星を見下ろす公園で、僕たちは十年後も再会する
あれは十七歳の夏の終わりだった。
「なんで……こんなところにいるのよ」
夜なのに、制服姿のままの河瀬莉子は公園のベンチに座る僕を見て、嫌悪感を露わにした。それも仕方ない。彼女はクラスで一軍とも言えるグループ、その中でも頂点に立つような存在なのだから、僕みたいな三軍どころか底辺みたいな男と遭遇しては、不快で仕方がないだろう。しかし、僕は言い返す。
「なんでも何も……僕は五歳のころから、嫌なことがあればこの公園に足を運んでいる。僕からしてみると、河瀬さんがいる方が不思議だし、できれば黙って引き返してほしいくらいなんだけど」
僕が一息に言うと、彼女は猫が犬の声で鳴いた瞬間に遭遇したかの如く、何度も目を瞬かせた。これも仕方がない。学校では一言でも喋れば珍しく、一軍の男女たちの目につかないよう、ひっそりと生息している僕が、ペラペラと反論したのだから。実際、彼女は驚きを攻撃的に表現する。
「……あんた、学校だと喋れないくせに、頭おかしいじゃないの?」
「喋れないんじゃない。喋らないんだ。あそこには、僕と似たタイプの人間はいないし。誰も僕を理解できない。それで下手に発言したら、今の君みたいに奇人を見るような目で見られるんだろ。黙ってた方がマシだ」
「じゃあ、なんで私の前ではそんなに喋ってるわけ?」
「今、河瀬さん一人だから。一対一なら、変な目で見られても、そこまで不利に感じない。けど、学校だったら一対複数だ。さすがに大勢からそういう目で見られたら傷付く」
「……あっそ。意味わからない」
このまま、河瀬莉子が立ち去ってくれることを期待したが、なぜか彼女は公園に止まった。しかも、僕が座るベンチの横にあるベンチに座るのだから、今度は僕の方が驚いた。
「僕の話、聞いてた?」
「はぁ?」
彼女は威嚇するように睨み付けてきたが、ここは僕も譲りたくなかった。
「できれば黙って引き返してほしい、って言ったんだけど。聞こえてなかったのかな」
彼女は僕から目を逸らすと、黙って夜景の方へ視線を移した。ここは小高い山の上にある公園で、夜になると田舎の町の夜景が見える。都会で見る夜景に比べたら、ちっぽけなものだろうけれど、この町の夜景にしては上等だし、何よりも細い道の先にある山の上にあるから、人にあまり知られていない穴場でもある。それに見惚れるのは分かるが、無視はいくらなんでも失礼だ。
「僕が先に来たんだ。帰ってほしいな」
うるさく言えば、きっと彼女は帰るだろうと思った。こんな面倒なやつと会話するくらいなら、別の場所に移動した方が良い。彼女みたいなタイプなら、そう判断するはずだ、と。しかし、彼女はいつまでも帰らない。組んだ足に肘を立て、手の平に顎を預けた状態で夜景をただ睨み付けている。
「……そう言えば、どうやってここにきたの?」
僕は振り返って、彼女の移動手段が何か、探してみた。しかし、近くに止まっているのは僕の自転車が一台。こんな時間に親が車で娘を山の上の公園まで送るわけがないだろうから、徒歩でやってきたと考えるのが自然だった。
この山は大して高いわけではないけれど、自転車で登り切るには骨が折れるし、時間もかかる。それを徒歩でやってのけたのなら……彼女はなかなかの覚悟を持って、ここまでやってきたのだろう。
「じゃあ、好きなだけいるといいよ。僕も勝手にするから」
僕は善意で譲歩してやったつもりだが、彼女は何も言わなかった。ただ、不機嫌を漂わせるだけで、僕の方を見ることもない。だから、僕も勝手にした。勝手に……姉のことを考えた。
七歳年上の姉は、僕にとって親みたいな人だった。早くから両親をなくして、叔父の家に預けられた僕たちを待っていたのは、ただ疎まれる生活だった。いつか二人だけで暮らそう。姉はそう言って、高校を卒業するとすぐに働き始め、僕たちだけが暮らす小さなアパートを借りてくれた。
「かおるくんは優しいね」
家のことを少しやるだけで、姉は僕にそう言って、頭を撫でてくれた。早く姉の負担を減らしたい。そう思っていた僕は、高校生になったらすぐバイトを始めたが、そんな矢先に姉が死んでしまった。事故死だった。いつものように、仕事に出かけた朝。居眠り運転に突っ込まれたのだ。
その後、僕は叔父の家に戻され、疎まれる生活を再開。何もかもが嫌になって、バイトもやめてしまった。まさに生きる屍として学校へ通う毎日。未来に希望も持てなかった。そして、姉の死から一年が経った今日。姉に教わった夜景を眺めながら、少しは不安な気持ちを解消しようと思ったのだが……。
