第三十四話 ー努力も才能もー
5月の連休を控え、海鷲の山々が目に染みるような新緑に包まれる頃。
康一は上里建設での生活に、心地よい「手応え」を感じ始めていた。
現場の朝は早く、体力的にも楽ではありません。しかし、康一には心強い「師匠」達がいたのだった。
上里建設の「三銃士」
鎌田さん(定年間際のベテラン):
現場の守護神。作業場の道具の手入れから重機の管理まで、鎌田さんが触れた機械は新品のような輝きを取り戻す。康一に「道具は自分の体の一部だ」と教え、その器用な手先と仕組みを惜しみなく伝授してくれた。
水谷誠さん(20代後半):
康一の次に若い、頼れる「アニキ」分。仕事の進め方だけでなく、年頃の悩み(?)もさりげなく聞いてくれる、現場のムードメーカーだ。
松井さん(中堅・中学の山田先生と同級生)
無駄のない動きで現場を仕切る実力派。実は箱根駅伝のスター候補だった過去を持つが、大学3年の事故で両足のアキレス腱を断裂。陸上の夢を絶たれた時、上里建設に「拾われた」という恩義を持って働いている。
ある日の休憩時間、缶コーヒーを片手に松井さんがふと康一に問いかけた。
「康一、お前中学の時のマラソン大会はどうやったんや?」
康一は汗を拭いながら、当然のことのように答えた。
「え? ああ、3年とも1位でしたよ」
謙遜も自慢もなく、ただの「事実」としてさらりと言ってのけた康一に、水谷さんが「さらっと言うなぁ!」と笑い、鎌田さんも目を細めて頷いています。しかし、松井さんだけは鋭い目つきで康一を見つめました。
「……そうか、お前か。山田から聞いとったわ。海鷲に『佐藤兄妹』っていう、とんでもない脚を持った奴らがいるってな」
松井さんは遠い目をして、かつて自分が走った箱根の道を思い出すように続けました。
「山田が言うとったぞ。お前のラスト100mのスパート、ありゃ異常や。長距離を走ってきた最後、ゴール前の100mを12秒切る速度で突っ込んでくるって……。そんなん、普通の中学生どころか、大学生のランナーでもそうはおらんぞ」
康一は少し照れくさそうに頭をかきました。
「山田先生は、マラソンは思い切り走ったらあかんぞと教えてくれたので、いや……なんか、最後にゴールが見えると、『最後ぐらいええっか』と思ってそしたら体が勝手に『行け!』って叫ぶ感じなんです」
松井さんは、康一の太ももとふくらはぎの筋肉をまじまじと見つめました。それは、中2の時に自分の骨を剥離させたほどの、爆発的なエネルギーを秘めた筋肉。
「……お前、陸上の道を選ばんで建設に来たこと、後悔しとらんのか?」
康一は、かつて美里に言った言葉を、今度は現場の先輩である松井さんに向けた。
「後悔なんてないですよ。俺にとっては、この重たい資材を持って坂道を往復するのも、全部『勉強』で『トレーニング』ですから。それに……」
康一は、現場の泥にまみれた自分の安全靴を見つめた。
「松井さんみたいに、努力を重ねた方が一度は夢を諦めても、ここで誰かのために道を作っとる人の方が、俺には格好良く見えるんです」
その言葉に、松井さんは少し驚いてうれしそうな顔をしたあと、豪快に笑って康一の肩を叩く。
「ははっ! 山田の言う通り、お前は面白い男やな。よし、次の現場の坂道往復、お前の『12秒のスパート』が本物かどうか、俺が見定めてやるわ!」
その日はそんな一幕もあり無事に仕事を終え、帰るとすぐに風呂に入った。
風呂上がりの康一が居間に戻ると、そこは熱を帯びた「議論の戦場」と化していた。
「……ですから、美咲さんの歌声は天からの授かりものです。クラシックの基礎を叩き込めば、世界へ羽歩けるはずなのに……」
