第三十三話 ーそれぞれの向かう道ー
夏の終わりを告げる思い出づくり。康一たちの蒔いた種は、彼らが意図せぬところで根を張り、海鷲の町の新しい「恒例行事」として下級生たちに引き継がれていった。
あれから2年、自分たちが表舞台から退いたことで、活動は派手なパフォーマンスから、より地域に密着した自然な形へと形を変えたのだった。
そして、それぞれの未来が交差する「旅立ちの季節」がやってきた。
3月の風、新しい現場
2月いっぱいで卒業生は授業を終えた。
3月1日。
康一の姿は、いつもの新聞配達のルートではなく、「上里建設」の作業場の中にあった。
地元で「街を作る」を地で行く総合建設業。
おじいちゃんの自転車は、今ではすっかり康一の体の一部のように馴染んでいるが、今日からはヘルメットを被り、泥にまみれる毎日が始まる。
「康一! ぼーっとすな、まずは道具の名前から覚えろ!」
先輩の声に「はい!」と短く応える康一の瞳には、かつて日吉丸から教わった「現場で生き抜く力」と、家康から授かった「この土地の礎を作る」という覚悟が宿っていた。
海鷲の中学校で机を並べた仲間たちも、それぞれの道を歩み出していた。
悟は、 県内随一の進学校へ。法規と交わした「知の探求」をさらに深めるためより広い世界での学びを選んだ。
順は 市内の高校へ進み、ソフトボールを続ける道を選んだ。彼女の明るさは、これからもこの地域の火を灯し続ける事になる。
拓馬は 東京の私立高校へ。かつて康一が「世界の中心は海鷲や」と言った、その答えを「日本の中心」から確かめるために。
みんな、海鷲という「世界の中心」で培った強さを胸に、違う空の下へと羽ばたいていくのであった。
2月の終わり、5人は久しぶりにあの三鬼小学校の校庭に集まった。
2年前、水鏡となったあの場所で。
悟が「俺、実は少し親から距離をとりたかったんさ」
順が「…..私はピッチャーでインターハイ出ることにする」
「……結局、みんなバラバラやな」
拓馬が少し寂しそうに笑うと、康一は自分の、少しゴツくなった手を見つめて言う。
「それでええんちゃうか。『ばらけること』に意味があるんやないか。みんなが違う場所で力をつけて、またこの海鷲に何かを持ち帰れたら、それが一番ええ」
法規が、すかさず相変わらずの真面目な顔で付け加える。
「康一君、君はここ(現場)に残って『空間』を守り、我々は外で『知』や『力』を蓄える。これは非常に合理的な配置だ。我々の連携は、距離によって損なわれるものではない」
「法規、また難しいこと言うて……」
康一はそう言うとみんながおどけて笑った。
上里建設での初日を終え、夕暮れの道を自転車で走る康一は先日の三鬼小学校でのやりとりを思い出していた。
かつての新聞配達の時間。今は、自分の手でこの町を修繕し、新しく作り直していく側の人間としての帰り道。
ふと空を見上げると、あの日、美咲の歌声が響いた時と同じような、透き通った夕焼けが広がっていた。
康一を包む「光沢のある黄金色」は、今や職人の誇りを纏い、より重厚に、より深く。
これからの海鷲を支える、本物の「柱」の色へと変わろうとしていた。
「……よし。あとは…」
康一は力強くペダルを踏み込んだ。
法規の旅立ちは、家庭の事情という彼にも抗えない「公の秩序」によるものだった。
この日、康一が上里建設での初仕事を終えたその夜。
海鷲駅のホームに、一人ぼーっと立ち尽くす法規の姿があった。
検察官である父親の異動に伴い、法規は東京の公立進学校へ通うことが決まっていたのだ。
見送りに来たのは、康一ただ一人だった。
他の仲間には、法規自身が「感傷に流されるのは非合理的だ」と固辞したからだが、康一だけは「勝手についてきた」のだ。
「来ないでほしいといったのにやはり君は来てくれたんだね。」
「……結局、君は海鷲の土を噛み、私は東京のコンクリートを歩くことになるわけだ」
法規は、いつものように眼鏡を指で押し上げましたが、その指先はわずかに震えているようにも見えた。
彼にとって、仲間達と過ごした海鷲での日々は、父親の仕事の都合で転々としてきた人生の中で、初めて「自分の居場所」だと思えた時間だったのだ。
「法規。東京は日本の中心やろ? そこでしっかり見てきてくれよ。家康さん作った『ばらけさせる礎』が、今の東京でどうなっとるんか」
康一の言葉に、法規は薄く微笑んだ。
「ああ。地検に勤める父の背中を見て、私は法の番人を目指すと決めたが……。康一君、君がこの町で『作る』ものと、私が都会で『守る』もの。いつかそれらが、一つの大きな秩序として交差する日が来るだろう」
法規はカバンから一冊の手帳を取り出し、康一に手渡した。
そこには、法規がこの3年間で分析した「海鷲の改善点と未来予測」が、細かな文字でびっしりと書き込まれていた。
「これは、君への『置き土産』だ。上里建設で壁にぶつかったら開いてみるといい。君の現場主義に、私の論理を足せば、この町はもっと強くなる、期待しているよ。君たちと過ごしたこの3年間は、僕にとってかけがえのないものになったよ。」
電車のベルが鳴り響く。
法規は最後に、康一の目を見つめ、あの日言い間違えた「ごわす」の時とは違う、凛とした声で言った。
「さらばだ、康一君。……いや、私の『ほうばい』よ」
「おう。またな、法規!」
電車が動き出し、法規を包む「光沢のある漆黒」が夜の闇に吸い込まれていった。
康一は一人、駅のホームで手帳を握りしめる。
悟も、順も、拓馬も、そして法規も。
みんな、それぞれの場所へ「ばらけて」いく。
けれど、康一の心には、彼らから託された知恵と勇気が、どっしりとした重みを持って残っていた。
康一は、駐輪場に止めてあったじいちゃんの自転車に跨った。
「……よし。俺は、俺の礎を作り上げる」
夜の海鷲に、力強いペダルの音が響き、やがて静かに消えていった。