「河瀬さん、帰らないの?」
時計を見ると、もう日付が変わっていた。無視されるだろう、と思ったが、徒歩でここまでやってきたのであろう彼女を一人置いて帰るのは、何だか後味が悪いような気がした。しかし、彼女は案の定、僕を無視する。勝手に帰るべきだろうか……と思ったが、姉の声が聞こえた気がした。
――かおるくんは優しいね。
ここに女の子を一人置いて帰る男が、優しいだろうか。だが、彼女に口を開いてもらうのは難しいように感じた。
「良くないことだけど、自転車の後ろに乗っていく? 山の下まで降りるだけでも、かなり楽だと思うよ」
「……放っておいて」
「いいけど、野犬が出たら死んじゃうよ?」
もちろん、野犬が出て人に噛み付いた、なんて話は聞いたことがない。僕としては冗談で言ったのだが、彼女は真に受けてしまったらしい。
「野犬、出るの?」
「出るかも」
「……別に良い」
僕のウソを見抜いたのか、彼女は言う。
「死ぬつもりだったし」
「死ぬ……」
そんなこと言われたら、ますます放っておけないじゃないか。今日の僕こそ、人類で一番不幸な人間だと思って、この公園にやってきたつもりだが、そうとは限らないらしい。運命を感じた、と言えば大袈裟かもしれない。
だけど、教室という狭い世界で一緒に過ごしているのに、どこまでも遠い存在である彼女が、同じ日に同じ場所で鬱屈した何かを晴らそうとしている。それだけで、少しだけ共感らしい何かを抱いたのは確かだった。助けたい。これも烏滸がましいかもしれないが、少しでも彼女が楽な気持ちになって帰ってくれたら、と僕は思った。
「姉が死んだんだ」
「……え?」
僕は自分がここまでやってきた理由を話そうと思った。だが、彼女にしてみれば唐突だっただろう。ずっと夜景の方を睨んでいたのに、僕の方を見た。
「両親がいない僕には、親みたいな人だったのに、事故で死んじゃったんだ」
それから、今の生活を少し説明して、自分の状況だったり気持ちだったりを話した。話し終えて、僕は彼女に言う。
「聞いてくれて、ありがとう」
「……はぁ?」
僕の感謝に彼女は困惑したみたいだった。だけど、僕は改めて感謝を伝える。
「誰かに聞いてもらうだけでも、少し気持ちが楽になった。だから、ありがとう」
「……別に、そんなつもりじゃなかったし」
「次は河瀬さんの番だ。話してみたらどう?」
「あんた、本当に頭おかしいじゃないの?」
僕は否定もせず肯定もせず、ただ首をすくめた。どっちでもいい。最初から理解してもらえるとも思っていないから。
「まぁ、話してくれるまで待つよ」
「意味わかんない」
そこから、五分か十分か。静かな時間が経過した。このまま朝になってしまうのではないか。警察が見回りでやってきたらどうしよう。そんなことも考え始めたころ、彼女が口を開いた。
「私は……ただ、お母さんを守りたかった」
続きがある。そう思ったけど、彼女は弱みを見せられなかったのか、それとも言葉にできなかったのか、なかなか続きは出てこなかった。代わりに、と言うべきなのか、押し殺したような嗚咽が漏れてくる。感情を言葉にする代わりに、涙が出てきたようだ。
「それだけだったのに、どうして、私は……!!」
絞り出すように彼女は言って、それからはひたすら泣いた。どれだけの時間が経過したのか、僕も戸惑っていたせいで、それは分からなかったが、夜景が幾分か光を失ったと実感するほどには、彼女は泣き続けた。
「……ごめん」
やっと泣き止んだ彼女は、呟くように謝罪した。
「あんたもつらいのに、私ばっかり」
僕は首を横に振る。
「悲しさも人それぞれだよ。誰かにとって平気なことでも、河瀬さんにとっては最悪なことかもしれない。だから、今の自分が一番不幸だって、可哀想だって思うくらい、べつに良いと思う」
「……絶対に学校のやつに言わないでよ」
「話す相手もいないから大丈夫」
それから五分ほど沈黙が続いたが、僕の方から山を降りることを提案した。
「ムカつくこととか、理不尽なことはあるけどさ、この山を自転車で一気に降りると、結構ぶっ飛んで、色々なことがどうでもよくなるよ。やってみない?」
「……ぶっ飛ぶ?」
「そう。ぶっ飛ぶ」
「何それ」
初めて彼女が笑った。それは、学校で見かける鼻持ちならない笑い方と違って見えて、なぜか僕の胸を締め付けた。
