牢の中の語らい
それからどれほどの時が経ったのか。変化のない日々の中で、俺はただ生きるために食べ、耐え続けていた。
そんなある日、地下牢の扉が開いた。
「立て」
現れたのは二人の兵士。無言で腕を掴まれ、引きずられるように牢から出された。
「……今度は何だよ」
抵抗する気力もなく、足を引きずりながら歩く。行き着いた先は、薄暗い石造りの部屋。粗末な木の椅子が一つだけ置かれ、その前には見覚えのある青年が立っていた。
あの日、エルヴァンと呼ばれていた彼は静かに俺を見つめ、落ち着いた声で言った。
「座ってください。あなたと話がしたい」
俺は椅子に座り込むと、エルヴァンは慎重な足取りで俺の前に立った。
「あなたは……どうして、ここに?」
「俺が知りたいくらいだよ」
ため息混じりに答えると、エルヴァンは少し眉を寄せた。
「……そう、ですね」
彼の目は俺を観察するように細められた。俺が何者なのか、何を考えているのか、探るように。
「ここでの生活は……つらいですか?」
「つらくないわけ、あるかよ」
思わず皮肉めいた笑いがこぼれた。
「そう、ですよね……」
エルヴァンの声には微かな憂いが混じる。まるで俺の境遇を気にかけているような。
「……あなたを、助ける方法を探してみます」
エルヴァンの言葉に、俺は息を呑んだ。
「……そういえば、お名前を聞いていませんでしたね」
「……名前?」
俺は少し間を置いた。ここに来てから、誰にも名を尋ねられたことなどなかった。
「誠司……だ」
自分の名前を口にするのが、妙に久しぶりな気がした。
「セイジ……」
エルヴァンはゆっくりとその名を繰り返し、小さく微笑んだ。その銀髪は薄暗い部屋の中でも静かな光を湛え、紫がかった瞳にはどこか影が落ちている。繊細な顔立ちをしているが、どこか儚げな印象もあった。
その姿を見て、俺はふと自分をこの牢に放り込んだ男を思い出した。よく似ている。だが、決定的に違うのは、エルヴァンの目には優しさが宿っていることだった。あの男——アスヴェルと呼ばれた男は、最初から俺を見ようともしなかった。「良い名前ですね」
何が「良い名前」なのかはわからなかったが、彼の口調には不思議と嘘が感じられなかった。俺は皮肉っぽく口を歪める。
「そりゃどうも。どこが良いのかはわからないけどな」
エルヴァンは静かに微笑んだまま、ふと視線を落とした。しばらくの沈黙の後、彼は口を開いた。
「セイジ……あなたは、どこから来たのですか?」
「……どこからって?」
思わず聞き返す。そう聞かれると、俺はなんと答えればいいのか。
エルヴァンは少し考え込むようにしてから、慎重に言葉を選んだように続けた。
「あなたの話し方や服装が、この国のものではないと感じたので……」
俺は苦笑し、どう答えるべきか迷った。周囲の人間は皆、まるでファンタジーの世界から飛び出してきたような装いをしている。髪の色も目の色もカラフルで、日本語じゃないはずの言葉が不思議と理解できてしまう。
「正直に言っても信じないだろ?」
エルヴァンは静かに首を傾げた。
「それでも、お聞きしたいです」
俺は小さく息を吐き、ありのままを話すことにした。
「……気がついたら、ここにいた。仕事から帰ってきたはずなのに、突然だ。ここがどこなのかもわからない」
エルヴァンは俺の目を真っ直ぐに見つめ、ゆっくりと頷いた。
「信じます」
あまりに即答だったので、逆に驚いた。
「お前、簡単に信じるなよ」
「嘘をついているようには見えませんから」
穏やかにそう言うエルヴァンの瞳には、疑いの色はなかった。
それでも、俺は納得しきれなかった。こんな話、普通なら信じられるわけがない。
「なんでそこまで断言できるんだ?」
「あなたが嘘をついていないと分かるからです」
エルヴァンは静かに言い切った。
「超能力でも持ってるのか?」
思わず皮肉っぽく口をつく。
エルヴァンは少し首を傾げた。「……魔法のことですか?」
魔法。
その単語が耳に入った瞬間、俺は短く息を呑んだ。
「魔法?」
エルヴァンの様子を見る。彼は至極まっとうなことを言ったという顔をしていた。
この世界には、魔法がある。
それを当然のこととして話すエルヴァンを前に、俺はようやく確信した。
——やっぱり、ここは俺の知っている世界じゃない。
「なるほどな。その、魔法でわかるってことか」
「いいえ。魔法を使える人間は、いません」
エルヴァンが淡々と告げる。
俺は反射的に眉をひそめた。魔法が存在する世界だと理解したばかりなのに、今度は使えないと言われる。どういうことだ?
