スピリタス
ただ、寝れぬようであった。椅子に凭れ掛かり、天井を見上げていた。降り頻る雨は、杏奈を責め立てているようである。視界はとうに正常を抜け出していた。タイヤのように回り続けている。
「……酒、切らしちまったな。タバコも……ねぇや」
机上には、酒の骸が転がっている。一度見て仕舞えば最後、全身が追加を欲しがってしまう。
「体、冷やしに行くか」
体を巡る血液は、沸々と、煮えたぎっていた。ライターと、財布だけを持って、千鳥足で玄関へ向かう。時計の針は、深夜二時を二分だけ過ぎていた。
杏奈は、少し古びたアパートに住んでいた。二階建てで、杏奈の部屋は右端である。いわくつきの部屋のようで、他の部屋よりも家賃が安かった。当初悩まされた、誰かの呻き声は、次第に聞こえなくなった。
扉を開けると、雨が殴りかかってきた。一度扉を閉め、傘を予め開いてから、再び外へ出る。鈍い音が間隙なく耳に飛び込んでくる。それがどうしようもなく、杏奈には煩くて仕方ないのである。コンビニまでは、それほど遠くない。鼻唄を一曲、歌い終わったのと同時に、白光りする看板が見えてきた。車は一台も止まっておらず、孤独な輝きというものに、違和感を感じてしまう。
静かな店内で、軋むような足音を立てながら酒の並ぶ棚へ向かう。酒のせいか、雨のせいか、何度か転びそうになる。カゴの中に、詰めれるだけのチューハイの缶を無造作に入れた。その中に、ビールは無い。杏奈はそれを、好かなかったのである。味が好みでないのもあるが、会社での飲み会を思い出してしまうからであった。
他の商品には目もくれず、今度はレジへと直行する。カゴを置くと、詰められた缶が、奇怪に鳴いた。
「九十六番。二箱ください」
後ろの棚を見るまでも無く、淡々と番号だけを告げる。袋がいると訊かれたので、黙って頷いた。店員は外国人のようである。不規則なリズムで、機械音がなる。どうやら働き始めてからまだ月日の浅いようだった。特段腹の立つわけでは無い。むしろ、穏やかな気分である。
もう、何も無かったからだ。
重い袋を両手で持って、店を出た。雨は先程までの激しさの面影を消していた。生温い風が、鼻へ、胸へと雨上がりの匂いを運んでくる。辺りには斑らに水溜まりが広がって、道を巣食っていた。酔いは既に覚めていたが、杏奈の胸は終始、異物に支配されていた。
雲から顔を出した月を追って、家へと帰る。深度を増した夜の暗さが、街灯の明るさを際立たせていた。周囲には誰も居ない。私は今、世界にたった一人でいるのだ。そう錯覚させるには充分であった。錯覚は、杏奈の足取りをより早く、より壮大なものに仕立て上げた。そうした次の瞬間、何かがそのリズムを壊してしまった。闊歩する杏奈には、足元の放浪者に気づくことが出来なかったのである。
微量についた小石や汚れを払って、醒めた目を向けたそこには、一匹。黒猫が佇んでいた。それなりの勢いで足蹴にしてしまったにも関わらず、鳴くこともしなかった。目を円に、大きくして、こちらを見つめるだけであった。
「……首輪は……付けてない。そうか、お前も。一人なんだな」
話しかけても、猫は鳴かなかった。そして、ゆっくりと歩き出していくのである。杏奈を誘うように、暫くして歩みを止めて、振り返って覗き込むのである。
「…………わかった。ついていくよ。明日は、何も無いし」
一人と一匹。時間と共に夜を流れた。杏奈には、どこへ向かっているのか、皆目見当はつかなかった。前を歩くこの黒猫に、ついていくだけである。ひらひらと舞う尻尾に、妖艶と幽玄を見出しながら……ひたすら歩くのである。
それから程なくして、見慣れた景色へ立ち戻ってきた。どうやら、遠回りをしていたようである。
「お前はいったい、何処に行きたいんだ……?」
問い掛けても、あいも変わらず返事が無い。威風堂々、歩みを進める黒猫に、(こいつは、魔女の使いではありはしないか)と、恐怖と興味が心に住処を分け合っていた。重い袋を持つ手は、限界を迎えようとしていた。しかし、今更引き返そうなどとは、到底思えなかったのである。
