第四十八話 ー新たなる門出ー
2009年12月25日海鷲の街は、身を切るような寒風に包まれていた。
この日、二十歳の誕生日を迎えた康一は、佐藤家の古びたリビングで、人生の大きな分岐点に立っていた。
部屋の隅には、夏の間「カタカタ」と騒がしかった扇風機が、役目を終えて静かに佇んでいる。その横で、石油ストーブが特有の匂いを放ちながら、赤々と燃えていた。
「康一、誕生日おめでとう。……それと、合格おめでとう、やな」
母・美里が、ささやかながらも心のこもった料理を並べた。そこには、19歳になった康一のために用意されたビールと、弟・哲春、妹・美咲の輝かしい未来を祝う空気が満ちていた。
「にいちゃん俺今、経営情報学科で行動経済学を学んどんさ」
冬休みで帰省した哲春が、少し照れくさそうに、しかし自信に満ちた目で言った。
「経営情報……ITってやつか?」
「うん、この混沌とした世界を救うのは、実体のないマネーゲームじゃないで。行動経済学とITの融合だ。人間がどう動き、情報がどう流れるか。超円高で苦しむこの国の輸出産業を、デジタルでどう立て直すか。俺はそれを大阪で分析しとる」
康一は、自分より一回りも二回りも大きな視点で世界を見ようとしている弟を見つめた。
(よく晴れた青空のような色をしている、迷いがない)
さらに、美咲が続いた。
「康一兄、私も。早慶大学経営学部、特別推薦で決まったよ。学費免除やって」
「……学費免除か。すごいな、美咲」
「うん。でもな、康一兄。私が頑張れたんは、お兄ちゃんが毎日泥だらけになって働いて、私を支えてくれたもんでなんやで。これから東京でしっかり学んでくるでな」
(美咲はシルクのような白にラメのような光がキラキラを輝いて見える)
弟は大阪ですでに動き出している。妹は東京へ。
法規、悟、拓馬に続き、血を分けた兄弟までもが、この海鷲を離れ、それぞれの「未来」へと向かおうとしていた。
その夜、康一は一人、ビールを苦いと思いながら自分の掌を見つめた。
トラックのハンドルを握り、重機を操り、現場で培ってきた「手」。
弟たちの語る「世界経済」や「IT」という言葉が、康一には遠い国の言葉のように聞こえた。
握った掌のタコだけが、やけに重かった。
(俺は、このままでええんか……?)
翌朝。康一は重い足取りで上里建設の詰め所へと向かった。
そこには、堂前社長、鎌田課長、そして松井、誠の「三銃士」が、まるで彼を待っていたかのように揃っていた。
「康一、座れ。二十歳になった気分はどうや」
堂前社長が、厳しい、しかし温かみのある声で切り出した。
「……弟も妹も、外へ出て戦うことを決めました。俺は、ここで上里の現場を守りたい。そう思ってます」
すると、鎌田課長が静かに首を振った。
「康一。今日でお前は、上里建設を卒業や」
突きつけられた「卒業」の宣告。あまりの衝撃に足元をふらつかせた康一は、詰め所の太い大黒柱に額を激しくぶつけた。
視界が歪み、世界が回転する。
次に目を開けたとき、康一は耳をつんざくような怒号と、鼻を突く血と泥の匂いの中にいた。
「おい、何を呆けてやがる! 早く引け、康一!」
聞き覚えのない、だが地響きのように図太い声に背中を押された。
康一は我に返った。なぜか自分の手には、一・五トン車のハンドルではなく、使い古された木製の「荷車」の取っ手が握られている。
「……え? 荷車? なんで? ここは?」
パニックになりながら周囲を見渡すと、そこは雪混じりの泥濘が続く荒野だった。背後からは、鎧に身を包んだ異様な集団が、剣や槍を振り回して迫ってくる。
(誰や、この人たち……。コスプレか? いや、本気で殺しに来とる!)
「くそっ、重たいな、この荷車!」
車輪が泥に深く沈み込み、びくともしない。荷台には負傷した兵士や、ボロボロの布で包まれた食糧が積み上げられている。一人の腕では、一歩進むのさえ限界だった。
「どけい! 雑兵ども!」
その時、黒い巨漢が馬で駆け寄り、迫りくる敵を一撃でなぎ倒した。虎のような髭を蓄えたその男は、康一をぎらついた目で見下ろした。
「康一! 二十歳だろうが何だろうが、現場に立ちゃあ一人の男だ! 泥が重いんじゃねえ、お前の覚悟が軽いんだよ! 運ぶと決めたなら、その荷台に己の魂を載せろ。この張飛が後ろで咆哮やる。地獄の果てまでその荷を届けろ!」
(張飛って聞いたことあるな。なんやったっけな?この人、めちゃくちゃ怖え……。真っ赤やな。でも、言っとることは鎌田課長より厳しいぞ……!)
