囚われの始まり
異世界に転移したとき、俺は城の中庭にいた。
仕事を終えて帰宅し、玄関ドアの鍵を開けようとした瞬間、視界がぐにゃりと歪んだ。次に気がついたときには、見たこともない石畳の上に立っていた。
周囲には華やかな装飾が施された建物と、豪奢な衣装を身にまとった貴族らしき人々。剣を佩いた兵士たちが俺を不審そうに睨んでいる。
「……なんだ、ここ?」
呟いた声はやけに響いた。そして、次の瞬間には腕をねじ上げられ、地面に叩き伏せられていた。
「何者だ!?」
怒声が飛ぶ。訳が分からないまま、俺は押さえつけられた。抵抗しようとしたが、相手は完全に武装した兵士。一般人の俺にどうにかできるはずもない。
「待て、俺は——っ!」
慌てて言葉を発したその瞬間、
「お待ちなさい」
静かな声が割って入った。その場に近づいてきたのは、銀髪の青年だった。穏やかな表情で、どこか儚げな雰囲気を持っている。
「この者、突然現れたように見えました。王家に関わりのある者かもしれません」
青年は控えめな口調で兵士たちに言う。
「ですが、エルヴァン様、この者は……」
エルヴァン、と呼ばれた青年は、わずかに眉を寄せながら「慎重に判断すべきです」と短く告げた。兵士たちは納得できない様子だったが、ひとまず俺の拘束を緩める。
安堵の息を吐いたその瞬間、
「なぜ、そんな不快なものがここにいる?」
冷え冷えとした声が響いた。
その場の空気が一瞬で凍りつく。視線の先には、俺よりもずっと若い銀髪の青年が立っていた。紫の瞳を持ち、完璧なほど整った顔立ちをしている。
美しい、と形容するのが正しいのだろうが、その表情にはひとかけらの感情もない。
「アスヴェル様……」
エルヴァンが名を呼ぶ。
「……エルヴァン、そいつは何だ?」
アスヴェルと呼ばれた青年は、俺を見ることすら嫌そうに顔を背けた。
「わかりません。ただ、彼は危害を加えるつもりはなさそうです。少し話を聞いてから——」
「話す価値もない。そんな醜いもの、視界に入るだけで不快だ」
淡々と告げられた言葉。
次の瞬間、俺の腕が再び掴まれる。
「地下牢に放り込め」
そう命じたアスヴェルという名の男は、一度も俺を見なかった。
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牢の中は、ひどく湿っていた。
床にはうっすらと水が染みていて、空気には鉄と腐敗の匂いが漂っている。壁の隙間から差し込む光だけが、外の世界との唯一の繋がりだった。
俺はひとまず壁際に寄りかかり、深く息をついた。
「……マジかよ」
さっきまで日本にいたのに、今は異世界の牢獄。しかも理由は「醜いから」だ。
現実味がなさすぎて、笑う気力すら湧かない。
「おい、新入りか?」
低くしゃがれた声が響く。視線を向けると、鉄格子の向こう側で年老いた男がニヤニヤとこちらを見ていた。
「ここはな、出られねぇぜ。たまに出る奴もいるが、二度と戻らねぇ」
男の笑いは底知れぬ薄気味悪さを孕んでいる。
「……二度と?」
「死体になって戻るのさ」
背筋が冷える。
それでも、ここでただ朽ち果てるつもりはない。何があろうと、生き延びるしかないのだ。
俺は歯を食いしばり、静かに牢の奥へと身を沈めた。
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何日が経ったのか、わからない。
牢の中は常に暗く、食事らしきものが運ばれるのだけが、唯一の時間の目安だった。
腐ったパンのようなものと、水が少量。最初は食えたものじゃないと思ったが、空腹には抗えない。
「……くそ」
ぼそりと呟きながら、それでも口に運ぶ。
喉を通る感触は最悪だった。乾いたパンは歯を立てるだけで崩れ、噛みしめるたびにぼそぼそとした食感が広がる。水で無理やり流し込むと、胃がわずかに収縮するのがわかった。
どんな環境でも、食べなければ生きられない。牢の中で朽ち果てるのは、まっぴらだ。
牢の隅には小さなくぼみがあり、どうやらそこが排泄用らしい。最初はためらったが、選択肢はなかった。鼻につく悪臭は牢全体に染み付いていて、俺一人が気にしてもどうにもならない。数日も経たないうちに、周囲の臭いに紛れて自分の体からも異臭がするのがわかるようになった。
日が経つにつれ、時折、鉄格子の向こうから視線を感じるようになった。
ふと目を向けると、そこにはあの銀髪の青年——エルヴァンが立っていた。
「……お前か」
俺はぼんやりとした頭でそう呟く。
「食事は、足りていますか?」
エルヴァンの声は静かで、どこか優しい響きを持っていた。
「足りてるわけねぇだろ……って、何しに来た?」
エルヴァンは少しだけ表情を曇らせたが、すぐに穏やかな笑みを浮かべた。
「……ただ、見ておく必要があると考えました。あなたが、どういう人なのか」
何を言ってるんだこいつは。俺がどんな人間か?
普通のサラリーマンだよ。家族とは疎遠で、特に夢もなく、日々の仕事を無難にこなして生きてきた。それがある日突然異世界に飛ばされ、何の理由もなく投獄されて、こんなところで腐り果てそうになっている。
そんな俺の何を知りたいっていうんだ。
俺はエルヴァンを睨むように見つめながら、小さく息を吐いた。
「そんなもん、見たところで意味はねぇよ」
それでも、エルヴァンはしばらくの間、鉄格子の向こうから俺を見つめ続けていた。