ようやく黒猫が足を止めた。そこは、近所の神社の鳥居の前。黒猫はそこで初めて、鳴き声を発してみせた。それから、階段を登って行った。石と靴の擦れる音が微かに聞こえる。異様な雰囲気を纏う社は、神さえも寝ついてしまったようであった。黒猫は止まることなく、社務所の隣に生えた木の裏側、少し空いたスペースへ向かっていく。見失わないように、杏奈は追いかけていった。そこには、男が一人、制服姿で横たわっていたのである。
「おいおい……まじかよ……」
咄嗟に、携帯を取り出し警察へ電話を掛けようとすると、黒猫は気高く声をあげて杏奈へ飛びかかった。先程までの、夜に溶けて孤独のまま放浪をしていた黒猫は、すっかり母猫へと変わり遂げていた。杏奈は携帯をしまって、しゃがみ込んだ。そうして、高校生と思われるその男を、くまなく観察した。周りを黒猫が右往左往している。
「わかった。一旦、うちへ運ぼうか」
「にゃぁ〜」
大きな声で、黒猫が鳴いた。その表情は、笑顔を作っているように思われた。
ただ、信じてみたくなったのである。その黒猫を。
結局、帰ってからは、杏奈は一睡も出来なかった。買ってきた酒を呑みながら、黒猫と戯れているうちに、夜は明けたのである。
カーテンを開けて、光を浴びる。外は全くの快晴で、小鳥の囀る音が、青天井にこだましていた。精一杯の伸びをして、台所へ向かおうとした時、また、猫が鳴いたのが聞こえた。声の方へ目をやると、男が目を覚ましていた。
「やぁ。やっと目を覚ましたかい。青年」
「…………ここは……どこ、ですか」
青年は、やけに落ち着いていた。手は黒猫を撫で続けている。
「まずは感謝だろう?青年。まぁ良い。ここは私の家だよ。神社で倒れていた君を、私がこうして保護してあげたんだ」
「……ありがとう、ございます」
青年の顔は、強張ったまま。落ち着きはあれど、警戒は解いていないようである。杏奈は、椅子に腰掛け、置いてあったタバコの箱を手に取った。箱には、日本国旗のような日の丸の中に、ラッキーストライクと書かれていた。
「青年。タバコの匂いは、嫌いかい?」
「……好きでは無いですけど、別に、大丈夫です」
青年の返事を聞いて、杏奈はタバコを一本咥えて、火をつけた。それから大きく煙を吐いて、優しく青年に語りかける。
「……家出かい?家は何処かな」
青年は口を閉ざしたまま。膝元の黒猫が、二人の顔を見回している。
「あぁ、大丈夫。別に、警察に言おうなんて思っちゃいないよ」
「……本当、ですか」
「本当だよ。神社で君を見つけた時、最初は警察に電話しようとしたら、その猫ちゃんがね……感謝しなよ?その猫ちゃんにも」
青年と黒猫は、お互いに顔を見合わせた。そこには、杏奈の立ち入ることが出来ない領域があるように感じられた。青年の肩から力が抜け、背筋が少し曲がった。
「青年。名前は」
「聖介。織田聖介です」
ようやく、青年、聖介の言葉に明るさが滲み出てきた。ほんの少しではあるが、警戒を解き始めたようであった。
「わかった。聖介くん。君が良ければ、その猫ちゃんも一緒に、うちに住むかい?」
「……良いん、ですか……?」
「うん。良いよ。君も余程のことがあって、家出してきたんだろう?君が気の済むまでいると良い」
タバコを片手に、消え入りそうな優しい笑顔を、杏奈は聖介に向けてやった。嬉しそうに、両手で黒猫を持ち上げる様子に、童心を見つけると、また微笑ましくなるのであった。
「あ、それと……あなたは……」
「ん?どうした?聖介くん」
「男性……ですか……?」
沈黙。(なんてことを言うんだ、この男は)と、少しの怒りと、冷ややかな笑いが陰陽魂の如く混じり合っていく。込み上げてくる笑い抑える姿は、聖介には邪悪そうに映った。
「聖介くん。あまり、他の人にはそう言うことをしない方がいい……私は女性だ。一応、ね」
「え、でも、声とか……」
「女性にだって声の低い人はいる。決めつけちゃいけないよ……?」
絶句の聖介。吸い終わったタバコを灰皿へ擦り付け、また一本、杏奈は火をつけた。換気扇の音が轟々と鳴っている。
「じゃ、じゃあタバコは……?タバコは男の人しか吸わないんじゃ……」
