綴じ蓋男ユージン
ユージン・セブランと言う若者は、あだ名を『綴じ蓋』として知られていた。セブラン伯爵の妖艶な愛人の子として生まれたものの、生まれてすぐに母親を亡くして仕方なくセブラン伯爵家に引き取られた。当然ながら正妻は彼を疎んで虐めたし、伯爵自身も正妻や世間体を気にして放置していたが、『羊』のフーバーだけはどうしてかこの3つ年下の異母弟を何かと庇い、殊の外可愛がった。
「どうもお前は凡人に見えない。目の奥に尋常ならざる光があるんだ」
口癖のようにそう言って、まずは文字の読み書きから自ら教えてやるのだった。
「勉学に励むもよし、剣術に励むもよし。何かを極めてご覧。必ずやお前を助けてくれるだろう」
将来は文官になりたいと常日頃に言っていたフーバーは、歴史学が大好きであった。古代からの歴史家達の文献や史料を紐解いて、緻密に情報を集め、精査して、新たな発見があれば筆を執って紙に綴る事が何よりの楽しみだったのだ。皇国城で働く文官の幾つもある部署の中には『司史所』と言って、主に歴史書を編纂する仕事もある。彼はその仕事に就く事を目標にしていた。
「兄上、俺は机に座っているのが好きではありません。だが武術の訓練をしている時はとても楽しい。でも、どうも騎士に向いているとも思えないのです」
貴族学園をもうすぐ卒業する、17の年にユージンは兄にそう申し出た。
この頃には少年ながらも鋭く苛烈な剣筋で血に飢えた獣のように攻めてくるので、都にいる武術の講師の悉くにユージンの相手を断わられていたくらいだった。
しかし、ユージン少年は剣を握っていない時には『綴じ蓋』と悪し様に言われていた。
壊れた所を修理した蓋よりも、何の役にも立たないと言う嫌味を込めてだ。剣を構えていないと、1分も持たずに昼寝してしまう。もしくは、ぼーっと空を見つめて間抜け面のまま何もしない。これは通っている貴族学園でも常にそうだったので、彼は赤点以外取った事のない万年不良学生であった。
それでも留年させられず、瀬戸際で彼が卒業を認められていたのは、剣を持たせた瞬間に別人のように豹変するからであった。いったんこの様に変貌したら彼の勝利への執念は凄まじいものがあって、運悪く剣を取り落とした時など相手に組み付いて、腕で首を締めあげて倒した程であった。
何たる振る舞いだ、騎士道精神に反していると散々に非難されて『負けた』のだが。
「よし、ではウィリアムの所で働けるように取り計らおう。彼は辺境伯の跡取りなのだけれど、辺境伯様に直属する常備軍の副司令官をやっているそうだ。常備軍では、それこそ並大抵の騎士では耐えられないような過酷な訓練をしていると言うから」
フーバーは弟が学園の卒業後の進路相談にやって来た時に、その道を示した。
「常備軍?何ですそれは」
いつものような間抜け面をしている弟に、フーバーは少し微笑んで説明した。
「今まで何処の国も戦争をする時は、いつも金を払って臨時で傭兵を集めて、それを下級兵卒として戦っていただろう?ほんの僅かな貴族出身の騎士達を除いては、戦争の間だけ軍隊を召し抱えていたのだよ。
一方、常備軍とは上から下まで傭兵ではなく、戦時も常時も家臣団のように辺境伯家に従っている軍隊なのだそうだ。常に戦う訓練をし、武具も最新鋭、そして辺境伯の命令には忠誠を誓う。代わりに給料が定期的に支払われ、もしも戦争中に手足が欠損して戦えなくなっても後の生活の保障をされているそうだ」
「でも、それじゃ傭兵より金がかかるでしょうに」
「第二皇子――いや、アレックス殿下が国費より、国防のために賄って下さっているそうだ」
ぼーっとしているユージンも流石にその理由を悟った。
「……隣国の王太子が、この数年、自国の領土拡張のために過激な主張を繰り返していましたね」
