お似合いの二人
衝撃的な対面の後、ユージンは兄の居ないセブランの館では無くて、先月から急病で体を悪くしている辺境伯とその夫人が暮らしている辺境伯の館に向かった。『媚びず、侮らず、理に則って』と言う辺境伯の家風がそのまま現れたような、飾り気も無駄もない作りの館である。貴族の体面のために庭園もあるにはあるが、実を付けるものばかりが植わっているくらいなのだ。
「ユージンよ、どうでしたか」
辺境伯夫人が彼を出迎えるなり訊ねた。彼女も息子と辺境伯の家の面子のために『割れ鍋』と取っ組み合ったくらいの女なので、顔には何の表情も出してはいなかったが。
「奥方様、気に入りました。面白い女です、あれは」
「は?」
夫人が流石に愕然としたので、ユージンは『瓶詰め』を持っていた経緯についてかいつまんで話した。
「おほほほほほ!」
夫人は腹を抱えて笑った。彼女も貴族の出ではあったが、とにかく血なまぐさい辺境伯の家に嫁いでもう25年だ。戦いで大怪我を負った兵士の手当てにも慣れたし、何なら血を見て腰が抜けた新兵を一喝するくらいには肝が据わった。『瓶詰め』程度、青二才が考えついた他愛も無い悪戯くらいにしか思わない。
「あらまあ、『割れ鍋』にも見所があったのね。それだったらあの子も気を遣って事前に吊したモノを片付けさせなければ良かったのに」
「全くです」
「ところで。ユージンよ、旦那様がお前をお待ちでいらっしゃいます。付いてきて頂戴」
「はい」
二人は2階の南に窓がある部屋に向かった。
『まだ……戦にはなっていないのね?』
途中で、夫人が鳥の囀りに似た、暗号通信で訊ねてきた。ユージンも同じように返す。
『小競り合いが続いています。威力偵察を兼ねているようです。依然、大きな動きはありませんが。それで、ヘンリー様は……』
この非常時に、歴戦錬磨のヘンリーが倒れてしまい、まだ若いウィリアムが司令官を務めている事も、隣国が増長する原因の一つとなっている。
『皇国城に仕える医師を派遣してまで診て貰ったのですが、無理を押して戦に出れば命は無いと』
『毒では無いのですね?』
夫人はほんの少しだけ、ぐっと堪えるような顔をした。
『若い頃から……深酒と煙草が何よりお好きだったから……』
部屋に付いた。騎士が部屋の前に立っていたが、夫人の姿を見ると敬礼して扉を開ける。
「結構」
夫人はそう告げると、ユージンを連れて部屋に入った。
夕日が窓から細く柔らかく差し込んでいたが、その光が照らしている病んだ大男の放つ悲惨さに無念さを加えているだけだった。
「『ユージン、どうだ。ウィリアムはきちんとやっているか』……と」
夫人に助けられながらもその男はやっとの事で身を起こし、一切ろれつが回らない口で訊ねたのを、夫人が代わってユージンへと伝えた。
ユージンは大男に向かって敬礼してから、右手を挙げた。
「ウィリアム司令官は過不足なく職務を果たされております、ヘンリー様」
一瞬だけ辺境伯ヘンリーの顔に安堵の色が浮かぶ。
「状況を端的に説明なさい、ユージン」
「隣国は傭兵雇用の大規模な掲示を出したまま、国境線を越えて辺境伯領を含む一帯へと威力偵察を兼ねた小規模な進軍と即時撤退を繰り返しております。現在もその最大の被害を受けているのはトラルテ河の上流地域です。大軍にとって最適な渡河地点を探していると司令官もお考えでした。この雪解けの時期、険しいトラルテ山脈を越えての進軍は損害が多く見積もられるため、王太子の側近が断固として反対しているとの情報も参謀の一人が間諜から掴んでおります」