「なんなんだその偏見は……。女性だってタバコを吸うもんだよ。まぁ、数は男性に比べちゃ少ないかもしれないけどね」
目を見開いたまま、聖介はじっと、杏奈を見つめたままでいる。これでもまだ、杏奈が女性であると信じられないのである。
「あ、聖介くん。最後に大事なことを」
「……なんですか」
「君が家出をした理由とか、細かいことは私からは訊かない。君が話したくなった時に、話してくれればいいよ」
煙がまた、二人の間を舞う。「ありがとうございます」とだけ、聖介は呟いた。黒猫は静かに、聖介の膝元で寝ているのであった。
こうして、二人と一匹の生活は幕を開けた。慌ただしくなるわけでも無く、絶望的な状況に陥るわけでも無い。ただ、過ぎてゆく時間を、浪費するような毎日である。杏奈は、一日中家にいて、タバコや酒を嗜むだけ。聖介はというと、何も持たずに家を出たというので、携帯を持たせてもらった。それで時間を潰すのである。黒猫は、ミアと呼ばれるようになった。元々は聖介が神社で呼んでいた名前である。あの神社には、滅多に人が来ることもなく、隠れ家にするには最適な場所だった。故に、長い時間、あの神社で生活をしていたと、聖介は語った。ミアは日中、外に出かけ、夕方ごろには戻ってくる。ミアが帰ってくると、夕飯の支度をして、皆で暖かい時間を過ごすのである。その後は、風呂を済ませて、少し夜更かしをして、眠りにつく。日々が微睡み、この世界のどこでもない、そんな座標点へ溶けてしまいそうな……そんな生活である。
聖介と杏奈の距離は、少しずつ、縮まっていった。会話も、よく弾むようになった。そうは雖も、やはり存在する一線を踏み越えることは、容易ではなかった。互いが相手に、不思議な薄暗さを仄かに感じるのである。相手の胸の内に蠢いている何か――秘密を前にして、歩みを止めてしまうのであった。それでも、お互いの存在が、他人以上の大切なものになっているのは、自覚できていた。故にいっそう、寄り添えないで居たのである。
二人の出会って、一週間と少しが経った日の夜。この日も同じように、自由な夜であった。ベランダでタバコを吸い終わった杏奈が中へ戻ると、聖介が酷くうなされていた。静かに覗くと、ミアが傍で不安そうに見つめている。考えるよりも前に、体が動く。大袈裟とも取れるほどに、必死に起こそうとする杏奈。緊張が伝わり、ミアは周りを往生している。
「聖介!大丈夫か!?おい!聖介!」
肩を叩き、体を揺すり、それでも聖介は目を覚まさない。焦りが体を一巡りして、今度は命の危機ではないかと、杏奈の心を玉突きのように動かした。しかし、胸部を確認してみると、確かに動きはしており、一先ずは安心することができた。しばらくして、呻き声は治り、杏奈はほっと一息ついた。
生存の確認が出来たので、一旦離れて、杏奈は気を落ち着かせた。チクタクと、時計の針の音だけが、部屋中に散らばっている。不意に、戸が開いた。ミアと共に、聖介が目を擦りながらやって来た。
「聖介……。大丈夫か。酷く、うなされていたから」
「うん。大丈夫……。水を……」
椅子に座った聖介に、水をやると、それを一気に飲み干した。額には少々汗をかいているようであった。
「悪い夢でも、見たのか」
「……うん。昔の夢を」
掛けてやる言葉がなかった。ここでもまた、聖介の胸に見える秘密の前に、立ち止まる他にならなかったのである。杏奈は立ち上がり、台所へ向かった。そして冷蔵庫から牛乳を取り出して、マグカップへ注いだ。その後、レンジで温めて始めた。聖介はぼんやりと、それを見つめている。
「夜は冷えるだろう。だから、暖かい飲み物でも。と思ってね」
レンジから取り出したマグカップに、小さな筒からスプーンで一杯。粉を入れて混ぜる。作っていたのは、ホットココアであった。
「ありがとう。杏奈さん」
両手で大事そうに持って、口元へ運んでいく。じわじわと、暖かさが広がっていくような心地がした。目が完全に冴えてしまわないように、部屋の電気を一段階落とすと、孤独はどこかに消えていた。
「……妹が居たんです。小学生くらいの」
「……そっか。今は、家に?」