フーバーは黙って頷き、
「ユージン。何処の国でもそうだが、戦争になった場合に最大の、しかも真っ先に被害を受けるのは民だ。奴隷として売り払われる。汗水垂らして耕した農地を人馬が踏み荒らし、実った畑は焼かれる。家屋は壊され、井戸には糞便が投げ込まれる。何もかも略奪され、犯され、殺され……それが歴史では繰り返されてきた。
『戦う力なくして平和と人の美点で国を守るなんて理想論こそ真っ先に捨てなければ。治めるべき民がそんな目に遭ってからでは間に合わない』と……アレックス殿下はお考えでいらっしゃる」
「……兄上」ユージンは頷いた。「俺は常備軍に行きたいです。俺は『綴じ蓋』かも知れないけれど、剣は持てるから」
「よしよし。きっとお前ならウィリアムと気が合うだろうよ」
フーバーは愉しそうに笑うと、貴族学園での彼の親友の一人、辺境伯の跡取り息子のウィリアムの所へ、早速に推薦の手紙をしたためたのだった。
「貴様がユージンか」
長旅を経て辺境伯の所に到着したユージンを出迎えたのは、重たい鎧甲冑を着た、屈強な巨漢であった。
この見上げるほどに大きな、見た目も中身も獅子そっくりの若い武人こそが、辺境伯の跡取り息子ウィリアムであった。
「はいそうです」
いつもの間抜け面の上、『綴じ蓋』ユージンは覇気の無い声でそう返事した。
何たる腑抜けだと気を悪くして、ウィリアムは語気を強めた。
「貴族の子弟だろうが、ここではその身分など何の役にも立たないと思え。強ければ出世する、弱ければ下働き。司令官である父上の命令には絶対服従。文句はあるか?」
「特に無いです」
「だから、そのやる気の無い返事は何だ!おい貴様、剣を持て!その態度をたたき直してやる!」
とうとうウィリアムが気色ばんで大剣を抜いた次の瞬間、ユージンは凄まじい速度でウィリアムに襲いかかった。その手に持っているのは――鎧の隙間から鎧や、鎖帷子ごと突き刺して相手を確実に仕留めるための、まるで錐のような短刀ミセリコルディアである。
『慈悲』を意味する『ミセリコルディア』なんて名前なのに殺意が凝縮されたような尖った切っ先を、ユージンは躊躇なく――ウィリアムの、大剣を抜こうとした腕の、その空いている脇の下にあてがっていた。
「!」
ここでウィリアムにとって幸いだったのは、護衛も兼ねた兵士達が近くにいた事だった。この兵士達は事態を察した瞬間にユージンを取り囲んで、槍先を突きつけていた。
「貴様!」
「ウィリアム様に何をする!!!」
「――いや、待て」
ウィリアムはユージンの顔を見つめた。貴族学園を卒業したばかりだと聞いていた少年は、これから一人の人間を殺そうとしているのに何の表情もしていなかった。
「貴様の名前はユージンだったな?」
「はい」
「ガハハハハハハッ!」ウィリアムは大いに笑った。ひとしきり笑ってからゆっくりとユージンを押しのけて、己も大剣を仕舞った。「驚いたぞ、貴様があの『羊』の弟か!気に入った!」
不要に民間人に手を出すな。
女子供は以ての外。
しかし戦意を持ち刃を向けてきた者は徹底して殺せ。
殺せないならば恥さらしとして吊す。
軍紀違反も同じ。
――辺境伯の抱える『国防軍』に入って2年が過ぎた頃には、ユージンは『綴じ蓋』のまま司令官となったウィリアムの率いる『伝令騎兵』の長に選ばれていた。
戦場では最も危険が伴う役目の一つである『伝令騎兵』の部隊は、非常に厳格な選抜条件を全て満たした者のみで構成されている。無論、その訓練もいっそう過酷なものであった。極限の多忙と機密の死守のため、家族とろくに連絡さえ取れないので、この部隊にいる全員、独身になってしまっているくらいだった。
いきなり、ある日ウィリアムに呼び出されたユージンは、例の『綴じ蓋』の何とも締まりの無い顔をして、司令官の執務室に向かった。
