2-25 人喰らう婆、不死の狂女に出遭うこと。
人を喰い漁り、思うままに生きる鬼婆が、不死の紅裙とエンカウントする話。
――喰ろうても喰ろうても、満たされん。剥き出しの頚を噛み、生き血を啜っても潤わぬ。やわい腹を裂き、腸まで貪っても、すぐ饑い。
しかし、飢えはつづく。業に塗れ、因果に縛られ、飢餓の道から抜け出せぬ。ああ、忌まわしや。
足らぬ、足らぬとぼやくのも、からからの躰で生きていくのも飽き飽きじゃ。
ほそほそとした老婆のしゃがれ声を拾うものは、此処にいない。
いや、先まではかろうじて、居た。
男がふたり、まだ歳若いのと若くない中年が、蝋燭のゆらゆらした灯りの中で青い顔をふたつ、浮かばせていた。
しかし今は、どちらがどちらかわからぬくらいに喰い散らかされた遺体がふたつ、悼まれることもなく捨て置いてあるだけ。
しんと静まった廃寺の庫裏で、老婆はひとしきりぶつぶつと呟いてから、おもむろに立ち上がった。
背中に流したざんばらの髪は白く、腰は曲がり、顔にも手にも深い皺と濃い染みが目立つ。見たところ六十をとうに越えた大婆のようだが、実際の歳は本人も覚えず、人間ですらない。
老婆は、人の血肉を喰らう、世でいう鬼婆だ。
喰ろうてきた人の数も、生きてきた年の数も數えずに、ただ生き永らえてきた。そうして、喰らう所場を移ろうと腰を上げたところだった。
この塒に棲んで半年ばかり、同じ処で人が消え続けると面倒事になりやすい。そろそろ場を移す頃合いだ。
家移りといっても、ここと似たような廃寺などを物色して、そこに潜り込むだけ。手持ちの荷も殆どなく、着物は着ているもの一枚きり。あとは紐に通したいくらかの小銭を首からぶらさげておく。
生きていくのに金は要らぬが、人を拐かすのには人の手が要った。
人の手を借りるのは難しくない。この時勢、小金をちらつかせれば何でもするような人間はそこらじゅうにいる。
必要なら、誰ぞ小金で釣ればよい。不要になったら、喰えばよい。
そうやって、老婆はぬるぬると此岸を渡って生きている。
さて、市中の端の廃寺を出て、宵の闇に紛れながら老婆が足を向けた先は、市井から少し外れた鄙びた土地だった。
盛り場から離れた裏道には、寄進が絶えて廃社になった神社がちらほら在る。
朽ちた本堂でも、雨風が凌げればよい。よしんば屋根がなくとも外壁があれば、拐った人を喰らう姿を隠してくれる。
そう思って裏道をどんどん進んでいくと、篠竹の間に隠れるようにしてちんまりとしたお堂が建っていた。
すっかり古びて屋根も外壁も傷んでいたが、中は広く、床板も腐らず残っている。
もしや、行き場のない無宿たちが宿代わりに寝泊まりしているのやもしれん。それなら拐かす手間も不要、ここで獲物を待てば良い。
老婆は悦び、上機嫌でお堂の真ん中にごろりと横になった。
じきに暮れ六つ、陽が沈む。今晩過ごして誰も来なければ、明日の夕にでも誰ぞ拐いにいくとしよう。
その夜の八ツ過ぎ、女が訪ねてきた。
「もし、誰ぞおるか」
涼やかで、艶のある声。
老婆が木戸の隙間から覗くと、声に違わぬ美しい女が、茫と立っている。
墨を塗ったような月のない真夜中ゆえに、堂内も外も変わらぬ暗さ。灯りといえば、女が下げている小さな提燈だけ。その心許ない灯りでも、女の美貌はよく見て取れた。
――これはまた、なんと旨そうな。
「こんな夜更けに、どうなさった」
湧き出る涎を呑み込みつつ、老婆はそそくさと戸を開ける。開くと同時に、女は、ずいと堂の中に踏み込んできた。
近くで見るとますます美しいが、たおやかなその見目とは裏腹にずいぶんと勝ち気な所作だ。
「おまえ、人を喰らうというのは本当か?」
ずばりと訊かれ、さすがの老婆も返答に窮した。目を泳がせる婆を見て、女は黒黒した眼を僅かに眇める。
「答えよ。人を、喰らうのか?」
「へ、へえ、まあ」
女の勢いに呑まれ、老婆がつい肯くと、女は愉しそうに笑った。
「やれ、嬉しや。人喰い婆め、やっと見つけたぞ。さあ、我を喰え。そら、たんと喰え。さあ、さあ」
「な、なにを……」
「早う、喰え」
声高にそう言い放ち、迫りくる女に気圧されて、老婆は久方ぶりに狼狽えた。逃げ慄く輩を捕まえて喰らうことはあっても、喰てくれと身を差し出す女など見たことがない。
腰の引けた婆の姿に女は眉を顰め、ややして、ああ、と合点がいったふうに頷いた。
「生きたままでは喰いにくいか。ならば、ほら」
そう言うと、女は懐から小刀を抜き出し、その白い喉に突き立てる。
声もなく倒れた女の返り血を浴びて、ようやく老婆は正気を取り戻した。
「……さてはこの女、物狂いか」
忌々しげに呟く老婆の足元で、女はとっくに事切れている。妙に美しいその死に顔が、癪に障った。
「まあ、よいわ。狂女だろうが何だろうが、腹に入れば同じことよ」