「それじゃあ行くよ。ノーブレーキだから、死ぬ気で捕まってて」
「いいよいいよ。私、死ぬつもりだったし」
「あははっ。じゃあ、事故っても文句言わないね」
「はぁ? 怪我したらマジで許さないから」
僕たちは自転車を二人乗りして、山を一気に下りた。夜風に撫でられながら、あの夜景が少しだけ見える。
「あー、ぶっ飛びそう!!」
彼女は何度か両手を離して、僕を冷や冷やさせた。もちろん、適度にブレーキを引いたし、慎重にカーブを曲がったけれど、今この瞬間に死ねたら、もしかしたら気持ちがいいかもしれないな、と少しだけ思った。
それから、高校卒業まで彼女と話すことはなかったけれど、僕にとって河瀬莉子は初恋の相手だと言えただろうし、一番青春を感じた瞬間はいつだったかと問われたら、このときを挙げるだろう。
ただ、確か二十歳になったころ、彼女の母親が死んだ、という噂を聞いた。彼女と母親の間に、何があったのか、僕が知ることはなった。
十年が経って、僕は二十七歳になった。大人にはなったけど、人付き合いが下手なところは少しも改善されず、その結末と言えるような事件が起こった。
「貴方とは結婚できない」
三十を前にして身を固めようと、結婚を決意した相手にかけられた言葉だ。僕たちがどのような経緯で付き合い、どれだけ楽しい時間を過ごしたのか。それは説明しないけれど、彼女と交際した五年と言う日々が、すべて無駄だったと、お前の自己満足でしかなかったと、そう言われたような気がした瞬間だった。
そんなタイミングで久しぶりに地元へ帰った僕が向かった場所と言えば、やはりあの公園である。しばらく都会で暮らしで生活した僕を、あの夜景は変わらぬ美しさで迎えてくれた。もっと光の数が多い夜景も見てきたけれど、やはりここが一番かもしれない。僕は十七の夏の終わりを思い出して、ふっと小さく笑ったが、まさか奇跡が起こるとは思わなかった。
「なんでここにいるの?」
背後からの声。
僕は息を飲んで振り返ると、そこには美しい一人の女性の姿があった。
「……河瀬さん?」
僕が確認すると。彼女はにこりと笑って頷く。
「こんなの奇跡じゃないか」
あのときは不快を顔で表すか、無視を決め込んでいた彼女が、穏やかな笑顔で僕に同意する。
「そうね。私も驚いた。それとも……五歳から嫌なことがあればこの公園に足を運んでいる、澤野くんにしてみると、私みたいなものは黙って引き返してほしい?」
「いや……できれば、隣に座ってほしい」
自分でも驚くほど素直な言葉が出てきたのだけれど、彼女は拒絶することなく、僕の隣に座ってくれた。しかも、あのときみたいに隣のベンチに座るのではなく、同じベンチの隣に。
「驚いた」
僕が呟くと、すぐ傍で彼女が微笑んだ。
「何が?」
「いや……えっと」
最悪な日に、初恋の人に会えるとは思わなかった、とはさすがに言えず、僕は他に驚いたポイントを探す。
「河瀬さんが僕の名前を呼んだ。たぶん、初めてだ」
高校生活の三年間。彼女が僕の名前を呼んだことはなかったのに、再会して一分も経たずに呼んでくれたのだ。驚いてもおかしくないだろう。しかし、彼女は言う。
「あれから何年経ったと思っているの? 私だって変わったんだから」
「そうなんだ。……でも、僕の方は変わってない。何も成長してないかな」
「そんなことないでしょ。澤野くんだって、自分が気付いていないだけで、成長してるはずだから」
返す言葉が見つからなくて、僕が黙ってしまうと、しばらくは二人で夜景を見下ろす時間が続いた。本当にあのときに戻ったみたいに、黙ったまま。しかし、あのときとは違って、先に彼女が口を開く。
「嫌なこと、あった?」
僕は肩をすくめる。
「プロポーズに失敗した。まぁまぁ最悪だ」
幸いなことに、彼女はそれを笑い飛ばしてくれた。ただ、僕はそれ以上話すことはなかった。面白い話でもなかったし、あのときと違って逃げ場のない鬱屈を溜め込むほど、子どもではなかったからかもしれない。
でも、僕が話したということは……彼女の番だった。僕は振り返って、彼女の移動手段を確認する。車も自転車も……彼女のものと思えるものは、何もなかった。
「もしかして、死にに来た?」
「正解」
彼女は笑うが、僕はどんなリアクションを返すべきか分からなかった。困っていると、彼女も笑い疲れたみたいに、ただ黙って夜景の方を見てしまう。このまま、時間が止まってしまえばいい。僕は少しだけ、そんな風に願ったが、どんな願いもすべて何もかも叶うとは限らない。彼女が不意に口を開いた。
