アントナン・カレーム〜フランス料理の父と呼ばれた男〜
18世紀も終わりを迎える頃、パリはフランス革命によって起こった荒波の渦中にあった。
多くの民が職を失い、貧困に苦しむことになる。
アントナン・カレーム。彼もその一人であった。
カレームは大家族の16番目の子として生を受ける。子宝に恵まれた両親であったが、時代はそれを許してはくれなかった。
貧困により沢山の子を抱えきれなくなった両親は、断腸の思いでカレームをパリの路上へと放り出す。彼らは一人の子と引き換えに多くの子を救う決断をしたのだ。
これは、カレームがわずか10歳にも満たない頃に起こった悲しき出来事である。
それから6年後、フランス各地に名を轟かせる有名シェフが現れた。
彼の名はシルヴァン・バイイ。街の一角にパティシエ店を構える一流シェフであった。
料理人の最前線を行くバイイだったが、とある事に頭を悩ませていた。それは、"食べ残し"である。
彼の店では客が飽きぬよう様々な料理を出すようにしているのだが、おかけで全て食べるのに時間がかかる。その間に温かいスープは冷め、冷たいクリームは溶けてしまうのだ。その結果、客はそれらを口に入れる気にならず残すことになる。
"食べ残し"を無くすにはどうすれば良いか。
悩んでいた彼がその店に立ち寄ったのは、ほんの偶然だった。昼食を摂り忘れ、適当に腹を満たそうと目に着いた店に入った。ただそれだけだった。
昼時を過ぎているにも関わらず、その店は賑わっていた。腹さえ満たせればいいと思っていたが、思わぬ当たりを引いたようだ。
バイイが席に着いてからすぐ、店員と思わしき若い青年がやって来た。
「ご注文は」
随分と無愛想な青年であった。
「......昼食を食べ損ねてしまって、えらくお腹が空いていてね。できれば腹をたっぷり満たせるものがいいのだが」
「わかりました」
バイイの返答を聞いてすぐに、青年は厨房へと姿を消す。しばらくした後、青年は一枚の皿を持って戻って来た。
「どうぞ」
そう言って青年がバイイの前へと置いたのは、大きなトマトの中身を丸々くり抜き、その中にアボカドなどの野菜、サーモンなどの魚介類を詰め込み、その上にホワイトソースがたっぷりかけられた、サラダのようなものであった。
「......おかしいな。私は、腹を確かに満たせる物をお願いしたのだが」
目の前のサラダは、到底バイイのような壮年の男性が満足できる量では無い。
「承知しております」
バイイの問いに、青年は眉一つ動かさず答えた。
「ではこれは何だい?」
「前菜です」
「前菜?」
「はい。当店の料理は基本的に一つずつ順番にお出しするようにしているので」
「順番に? 何故だい?」
この時代の料理は基本的に、一枚の大皿にまとめて乗せられるものが一般的である。バイイからすれば、目の前の料理のように一枚ずつ小皿に乗せて出していくのは面倒というだけであった。
「......料理の最も美味しいタイミングはいつだと思いますか?」
バイイの疑問に対して、青年は逆に質問を投げかけた。
「それは、当然作られた直後だろうな。スープは時間が経つにつれ冷たくなってしまうし、サラダは瑞々しさが損なわれて.....なるほど、そういうことか」
質問に答えながら、バイイは青年が意図していることに気付く。
「......はい。ですから、全ての料理を出来上がった直後にお届けするのです。一気に出してしまえば、どれかの料理は味が損なわれてしまうので」
そうか、順番か。食べる順番を客ではなく店側が指定する。そうすれば美味しいまま料理を食べることが出来て、食べ残しが減るんじゃないか。
バイイは悩んでいた問題に対して、思わぬところで答えを見つけた気がした。
「......それは、ここの店長が考えたのかい?」
「いえ、俺が考えました」
「......」
バイイは驚愕のあまり言葉を失った。これは料理界における革命だ。しかも、それを考案したのがまだ若い青年だというではないか。
「君、名前は?」
「? アントナン・カレームですが」
アントナン・カレーム。10歳も満たない頃に両親に捨てられた少年は、行き着いた飲食店で住み込みで働いていたのだ。
「カレーム、君に一つ提案があるのだが」
「提案、ですか?」
そして、カレームの人生はバイイとの出会いで大きく変わることになる。
「カレーム、私の弟子になるつもりはないかい?」
「......はい?」
これが、後にフランス料理の父と呼ばれる男とその師匠の出会いであった。