「魔法は太古の時代に失われ、今は遺物としてわずかに残るだけです。かつては多くの者が扱えたと伝えられていますが、現代では再現できる者はいません」
「じゃあ、なんでお前は俺が嘘をついてないって断言できるんだ?」
俺は思わず詰め寄る。心のどこかで、懐柔しようとしているのではないかという疑念がわいた。
エルヴァンは俺の反応を静かに受け止め、少し考えるように目を伏せた後、ゆっくりと口を開く。
「この国は、太古の魔法によって守られています。他国の人間がこの国を侵略することは、原則としてありえません。そして、どう見てもあなたはこの国の人間ではない」
「……だから信じる、ってか」
エルヴァンは小さく頷く。
俺はようやく納得しかけた。確かに、俺がこの国の人間でないことは一目瞭然だ。ここに来てから見たどの人間とも違う。髪も瞳も黒いし、服装も異質だ。もしエルヴァンがそういう論理で俺の話を信じたのなら、理解できる。
「それに——」
エルヴァンが言葉を継ぐ。
「あなたの目は、まっすぐだから」
「は?」
思わず言葉を失う。
「あなたの目を見ていると、嘘をついているとは思えないのです」
静かに告げられた言葉に、不意に心臓が跳ねた。
「……なんだそりゃ」
思わずそっぽを向く。なんとなく尻の据わりが悪くなって、そのまま続けた。
「……俺は、別の世界から来たんだと思う」
自分の中でなんとなく理解していても、それを言葉にするのは妙な感覚だった。
「そういうことって、今までにないのか?」
エルヴァンは、表情を変えずに静かに瞬きをした。
「聞いたことはありません」
「そうかよ」
エルヴァンの答えに、俺は小さく肩をすくめた。彼の言葉は慎重で、特に何の感情も込められていないように聞こえる。
「ただ……」
「ただ?」
「王城には、王族だけが扱える魔法の道具や、太古の文献が保管されています。それを調べれば、何かわかるかもしれません」
「王族だけが扱える魔法の道具?」
「はい。太古の魔法の名残ですが、今でも使えるものがいくつかあると聞いています」
エルヴァンは淡々とそう言ったが、その様子に特別な感情は読み取れない。
「でも、それって調べようがないんじゃないのか? 牢の中の人間には、どうにもできないだろ」
「……確かに、今のままでは難しいですね」
エルヴァンは一瞬、考えるように視線を落とした。そして、ゆっくりと顔を上げる。
「ですが、私が代わりに調べることはできます」
「お前が?」
「私は王城で動くことができますし、王族に仕える身です。表立って動くのは難しいですが、少しずつなら調査することは可能です」
俺はしばらくエルヴァンを見つめた。こんな話、普通なら信用しない。だが、彼はここまで俺の話をまともに聞き、正面から向き合おうとしている。
「……そうか。なら、頼んでみてもいいか?」
「もちろんです」
エルヴァンは静かに微笑んだ。
「私は……あなたを助けたいのです」
穏やかな声だったが、その言葉には確かな意志があった。
「……なんで?」
俺は思わず眉をひそめた。牢の中にいる俺を助けることで、エルヴァンに何のメリットがある? ありがたい申し出だが、簡単に信じていいものなのか。
「あなたが特別な存在であることは、一目瞭然です。にもかかわらず、このような扱いを受けている。それを、私は見過ごしたくない」
エルヴァンは少し視線を落とし、静かに言葉を継ぐ。
「……しかし、今のこの国は、まともではありません。王が斃れ、王妃が実権を握って以来、国は混乱しています。彼女は己の欲望のままに国を支配し、取り巻きに権力を与え、弱き者を切り捨てています」
エルヴァンの声には、これまでの冷静さとは違う、わずかな感情の揺らぎがあった。
「その息子であるアスヴェル様も、王妃の影響を強く受けています。彼は道を誤りつつある……」
俺は黙ってエルヴァンの話を聞いていた。王家の問題に関わる気はなかったが、少なくとも俺を牢に放り込んだやつの名前が出てきたことで、興味は惹かれた。
「だが、これはあくまでこの国の問題です。あなたには何の関係もない」
エルヴァンはまっすぐに俺を見つめる。
「しかし、あなたがここに来たのは、魔法の影響かもしれません。だとすれば、私はあなたを助けるべきだと思うのです」
真っ直ぐな言葉に、俺は息を呑んだ。そして、ふと先ほどの話に見過ごせないポイントがあることに気が付いた。
「待てよ。アスヴェルってやつ、あいつが王妃の息子ってことは……」
エルヴァンは静かに頷く。
「はい。この国の正統なる王位継承者、アスヴェル=ルヴェール王子です」
「……マジかよ」
俺は思わず頭を抱えた。
「つまり、俺はこの国の王子様のせいでこんな目に遭ってるってわけか」
その言葉とともに、あの日の光景が脳裏に蘇る。
——「そんな醜いもの、視界に入るだけで不快だ」