おっとりとした口調ながら、その瞳に譲れない執念を宿しているのは音楽の鈴木先生だ。
対する美術の森田先生は、いかにも芸術家らしく、ボサボサの髪を掻きむしりながら反論する。
「鈴木さん、それは型にはめすぎだ! 彼女の感性はもっと野生的で、絵画的なんだ。自由な表現の場さえあれば、音の色が見えるような芸術家になれる!」
そこへ割って入ったのが、喜怒哀楽が顔に出やすい体育会系の山田先生だ。
「お前ら、美咲の根性を忘れるな! あのリズム感はアスリートとしての資質だ。音楽だの絵だの言っとる間に、俺が陸上の名門校へ……」
「山田くん、それは話が別です!」
鈴木先生が珍しく声を荒らげ、森田先生も「脳筋は黙っていろ!」と火に油を注ぐ。
3人は教科が違うが、海鷲出身の同級生だ。昔からこんな感じで仲良しらしい。
台所とつながる居間で、母の美里が困り果てた顔でお茶を出して座る。
その隣で当の本人である美咲が、嵐の過ぎるのを待つ小動物のように目を白黒させて座っていた。
「……先生ら、夜分に賑やかやな」
タオルで頭を拭きながら現れた康一の、現場で鍛えられた低い声に、3人の先生は一瞬で毒気を抜かれたように沈黙した。中学の教え子とはいえ、今の康一には一家を支える「男」の重みが備わっている。
「康一、ちょうどええところに! お前からこいつらに言うてくれ!」
山田先生が泣きそうな顔で訴えかけるが、鈴木先生は淑やかに、それでいて素早く康一の前に立ち塞がった。
「康一くん。お兄様として、美咲さんの将来を真剣に考えてください。彼女の才能を埋もれさせるのは、人類の損失です」
康一は、3人の先生の熱量を真正面から受け止めた。
これほどまでに大人が本気でぶつかり合うのは、美咲の才能がそれほどまでに本物である証拠だ。
かつて自分が「働くのも勉強」と決めた時、その背中を押してくれたのは、美咲や哲春の未来を拓きたいという願いだった。
康一はゆっくりと美咲の横に座り、その華奢な肩に手を置いた。
「先生方。……美咲のこと、そこまで評価してくれて感謝しとる」
康一を包む『光沢のある黄金色』が、騒がしい室内を鎮めるように静かに広がった。
「でもな、美咲をどうするか決めるのは、先生らでも母ちゃんでも、もちろん俺でもないんさ。……美咲、お前はどうしたい? 先生らが言う道か、それとも別の道か。お前が『これだ』って思う場所があるなら、俺は現場で泥にまみれて、そのための学費を稼ぐ準備はできとるぞ」
美咲は震える息を吐き、真っ直ぐに3人の先生を見つめ返した。
「……私は......歌いたい。でも、誰かに決められた歌じゃなくて、海鷲の風や、お兄ちゃんの走る音や、そういうのを全部混ぜた自分だけの曲を、自分で作って歌いたいんさ」
その言葉に、鈴木先生はおっとりと頬に手を当てて感嘆し、森田先生は「……それだ、それこそが芸術だ!」と膝を打った。
「ほら見ろ、俺らの枠になんて収まる器じゃなかったんや」
山田先生が、豪快に笑いながら鼻をすすった。
結局、議論は「美咲の自主性をどう育てるか」という教育論にシフトした。
里美が苦笑いしながら「せっかくですから、夜食でも」と台所へ立った。
康一は、自分の部屋で宿題をしている哲春と、少し落ち着きを取り戻した美咲の横顔を見て、心の中で深く頷いた。
(見ててくれ、じいちゃん。俺の選んだ『現場』は、こいつらの自由を守るための最強の砦になるわ)
海鷲の夜は更けていく。佐藤家のリビングには、新しい才能の芽吹く音が、春の潮騒のように力強く満ちていた。




