転機
斎藤が最初に異変を感じたのは妻からの電話だった。
「……母が転んだの」
それだけで状況は理解できた。
骨折。要介護認定。
同居は難しいが独りでは無理。
典型的な話だった。
斎藤の両親は健在で、同じ町に住む兄夫婦が面倒を見てくれている。
だが、すでに負担は限界に近い。
「今度はこちらが支える番だな」
そう口に出したとき、答えは半分決まっていた。
部下たちは育っている。
自分が抜けても組織は回る。
だが、家族の代わりはいない。
JAを辞め、妻の生まれ故郷である群馬へ戻る。
それを当然の選択だと感じていた。
群馬で妻の母との同居が始まった。
介護は想像以上に生活を縛る。
時間も気力も少しずつ削られていく。
そんな折、一本の電話が入った。
大手スーパー系列の直営農場。
立ち上げから二年目に入りトラブルが続いているらしい。
農場長候補を探しているという話だった。
「社員は農業が分からない。
元農家は本部の考えが理解できず作付け指示に反発する。
間に入れる人間が必要なんです」
そう言われて斎藤は思わず苦笑した。
(便利な肩書きだな)
だが、勤務地は車で三十分。
介護との両立も現実的だった。
斎藤は農場長として採用された。
——新しい職場で三か月。
今日は研修を終えた新卒が配属されてくる日だった。
北海道時代のJA管内の農業高校を卒業。
グループ社員の息子。出身は東京。ITスキルあり。
(話ができすぎてるな)
作業着姿の青年が事務所に入ってくる。
表情にはわずかな緊張があった。
「村上翔です。よろしくお願いします」
斎藤は記憶をたどる。
「北農の卒業生だな。俺も去年まで隣のJAにいた」
翔の目が、わずかに見開かれる。
「……知ってるんですか?」
「当たり前だろ。君らは、地元農家の期待の星なんだから」
斎藤は軽く笑った。
「世間は狭いな。実習はどこでやった?」
翔も少しだけ肩の力を抜いた。
「田中さんのところで、米作りを教えてもらいました」
斎藤
「そうか。あれでも若手なんだぞ。厳しくて合理的な人だ。今風の農家だ」
斎藤
「ここは、キャベツが主力だ。あとは玉ねぎ、ジャガイモ、人参。
いわゆる、カレーライスセットだな。
ほうれん草もあるし、試験栽培もやってる。一緒にやっていこう」
その日の午後。
畑を見回りながら斎藤は考えていた。
翔のような若者が、何を見て、何を感じ、何を選ぶのか。
それを、今度は“横”で見る立場になったのだ。
夕方、農場に風が通る。
遠くで翔が作物の写真を撮っている。
斎藤はゆっくり歩きながら思った。
——戻る場所は、前と同じでなくていい。
だが、つながりだけは切れていなかった。
それで十分だった。




