2-07 彼を恐れぬ乙女こそ
友である初代王のため自ら封じられた魔王は、いずれ目覚めることがあれば再び封じよと言い残したという。五百年後、受け継がれた封じの歌のまま、魔王を恐れず封じ直した聖女と王子たち一行。彼らのための祝いの宴で、城の侍女長の不在が浮き彫りになった。侍女長も、実は聖女らに同行していたのだが――。
その国は、封じられた魔王を土台となし、永の繁栄を手に入れた。
魔王の封が解ければ、国の存続に関わる。永劫に魔王を封じ続けるために、初代の王が残した封じの歌を連綿と受け継いだ。
歌にはこうある。
『魔を恐れぬもの 生まれながらに愛を知るもの その乙女こそが彼の王を封じ、その愛こそが永遠を与える』
ゆえに、建国五百五十年にしてついに魔王に目覚めの兆しが現れた時、人々はまず魔を恐れぬ乙女、つまり聖女を思い浮かべた。
この時、国に聖女と定められていたのは、公爵家の姫。生まれ落ちたときから愛で満たされた聖女は、歌のままに、恐れることなく魔王の封じられた聖山に向かった。付き従ったのは、初代王の生まれ変わりと讃えられる世継ぎの王子と、古き約定に見届け人と定められた、果ての空の賢者。
聖山に辿り着いた聖女たちは、苦難を乗り越え、見事魔王を封じ直してみせた。
国は、再びの安寧を得た。
今夜はその祝宴。王城の大広間は、華やかな装飾と眩い灯りで真昼のようだ。
玉座では国王が杯を掲げ、その傍らに聖女と王子が立っている。従兄妹同士である彼らは、よく似た華やかな金髪に青い双眸の見目麗しい姿だ。聖女の立つ階下には、花に寄る蝶のように貴族の子息たちが集まっていた。
壇上は、整っている。だが、出席者の半数はまだ杯を持たず、動き回る給仕たちを呼んで騒がしい。
杯を掲げたまま待っていた王は、やがて諦めてその手を下ろした。
魔王の目覚めとともに各地に噴き出した瘴気は、動植物の生態を乱し、人々の心を暗く染めた。人々は飢え、互いに疑心にかられ、些細なことで争った。魔王の封じ直しが遅れていたら、国は一年を待たずに崩壊していただろう。
魔王が封じられるや瘴気は消え失せ、それからさらに三十日ほど経ってからの今日の宴にも関わらず、王城には混乱が残っていた。
各テーブルのクロス、壁を覆うタペストリー、その何枚かは明らかに色味が違う。走り回る給仕の服装に統一感がない。この格式高い広間では普段決して使うことのない獣脂の蝋燭の匂いが微かに漂う。皿の数がテーブルによって明らかに偏っていて、末端の席の者たちは首を伸ばして落ち着かなげだ。さらに貴族の従者たちが控室もなく廊下に詰まっているために、給仕たちは出入りにも難渋しているようだ。
王と王子はその有様を、よく似た眼差しで静かに眺めていた。
玉座に近い席には聖女の父である公爵をはじめ高位の貴族たちが揃い、優先的に経験豊富な給仕たちがついて完璧に近い対応をしていた。
聖女と年若い子息たちの談笑を微笑ましそうに眺める公爵は、壮年ながら美男である。その公爵が、ふと兄王と同様に大広間を眺め、重たい息をついた。
「今日の城はどうも行き届かないようだな。兄上、我らが侍女長殿は体調でも悪いのか?」
冗談めいた言葉に王は目を見開き、公爵は訝しげに眉を上げた。
「どうされた。私の知らぬ間に、彼女は何か失態でも?」
「――侍女長というと、あの困った方のことでしょうか?」
そんなはずはないという信頼が透けて見える問いかけに、王より先に、美しい声が問いを返した。
声と同時に立ち上がったのは、上背のある男だ。長い銀の髪、睫毛に半ば隠れた紫紺の瞳、細面で、年齢不詳の美しさがあった。賢者の証である空色の外套で足首までを覆っている。
「……困った、というのは?」
公爵が飲み込めていないのを見て、賢者はゆるやかに聖女を振り向いた。
「旅の途中で僕もたびたび噂を耳にしましたよ、ねえ」
子息たちがこぞって、そうだそうだと肯定したのに、聖女は一瞬、痛みを堪えるように目を潤ませた。
「賢者様、皆様、そのお話は……」
「よい、聞かせてくれ」
気の進まなそうな聖女を促したのは公爵だった。
「旅の同行者に、彼女が入っていたのか。年齢を考えればさぞ堪えただろう。それで体調を崩しているのか?」
「お父様」
「高貴な者が単身旅に出るはずはない、付き従う者がいるのは当然のこと。英雄伝を謳うわけでなし、ここで隠す必要はなかろう」
鷹揚に微笑みかけると、公爵はそれで、と続けた。
「困った、とは? 大方、彼女の説教をうるさがったのではないか?」
「説教にしては厳しすぎます。あの者はいつもニコリともせず、言葉端には憎しみすらあった」
激しく言い放ったその子息は、当初旅に同行するはずではなかった。だが聖女たちの出立を見て思い余って家を飛び出し、着の身着のまま一行に追いすがり、聖女に同行を許されたのだと誇らしげにしていた。