執務室前の護衛が丁度交代する所だったので、その引き継ぎを待って、己の所属と名前と用件を告げて分厚い扉を開けて貰った。
まだ午後になったばかりだったが、頑丈な鎧戸が窓に下ろされていて部屋は薄暗く、蝋燭の炎が揺らめいていた。
「……いきなり呼び出して済まないな」
扉が閉まって、護衛が元の体勢に戻った気配を感じてから、剛健な木製の椅子に腰掛けていたウィリアムは話し出した。
その顔がやや困っているようだったので、ユージンは軍の規律に従い、右手を挙げてから口を開いた。
「司令官、今度は耳鼻のどちらにしましょうか?指令通りにお持ちいたします」
「ああ、先月の討伐の時、吊すにあたって首だと持ち運びが大変で困ると俺がぼやいたのを覚えていたのか。
それが、貴様を呼び出した理由は、治安を乱す悪党や入り込んだ内通者共の始末を命じるためでは無いんだ。……この『国防軍』では機密厳守のために家族との手紙のやり取りにも検閲が入る事は知っているな?」
ユージンに手紙を送ってくる相手は、兄しかいない。
「何があったのですか、兄に」
「実は……フーバーは貴様だけには知らせてくれるなと頼んでいてな。
おい、1年と半年前にこの辺境伯の城塞都市に突如押しかけて来た、あのとんでもない女は覚えているだろう?」
「司令官の『元』婚約者の……ホルスト侯爵令嬢……ですか?」そこまで思いだしてから、ユージンは目をひん剥いた。「まさか!」
痛ましいほど苦く、忌々しいほど渋い顔を、ウィリアムは両手で覆って俯いた。深い嘆息が漏れた。
「俺達が2月未満で限界だった『割れ鍋』の相手を、フーバーは1年も務めてしまったんだ。あの細い男の何処にそんな忍耐の力があったのか!……今は半ば病人のような有様らしい。
それでも、セブラン伯爵は婚約『解消』ではなく『変更』をしたいそうだ。気持ちは分からんでも無いが、立場が上のホルスト侯爵家相手に『解消』と言い出す覚悟が無いのだろうな」
ため息を吐いてから、ウィリアムは顔を上げた。
「ユージン、もしも次の『生贄』になるのが嫌であれば、俺から理由を付けて断ってやる。実際、貴様はここの誰よりも優秀な軍人だからな」
「……」右手を下げて、ユージンはしばらく黙していた。蝋燭の炎が弾ける音が何度かした後で、ユージンはおもむろに再度右手を挙げて、口を開いた。「司令官、一つ頼みがあります」
婚約『変更』となってから、クレーティアとの初の対面の場に指定されたホルスト侯爵家に、その予定日より2日も早くやって来たユージンだったが――酷く薄汚れた旅装束のままで、しかも大きな荷物を抱えていたので、門番達は門の中に入れる事をためらった。
だがセブラン伯爵家には負い目がある上に『5度目はない』ため、そのまま追い払う訳にもいかず……仕方なく執事へ、執事から侯爵夫妻と跡取り息子のネイサンが不在にしていたためクレーティアへと、どうするか対応を仰いだのだった。
「まあ!すぐにお通しして頂戴。春の麗らかな日ですから『サクラの四阿』が良いでしょう。スイセンの花も今が見頃ですもの。ああ、薔薇がまだなのが惜しまれるわね。メイド長にお茶の用意、料理長に軽食の支度も頼むわ」
そしてクレーティアは読んでいた本を閉じて、メイドを呼び身支度を命じた。
「……。畏まりました」
執事達は戦々恐々としながら指示に従う。もはや後が無いのに、むしろ暗澹たる未来しか無いのに、クレーティアと来たらいつもと同じ『鍋底を割りかねない態度』だったから。どうしてお嬢様はまともなのに、婚約者相手にだけに異常な態度を取るのか。
彼らも悩んだが、何の手立ても無かった。
――もっとも、この直後に彼らの前に『瓶詰め』がいけしゃあしゃあと出てきた所為で、そんな可愛らしい悩みは根こそぎ吹っ飛んでしまったのだったが。