悪い夢を消しましょう
怖い夢、自分じゃどうしようもない「夢」。起きたいのに起きられない。
そんな太刀打ちできない夢の中を救ってくれるのは獏。
そろそろか、そう思って顔を上げた。視線の先にある時計が夜の九時半を指した。わたしはもうとっくにお風呂も入って髪を乾かして、歯磨きまで終わっている。明日出す予定の宿題もちゃんとランドセルに入っているし鉛筆も研いだ。だけど、どうしても布団に行きたくなくてリビングのソファでクマのぬいぐるみを抱きしめて座り込んだ。寝たくない。その一心で。
そこに、まだ一歳の妹を抱っこしたお母さんが来た。
「もう寝る時間だよ。」
「怖い夢見るの。」
最近はずっとそう。寝ると毎日違う怖い夢がわたしを襲う。
例えば、宇宙が爆発して地球が壊れる夢。
例えば、オオカミのようなライオンのような動物に噛まれる夢。
例えば、まだ解けない問題が上から降ってきてわたしを押し潰しちゃう夢。
まだまだある。毎朝泣きながら起きてお母さんに夢の話をする。でも、お母さんは泣き虫な妹のお世話をするのが大変みたいで、わたしの手を握って部屋に連れて行った。布団に押し込められて電気を消される。嫌だった。起き上がって廊下にいるお母さんに言う。
「寝たくないの。夢が怖い。」
怖くて怖くてたまらないんだ。そう訴える。
「大丈夫だから。お願い、寝てちょうだい。もうお姉ちゃんなんだから。」
お母さんはわたしをひとり布団に残してぐずる妹をあやしにドアを閉めてしまった。
わたしはひとりでどうすることも出来ず、布団を頭の上まで持ち上げた。すっぽり布団の中に体が収まる。明日も学校がある。分かってる。今眠れないと明日の朝うとうとしてお母さんに怒られる。授業中眠っちゃうわけにもいかない。算数の先生は怖いんだ。
でも。最近見る夢がどうしても怖くて、目を瞑っても眠気はなかなか訪れなかった。
もしかしたら布団の外からお化けがわたしを見てるかもしれない。
もしかしたら今手を開けたら目の前になにかいるかもしれない。
もしかしたら布団の周りは宇宙になっていてもう家に戻れないかもしれない。
そんな事ばかりが頭に浮かんでくる。
すると、布団越しでもわかるくらい強い光が点いたのが見えた。
お母さんが戻ってきてくれたのかな?
「おかあさん?」
小さな声で問いかける。
けれど返事はない。聞こえなかったのか、と思ってもう一度、今度はもう少し大きな声で聞く。
「おかあさん?」
それでも返事は返ってこなかった。
わたしはどんどん怖くなってきた。そこにいるのはお母さんじゃない。誰なの?お父さん?それなら返事してくれるよね。じゃぁ、誰。
震えながらそっと布団の隙間から外を覗く。
「え。」
思わず声が出てしまう。慌てて両手で口を抑える。布団の外にはずんぐりとした動物がこちらを見ていた。動物はわたしが見ていることに気がついたのか長い鼻を持ち上げて下ろして、まるで礼をするかのようにした。そして、喋った。
「ようこそ。私は獏。」
わたしは恐る恐る口を開いた。
「獏……?」
ゆっくりと顔を布団の外に出した。すると、わたしの部屋が変わっていた。まるで、雲の上だ。
「ここはどこ?」
「ふむ、招待されたわけじゃないのかな。」
獏と名乗った動物は言葉の端に驚きを含ませて言った。
像がちっちゃくなったみたい。
そんなことを思いながら獏を眺める。
「ここは貴方の夢の外側。」
「ゆめの、そとがわ。」
繰り返し呟く。
「貴方は最近怖い夢を見てますね。それを私が食べてしまおうと思いまして。」
「食べれるの?夢だよ? 」
「はい。私は獏ですから。」
ばくって、なんだろう。
その考えを見透かしたように獏は口を開いた。
「獏とは、悪い夢を食べる動物の事ですよ。」
「悪い夢、食べてくれるの? 」
「そうです。悪い夢を良い夢に変えてしまいましょう。」
じゃあ、もう悪い夢は見ないで済むの?わたしは布団の端を握りしめながら体を起こした。
「どうぞ、こちらへ。」
獏が長い鼻を伸ばしてわたしの事を布団からひょい、と持ち上げた。驚くわたしをそのまま背中に降ろす。
「大きく動かなければ落ちませんから。」
