武器を手に
時間の感覚が曖昧になっていく。
牢の中は常に薄暗く、朝と夜の区別がつかない。食事が運ばれるタイミングでおおよその時間を測ることはできるが、それも一定ではなかった。
最初のうちは、自分がどれだけここにいるのかを数えようとしていた。だが、すぐに意味のないことだと気づいた。
一日、一日と過ぎていく中で、俺の生活は単調なものになっていく。
目を覚ます。食事が来れば食う。それ以外の時間はただ壁にもたれているだけ。
牢の中の不衛生さにも、少しずつ慣れてしまった。最初は耐えられなかった臭いも、今ではさほど気にならない。
——そうやって順応してしまうことが、何より怖かった。
俺は、この牢にいることが当たり前になってしまうんじゃないか?
ここが、俺の「居場所」になってしまうんじゃないか?
そう思うたびに、無理やり頭を振る。
ここは、俺のいる場所じゃない。
ここで朽ち果てるつもりはない。
それでも、少しずつ、確実に気力は削られていった。
そんな中で、エルヴァンの訪問は唯一の変化だった。
最初は数日に一度だったが、気がつけば彼は定期的に様子を見に来るようになっていた。
彼は決して長居はしなかった。食事の時間に合わせて来て、俺の様子を確認し、短い会話を交わす程度。
けれど、そのたびに「まだ俺は外の世界と繋がっている」と思えた。
そして、ある時から俺は気づいた。
エルヴァンは、俺の視界の端に映らない距離から、時折様子を見に来ている。
牢の外の廊下を通る微かな足音。扉の向こうから、ほんの一瞬だけ感じる視線。
最初は気のせいかと思った。けれど、何度か同じことが続いて、それが偶然ではないと気づいた。
エルヴァンは俺を遠巻きに見守っている。
話しかけるわけでもなく、俺の目に触れないように。ただ、俺がここでどうしているのか、そっと確認しているのだ。
そのことに気づいてしまうと、不思議と心が落ち着いた。
なぜだろうな、と自嘲気味に思う。
誰かが見ていてくれる。それだけで、こんなにも安心するなんて。
いつの間にか、エルヴァンの存在は俺の日常の一部になっていた。
けれど、それは同時に、俺が「ここにいること」に慣れつつある証拠でもあった——。
疲れが、確実に蓄積していた。
牢の中での生活は、体だけでなく心も蝕んでいく。最初の頃こそ、この状況をどうにかしようと考えていたが、今ではそれすらも無意味に思えてきた。
ただ生きるために食べ、目を覚まし、また横になる。
気力がどんどん削られていくのを、自分でも感じていた。
そんなある日——事件が起きた。
「おい、新入り」
鉄格子の向こうから、低くしゃがれた声がした。
顔を上げると、向かいの牢にいる大柄な男が、にやりと口の端を歪めていた。獣のような鋭い目つきに、ぞわりと嫌な予感が走る。
「食い物、よこせ」
「……は?」
意味がわからず、思わず聞き返す。
男は鉄格子に片腕をかけ、余裕たっぷりの態度で続けた。
「お前、最近ちょっといいモンもらってるみたいじゃねえか? 側近様とお友達なんだろ?」
心臓がひやりと冷える。
エルヴァンのことを指しているのは明らかだった。
「さっさと差し出せよ。そうすりゃ、お前の取り分は俺たちがありがたく頂いてやる」
牢の奥を見ると、数人の囚人が鉄格子の隙間からこちらを覗いている。俺の正面の牢には大柄な男が腕を組んで立ち、その背後にはもう一人、小柄な男が隠れるように座っていた。左手の牢には痩せこけた男が壁にもたれ、右手の牢では二人組が静かに様子をうかがっている。
彼らはそれぞれ異なる表情を浮かべていたが、共通しているのは——俺を値踏みするような視線だった。
「……断ったら?」
俺の問いに、男はさらに口元を歪める。
「そりゃあ……わかるだろ?」
言葉の意味を理解するまでもない。
ここは牢獄だ。秩序もない。何が起きても不思議ではない。
俺は唇を噛みしめた。ここに来て以来、暴力は避けてきたが——
「くれてやる気はねえな」
口を開いた瞬間、男が低く笑った。
「そうか。なら……」
次の瞬間、鉄格子の間から伸びてきた腕が俺の襟元を掴んだ。
「っ……!」
無理やり引き寄せられる。すぐに振り払おうとしたが、相手は明らかに俺より力が強い。さらに、もう一人が背後から回り込んできた。
(まずい——!)
