寄り道
夏の暑さも少し和らぎ、寝苦しい夜も無くなってきた。都会の喧騒に揉まれ、仕事と人付き合いの忙しない日々に疲れた私は、心機一転、緑溢れる長閑な小さな町に引っ越した。
実家に帰る事も考えたが、家族といるよりも1人になりたかったので、帰る決断はしなかった。
1LDKの小さなアパートだが、築年数もまだ10年未満だし、家賃は都会と比べれば1/3だ。荷解きも終え、生活用品も大体揃えた。少しずつだがこの町に慣れてきた。都会より過ごしやすく、心は晴れ晴れとしていた。
新たに勤め始めた仕事も順調で、休みの日には好きな事をして過ごせるほど気持ちに余裕が持てている。休みの日の買い物は何時も車を使っていたが、たまには歩いて出掛けようと思い車で10分の場所にあるスーパーへ向かう。
普段は車を使うので流して見ている風景が、歩くとまた違って見えて楽しい。空き地に放置されている車、行き止まりに見えるが奥まで続いてそうな路地。気になったものを立ち止まりながら見ていたら、スーパーに着いた時には予定時間を大幅に過ぎていた。
買い物を終え、少し遠回りして帰ろうと思い来た道とは反対方向へ向かう。車でもあまり通らない道なので、来た時より新鮮な気持ちだった。
平日の昼間だからか、車も人通りも少なく静かだ。穏やかな気分でゆっくり歩を進めると、何処からか香ばしい匂いが漂ってきた。
近くにパン屋か何かあるのか、そんな話は職場でも聞いたことが無かったので少し気になる。
どうせならその店を探してみようと思い、匂いがする方へ足を向ける。大通りから右に逸れ、住宅が連なる路地へ進む。家が数軒並んでいると思えば、また田畑が広がる開けた場所へ出る。それを何回か繰り返しながら、匂いを頼りに右へ左へ曲がる。
我ながら、匂いだけで辿れるのも凄いなと思うが、誘惑には勝てない。
15分くらい歩いただろうか。
林とまではいかないが、大きな木が連なっている場所がある。よく見ると、木々に隠れるように茶色の煉瓦造りの一軒家があった。どうやら香ばしい匂いはあの家からしているようだ。
家に続く塗装された道を進み近付いてみると、雨風で色が滲んだ煉瓦と木々に覆われ鬱蒼としているため、物々しい空気が醸し出されている。近寄り難い雰囲気があるが、開け放たれた窓から漂ってくるコーヒーの香りが、どこか懐かしい気持ちにしてくれる。
入口には看板が掲げられている。どうやらカフェのようだ。営業時間を確認すると、タイミングよく店が開いた時間だった。趣のある木製の取手を握り、ゆっくり扉を開ける。重そうに見えた扉だが、思ったより軽く静かに開いた。
カフェによくある来店を知らせるベルの様なものはなく、店内には静かなクラッシックのBGMが流れているだけだ。インテリアは濃いめのブラウンの木製家具で統一されており、各テーブルに置いてある花が重苦しい雰囲気を一掃している。入って右側にはレジカウンターがあり、左側がイートインスペースらしい。
窓際に2人がけのテーブル席が2つ、入口近くの壁際にも座れるように4人がけが2つ、中央には2人がけの席が4つと使える空間をフル活用しているが、大きめの窓と吹き抜けの天井のお陰か、窮屈さを感じなかった。
暫く店内を見渡していても、スタッフが出てくる気配は微塵もない。誰もいないのだろうかと思ったが、レジカウンターの右側にある扉からはコーヒーの匂いがしているので、人はいるのだろう。
ずっと立っている訳にもいかないので、窓際の1席に座る事にする。荷物を向かいの席に置き、恐る恐る椅子に座る。テーブルにはメニュー表が置いてあった。スタッフがまだ来ないが、取り敢えず何があるのか見てみる。
アメリカンやエスプレッソ、オリジナルブレンドやカフェオレ、キャラメルマキアート等よくあるメニューが並んでいる。何か突出したものは無いのかなと思っていると、オススメは『日替わりコーヒー』らしい。コーヒーの他にも紅茶も種類豊富だ。
その他にも軽食も幾つかあり、オムライスや卵サンド、ワンプレートメニュー等もありランチタイムには丁度いい。ここで済ませてしまおうかと、軽食と飲み物を決めたタイミングで「いらっしゃいませ」と声を掛けられた。
驚いて顔を上げると、そこには爽やかな微笑みを浮かべた男性が立っていた。真っ黒な髪を耳にかかるくらいのショートに切り揃えており、ヘアセットも何も無く指通りが良さそうなサラサラヘアーで、世の女性からすれば爽やかイケメンに分類されるだろう。
白のワイシャツに黒いスラックス、ブラウンのエプロンをしており、手には注文を取る伝票があった。
「ご案内もせずに申し訳ありません。」
男性は深々と頭を下げて謝罪をした。私は顔の前で手を振りながら謝罪は必要無いことを伝える。