わたしはゆらゆらと揺れる獏の背中で周りを見渡した。最初感じていた恐怖なんてもうなくなっていた。あるのはここの世界の興味だけ。
この雲みたいなものは何だろう。
触ったらふわふわなのかな。
温かいのかな。それとも冷たいのかな。
雲の上に浮かんでいるシャボン玉みたいな泡はなんだろう。
ゆめのそとがわって何だろう。
「面白いですか? 」
獏に尋ねられる。
「おもし、ろい。全部わたしの知らないものだから。」
「少し見てみましょうか。」
獏は雲の上に歩いて行った。
「これ、落ちちゃわないの? 」
「大丈夫です。少し降りてみますか? 」
「うん! 」
乗せてもらったときと同じように獏の長い鼻がわたしを背中から優しく降ろす。
「ふわっふわだ! 」
雲は柔らかくてふかふかだった。
寝る前に抱えていたクマのぬいぐるみみたい。
「食べられますよ。」
獏が言った。
本当かな。
ふわふわの雲をパンのようにちぎってみる。少し怖いから目を瞑って口を小さく開けて口に入れる。
「あまい! 」
口に入れた瞬間じゅわっと溶けるようにして消えた。たまらず周りの雲をもっとちぎる。
「お隣の雲に移動してみてください。」
言われた通りに少しピンク色の雲に移る。
食べていいのかな?獏の方を見ると鼻をぶんぶん縦に振っている。食べていいってことなのだろう。さっきと同じようにちぎって口に運ぶ。
「味、ちがう……? 」
「お嬢さん、綿あめを食べたことはありませんか? 」
「あるよ!」
そうだ、これは綿あめだ。さっきのが普通ので、今のがイチゴ味。
夢中になって食べていると獏はどこからか大きな枝に巻き付けた雲を差し出してきた。
「さぁ、持って。目的地はここじゃありませんから。」
渡された雲を手に持ってもう一度獏の背中の上に乗る。今度は獏がしゃがんでくれたから、自分でよじ登るようにして背中に座った。
「ねえ獏さん、どこに行くの? 」
「悪い夢を食べに行くんです。そこに泡が浮いているのはわかりますか? 」
「うん。」
雲の上にはいくつもの色が付いた泡が浮かんでいる。
「ここにあるのは全て楽しい夢です。悪い夢はここを抜けたところに溜まっているのです。そろそろ着きますよ。」
獏が鼻先で示したところは色がよどんでいる。さっきのところは白や水色、ピンク、のかわいい色をしていたが、ここから行こうとしている場所は灰色や黒で染まっている。
「怖いよ、そっちは行きたくない。」
獏の背中をぎゅっと掴む。
獏はピタリ、と足を止めるとわたしの方を振り返って言った。
「大丈夫、私がいますよ。それでも怖かったらその雲を食べてください。お嬢さんの周りに面白いものが出てきてくれますよ。」
獏は優しく言うと歩き出した。
わたしは雲の枝をお守りのように握りしめた。
「ここです。ここが、悪い夢の溜まるところ。この雲は食べちゃいけません。ずっと怖い夢や悪い夢しか見られなくなってしまいますよ。」
わたしはコクコクと首を縦に振った。
ずっと怖い夢しか見られないなんて嫌だ。
獏は一つの泡に向かって歩いていく。そして、鼻先でちょん、と灰色の泡をつついた。すると、泡はパチン、と音を立てて弾けた。
「これは、お嬢さんが三日前に見た夢ですね。」
その通りだった。お化けがわたしのことを追いかけてくる夢が再生された。
こんなもの、見たくない。わたしはぱくん、と手元の雲を齧った。
すると、ぽわん、と周りに小さな小さな羽の生えた人が出てきた。
「こんばんは、小さなお嬢さん。私は妖精のティー。怖い夢をやっつけに来たのね。強いのね。私が隣にいるわ。」
「ようせい、さん? 」
ティーはこくん、と頷く。
妖精なんて絵本の中でしか見たことがない。
「ようせいさん、本当にいたんだ! 」
はしゃぐわたしにティーは笑った。
「目に見えないだけで妖精はずっと小さな子供たちの周りにいるのよ。」
「ティー、かわいい服!」
「ふふ、ありがとう。小さなお嬢さんのお洋服も可愛いわ。ふわふわしてて。」
わたしは自分の体を見下ろした。着ていたのはお気に入りのもこもこしたクマのパジャマだ。自分のお気に入りをかわいいと言ってもらえたのが嬉しくてわたしはティーのことをそっと抱きしめた。
「あらあら。じゃあ、私はここに入れてもらおうかしら。」