瞬間、牢の奥で扉が開いた。
「何をしている」
その場の空気が凍りつく。
低く冷えた声。
エルヴァンだった。
彼はゆっくりと歩み寄り、俺の襟元を掴んでいた男に目を向ける。
「この牢の秩序を乱す者は、相応の罰を受けることになります」
淡々とした声だったが、その裏に冷ややかな威圧感があった。
男は舌打ちしながら手を離し、退いた。
エルヴァンは俺に視線を向け、静かに言った。
その眼差しは穏やかで、けれどどこか不安げでもあった。
「大丈夫ですか?」
俺は喉の奥に詰まるものを感じながら、ゆっくりと頷いた。
エルヴァンがいなかったら、どうなっていたかわからない。
安堵の一方で、俺は痛感していた。
——俺は、このままじゃ死ぬ。
エルヴァンがどれだけ助けようとしても、ここでの生活は俺の心と体を削っていく。助けを待っているだけでは、いずれ取り返しのつかないことになる。
何かをしなければ。
俺は、ここで朽ち果てるつもりはない。
それから数日が経った。
エルヴァンは変わらず様子を見に来ていたが、調査の進展はなかった。
「申し訳ありません、今のところ確かな情報は得られていません……」
彼はそう言いながらも、いつものように静かな笑みを浮かべていた。
俺は適当に返事をしつつ、心の中では焦燥感を拭いきれなかった。
このまま何も進展がなければ、俺はただここで朽ち果てるだけなのではないか。
食事は与えられているが、牢の中は不衛生で、囚人同士の小競り合いも絶えない。長く生き延びられる保証はどこにもなかった。
「……牢の管理が、以前より緩くなっています」
ふと、エルヴァンがそんなことを口にした。
「え?」
「看守の見回りが減っています。食事を運んでくる頻度も、若干ですが不規則になってきています」
「だから何だよ」
思わず、棘のある声が出た。
エルヴァンは少し目を伏せ、それから俺をまっすぐに見つめる。
「……何かが起こりつつあるのかもしれません。警戒すべき状況です」
俺は意地悪気に言ってやった。
「……クーデターでも起こるってのか?」
エルヴァンはすぐには答えず、少し間を置いて静かに頷いた。
「可能性はあります」
「……だから何なんだよ」
俺は苛立ちを抑えきれずにそう呟いた。
何かが変わるのか? 俺がここから出られるのか? それとも、ただ状況が悪化するだけなのか?
「まだ断定はできません。ただ、王城の中でも、不穏な動きがあるのは確かです」
「……そうかよ」
エルヴァンの言葉に、俺はあまり取り合わなかった。
「……もう一つ、お伝えしなければならないことがあります」
エルヴァンが少しためらいがちに口を開いた。
「何だよ?」
「今後、私はここへ頻繁には来られなくなるかもしれません」
思わず顔を上げる。
「……は?」
「王城の中の動きが少しずつ変化してきています。私があなたと接触していることが、誰かの目に留まる可能性がある。無闇に動けば、あなたを助けるどころか、かえって危険を招くかもしれません」
「……」
理解はできる。理屈では納得できる。でも、だからといって——。
「しかし、調査は続けます。あなたを放っておくつもりはありません。安心してください」
エルヴァンがそう付け加えた瞬間、胸の奥がざわついた。
——そうじゃない。
安心しろと言われても、それは違う。
俺が感じているのは、そんな単純なものじゃない。
エルヴァンが来られなくなる。
それだけで、ひどく心細かった。
エルヴァンが来られなくなる。
それは、ただの事実のはずなのに、思いのほか心にのしかかった。
俺は、いつの間にか彼の訪れを待つようになっていたのかもしれない。
それがなくなる——。それだけで、俺はこの場所で完全に独りぼっちになる気がした。
「……そっか」
自分でも驚くほど乾いた声が出る。エルヴァンは心配そうに俺を見ていたが、それ以上は何も言わなかった。
「……でも、調査は続けるって言ってたよな」
「はい」
「なら、期待してるよ」
精一杯、軽く言ったつもりだった。
エルヴァンは少し寂しそうな表情を浮かべ、それでも穏やかに微笑んだ。
「必ず、何か手がかりを見つけます」
彼の言葉に、俺は小さく頷いた。
だが——本当にそれでいいのか?