「私こそ、勝手に座ってすみません」
「いいんですよ、お客様なのですから。ご注文はお決まりですか??」
夏の日差しに負けないくらいの眩しい笑顔を浮かべながらオーダーを待つ。
「えっと、卵サンドに日替わりコーヒーでお願いします」
「かしこまりました。コーヒーは食後にお持ち致しますか??」
「はい、食後でお願いします」
「かしこまりました。それでは、少々お待ち下さい」
そう言うと、一礼をしてから静かに席から離れカウンターの奥へ行く。だが、すぐに戻ってきてテーブルに水とカトラリーセットを置いて、また戻って行った。恐らく、あそこが厨房なのだろう。
他にお客さんも来る様子も無く、店内はBGMと窓から入ってくる外の音で満ちていた。こんなに穏やかな休日は都会じゃ味わえなかったなと、そんな遠くもない過去に思いを馳せていると「お待たせしました」と先程の男性が声を掛けてきた。
「こちら、卵サンドでございます」
目の前に置かれた卵サンドは、1枚分あり卵もぎっしり詰まっているので見た目はとてもボリューミーだ。パンの表面にこんがり焼き色がついており、挟まれている卵はツヤツヤの半熟で光り輝いていた。彩り鮮やかなサラダと、玉ねぎの甘い匂いがするオニオンスープもセットになっていた。
「美味しそうですね!!ありがとうございます」
「こちらこそ、ありがとうございます。ごゆっくりどうぞ」
再び一礼をしてから席を離れるのを待ち、私はオニオンスープから口にした。
玉ねぎはじっくり火を通しているからか、トロトロになっておりとても甘い。スープもコンソメベースなのだが、玉ねぎの甘みがスープにも溶け込んでいてとても美味しい。
卵サンドも、外はサクサクになっているが、中のパンは柔らかさが残っており、卵のフワフワ感ととてもマッチしている。卵はスクランブルエッグ風に仕上げており、黒胡椒がアクセントになっていて甘すぎず重すぎなくて食べやすかった。
少し多いかと思ったが、あっという間に平らげてしまった。食べ終わりの頃合を見計らっていたのか、一息ついたとこでコーヒーが運ばれてくる。
「本日は『カフェ・ブラベ』になります」
「ブラベ……??」
あまり聞きなれない言葉に首を傾げると、男性は苦笑しながら教えてくれる。
「馴染みはあまりないですよね。『ブラベ』とは、スチームミルクを高脂肪ミルクと通常のミルクを半々にしたものです。ハーフ&ハーフとも言われますね。エスプレッソにブラベ、その上にフォームミルクをのせたコーヒーです」
「へぇ……そうなんだ」
「コーヒーの苦味が苦手な方でもミルク感が強いので飲みやすいと思います。もし、甘すぎたらミルクの量を減らして提供し直しますので、仰ってください」
「いえ、そんな…。大丈夫です、ありがとうございます」
飲んだ事無いので、恐る恐るカップに口をつける。
「……美味しい」
フォームミルクの甘さの後から、さらに濃厚なミルクがエスプレッソの苦味を抑えてコクと甘さを感じられる。思ったよりミルク感が強いとは感じられないが、恐らくエスプレッソの苦味が甘ったるさを抑えているのだろう。これは癖になりそうだ。
初めての味を満喫しつつ、気付けば店に入ってから1時間以上経過していた。お客さんがいないにしても長居し過ぎたと思い、荷物を持って席を立つ。
レジで会計を済ませている間も、お客さんが来る気配は無かった。失礼かと思いながらも気になったので聞いてみた。
「あの……今日は休店日とかじゃないですよね??」
「はい、当店は日祝祭日はお休みを頂きますが、それ以外は臨時休業を除いて営業しております」
「予約制とかでも無いんですか??」
「ええ、平日はランチタイムよりディナーに来店される方が多いんです。ゆっくりされたい方はランチタイムに多く来られるんですよ」
「あ、そうなんですね」
今更ながら、予約制とかだったらどうしようかと思っていたが杞憂だったようだ。
「美味しかったです、また来ますね」
「こちらこそ、ありがとうございます。またのお越しをお待ちしております」
爽やかな笑顔を浮かべ、綺麗に一礼してから外に出るまで見送ってくれた。
思いがけない寄り道で出会ったカフェだったが、これはリピーターになりそうだと思った。店内の雰囲気や、スタッフの対応はもちろん、何よりコーヒーが美味しかった。次の休みにも散歩がてらまたコーヒーを飲みに来ようと決め、帰路につく。
「仕事頑張るか〜」
またここに来る為に、仕事を頑張ろうと心に刻む。同僚にも教えようかと思ったが、暫くは私のお気に入りとして、内緒にしておこう。次は何を頼もうかとメニューを思い返す。
足取りがとても軽く、思いがけずリフレッシュも出来た最高の休日。
いつまでもこの平穏が続くよう願い、秋の色が見え始めた空を見上げた。