2-08 アフロディーテの皿
あるところに、バートリアという貴族の一家がありました。
バートリア家に産まれる子どもはみんな女の子で、誰もが薔薇のように美しい見た目をしておりました。
子孫繁栄のためには外から殿方を迎え入れなければいけませんが、その美貌ゆえにどんな男でもバートリアへ婿入りさせることができました。
お金も、地位も、美貌も、男も。
どんなものでも手に入る、バートリアの令嬢たち。
けれど、彼女らにはたったひとつ、叶わないものがあったのです。
それは「胃袋」。
バートリア一族の女はみなすさまじい食欲を持っていて、毎日狂ったように何かを貪り食っていました。
そんな彼女たちにとって最高のご馳走は、自分たちのように美しく可憐な、少女の血肉でした。
そういうわけで、バートリア家は可愛らしい女の子たちを、牛や豚のように飼育することにしました。
巨大なサーカステントの中は、空腹の婦人たちで満たされていた。
テントには薔薇が飾られており、その香りは婦人たちの食欲を更にかきたてる。
ステージでは少女たちが踊り、舞う。優雅な音楽と共に大道芸を惜しみなく披露した。だが、今日の主役は彼女たちではない。
客席には大きなテーブルと椅子が並んでいる。テーブルには料理の乗った皿と銀のカトラリーたち。このサーカスはディナーショーなのだ。
生ハムとオレンジのサラダを食べる。
ロゼ色のローストビーフを食べる。
力づくで殻を割ってロブスターを食べる。
どろりと熱いフォンダンショコラを食べる。
「主役はまだなの?」
「あと二分よ。その間にこの大皿をいただきましょ」
婦人たちのガツガツという咀嚼音はどんな楽器でも掻き消せない。
ワッと歓声があがった。主役がステージにやってきたのだ。真っ白なドレスに身を包む、美しい少女だった。
「バートリア婦人の皆さま、ラ・シェールのミルエと申します」
ラ・シェールとは本日の主役のこと。ここにいる全員が彼女を待ちわびていた。テントの天井から空中ブランコが降りてくる。ミルエはステージのさらに高くにある無骨な足場まで上り、ブランコに足を落とした。ブランコを漕ぐと、ドレスが美しく揺れる。音楽は壮大さを増していき、場の空気は最高潮まで達した。
ブランコに足をかけ、逆さ吊りの状態になる。ミルエの体は大きく弧を描いて観客を魅了した。
そして元の体勢に戻り、その身を委ねた。
「どうぞ、お召し上がりください!」
薔薇の香りがむせ返るほどに満ちた。
ブランコからミルエの頭部が落ちて、そのまま胴体も後を追った。吹き出す薔薇色の血飛沫は、彼女のドレスを染めあげる。
「なんてかぐわしい!」
「早く解体を!」
観客は狂乱した。
少女たちが大きなナイフを持ってミルエに駆け寄った。そして肉を削ぎ、筋を絶ち、内臓を取り出す。
ステージは婦人のための薔薇園と化した。
グラスに注がれるのは、薔薇色の血液。肉はもちろんステーキにして。心臓はパテに、骨髄は生でいただく。
ラ・シェールにとって最大の名誉の時だった。
・
「我がバートリア家は、貴族と呼ばれています。身分が高くて、お金持ち」
先生が黒板に「貴族」という字を書いた。
バートリア家の邸宅には、婦人たちの住まいとは別に「薔薇蜜棟」という建物がある。ここはその二階にある、「お勉強のための部屋」だ。
「しかしバートリア家には二つの欠点があります。一つは、女性しか産まれないこと」
リリもバートリアの血を持つ。というのも、薔薇蜜は人間ではなくバートリア家で時々誕生する、妖精のようなものだからだ。そして薔薇蜜は、ラ・シェールになるための訓練を受ける。例えばバートリア家についての授業や、サーカスの芸など。
「もう一つが、飢えに苦しんでいるということ。血筋と同じくらい、健康は大事でしょう?」
少女たちが頷いた。貴族なのにお腹が空いているなんて……。胸がきゅっとなった。
「一人当たりの血を濃くするためと、美しく健康になるため。『薔薇蜜』はそのために誕生しました。でも、貴族に捧げるには高品質でなければ。それが……?」
ラ・シェール! と少女たちの声が響く。先生は「よくできました」と微笑んだ。
「つまり、薔薇蜜こそがバートリアの未来を担っています。あなた達は尊い薔薇の天使! そしてラ・シェールは最高の舞台に立てる!」
誰かが拍手をした。続いて二人、三人と拍手が大きくなる。リリもそれに倣った。
授業が終わった。次は昼食を摂って、栄養学の勉強が始まる。
食堂へ行くと、既に薔薇蜜たちが席に座って食事をしていた。リリも給仕に料理を持ってきてもらう。
薔薇から精製したローズシロップを固めたゼリーだ。薔薇蜜は体質上これしか食べない。それが結局、召し上がってもらう際に雑味が出ないという良いことに繋がる。栄養学で最初に習う常識だ。
隣の席にいた子が、あっと声を上げた。
「ディアナよ!」
それを聞いて、他の少女たちが食堂の扉に一斉に駆け寄る。リリもそれに続いた。
「あら、ごきげんよう」
ディアナはリリよりも三つほど上の薔薇蜜だ。顔立ちも頭も良くて、みんなの憧れ。次のラ・シェールとも噂されている。