「まだ、今もまだ傭兵の雇用を続けているのね。……見積もられる総軍の規模は?」
「参謀及び司令官の予測では、最終的には7万弱だと」
流石の夫人も絶句した。『国防軍』は1万と少ししかいないのだ。
「ただ……」
とユージンは言おうとしたが、ゆっくりと首を左右に振ってから右手を下げた。それだけで二人には理解が出来た。
この絶望的とも呼べる数の差だけで敗戦だと決めつけるには早計だと、ウィリアムやユージンが何らかの策を講じている事が。
「了解したわ。戦えぬ私達はもはやこの事態の部外者です。信じて、待っていますから。……それで、いつユージンはあちらへは戻るのかしら?」
今度はのそのそとした動きでユージンは右手を挙げる。
「それが、その、奥方様。かなり面倒な事になりました」
「面倒?」
あの『割れ鍋』がまた慎みもなく我が儘を言い出したのかと思った夫人が顔をしかめたところで、ユージンはいつもの間が抜けた態度で言ったのだ。
「『サクラの木の主』は4度目の婚約『解消』を何よりも恐れているようで。明後日、結婚式らしいんです」
「誰の?」
あまりにも他人事のように言われた所為で思わず夫人も訊いてしまったが、我に返った。
ユージンは『戦い』に関連していない全てに対して――それが己に関する事であっても――とんでもなく無頓着だと言う事を。
「俺とクレーティアのです。神官を呼んで、身内だけでやるそうで。でも俺の兄が来られないので、奥方様、来て頂けませんか?」
世の中には結婚式が無数にある。その結婚式の数だけ、人々の理由と事情と思惑がある。そう言ったものを抱きながら、人間は、禍福が縄のように絡み合っている『人生』と言う不思議な道行きについて、一つ一つ齢を重ねると共に自然と理解していく。
正しい事はそのまま良い事ではないし、善意や好意による行動の結果が悲劇に変わる事もある。善も悪も、罪も罰も、天国と地獄も、人生の中では矛盾せずに同じようにして存在している。どれほどずる賢い者が上手に立ち回ったとしても思わぬ不意打ちで破綻する事もあれば、愚者がたまたま金脈を掘り当てる事もあるのだ。
しかし――人生の幾つもの修羅場を乗り越えてきた勇敢な女ではあったものの、こんな『ちぐはぐ』で『間に合わせ』な結婚式に出たのは――さしもの辺境伯夫人の人生でも初めてであった。
一応、式の場所は誰もが羨むサウザントルーベ庭園の花咲くサクラの区画である。
が、花嫁については、富裕な大貴族の令嬢の花嫁姿にしては質素であっさりしすぎている白いドレス。花婿なんて明らかに丈の合っていない借り物の衣装を辛うじて着ている。服を着ると痩せて見えるのだが、実は誰よりも鍛えているため、今にも縫い目のあちこちが裂けるか弾けそうになっているのだ。そもそもどうやって袖を通したのだろう。
神官は『サクラ』の一族の縁者らしく、とても立派で威厳のある姿で式を執り行ったが、その場に立ち会ったのは花嫁の両親、花婿の父親、辺境伯夫人、召使い達だけであった。花嫁の兄妹は参加さえしていない。
富豪の老爺の後妻に嫁がされる貧乏貴族の娘の方がまだマシなのでは……と夫人が思わず考えてしまったくらいだった。
おまけに、本当に式だけで終わってしまう。元より一切期待はしていなかったが、披露宴はおろか、簡単な宴も、一切供されなかった。
「この前は本当にご迷惑を……」
「いえ、こちらこそあんな出来の悪い息子で何の詫びようもございません」
「どうか離婚だけはご遠慮を願いたいのですが……」
「ええ、ええ、絶対にさせませんから」
これが式中の、花嫁の両親と花婿の父親の会話である。