「私ね、人殺しを許していない社会を何度も恨んだ」
殺す、というワードに、僕は彼女の横顔を盗み見せずにはいられなかった。でも、彼女は穏やかな笑みを浮かべながら続ける。
「だけど、人殺しを許していない社会に守られていると思うと……気が狂ってしまいそうになるの。そういうの、分かる?」
正直、僕には分からなかった。殺したいほど誰かを憎んだことはないし、人殺しを許さない社会に守られていると思ったこともなかったからだ。
「その……何て言えばいいか分からないけど、凄く正直なところで言うと、分かりたいとは思う」
できるだけ正直な気持ちを伝えようとする僕に。彼女は微笑みを絶やさず、小さく頷いた。
「誰だって死にたくない。殺されたくないから、相手に遠慮するし、譲ったり、同調したりする。でもさ、たまにそういうの、分かってない人っているじゃない」
僕も分かっていない。遠慮することも、譲ることも、同調することも、当然のこととしてやっていたからだ。でも、僕の沈黙を肯定として受け取ったのか、彼女は続けた。
「殺される覚悟もないのに、わがままで、奪って、意思を通す。たくさんの人が殺人衝動を抑えているから生きていられるだけなのに、あるがままに振る舞うんだよ。でも、そんな人を殺したいと思っても、殺さなければならないと思っても、社会は許してくれないよね」
「それは……そうだね」
「そんな社会が崩壊したら、自分が殺されるかもしれないから、多くの人が秩序を守っている。そんな弱々しい理由で、この想いを叶えられないと思うと、情けないよ。これだけ明確に殺したいのに、自分が殺されたくないから殺さないだけなんて……恥ずかしい。恥ずかしくて、情けなくて、だけど殺したくて……気が狂ってしまいそう」
僕はまだ彼女にかけるべき言葉が見つからなかった。あのときとは、また違った、慎重な言葉選びが必要だと思ったから。でも、僕は気付いてしまう。彼女の手にナイフが握られていることを。
「こうやって、私がナイフを持ち歩いて、今にも命を奪ってやろうって考えているかもしれないのに、どうして自分だけは殺されないって思っているんだろう。私には分からない」
彼女はナイフの柄を強く握り、あのときのように、いや、あのときと違って、禍々しい感情を押さえつけるような表情で、夜景を睨み付けた。
「生きていちゃいけない人間が、そこにいるのに、人殺しを許さない社会も……私には分からない!」
彼女は急に立ち上がると、ナイフを思いっきり投げつけた。ナイフは僕たちの前にある柵を超えて、夜景に吸い込まれるように、音もなく消える。
「このままだと気が狂ってしまう。だから、私はここにきた。狂うか、殺すか。その前に、自分が死ぬべきだって思ったから」
「……だとしたら」
僕はやっと自分が言うべき言葉を見つけた。
「僕はここにいて良かった」
「どうして?」
「君に死んでほしくないから」
「……私が死んでも、澤野くんには関係ないでしょ」
「そんなことない。今日、こんな風に君と再会できたのだから、もしかしたら、十年後もここで君と再会できるかもしれない。そう思って生きたら、少し人生が楽しくなる」
微笑みながら静かな涙を流して、彼女は僕に確認する。
「私に会えて、嬉しいわけない」
「嬉しいよ。だって、君は僕の初恋の人だから」
それから、僕は彼女を車に乗せて山を降りた。助手席に座る彼女は、夜景とは反対の景色を眺め、表情が見えなかったが、急に小さく笑った。
「どうして自転車で来てくれなかったの? またぶっ飛びたかったのに」
「十年後は自転車で来るよ」
山を降りて、しばらく街中を走った後、彼女が車を止めるように言った。
「今日はありがとう」
「こちらこそ。十年後、また会えると信じているよ」
「……私の気が狂うことなく、その日を迎えたらね」
こうして、僕は初恋の人と再会し、また別れた。それから、もちろん彼女と喋ることもなかったし、姿を見ることはなかった。ただ、ときどきテレビから流れるニュースを見て、彼女の名前が出ていないことを確認するようになった。どうやら、彼女の気は狂ってないようだ、と。
そして、さらに十年後。僕は三十七になった。再会の日、ほのかな期待を抱きながら公園へ向かったが、彼女に会うことはなかった。その後も、ニュースを見ても彼女の名前を見ることはない。だから、僕には祈ることしかできない。また十年後も、彼女の心が今も穏やかでありますように、と。