「リリ」
ディアナに呼ばれて、どきっとした。彼女はリリをよく気にかけていて、それはどうやらディアナと母親が同じだかららしい。
「可愛い私の妹。一緒に食べましょう」
「う、うん」
いいなあとか、たまには私とも、とか、羨望の眼差しを向けられるとリリはどぎまぎした。
「リリ、今日はまだ授業があるの?」
「えっと、栄養学だけ」
そんなにかしこまらないで、とディアナがリリの髪を撫でる。
「じゃあ授業が終わったあと、私の部屋にきて。話したいことがあるの」
ディアナの瞳で見つめられたら、頷くしかない。
「ありがとう。大好きよ」
皿を給仕に下げてもらい、ディアナは食堂を去った。
・
「話って何?」
「座って。ローズシロップを飲みましょう」
ディアナに促されるまま、椅子に座った。目の前のテーブルにティーカップが置かれる。
「リリには先に教えておくわね。私、ラ・シェールになったの」
リリは「えっ」と声を上げた。おかしい話ではないが、現実になるとやはり驚いてしまう。
「ディアナ、おめでとう!」
拍手をしたが、ディアナはなぜか浮かない顔をしている。
「……そうね、『おめでとう』よね」
「ディアナ、どうかしたの」
彼女の表情が一層暗くなる。なんと声をかけてよいだろうか。
「ミツツボアリって、リリは知っているかしら」
リリは首を振った。ずっと薔薇蜜棟にいるから、外のことは何も知らない。
「ミツツボアリはね、生まれてきた仲間のいくつかを、蜜を溜めるための壺にするの。仲間に蜜を分けてあげるためにね」
「それって、薔薇蜜みたい」
「そうね。私たちはお勉強をしたりサーカスができるけど、蜜壺になったアリは、一生巣に張り付いたままなの」
「すごく献身的なのね!」
「……リリ、目を覚まして」
ディアナが悲しい顔をした。
「どうかしたの?」
「どうもしてないわ! ……私、わかってしまった」
ディアナはリリをじっと見つめた。
「薔薇蜜は天使でも、妖精でもない。バートリア家と同じ、ただの人間なの」
ディアナは本当に頭がおかしくなってしまったのかも。薔薇蜜は神様がバートリア家へ与えた贈り物だ。ディアナには悪いが、今の彼女は罰当たりな法螺吹きでしかない。
「リリは私の解体係に選ばれたわ。芸を披露したあと、私を食べやすいようにナイフで切るの」
「ディアナを解体できるなんて光栄」なんて言える空気ではなかった。重くて、張り詰めている。
「私が舞台に立つ日、しっかり見ていて。……可愛い妹を、あなたを、助けたいの」
ディアナがぽつりと、小さく呟いた。
「死にたくない」
・
次の日、先生が全員の薔薇蜜を食堂に集めた。
「次のラ・シェールが決まりました。ディアナ!」
先生は誇らしげだ。みんなもディアナに拍手を浴びせた。
「お披露目のサーカスは三日後。その前座として大道芸をする子を発表します。まずは、リリ!」
そしてあと数人の薔薇蜜が呼ばれた。解体係に選ばれたということだ。
・
ラ・シェールお披露目当日。リリはディアナと舞台袖にいた。前座が終わり、ラ・シェールが舞台に立つ時間になった。ジャグリングのクラブをしまい、解体用のナイフを用意する。
ディアナは堂々としていて、身に纏った白いドレスは薔薇のお姫様のよう。
「リリ」
ディアナに優しく抱擁された。そして耳元で、リリにしか聞こえないように囁いた。
「よく、見ていてね」
ディアナがステージに立った。熱狂的な歓声が沸く。
「バートリア婦人の皆さま、ラ・シェールのディアナと申します」
ラ・シェールとは本日の主役のこと。ここにいる全員が彼女を待ちわびていた。テントの天井から、空中ブランコが降りて来る。ディアナはステージのさらに高くにある無骨な足場まで上り、ブランコに足を落とした。ブランコを漕ぐと、ドレスが美しく揺れる。音楽は壮大さを増していき、場の空気は最高潮まで達した。
ブランコに足をかけ、逆さ吊りの状態になる。ディアナの体は大きく弧を描いて観客を魅了した。
そして元の体勢に戻り、解体用のナイフを取り出した。
「でも、お前らに食われるものか!」
ディアナがブーメランのようにナイフを投げると、婦人の額をかすめた。
婦人が血を流し、悲鳴をあげた。場は騒然とするが、咀嚼音はやまない。
「この薔薇蜜ごときが!」
「さっさと食わせろ!」
ディアナはナイフをもう一度投げる。リリはここで、自分のナイフがなくなっていることに気付いた。
天井から物音がする。上を向くと、大きな鉄塊がぶら下がっていた。
それが思いきり、ステージに落ちた。
薔薇色の血飛沫が吹き出す。薔薇の香りがむせ返るほどに満ちて、鉄塊は天井へ戻っていった。リリはステージに上がった。ぐちゃぐちゃのディアナが、ステージに咲いた一輪の薔薇のようだった。
それでもディアナはまだ、生きていた。
ナイフをそっと取り、解体係の責務のためディアナの首元に突き立てた。
「リリ、抗ってね」
か細い息をしながら、こちらを見つめている。
「大好きよ」
そして彼女は食材となった。
私が、食材にした。