……どうか私だけでも、と夫人は女神に祈った。ユージンの将来とその幸せを切に、真心から祈った。
あれでもユージンは彼女の一人息子ウィリアムの命の恩人である。
ウィリアムが馬に乗って強盗団の襲撃を受けた村の視察に出かけた時に率先して供回りをしてくれた。その道中で、二人は10人を越す強盗団に襲われたのである。ユージンはウィリアムを身を挺して逃がし、己は強盗団の前に立ちはだかった。ウィリアムは馬を潰す勢いで城塞都市に駆け込み、急ぎ救援部隊を派遣させようとした――その現場に、ひょっこりとユージンが帰ってきたのである。いつもの『綴じ蓋』の様子で早歩きでやってきた。
「俺の失態です」とユージンは言った。
「ユージン!無事だったのか!」
ウィリアム達は一気に力が抜けた。
あの数を相手にして、生きて逃げてこられただけでも大したものである。なのに、だ。
「俺の馬を射られてしまったし、頭目を逃してしまいました」
「は……?」
ユージンの話を聞けば、頭目以外はその場で仕留めたそうだ。
実際、直後に派遣された部隊は死体の山を見つけた。
「次は頭目から叩きます。馬も守ります。本当に申し訳ありません」
「そうだな、そうしろ」
と告げて、ウィリアムは大笑いした。その事件が落ち着いた後で、己の愛馬ブルートをユージンに譲った。
辺境伯の跡取りの命の恩人になったのに、ユージンは良くも悪くも相変わらずであった。戦わない時は『綴じ蓋』で、やる気の無いぼんくら青年が歩いているような有様だった。
しかし戦いとなれば誰より頼もしい。その目が爛々と獣のように光れば、切り替わった証拠だ。さらにユージンは単騎でも強いが、部隊を指揮させても恐ろしく強いのだった。
何度か演習をした時、辺境伯とウィリアム率いる軍に対峙する仮想敵軍をユージンが率いた事がある。辺境伯領の地の利を知り尽くし、戦慣れした辺境伯でさえ、ユージン率いる軍の猛攻には押されに押されて、手に汗握るほどの窮地に立たされたのも、一度や二度ではなかったのだ。
いつしか『綴じ蓋』の言葉は、『国防軍』において畏敬の対象へと変わっていた。
入ったばかりの新兵に至っては『綴じ蓋』と言う妙なあだ名がどうしてユージンを示しているのかちっとも理解できず、『敵を油断させるためにわざわざ情けないあだ名で呼ばせているのだろうな』と思われていたくらいであった。
――このようにユージンの実力を骨身にしみて分かっていた彼らだからこそ、逆に――全く予想していなかった。
その頃には隣国の中では、『綴じ蓋』が『伝令騎兵』の長をやっている、『国防軍』を謳っているが愚かな人選である、『国防軍』ではなくて『無能軍』だ、と散々に馬鹿にされていた事を。
婚姻届を受け取った神官が女神教会に帰った後で、ホルスト侯爵家夫妻は新婚夫婦に向かってこう言った。
「クレーティア、お前もこれでユージン殿の妻になった。しかしユージン殿には継ぐべき爵位が無い。だから私が持っていた辺境伯領に南接しているクセンヌム男爵の爵位を分けよう。お前もその所領で暮らしなさい」
ホルスト侯爵家がこのような事実上の縁切り宣言を、ここで彼女達に突きつけたのには理由がある。
かねてから嫡子ネイサンが第一皇子ティボルトの側近として選ばれていた所に、つい先日、下の娘アリスティアがその縁もあって愛妾として見初められたのだ。
愛妾と言っても、その実家がこのホルスト侯爵家なので皇国の未来の第二皇妃の地位は確定したのも同然だ。いや、先に皇子を産めば、第一皇妃への繰り上がりも不可能では無くなった!