冷たく突き放すような声。まるで汚物を見るかのような視線。
目の前にいた、完璧な美貌を持つ男。今まで生きてきた中で、あれほどまでに明確に拒絶されたことがあっただろうか。
拳を握りしめ、思わず奥歯を噛む。
エルヴァンは言葉を選ぶように口を開いた。
「……アスヴェル様は、幼少の頃より王妃の強い影響を受けて育ちました。今の彼は、あるべき道を見失っています」
「見失ってるって、そりゃ……ただ見た目が気に食わないってだけで俺を牢にぶち込んだわけだしな。相当だろうよ」
エルヴァンの表情がわずかに曇る。
「……否定はしません。しかし、彼がこのまま変わらなければ、いずれ国そのものが破綻するでしょう」
「俺には関係ない話だな」
バッサリと言い捨てると、エルヴァンは苦笑するように目を伏せた。
「ええ、あなたには関係のない話です」
淡々とそう言われ、俺は少し言葉に詰まった。
だが、とりあえずエルヴァンが俺を助けたい理由は分かった。俺にとっては願ってもない申し出だ。
「……俺の代わりに調査すること。改めて、お願いしてもいいか?」
俺の声は思ったより冷静だったが、内心ではそれしか選択肢がないことに絶望していた。
エルヴァンは小さく頷く。
「もちろんです」
迷いのない即答だった。
俺は一度深く息を吐いて、ふと思い出したことを口にした。
「そういえば、お前の名前をまだ聞いてなかったな」
エルヴァンは目を瞬かせた。
「エルヴァン・リース、と申します」
「……そうか。お前、王族の家来なんだよな?」
「はい。アスヴェル様に仕える身です」
俺は思わず仰天した。
「あんなやつに? お前の労働環境、大丈夫なのか?」
つい心配してしまう。あんな相手に仕えるなんて、正気の沙汰とは思えない。
エルヴァンは苦笑しながら肩をすくめた。
「……よく言われます。けど、ああ見えて優しいところもあるんですよ」
ほんとかよ。
「身分も高いのか? 側近なんだろ?」
「いえ、私はもともとは身分の低い生まれです。ただ、王子と似ていたため、いざという時の身代わりも兼ねて側に置かれました。それだけです」
「……それだけ、ね」
エルヴァンは軽く言うが、身代わりなんて軽い立場ではない。少なくとも、この国では重要な役割なんだろう。
俺はしばらく彼を見つめ、ゆっくりと言った。
「……少なくとも、この世界で一番まともで、大したやつだよ。俺の中ではな」
エルヴァンは少し驚いたように目を瞬かせたが、やがて柔らかく微笑んだ。
「ありがとうございます、セイジ」
その笑顔を見て、俺は初めて、この異世界でわずかに安堵を覚えた。
少し気が緩んだのか、ふと思い立って尋ねてみる。
「ところでさ……俺って、そんなに醜いか?」
エルヴァンは目を瞬かせる。
「いいえ」
即答だった。
「え、即答?」
「はい。アスヴェル様が言ったことは、決して真実ではありません」
「……ふうん」
俺は、エルヴァンの冷静な言葉を聞きながら、軽く肩をすくめた。
「まあ、確かに王子は絶世の美形だったしな。あんなやつと比べたら、そりゃ見劣りするのはわかる」
「それは……そういうことではなく」
エルヴァンが少し困ったように言葉を濁す。
「ただ、アスヴェル様は幼い頃から王妃に溺愛されて育ち、その影響を強く受けておられます。彼にとって美しいものこそが価値のあるものであり、そうでないものは無価値だと……」
「ふーん……」
王妃に歪められた価値観。なるほど、あの王子がああなのも納得だ。
「でもさ、お前の言い方だと俺が『いたって普通』みたいな言い方なんだけど?」
俺がわざとらしく傷ついたふりをすると、エルヴァンがハッとした顔をした。
「い、いえ! その、決して醜いわけではなく……!」
「でも美形でもないと」
「そ、それは……その……」
エルヴァンが明らかに困惑しているのを見て、つい笑ってしまう。
「冗談だよ、そんな必死に否定しなくていいって」
「……からかわないでください」
エルヴァンがほんの少しだけ頬を赤く染め、咳払いをする。
なんだか、ようやく少し打ち解けた気がした。
だが——その安心感も、次の瞬間には薄れていく。
協力者はできた。エルヴァンは俺を助けたいと言ってくれたし、調査もしてくれるらしい。
けれど、俺は本当にここを生きて出られるのか?
——そもそも、元の世界に帰る方法はあるのか?
何も分からない。俺がこの世界に迷い込んだ理由も、ここでの立場も。全てが不確かなまま、俺はこの牢にいる。
しかし、ひとつだけ確かなことがある。
俺はまだ生きている。
そして、生き続けなければならない。
この牢の外に出る方法があるのか、元の世界に帰る手段が存在するのか、それは分からない。けれど、ここで終わるわけにはいかない。
たとえ先が見えなくても、どんなに苦しくても。
前に進むしかない。
それが、今の俺に許された唯一の選択肢だった。