そうしていつもの如く、女の骸だったものは老婆の腹へと収まり、その翌日――
「おまえ、我を喰わなんだか! この嘘つき婆が!」
前夜と同じ八ツ刻に、今度は戸を叩くこともせず怒鳴り込んできたのは、正しくあの女だった。
我を喰えと迫ってきた女。
自らの首に小刀を突き立てて死んだ女。
そして、老婆が骨も残さず喰ろうた筈の女。
着ていた朱い絹の着物も、そっくりと同じだ。
「や、や、おまえは、昨晩の……な、何故じゃ? おまえは確かに、このおれが喰ろうたのに!」
「ふん」
老婆の科白を聞き、女はいくらか様子を落ち着かせたが、隙のない眼差しで婆を睨めつけてくる。
「喰うには喰うたのか。無論、骨すら残しておらぬよな?」
「も、勿論じゃ! そも、おまえは先に喉を刀で突いて死んだろうが。何故、生きておる」
「我はな、死ねぬのよ」
死んでも、死んでも、甦る。
死後、骸を焼いて灰にしても、骸を刻んで海に捨てても、元に戻る。
理由はわからぬ。とにかく、死ねぬ。もう長いことそうだから、生きるのにも飽いてきた。
だから、どうにかして、死にたくて。
「……人喰い婆に喰われれば、さすがに甦るまいと思うたのに」
口惜しそうに歪められた女の顔は、それでもやはり、美しかった。
水気のたっぷりとした白い肌。瑞々しい絹のような髪。袖から覗く手は華奢であるのに、着物の下の躰にな豊満な乳と尻があることを老婆は知っている。
旨かった。この女は、たいそう旨かった。叶うものなら、また喰ろうてみたいと思うほどに。
「やれ、無駄骨だったか。然らば、次の手を捜そう」
「ま、待て、待ってくれ。頼む、もう一度、もう一度だけ、おれに喰らわせてくれ」
「ほう」
女は胡乱な目で婆を見た。
「今度こそ甦らぬよう、あんたの骨の髄までおれの胃の腑で溶かしてやる。たのむ、たのむ」
「ふん。なら、良し」
そう言って、女はまた躊躇うことなく、その喉に刃を立てる。血潮が飛び散るよりも早く、老婆は女の骸にむしゃぶりついた。
着物を剥いで、丁寧に丁寧に喰らっていく。爪の一欠片、毛髪の一本も残らぬよう腹に収めて、ほうっと息を吐いた。さすがに此度は甦るまい。
――しかし、翌夜。
老婆の安堵を嘲笑うように、女は甦った。
何ひとつ損なうことのない美しい姿で現れた女は、前の晩と同じように喧々と老婆を詰る。堪らず、老婆は女に飛びかかって、その白い首を絞めた。女は、呆気なく死んだ。
これで、三たび。その骸を喰らいながら、老婆はまるで悪い夢に魘されているような心地だった。
女の屍肉は瑞々しく旨いはずなのに、老婆の頭の中には女の喧々とした声が響き渡り、味わうどころではない。
どうして、生き還る。
骨の一片すらも残しておらぬのに、どうして、どこも損なわぬ。
どうして。どうして。
女の襲来は、翌夜も、その翌夜も続いた。
そして、最初の夜から数えて七晩経った頃、女は言った。
「これ以上は、時間の無駄じゃ。我はもう往ぬ」
「ま、まて、待ってくれ、おれは、まだ」
「黙れ。七日も喰っておきながら、我の血肉のほんの少しも摂り込むことすらできぬくせに。おのが身の程、思い知れ」
蝿でも払うかのように老婆の手を払い、女は振り返りもせず去っていく。
女の横顔は、その美しさゆえか殊更に冷徹だった。
夜の八ツを過ぎ、月の明かりだけでは覚束ぬ宵の闇。その中を、女の朱い着物がひらひらと舞うように進んでいく。
「まて、まてと、いうのに……」
老婆が駆け追おうとしても、思うように脚が動かぬ。頭がふらつき、息が切れる。まるで、腹の中が空っぽのときのようだった。
そんな筈はない。おれは毎晩、あの女を喰らっていた。骨も残さず貪った。
――いや。本当に、そうか?
喰った女は、次の夜には必ず甦った。
つまり、老婆の腹に収まった筈の女の屍肉は、女が甦るたびに婆の口から這い出てゆき、身の内から失せてしまっていたのではないか?
老婆は、ハッと自分の手のひらを見た。
女を喰うのに夢中だったときは気づかなんだが、その手も脚も痩せ細り、もはや朽ちる寸前だ。もう七日、何も腹に入れていないとすれば、当然だろう。
「おれは、くたばるのか。飢餓の道に囚われたまま、乾涸びるのか。そんな、そんなのは、いやだ、いやだぁ」
枯れ木のような手を伸ばして縋り、喰らわせてくれと拝んでも、女は老婆を振り返りもしない。
伸ばした手は指先からみるみると崩れていき、躰から魂が剥ぎとられていく。
その老いた耳が末期に拾ったのは、麗しい女の声だった。
「――やれ、あさましや。駄蛇が竜を呑み込めるわけがなかろう。おのれの身の程も測れぬ、愚かな婆よ」
ころころ、ころころ、と嗤う姿は、この世のものとは思われぬほど美しく。
生血のような着物の朱が、涅色の宵に消えていった。