ティーはパジャマの胸ポケットにぴょこんと飛び込んだ。
その様子を見ていた獏は少し移動して次々と泡を割って行った。
その度に忘れられない怖い夢が再生される。でも。今は一人じゃない。わたしが怖くて震えるとティーが手を小さな体全部で温めてくれて、獏も振り返って鼻でわたしを撫でてくれる。
「獏は、怖い夢、悪い夢を食べるのが仕事。でもね、簡単にはいかないんです。こうやって、一度再生しないといけない。ごめんね。」
「ううん、食べてくれようとしてありがとう。」
「よし、全部割り終わりました。あとは私が全部食べるだけ。」
そう言うと獏の鼻がどんどん伸びていった。象の鼻の長さも超えたころ、獏はブン、と大きく鼻を振って灰色や黒色の夢をかき集めた。
「いただきまーす。」
獏は大きな口を開けて一口でたくさんの夢を食べた。
もぐもぐ、と口を動かす様子をわたしとティーは見守った。
「うーん、これは怖いですね。苦い苦い。」
しばらく経って獏は
「ごちそうさま。」
と言って鼻の長さを元に戻した。
「もう大丈夫。お嬢さんの怖い夢、悪い夢は私が食べてしまいましたよ。きっともう思い出せないと思います。」
わたしは昨日の夢や一昨日の夢を思い出そうと試した。けれど獏の言う通り何も思い出せなかった。
「ほんとだ、忘れちゃってる。」
「でしょう。これでちゃんと眠れますね。」
周りの景色はいつの間にか透明になっていた。黒も、灰色も消えている。
「さあ、朝だよ。もう起きる時間だ。」
獏はひょい、とわたしを透明な地面の上に降ろした。ティーもポケットから出て獏の隣に並んだ。
「もうふたりはいなくなっちゃうの? 」
「うん、私たちは夢の中に住んでいるのよ。」
寂しくなってじわり、と涙が滲んだ。
「ここは、怖い夢を見た人間がたどり着く夢。本当は獏の方から怖い夢を見ている人間をお迎えに行くのですが、遅れてしまったのでお嬢さんは自分で来たのでしょう。遅れて、ごめんなさい。お詫びに、しばらくの間はずっと楽しい夢が見られるようにおまじないをかけてありますよ。」
「また、会えるの? 」
「会わないのが一番なのよ。怖い夢がないってことだから。」
それはそうだけど……。もじもじするわたしを見てふたりはわたしをぎゅっと抱きしめてくれた。
「さようなら。小さなお嬢さんのポケットは温かかったわ。」
「さようなら。また怖い夢、悪い夢が溜まってしまったらお迎えに上がります。」
そう言われた瞬間、どこからか花のいい匂いのする風が吹いて来てわたしはおもわず目を瞑った。
あれ、遠くから声がする。
「朝よ。起きて。」
次に目を開けた時、わたしは自分の布団の中だった。きょろ、と周りを見ると部屋は普通で、雲もなければ透明でもなかった。
隣で声をかけてくれていたのは獏でもティーでもない、お母さんだった。
「お母さん? 」
「おはよう。よく眠れた?昨日はごめんね。今日は一緒に寝ようか。」
布団を捲ってお母さんに抱き着く。
「あのね、夢で、わたしの怖い夢を食べてくれる動物が出てきたの。だから、大丈夫。」
「あら、それはきっと、獏って言ってなかった? 」
「言ってた! 」
「怖い夢を食べてくれるのよ。良かったね。」
「うん。……でも、ちょっと寂しいから今日は一緒に寝たいな。」
ずっとお母さんは妹に付きっ切りだったから。今日くらいは、このくらいのわがままは言ってもいいかな。
「今日は一緒のお布団で寝ようね。さあ、学校に遅れちゃうよ。」
「うん! 」
そういえばティーは小さな子供の周りにいつもいるって言っていたっけ。部屋を見渡したけれどティーの姿はない。
でも、きっとまた会えるよね。怖い夢は嫌だけど、ふたりにはまた会いたいな。
「朝ごはんで来てるよ。」
お母さんの声にわたしはリビングへ向かった。そういえば今日は国語で作文を書くんだ。今日見た夢の事を書こう。それで、ティーと獏にもう一回会いたいってアピールするんだ。
耳元で、ティーと獏の笑い声が聞こえた気がした。
子供の頃、夢が怖くて眠れなかったことはありませんか?そんな時remuは獏の本を読んでから寝ていました。獏は怖い夢を食べてくれる生き物。今でもそう信じています。