第二皇子アレックスとの縁と未来がクレーティアの過失で失われた彼らが、こうして欲を出したのも仕方の無い事であった。むしろ、ここで欲を出さねば高位貴族とは言えないだろう。
「お父様、お母様、今までありがとうございます。旦那様と手を取り合って喜んで参ります。ただ、あのう、幾つかお願いしたい事があって……ジョンも連れて行って良いでしょうか?あの子は私以外からだと何も食べようともしませんから。それと、出立の準備が必要ですから、もう半月だけここに居させて下さいませんこと?必ずこの館を出て参りますから」
「ああ!勿論だとも」
「旦那様、よろしくお願いしますわ」
その日の夜の寝室で、クレーティアは嬉しそうにユージンの隣に腰掛けて微笑んだ。ユージンはいつものぼーっとした顔をして言う。
「おい、『鍋』。クセンヌムは何も無いぞ。あるのは馬の牧場だけだ。馬の世話なんて出来ないだろう。馬は蹴るし、吠えるし、噛みつくんだぞ。糞は臭いし、小便もする。蹄を手入れして、蹄鉄だって替えないといけないし、体だって洗ってやる必要がある」
「旦那様。私はもはや旦那様を誰よりも愛しているのです。それに……」
ふわりとサクラの花が咲いたような笑顔を彼女は意味深に浮かべた。
「言え」
「もうすぐに隣国との戦争が起きますわ。その時に私が旦那様のお近くにいた方がお役に立てるでしょう?」
――ユージンの目の奥の光が強まった。
「どうしてそう思った」
「現在、ティボルト殿下は隣国に対しては『宥和的対策』しか取られておりません。4年と少し前に異母妹のセレス殿下を――たったの16であったあの子を――かの王太子に嫁がせ、辺境伯からの軍備増強の喫緊の訴えを黙殺しておられます。
私は幼い頃からセレス殿下とは公私ともに大変親しくさせて頂いておりましたわ。秘密のやり方で、手紙も頻繁にやり取りしておりましたのよ。
それが、殿下が嫁がれてたったの2月も過ぎていないのに、返事が途絶えましたの。最後に届いた手紙には、『助けて』とありましたわ……」
「監禁されているのか」
「ティボルト殿下方が一切を握りつぶしていらっしゃいますけれども、私的に調べた所では『虐待』で間違いありませんわ」
「詳しく話せ」
「いいえ、これ以上『虐待』について詳しく話しても何も解決はしませんから。悔しい事に私は女です。どれほどに激しても、この手で剣を握ってセレス殿下を助けに行く事は出来ません。ただ……私は幸い貴族の女に生まれましたわ。ですから夫となるべき相手を見極めようと思ったのです」
「だから、『鍋』の底を何度も割ったのか」
「ええ、その通りですわ」クレーティアはじっとユージンの顔を見つめて、「アレックス殿下は誰よりも才知に長けた御方でいらっしゃいますけれど、あの時は戦争を戦い抜くお覚悟が足りませんでしたの。ウィリアム様には無慈悲さがありませんでしたわ。とても部下思いでいらっしゃいますが、勝利のために彼らを切り捨てられないのですから。ですので、フーバー様には本当に心苦しかったのですが、最初から論外でした……」
「だったらどうして俺なんだ?『綴じ蓋』だぞ?」
「初めてお会いした時、旦那様の目の奥には光が見えたのですわ。この戦争に勝つために、私が久しく求めていたのはその光ですの」
「ふうん。良く分からないな」
そう言いながらも、ユージンは兄の懐かしい言葉をぼんやりと思いだしていた。
『どうもお前は凡人に見えない。目の奥に尋常ならざる光があるんだ』
……兄は今頃、何をしているのだろうか。
しかし――肩に預けられた頭の温もりが彼を現実に引き戻した。
「私が分かっておりますから。それで良いのですわ」