これまで俺は、ただ受け身でいた。牢の中に閉じ込められ、エルヴァンの助けを頼りにするだけだった。
けれど、このままでいいのか?
——何か、できることはないのか?
その考えが頭をよぎった瞬間、俺の中で何かが変わり始めた気がした。
——俺は、何かできることがあるはずだ。
ぼんやりとした不安の中で、俺は周囲を見渡した。牢の中にあるものは限られている。石壁、鉄格子、粗末な寝床。そして、俺の身体ひとつ。
牢の外では何かが動いている。エルヴァンが言うように、この場所の管理が緩くなりつつあるのなら、何かしらの隙が生じるかもしれない。
じっと待っているだけでは、いずれ終わる。
ならば、どうにかしなければならない。
エルヴァンに頼るだけでは駄目だ。
エルヴァンが去り、牢の中に静寂が戻る。
俺は背中を壁に預け、長く息を吐いた。
——このままではいけない。
エルヴァンが助けてくれると言っても、俺自身が動かなければ何も変わらない。ずっと牢の中でじっとしていても、状況が好転するわけじゃない。
何かできることはないのか?
じっと考えたあと、ふと自分の腕を見た。以前に比べて細くなっているのがわかる。牢の中では動くことも少なく、確実に体力が落ちていた。
まずは、体力をつけることだ。
——俺自身が、この状況を変えなければ。
静かに息を吐き、俺は拳を握りしめた。
まずは、牢の中でできることから始めるしかない。
俺にできることは限られている。だが、だからといって何もしない理由にはならない。
牢の中ではほとんど動かずに過ごしていたせいで、身体はすっかり鈍ってしまっている。もし脱出の機会が訪れたとして、まともに動けなければ話にならない。
俺はゆっくりと膝を曲げ、立ち上がった。
「おい、新入りが何やってんだ?」
向かいの牢から声が飛んできた。視線を向けると、あの大柄な男が鉄格子にもたれかかりながらニヤニヤと笑っていた。
「まさか、鍛えようってのか? ここで?」
「……ああ」
俺が短く返すと、周囲の囚人たちも面白がるように口を開く。
「おいおい、そんなことして何になるんだよ」
「どうせここから出られねえってのに、筋肉つけてどうする?」
「バカだなあ、こいつ」
野次が飛ぶが、俺は気にせず腕立て伏せを始めた。背筋にじわじわと負荷がかかる感覚を久しぶりに覚える。
「ハッ、面白れえ。だったら百回やってみろよ!」
「……そんなにやれるかよ」
俺がぼやくと、囚人たちはゲラゲラと笑った。だが、その笑いの中に、少しだけ俺に対する興味が混じっているのを感じた。
それなら上等だ。
ここに埋もれるつもりはない。俺は黙々と動き続けた。
「……よし」
だが、数回やっただけで息が上がった。
「……クソッ、こんなに体力落ちてたのか」
気が付けば、以前の生活では当たり前だった健康な体も、ここに来てから確実に衰えていた。だが、嘆いている暇はない。
少しでも動くことが大事だ。俺は歯を食いしばり、少しずつ回数を増やしていくことにした。
それともう一つ——情報だ。
この牢から出た後、どこへ向かえばいいのか、どんな場所が危険なのか。何も知らないままでは、たとえ逃げられたとしても生き延びるのは難しい。
情報を得るには、周囲にいる囚人たちを利用するしかない。
「……おい」
俺は鉄格子越しに向かいの牢の囚人に声をかけた。彼は目を細め、ニヤリと笑う。
「おや、新入りが話しかけてくるとはな」
「この国のことを知りたい」
「ほう……? なるほどな」
男は俺を品定めするように眺める。
「情報がほしいなら、それ相応の対価が必要だぜ」
俺は、少し考えた後、頷いた。
「話を聞いてやるよ。その代わり——俺にとって価値のある情報を寄越せ」
俺は、この牢の中で生き残るための駆け引きを始めることにした。