聖介が小さく首を振る。杏奈は居た堪れなくなり、喉が締め付けられるような心地までもがする。
「うち、父親からの暴力が酷くて……」
聖介の言葉だけが、まっすぐ杏奈の元へと届く。暗闇は確かに二人を繋ぎ合わせていた。古い映写機のように、カラカラと音を立てるように、聖介は話し続けた。
「それで、母親が頑張って……。離婚して。でも、今度は、その母さんが……おかしくなって」
「……そっか」
相槌をすることしか出来ない杏奈。両手を強く握りしめては、虚しく緩めていく。逃げるように、タバコに火をつけて、臭いを漂わせる。
「毎晩、違う男を、家に連れ込むようになって……俺は、家に入れてもらえなくなって、ミアは……」
「……じゃあ、この猫につけた、ミアって名前は……」
「……殺された、妹の名前です。目がどこか、似ている気がして……」
歔欷が聞こえた。聖介は涙を溜めて、俯いている。それを見て、ミアが聖介へ近づき、頬を舐める。話を聞いた杏奈には、確かに彼らが、兄弟のように思えた。いつかに感じた、入り込めぬ領域は、これであったのだと今更ながらに判った。
「ミアは……俺が、久しぶりに家に入れてもらったその日に、死にました。……死んでたんです」
「それで、君は、逃げて来た……ってことかな」
小さく頷く聖介の目尻から、雫が落ちていく。
「俺、怖くて。だから、だから――」
その先の言葉を、聖介は紡ぐことができなかった。聖介の顔は、杏奈の胸に埋もれていたからである。杏奈も何も言わぬまま、今度は頭を撫で始める。
「タバコ臭いよ……杏奈さん。それに、お酒も……」
震えた声で、聖介は言う。怯えた体を慰めてやるように、杏奈は背中を摩ってやった。しばらくして、杏奈の背中に、聖介の手が伸びた。二人の間に建っていた壁は、夜に溶けて、消え果てたのであった。
「もういいよ。ありがとう……杏奈さん」
恥ずかしくなって、聖介は杏奈の体を押しのけた。杏奈は少しにやけて、先ほどまで座っていた椅子に戻る。
「杏奈さんは……どうして、俺たちを、拾ってくれたんですか」
突然の問いに、杏奈は固まった。答えはすぐには思いつかなかった。一度立ち上がって、冷蔵庫に酒を取りにいく。取り出したのは、一本の瓶。そして、食器のしまってあるところから、背の低いグラスを取り出した。
「それ、初めて見ました。なんですか?それ」
「……これは、スピリタスっていうお酒」
「少しだけ、知ってるかも。度数がすごく高いっていう……」
聖介の目の色が僅かに変わった。その目には確かに、不安の色が見られた。聖介の中で、杏奈の存在は明らかに大きく、以前とは意味の異なるものになっていたことは、これに明白であった。
「大丈夫。慣れれば案外、なんてことないよ」
「お酒も、タバコも、長いんですか?始めてから」
「いうほど長くないよ。五年くらい。興味あるの?」
「……少しだけ」
杏奈は得意な顔になって、冷蔵庫から、何本か缶を取り出そうとするが、丁度良いものが無く辞めにした。その代わり、箱から一本飛び出したタバコを、聖介の顔の前に押しやった。
「お酒はまた今度。今日は、こっちで。吸い方は?」
聖介は首を大きく横に振った。どうすべきか毫もわからないようである。
「ほら、とりあえず、咥えて。……そう。で、火をつけるときは、吸いながらじゃないとつかないからね。ほら、私の火、あげるから」
杏奈は自分のタバコを、聖介の咥えている方の先へくっつけた。聖介は息を必死に吸ってみる。徐々に先が赤くなっていき、臭いが煙と共に立ち上ってきた。
「おぉ、ついたね。後は、普通に吸って、口の中に溜まった空気を、端から吸い込むようなイメージ」
聖介は言われるがままにして、杏奈の真似をした。加減もわからずあまりにも強く吸い込むので、肺が痛んで強く咳き込んでしまった。それを見て、杏奈は花が咲いたように笑う。
「どうだった?痛いでしょ」
「うん。とっても……いつもこの痛みを味わってるんですか……?」
「いやいや、それは最初だけだよ。……5本ぐらい吸ったら、慣れてくる」
杏奈は余裕そうに、先端を赤く光らせた。
「私も……同じようなもんだよ」
「……杏奈さん?それは、どういう」
