探究者 アヤ
山は深かった。
木々の間を、アヤは腰を低く落とし、迷いのない足取りで走っていた。
大きな目は前方を捉えつつ、時折、月と山の頂を仰ぎ、進路がずれていないかを確かめる
「……誰が、私に声をかけたの」
呟きながらも、速度を落とすことはない。
「おかげで助かったけどね」
追跡が一瞬だけ止まったことを、アヤははっきりと感じ取っていた。
兵は優秀だった。
一度は追いつかれ、小剣を交え、短いながらも切り結んだ。
今にも囲まれそうな状況だった。
だが、アヤは長い距離を走ることに自信があった。
どこまでも走り続けられるよう、そう鍛えてきたのだ。
追跡が止んだ一瞬で、状況は変わった。
短距離の速さを競う段階から、どれだけ長く走り続けられるか――その勝負に移った。
その瞬間、アヤは確信していた。
逃げ切れる、と。
足跡は追われるだろう。
だが、次に多くの人が集まる街へ辿り着くまでは、走るのを止めるつもりはなかった。
アヤは走り続け、やがて山の麓に広がる大きな町――ヴァルノーデンへと辿り着いた。
戦になれば山城の役割も果たすその町は、巨大な門を備えている。
警備の兵はいたが、アヤは町へ入ろうとする大きな荷馬車の荷台に、するりと紛れ込んだ。
門をくぐり、街に入る。
荷馬車の中から人混みを見つけると、隙を見て静かに降り、そのまま人の流れに溶け込んだ。
追ってきた兵たちは、アヤに気づくことができなかった。
彼女が街の中心に堂々とテーブルの前で、柔らかな布で仕立てられた上品な服を身にまとい、椅子に座り、ゆったりと紅茶を注文していたからだ。
長距離を恐ろしい速さで走った直後、兵たちは――
アヤがどこかに身を潜め、息を整えているはずだと、無意識に思い込んでいた。
アヤは、手首に向かって細く絞られた長い袖、胸元を高く閉じた服に身を包み、
紅茶を飲みながら、遠巻きに兵たちの様子を観察していた。
束ねていた黒髪は下ろされ、肩を越えるあたりで整えられている。
卵の殻を思わせる柔らかな輪郭には、どこにも角張ったところがない。
鼻筋は高すぎず低すぎず、横顔に穏やかな陰影を落としていた。
そして何より、人の目を引くのはその瞳だった。
見る角度によって、時に黒く、時に青く――
深海の碧を閉じ込めた水晶のような瞳。
それは「深海の碧水晶」と呼ばれる、忘れがたい色だった。
「……騒がしいけど、何があったの」
街の空気がざわめき、人の流れが門の方へ向かい始める。
それを見て、アヤは苛立ちを覚えた。
逃走の算段が、さらに難しくなる。
(逆方向に向かえば、目立つ)
アヤは、いかにも興味本位といった様子で声をかける。
「ねえ、門のあたりで何があったの?」
走っていた男が振り返り、息を弾ませながら答えた。
「何でもよ、珍しいやつが出たらしい。巨岩族だってさ!」
(……巨岩族?)
アヤは内心で息を呑んだ。
(この辺りにはいないはずだ。
巨岩族は大陸の最北部……一歩動くのに一日かかると言われるほど巨大な存在。
そもそも、この城門より、はるかに大きいはず)
――では、門に現れたという「それ」は、何なのか。
アヤは、紅茶のカップを静かに置いた。