その圧倒的な武勇と「現場」を支配する気迫に、康一はただ圧倒されるしかなかった。
必死に荷車を引く康一の横を、長い髭を蓄え、緑の衣に身を包んだ威厳ある男が通り過ぎた。
彼は敵の矢が雨あられと降り注ぐ中、微動だにせず康一の背後に立った。
「……案ずるな」
その声は、驚くほど静かに康一の耳に届いた。
「康一よ、義とは『己の職務を全うすること』に他ならぬ。お前が前を向いて走る限り、この関雲長が盾となろう。十九歳の若き翼よ、迷わず行け。お前の背中は、俺たちが守り抜いてやる」
(関雲長……? どこかで聞いたような……。凛とした青。でも、この人の背中、信じてもいい気がする)
死と隣り合わせの極限状態。しかし、この「動かない壁」のような男に守られ、康一は無我夢中で泥の道を突き進んだ。
ようやく包囲を抜け、安全な高台へ辿り着いたとき、康一は膝から崩れ落ちた。
全身泥まみれ。この先の不安と、今さっき体験した死の恐怖。二十歳の心はもう限界だった。
そこへ、一人の男が歩み寄ってきた。耳が大きく、穏やかな眼差しを持つその男が康一の泥だらけの手を優しく包み込んだ。
「康一。二十歳という若さで、これほどの重荷を背負わせたことを許せ。だがな、お前のその泥だらけの手は、誰よりも美しい。人は、誰のためにその手を使うかだ。……契約だ、康一。お前が立派な大鷲になったとき、また会おう。その時は、お前の国の酒を飲ませてくれ」
(契約……? この人も、社長と同じような黒やな。よう似た事言うんやな……)
「……康一! おい、康一!」
鎌田課長の怒鳴り声で、康一は詰め所の冷たい床に引き戻された。
額には大きなタンコブ。痛みと共に、さっきまで見ていた景色が鮮烈に脳裏に焼き付いている。
「……関羽、張飛……。えっ、嘘やろ?」
康一は呆然と呟いた。
学校の授業や、拓馬が持っていた本で見たことがある。あれは、千八百年も昔の中国、三国志の英雄たちじゃないか。
(あの人たち、本物やったんか……。劉備玄徳に、関雲長、張飛翼徳……。あんな凄い人たちが、俺みたいな新米の背中を守って、手を握ってくれたんか)
康一の胸の奥で、何かが熱く燃え上がった。
彼らは命懸けの戦場で、たった一台の荷車を引く自分の「仕事」を認めてくれた。なら、『卒業』なんてあのぬかるんだ泥を叩く張飛の咆哮に比べれば、何てことはないはずだ。
「……社長」
康一は立ち上がり、机の上の軽トラの鍵を、かつて荷車の取っ手を握りしめた時と同じ強さで掴んだ。
「俺、行きます。あの人たちに笑われんように、この海鷲で、誰よりも立派な『道』を作ってみせますわ」
堂前社長は、康一の目に宿った「修羅場をくぐった者」特有の光を見て、満足げに笑った。
「ええ面構えや。行け、康一。お前の戦場は、ここからやぞ。これはクビじゃない。お前への『投資』の、第二段階や」
堂前が言葉を継ぐ。
「お前はここで、現場のいろはを学んだ。ほんでもな、上里建設の中だけで満足しとったら、お前は一生、それまでの男で終わる。お前はもっと色んな意味で社会を見てこなあかん。お前の将来に、必ず必要になる試練や」
鎌田が、車庫の隅に停めてあった整備済みの軽トラックのキーを、康一の前に放り投げた。
「これは俺たちからの門出祝いや。明日から、大鷲急便へ行け。あそこには、荷坂峠でお前を助けた『あの男』がおる。仕事量は三倍、だが給料も三倍や。二十歳の体に、プロの物流の厳しさを叩き込んでこい」
康一は、震える手でキーを握りしめた。
「……俺に、できますか」
「できるわれ、やるんじゃれ」
松井が、誠が、不器用な笑みで肩を叩いた。
康一が帰った後、社長が言った。
「おい、康一おらなんだら現場きつないか」
誠が「きっつきってくよ。あいつあれでもよう働いたもん」
松井が「でも、俺らはやりますよ。これまでのあいつの分の仕事、身を粉にして働くんで。気持ちよう行かしたってください」
鎌田が「よっしゃ。明日からの段取り頼むで、俺らで盛り上げていこらい」
そんな一幕があった事は、康一は知らない。