「ほう……交渉を持ちかけるか」
向かいの牢の男が、俺の言葉に興味を持ったように目を細める。
「……俺は、外の世界のことをほとんど知らない。お前たちは知っているんだろ?」
俺は鉄格子越しに男を見据えながら言った。
「この国の情勢、城の内部のこと、警備の変化……俺がここから生き延びるために必要なことを教えてくれ」
男は少し笑い、顎をさする。
「なるほど、随分と強気だな。だが、情報をただでやるわけにはいかねえ。……お前に、何が提供できる?」
「……」
確かに、その通りだった。俺は今、ここで何も持っていない。牢の中では金も武器もないし、権力もない。ただの囚人だ。
だが——
「俺の情報をやる。牢の中では手に入らないことも、俺なら話せるかもしれない」
男は少し考え込むように目を伏せ、それからニヤリと笑った。
「面白え。いいぜ、新入り。お前がどこから来たのかは知らねえが、何かしらの情報は持っているようだ。……話してみな」
こうして、俺は情報を得るための交渉を始めた。
「……まずは、お前たちの世界には『異世界』って概念があるのか?」
俺の問いに、向かいの牢の男が眉をひそめる。
「異世界……? なんだそりゃ」
「つまり、今俺がいるこの世界とは別の、まったく違う世界が存在するかってことだよ」
「そんな話、おとぎ話の中ぐらいでしか聞かねえな」
「……じゃあ、そこに迷い込んじまった俺の話は、興味ないか?」
男が目を細める。
「……どういうことだ?」
「俺はこの世界の人間じゃない。気づいたら、ここにいた。それまで俺は、別の世界で普通に暮らしてたんだよ」
囚人たちがざわつく。
「別の世界……?」
「てめえ、頭でもおかしくなったんじゃねえのか?」
「そう思うのも無理はないさ。でも、俺の話はそこそこ面白いと思うぜ?」
男はしばらく俺を観察するように眺めてから、顎をさする。
「……試しに聞いてやるよ。その異世界の話ってのをな」
俺は短く息を吐いた。
「俺がいたのは、魔法も貴族もない世界だ。誰もが剣なんて持たずに、道を歩き、誰かを殺そうとしたらすぐに捕まる。戦争もあるが、日常的に殺し合いがあるわけじゃない」
「剣がない……? じゃあ、どうやって戦争するんだ?」
「鉄の塊を飛ばす道具がある。遠くからでも、人を簡単に殺せる武器だ。剣での戦いよりずっと手軽で、ずっと冷酷な世界だったよ」
話をしていくうちに、囚人たちの表情が変わっていく。
「なんだそれは……そんなものがある世界があるのか」
「お前の世界、すげえな……」
「それで、お前はそこの何だったんだ?」
俺は少し考えてから、肩をすくめた。
「ただの平凡なサラリーマンだよ」
「サラリーマン?」
「この世界で言うところの……そうだな、商人と職人を足して二で割ったようなもんだ」
「よくわかんねえな」
まあ、そりゃそうだろう。
「つまり、そこでは貴族とか王族とかはなくて、みんながそれぞれ働いて飯を食ってた。貧富の差はあるが、基本的には身分の壁はねえ」
囚人たちはそれぞれ考え込むような表情を浮かべる。
「……面白え話だな。続けろよ」
その言葉を聞いて、俺は少し口元を歪めた。
こうして、俺は異世界の話をネタにしながら、情報を得ていった。まずは、この城の構造について。兵士の巡回ルート、地下牢の位置、逃げ道があるかどうか。
それに加えて、この国の現状。貴族の権力争い、王妃の影響力、王子アスヴェルの評判——。
話を聞いていくうちに、俺は少しずつ、この国の輪郭を掴み始めた。
そして、俺は思った。
——これは、ただ生き延びるだけの交渉じゃない。
いずれ、この情報は俺が動くときの武器になる。
そう確信した瞬間、俺はようやく、牢の中でも「戦える」手段を手にした気がした。