「そんなこと。侍女長は忠告を……」
姫様はお優しすぎます、と聖女を遮って進み出たのは、志願して同行した公爵家の侍女だ。
「過酷な旅でした。せめて休憩時間に息抜きをと花を摘んで愛でていたら、やめてすぐ発てと急かされました。非情な方でしたわ」
「おやめなさい。野営場所まで移動を優先すべきだったのよ」
「他にも、聖女様が傷ついた小鳥を癒やしていたら、無駄なことをするなと」
「私が考えなしだっただけです」
それから、侍女長について、旅の密かな同行者たちからいくつもの声が上がった。頑なで冷たい態度。聖女の重責を当然だとばかり、理解も共感もない、心無い振る舞い。
聖女は彼らの労りには礼を言いつつ、侍女長の正当性も示そうと控えめな言葉を繰り返す。
「なんと、人とは、複雑なものですね」
賢者は仄かに微笑み、聖女に敬意を表すように優雅に瞼を伏せた。
「まさか……。若い頃は、いや夫とも別れ侍女長となってからも、彼女にそんな様子はなかった。信じ難いが、うむ……。それで、彼女は侍女長を罷免に? だが、危険な旅に命懸けで同行したのだ。相応の報奨金は得て、余生穏やかに暮らしてほしいものだ」
公爵の言葉に、しん、とその場が静まった。相槌のひとつもない沈黙。
そこへ、杯が行き渡ったと侍従長が王に耳打ちをしたのが、静かな周囲にも漏れ聞こえて、公爵をはじめ上座の人々は居住まいを正した。
大きな鈴が鳴らされて会場が静まる。
王は再び杯を掲げ、ようやく高らかに、魔王の目覚めという未曾有の危機の去ったことを宣言した。
その時だった。
王あるところ常に伴われる魔告げの鶏が、引き攣れた声で鳴いた。ちょうど半年前にも聞いた声。魔王の封の緩みを告げる、悲痛の声だ。人々に、戦慄が走る。
王は冷静に聖山の確認を命じた。公爵が兄王を騒乱から庇う位置に立ち、何を恐れることがある、ここには聖女がいるのだぞ、と階下に向かい笑って言った。
その緊迫する大広間の中央に。
ぽつりと、闇が生まれた。
闇。新月の森より暗く湿り、冬の空より冷たく凍え、毒の沼より汚れ爛れた、魔王の闇だ。
かつて対峙した者たちは、敏感にそれを悟った。王子は玉座の背後に仰々しく飾られていた宝剣を手に取り、賢者は黄昏色の外套から身長より長い杖を取り出した。
「な、なんで……」
聖女は、真っ青な顔色をして唇を震わせ、胸の前で祈りの形に手を組んだ。歴史には残らない勇敢なる旅の同行者たちは、聖女の回りで腰を抜かし、卒倒した。他人を押しのけて逃げ出す者もいた。
彼らの反応に、居合わせた者たちは恐怖に飲まれ、身動きも取れなくなった。
魔王の封じ直しを祝う宴に、当の魔王が現れる。喜劇にありそうな出来事に、笑うものなど一人もいない。
ただ、ずっと聖女の背後に黙して立っていた一人の騎士が、忌々しそうにせせら笑った。
「贄にすらならんとはな。役立たずの小姑め」
聞きとがめた公爵が、何を言うより早く。
高みに浮いている魔王の闇から、すんなりとした足が差し出された。と思う間に、仄かに発光するかのような白い体に薄絹を纏い、青みがかった豪奢な銀髪をレース飾りのように纏わりつかせた、美しい少女がそこに浮いていた。
片足以外は幾重もの衣に隠され禁欲的な装いなのに、華奢な腰も、繊細な顎先も、薄く色付いた唇も、どこか淫靡で心を騒がせる。ありきたりな草色の瞳には炎が舌を伸ばすように緋色がひらめき、灯火に惹かれる蛾のように、男も女も、ふらふらとその目を覗き込んでしまいそうだ。
闇は、少女を吐き出して消えてしまった。いや、少女の顎の下、髪の中、胸の合間、腕の内……。闇は少女の僅かな影から這い出て蠢き、やがてひとつに凝って人の形を成していく。
濡れた風情の黒髪、黒衣に浮き出る恵体、完璧で美しい手、そして、神か精霊がごとき異次元の美貌。その双眸に白目はなく、塗り潰したような漆黒に水晶ほどに透明な虹彩が光をてらりと弾く。
その存在の重みは凄まじく、大広間のすべてが彼に向かって堕ちていく錯覚を生む。
堕ちて、皿からこぼれた獣肉と同じにその足元にひれ伏せば、気狂いしそうなこの根源的恐怖から逃れられるだろうか。そう、人に思わせる。
魔だ。
「魔王。なぜ……もう一人は何者だ」
「フォーディル」
戸惑う王子の横で、公爵が呆然と名を呼んだ。
「お父様、あの娘をご存知なの?」
「ああ、いや、本人のはずがない。フォーディルのはずが」
「? どなた?」
公爵は、ここで初めて、愛しい娘に険しい顔を見せた。
「まさか、名を知らぬのか? 幼い頃からよく登城し世話になっていたはずなのに。フォーディルは、侍女長の名だ」
「侍女長!?」
聖女の悲鳴のような声に、皆の視線が一斉に、魔王ではなくその美しき闇に抱え込まれた、儚げな白い少女に集まった。
夢見るような、その微笑みに。