第四十一話 ー夏の終わりー
この地域の公共交通機関は、バスと列車のみである。
JR海鷲駅に乗り入れるディーゼルで動くこの乗り物をこの地域では汽車と呼ぶ。
3時間に一本しか来ない特急の汽車、海鷲駅の静かなホーム。
そこには、駆けつけた順と現場帰りの作業着姿の康一、それぞれの未来を背負って旅立つ友人たちの、震えるような決意がありました。
八月の第一日曜日の夜。佐藤家での賑やかな宴から一夜明け、海鷲駅のホームには、湿った夜風と虫の音だけが響いていた。
三時間に一本しか来ない上りの特急を待つ間、ホームに並んだ五人の影。
一番端に立つのは、十七歳で司法試験合格という前代未聞の快挙を引っ提げ、再び東京へと戻る法規だ。
「康一君。僕は東京で、法律の、そしてこの国の仕組みそのものを解剖してくる」
法規は、現場帰りで泥のついた康一の作業着を、眩しそうに見つめた。
「君は高校に行かず、この町の『地べた』を選んだ。僕は、その君が誇れるような『法』を外から作る。……いつか、僕の作った法が君の現場を守る日が必ず来る。それまで、生き抜いてほしい」
拓馬が言葉を繋ぐ。
「康一、東京は便利すぎて、物の価値がどんどん軽くなってる。……俺は、父さんの商会を継ぐ前に、もっと鉄の、物の『真実』を突き詰めてくるわ。お前が現場で使い倒せるような、本物の道具をいつか届けてやる」
都会の風に吹かれながらも、その心は康一の握るスパナと同じ熱量を求めていた。
悟は珍しく生気がみなぎった顔で熱く伝えようとしている。
「俺は津で、親父が守ろうとしとる『体裁』なんてちっぽけなものを、経済の理論で叩き壊す力をつけてくる。……康一、お前は現場で、親父たち役人が気づかん『裏側』を全部見ておけ。後で俺が、それを数字に変えてやるからな」
いつも明るい順が寂しそうな顔をして無言でいる。
康一は、中学卒業からずっと、上里建設の現場で三銃士に揉まれ、言葉ではなく「重み」で世界を理解してきた。
「……おう。みんな、行ってこい。俺はここで、鎌田さんや松井さん、誠君に食らいついて、この町を支えとくわ」
遠くから、重厚なディーゼルエンジンの音が聞こえてくる。三時間に一度しか開かない「未来への扉」が、ホームに滑り込んできた。
三人が列車に乗り込み、窓越しに手を振る。
順は手を振り、康一は真っ黒に汚れた右手を高く突き出した。
司法試験、経済学、都会のビジネス。それらとは無縁の、泥と油の匂いがする自分の手。だが、この手こそが、海鷲の「今」を支えているのだという静かな自負が、康一の胸に灯っていた。
列車が去り、再び静寂に包まれたホーム。
「いってったなー」(行ってしまったな)と順がぽそりと呟く。
「順、来年もう一回、インターハイの予選あるんやり。今度は応援に行くでさ、それまでがんばろらい」康一は少し落ち込んでいる順を励ました。
笑顔を取り戻し「よっしゃ、帰ったらキャッチボールやな。私の豪速球うけさしたる」
康一は先ほどとの変わりように呆気に取られ『よかった。それでこそ元気印の順やな』と思った。
康一は、誰もいなくなった線路を見つめ、昨夜の熱い語らいと、美里の料理の味と、うるさい扇風機の音を思い出していた。
特急を見送り、一人自転車を漕いで帰った佐藤家。
リビングでは、古びた扇風機が「カタカタ」と異音を立てながら、首を振っている。エアコンのないこの家の熱気は、友人たちの野心と、自分だけがこの町に残るという焦燥感が混ざり合ったものだった。
「康一、お腹空いたでしょう。冷やしうどん、できてるわよ」
母・美里(里美)が、珍しく台所に立って料理を振る舞った昨夜の余韻がまだ残っている。彼女は、法規の快挙も、悟の野心も、すべてを知り尽くしたような静かな眼差しで、息子に麦茶を差し出した。
「康一。あの子たちは、自分の『言葉』を見つけたわね。あなたは、自分の『手』を信じなさい。焦らなくていいのよ」
17歳の康一は、自分のゴツゴツとした、日焼けした手を見つめた。
法規のような頭脳はない。悟のような野心もない。
だが、上里建設の3銃士——鎌田、誠、松井から教わっている「現場の真理」だけは、誰にも負けない自信があった。
(みんな、それぞれの戦場へ行った。……俺も、明日からまた現場や)
夏の終わりを告げる薄曇りの空から、ぼんやりとした夕陽が少しだけ姿を見せていた。