「私ね、会社、クビになったんだ」
刹那に静寂が広がる。もう一度挑戦しようとして、聖介は咳き込んだ。
「頑張ってたんだけどね。気持ち悪いセクハラ上司に耐えたりとかしてさ。君に男に間違われてたのに、セクハラされてたんだよ?私。面白いでしょ」
「それは……御免なさい……」
「冗談だよ。大丈夫。……残業だって沢山。まぁ、ブラックだったよ。なのに、新卒の女の子に……。ほら、私って、少し愛想無く見えるでしょ?君に男に間違われたし」
「それはもう……触れないでください」
月光に照らされた杏奈の顔には、哀愁が漂っていた。それは、月見草のように凛とした佇まいでありながら、儚く消え入りそうでもあった。
「それでね。どうしようもなくてヤケ酒してた時に、ミアに出会って。君のところまで連れて行ってもらったの」
「そう、だったんですか……」
杏奈は一本吸い終えて、灰皿へ擦り付けた。それから、差し込む月明かりの方を見上げた。
「ミアの目を見て、なんでかな、信じてみたくなったの。君を助けたら、何か変わるかもしれない。てさ」
「何か、変わりましたか?」
「変わったよ。君は私に光をくれた。毎日が、少し楽しくなった。少しだけ、前向きになろうって思えたんだ」
杏奈はグラスを指で、楽しげに弾いて、ミアへ、聖介へ微笑みかけた。聖介も笑顔で応じて見せた。
その後も、痛みに苦しみながら、やっとのことで聖介は一本を吸い切った。胸に何かつっかえたような心地がし、頭も少し痛く、眩暈がしていた。
「流石に……やばそうだね。さぁ、今日は、寝ようか?」
聖介に肩を貸し、寝床まで運んでやると、杏奈はそこに共に横たわった。
「……杏奈さん?杏奈さんの布団はあっちに――」
「いいじゃない。今日くらい、さ?」
二人の顔の間は、殆どなく、少し動けば唇の重なる距離にあった。二人の影は重なり、一つとなったのである。
あの日の夜を越えて。二人の関係は大きく変わった。それが杏奈を、前進させたのは間違いなかった。新たな就職先を探すという、一歩を踏み出させたのである。聖介は、一人で家事をするようになっていた。洗濯、掃除、夕飯の用意まで、完璧にこなしていく。二人が出会ってから、一ヶ月が経とうとしている中で、二人で生き抜くという選択を、杏奈と聖介は選んだのである。暗き孤独が繋いだ二人の間には、確かに、“愛”と呼べるものが存在していた。
杏奈が、社会へ復帰するに連れて、飲酒や喫煙の量は減っていった。お世辞にも、健康的とは言えなかった生活習慣が、劇的に改善されたのである。
幸せへと、面舵をいっぱいに取り、二人で向かっている。その筈であった。二人の生活を脅かす影が、伸びて来ていたのである。
杏奈が再就職してから程なくして、ニュースで大々的にとある事件が報道された。男子高校生の失踪事件だという。写真と共に、“織田聖介”の名前が示される。その瞬間、二人に衝撃が走った。今まで何も音沙汰の無かった聖介の親が、動き始めたということになるからであった。番組中でインタビューに応じる母親の、見たことのないほど弱った様子はさながら、悲劇のヒロインであった。
『私の愛する息子を返せ』
『死んでいないか、夜も眠れない』
『一日でも早く見つかって欲しい』
並べられた言葉に、聖介は思わず憤慨してしまう。
「こんなこと、全く思ってないくせに……!」
怒りのあまり、机を叩いてしまう聖介。杏奈は呆然としたまま、テレビの画面を眺めていた。警察が動いて仕舞えば、すぐさまバレてしまう。写真が出回れば、地域の人間にさえも……不安が次から次へと、頭の中を飛び回っていた。杏奈にとっては、聖介は已に生活の中心に、失うことの出来ない、杏奈の世界そのものと言えるまでにもなっていた。
それからの生活は、少しずつ、苦しくなっていった。いつ今住んでいる場所がバレてしまうかわからない恐怖。とは言え、迂闊に引越しをしようものなら外に出た際にバレてしまうかもしれない。そのジレンマは、二人を蛇に睨まれた蛙のように、身動きを取れぬようにするには充分であった。それでも、二人は諦めることはしなかった。幸せを奪われぬように、抗い続けるのであった。ナチスに追われるユダヤ人のように、息を潜めて。しかしその中にも、見つけられるだけの幸福を見つけて。暮らしていったのである。
