分にも向いてくる。
来るのか。
来ないのか。
……来てほしいのか。
自分の気持ちが、よく分からない。
夜。
テレビの前。
「新しい備蓄制度」
「食料安全保障」
「若手育成」
最近聞くようになった言葉だ。
国が動くってことは……
……本当に、足りなくなったってことか。
不安と、奇妙な安心が、同時に胸に残る。
翌朝。
田んぼの畦道。
朝露で、草が濡れている。
向こうから、小学生が歩いてくる。
ランドセルが、体より少し大きく見える。
歩幅が小さい。
健一は、足を止める。
……あいつらが、
ここで働く日が来るのか?
そんな未来を、
考えたことがなかった。
考えないようにしていた。
また、歩き出す。
農業高校の前を通る。
地面に、新しい杭がいくつも打たれている。
「学生寮建設予定地」
白い看板。
200人……。
声が増える。
足音が増える。
失敗も、成功も、増える。
静かだった場所に、
また「音」が戻る。
「……戻ってくる音、か」
自分に言い聞かせるように。
彼は、もう一度看板を見て、
軽トラに戻った。