――急遽、明日の夕刻から皇国城にて隣国の王太子をもてなす宴会が開かれる事になり、『国中の貴族で都にいる者は全員、何があろうと出席するように』と通知が来たのは、この夫婦にとって最初の夜が終わった日の、まだ昼過ぎの頃であった。
新婚直後だと言うのにユージンは既に辺境伯領への旅支度を始めていたが、クレーティアは咎めようともしないで、むしろ旅に必要なものがあれば何でも言って欲しいと告げていた。
「あらまあ、何て急な……」通知を受け取って、クレーティアは困った顔をした。
『何て好機なんでしょう』
内心でそう呟くと、彼女はすぐさま机に向かって急ぎの手紙をしたため始めた。
宛先は第二皇子アレックスの皇子妃の座へ娘ジュリアを据えた第二皇子派の最大勢力であるバルドー公爵家、都にいる辺境伯夫妻、それから――。
次々と紙面に用件を美しい字でしたためながらも、
「この機を逃さず、先鋒がトラルテ河上流を越えてくるでしょうね」
支度をしているユージンに向けて、彼女はそのように言ったのだった。
「俺はすぐに辺境伯領に行かなきゃいけない。そこで戦う」
ユージンは荷物を革紐で括っていて、彼女の方を見ようともしなかった。
「ええ、旦那様、そのまま準備をしながら聞いて下さいな。この頃は辺境伯領ではトラルテ山脈に積もった雪が解けた所為で、上流地域でも河を渡るのは大変だとか。辺境伯領南の広大で肥沃なダイヤン平野もぬかるみが激しいと……」
「それでも7万弱の軍隊だぞ。その中に工兵が何人いると思っているんだ。船なり橋なり作れるだろう。下手をすればぬかるみにさえ道を作って……」
「この地図をご覧下さいな。私が何年もかけて情報を集めて、辺境伯の所領一帯を描いたものですが、間違いはありますかしら?」
ユージンは目を見開いた。彼女がさっとが差し出した地図は、『国防軍』の機密以外は全部記されているような正確無比な地図だったのだ。
「どうやって……」
「私と言う女は蛇のように執念深いのです。この4年かけて集めましたのよ。もうお気づきでしょうけれど、問題はトラルテ河の下流――南のダイヤン平野の方なのです」
「でも、何故クセンヌムに印を?」
「トラルテ河上流の先鋒を陽動部隊と仮定した場合に、懸念が一つだけ生まれるのです」
ユージンも気付いた。
「略奪……馬からか!」
「トラルテ河の中下流にはこの時期、到底、橋はかけられませんわ。雪解け水が洪水のようになっていますもの。いくら輸送船で運びたくとも、海の無いかの国の造船技術を高めに見積もっても、軍馬を何匹も乗せられるような船を作るには二月以上の時がかかります。でもそんな大きな船を作っているとの噂、旦那様がご存じでしたら今ここにはいないでしょう?」
「傭兵の多い隣国の軍の指揮官達は、必ず貴族以上だ。つまり騎兵だ。軍馬が必須だ。それでクセンヌムの馬を奪い、急ごしらえの軍馬にするつもりか」
「急ごしらえの軍馬がどれほど戦場で通用するかは存じませんけれど……指揮官には見た目も大事でしょう?それで、私はクセンヌムを奪わせると『指揮官』が増えてしまいかねないと考えたのです」
「他には?」
クレーティアは夫の顔を見つめた。
夫の顔は別人のようだった。今や二つの目は獣のように爛々と光り、訓練された兵士特有の隙の無い体勢を無意識に取っている。
「辺境伯への増援についてですわ」
「……アレックス殿下が鍵か」
はい、と彼女は全面的に同意する。
「ティボルト殿下は戦争になっても辺境伯領への増援を嫌がるでしょう。むしろあの派閥は戦っているあなた方の妨害をしかねませんわ。最低でも、兵站の阻害は確実に起こるでしょう」
険しい顔をユージンはするしかなかった。
「それだと、持っても半月だ」