アンネ=フランクが長く生きられはしなかったように。秘匿を続ける生活には、終止符が打たれてしまった。監視カメラの映像や、目撃情報から、とうとう杏奈の家に辿り着かれてしまったのである。
聖介は親元へ戻されてしまい、杏奈は、未成年者拐取の罪で逮捕されて、四ヶ月の懲役刑が課されてしまった。飼い主の居なくなったミアは、姿を眩ませてしまった。杏奈が四ヶ月の懲役刑が課された事は、聖介はニュースで知っていた。その四ヶ月の間、聖介はまた、以前のように夜に家に帰ることの出来ない生活を送った。高校へ再び通うようになり、勇気を出して相談をしてみたものの、状況は何も変わらなかったのである。杏奈の居ない世界のスピードに、聖介は付いていけなくなっていた。それでも、四ヶ月を耐え切れば、また会えると信じていたのである。それが、何よりもの、生きる力となっていた。
地獄のような四ヶ月が過ぎ、待ち侘びた出所の日。高校から帰り、いつものように家の鍵が閉まっているのを確認すると、聖介は杏奈の家へと向かった。大体の場所はわかっていたつもりの聖介であったが、辿り着くのに時間がかかってしまった。携帯の画面が夜中の一時を示す頃、ようやく神社に辿り着いた。意外と距離はあり、良く歩けたものだと、聖介は自分でも驚いていた。懐かしむように、境内を周ると、昔ミアと戯れていた場所に行き当たった。神社に来たのは、もう一度、ミアに会えるかもしれない。そんな期待からであった。しかし、ミアはそこには居なかった。
「杏奈さんの家に行く途中で、会えたりしないかな……」
今度は、目的地を杏奈の家に切り替え、移動を始めた。見慣れた景色であるので、ここから杏奈の家に行くまでは、大して難しくは無かった。夜空には満月が浮かんでいて、聖介を見守っているかのようであった。街灯の点在する、薄暗い道を辿る。その最中、少しずつ、杏奈との記憶も遡行していくのである。心臓を潰してしまいそうなほど、恋しく思い、胸を焼くような想いを抱いた、最愛の女性。ようやく再会できるのだと、そう思うと、心がはやり聖介は駆け出した。
間もなく、杏奈の住んでいたアパートが見えて来た。また一段と、聖介の足は早く回っていく。暴走列車は、恋の炎で動いていた。
ゴミ捨て場を通り過ぎようとした時、猫の鳴く声が聞こえた。どこか懐かしいようなその声に、聖介は足を止めた。そして、声のする方を探すと、ミアを見つけることができたのである。
「ミア!お前こんなところにいたのか!会えて良かった……!」
ミアを持ち上げ、目線を合わせてみると、ミアは笑顔で鳴くのであった。ミアを連れて、聖介は杏奈の部屋へ向かう。二階の一番向こう側、間違えるわけが無い。暖かな記憶が蒸留されるかのようにもくもくと湧いて出てくるのである。
「ドアは流石に……開いてないかな。インターホン、押してみるか」
インターホンを、一度、押してみる聖介。しかし、反応が無い。
「寝てる……?いや、いつもならこの時間はタバコでも吸ってるはず……」
もう一度、インターホンを鳴らしてみるが、やはり反応はない。痺れを切らし、ドアを触ってみると、鍵は開いていた。
中へ入ると、四ヶ月の月日以上の悪夢がそこには待っていた。
「……え、杏奈、さん。どう、して……」
杏奈は、天井から吊り下がっていた。足元には、椅子が倒れていた。その倒れ方から、自殺であると容易に想像できた。
「なんで、なんで、俺を、置いて……」
視線を逸らした先の机上には、タバコの吸い殻と、飲みかけのスピリタスが置かれていた。聖介は、声も出せなかった。何かの壊れる音が、聖介の中でした。
ミアは机上に飛び乗り、スピリタスの前で鳴いた。
聖介はそれを、信じてみたくなった。
ふらついたまま、それを手に取り、頭から被った。聖介はもう、人間では無かった。次いで、近くにあった、タバコを一本取り出し、火をつけた。杏奈の元へ行くのには、タバコの火で充分だったのである。
時計の針は、深夜二時を二分だけ過ぎていた。