「ですから、王太子に明日の宴会の場で派手にやらせます」
「……?」
「この皇国中の貴族が集う前で、徹底的な宣戦布告をさせるのですわ。そうすれば隣国の侵攻も、最短で王太子が帰国した後になりますから」
「何をさせるつもりだ、『鍋』」
「うふふふ。『割れ鍋』に委細お任せ下さいまし。戦場に赴かれる旦那様のお背中は、私がお守りしますから」
もしかすればサクラと言う木は人の死体を養分として根で抱え込むから、あれほど妖艶に咲くのだろうか、とユージンは珍しく現実味の薄い事を考えた。とすれば、この女は疑いようもなくサクラの木の妖精だな。
「まあクレーティア!」
「何があったの!?」
「いくら貴族同士でも、初めて会って三日で結婚だなんて聞いた事が……!」
「しかも辺境の男爵夫人だなんて……!」
若い貴族の夫人や令嬢達は質素なドレス姿の友人を見つけるなり、心配そうな顔で近寄ってきた。
クレーティアは優雅に貴族の女らしく微笑んで、
「主人が諸事情ですぐに辺境伯領へ戻る必要があって、私のたっての希望で頼み込んだの。それに、主人は辺境伯様の元で働いているから、できる限りにそのお近くにいたくて……」
そうだったの、と彼女達は変わらぬ友人の様子に多少の安堵はしたようだ。
早速いつものごとく雑談に花を咲かせる――その時を待ってクレーティアははっとした顔で焦った声を出す。
「いけない、ジュリア様にお礼のご挨拶をしていなかったわ。実は私達の結婚をお祝いして下さって、贈り物まで下さったの。もちろん手紙は書いたのだけれど、きちんと会ってお伝えしなければ失礼に当たってしまうわ」
「あら!ジュリア様なら第三控え室にいらっしゃるそうですわよ」
「有り難う」
クレーティアは優雅に、しかし謎の威圧感を放って人混みの中をするすると歩き、第三控え室に到着した。その両脇に女騎士二人が控えていたが、クレーティアを見て扉を開けた。
「クレーティア・クセンヌム……になったのでしたわね」
中では、ジュリア皇子妃が淑やかに鏡台の前に腰掛けて、女官3人がかりで最後の身支度の仕上げを行っている所だった。
「はっ」
クレーティアは律儀に目上の者への挨拶の姿勢を取った。彼女に向けてジュリアは威圧的に言った。
「セレス様が戻られています。いいえ――王太子は見世物としていやしくも己の『正妻』を宴会の場に連れ出して、なぶり者とするおつもりだそうよ」
「……」
「『見世物』なのよ?皇女であり隣国の王太子妃であらせられる尊きお方が『見世物』に……。
さて、王太子の残虐性に火種を零したのは誰?クレーティア、顔を上げて答えなさい」
美しい所作でクレーティアが顔を上げたのを、あくまでも居丈高に見据えた側なのに――ジュリアはぞっとした。
愛を求めて男3人を追い詰めたほどの、凄まじい狂気をこのサクラの木の妖精はその内に抱えている。その一片がギラリと光った瞬間を目の当たりにした心地だった。
幸いにも、ぞっとすると同時にジュリアは安堵している。クレーティアの狂気の矛先は、ジュリアの皇子妃の地位にも名誉にも全く向かっていない。いや、『今は』と付け加えるべきだろう。
あくまでも恭しく、従順な態度でクレーティアは答えた。
「私には……願いがございましたわ。セレス殿下が救われる事。国同士の不可侵協定が遵守される事。私が、ただの貴族の女としての一生を過ごす事。この三つでした」
「それで?」
「どの願いも叶う事はありませんでしたわ。セレス殿下は虐げられ、国境は危うくなり、生まれながらに魂は愛に飢えた苦しみの中にありました」
「そう」
ジュリアだけがその言葉の真意を察している。
クレーティアは『乙女』なのだ。




