2-21 家族もどきが壊れたら
一組の家族が、ばらばらになった。
父と母、姉と妹で構成された家族だった。
「めんどくさいことをわたしだけに押し付けるのもどうなの、って思うんだけど」
「疲れてたってなんだってやらなきゃいけないことってあるだろうが」
「うちはもう、終わりかもね」
「もう、家族とは呼べないかもしれない」
いや。
その四人は、家族もどきだった。
「あんなふうになるくらいなら――誰かを不幸にするくらいなら、私は永遠に独りでいい」
「どうしてあの人たちは、あたしを生んだんだろうね?」
「わたしは、どうしたらよかったんだろう。どうしたら、みんながばらばらにならずに済んだんだろう」
「結局、最後まで負担をかけてばかりだったな。一人で背負うことが重すぎて、家族にも一緒に背負ってもらうのが当たり前だって思ってた」
家族もどきが壊れたその先には、いったい、なにが残っていただろう。
これは、そんな四人の話。
二〇二二年六月二十五日。
「波良澪様宛てですねー。ハンコいらないんで」
「ありがとうございまーす」
とある家族の住まう家、その母親へゆうパックが届いたのは、土砂降りの午後のこと。
伝票に書かれた見覚えのある字に、荷物を受け取った澪は丸眼鏡の奥にある垂れ目を細めずにはいられなかった。
「――咲ちゃんから?」
荷物の差出人は、一人暮らし中の長女。普段は全く連絡をしない彼女からの急な贈り物に戸惑いながらも、澪は居間に戻るなり荷物の開封をはじめた。
ばりばり、とガムテープを剥がす耳障りな音が響いたのち、段ボール箱の口が開く。中から出てきたのは紫陽花の描かれた封筒と、小さな箱だった。まずはすべやかな触り心地の封筒を手に取って、中の手紙に目を通す。
『お母さんへ
誕生日おめでとう。上京二年目も私は変わらず仕事して、小説を書いて、元気に暮らしています。彩未やお父さんにもよろしく伝えておいてください。
咲より』
ひとつにまとめた癖のある長髪を揺らしながら、澪はひとつため息をついた。
「友達には毎年、指定日配送で誕生日プレゼントを贈っているのに、母親にはそうしないって……別にもらえるだけ、ありがたいんだけど」
棘を纏った声でぶつくさと小さく呟いて、次に取り出したのは、プレゼントと称して届けられた小箱。深い紺色の包装紙を剥がしていくと、中にあったのは端正な菓子折りだった。なんの気なしに箱をひっくり返したとき、原材料名に『チーズ』の文字が見えて、ため息をひとつ。
「昔からチーズは嫌いだって言ってるのに。……本当に祝う気あるの?」
解せない。そう書かれた顔でなにか言葉を飲みこんで、目をふっと閉ざす。瞬間、ほのかな暗闇が澪の視界を覆いつくし、優しく、しかし躊躇なく、彼女を眠気の渦へと突き落とした。
こくり、こくり。舟をこいで、猫が顔を洗うように目をこすって、澪は瞼を持ち上げる。
時計が示すのは午後二時過ぎ。澪が起きてから十二時間が経過しようとしていた。
「……昨日、三時間しか寝てないしなぁ」
まだこの家で暮らしている、次女の彩未が家事を手伝ってくれれば、もう一時間くらいは眠れたかもしれない。
「彩未が毎日大変なのは分かってるけどさ、わたしだって週五で早起きして働いてるんだから、ちょっとくらい手伝ってくれてもいいと思うんだけど」
昨夜、次女に向けて放った言葉をもう一度口ずさむ。
『嫌だよ、めんどくさい。それにあたし、メイクの練習したいんだけど。専門学校行くなら特待生になって奨学金取れって言ったのはそっちでしょ』
耳の奥で彩未の声が蘇って、こめかみのあたりに、きん、と鋭い痛みが走る。
たしかに、言った。
姉の咲は好きなこと――小説の執筆を専攻する大学に行き、空を飛ぶ鳩が豆鉄砲を食って墜落するような発想力を活かして皆に評価されるような作品を創り上げ、特待生となって学費の援助を受けた。
それもあって、澪とその夫である律は、好きなこと――化粧を専門学校で学んで将来に生かしたいと語る彩未に、AO入試で好成績を残して奨学生になることを求めた。
高校三年生とはいえまだ部活動を引退していない彩未は、毎日くたくたになって帰ってくると、ご飯も食べずに部屋にこもっては、スマホでSNSを覗いている。そして、そんな彼女にしびれを切らした澪が怒ってようやく食事をとり、食後はすぐ自室に戻ってメイクの練習に取り掛かる。
「夜疲れてるのはみんな一緒なんだしさ。その『めんどくさい』ことをわたしだけに押し付けるのもどうなの、って思うんだけど。ケータイ見てる時間で手伝ってくれりゃあいいのに」
小さく嘆息して、澪は大きなあくびをひとつ。
波のように襲い掛かる睡魔には勝てず、ソファーにごろりと寝ころんだ。
数時間後。
眠りから醒めて夕食の準備をしている澪は、その耳で聞き慣れた「ただいま」の声を捉えた。野菜をいためている音に負けないように「おかえりなさい」と叫んで、目の前のフライパンに塩コショウを振りかけていると、ダイニングキッチンに足を踏み入れる人影がひとつ。
「今日も疲れたー。今日の晩御飯は?」
一家の大黒柱たる父親、律だった。
「お疲れ様。とりあえず家にあるもので野菜炒めにしてるよ」
「またか……」
オールバックにした白髪交じりの髪をわさっとかき乱して、半目開きの釣り目を細めながら、律は台所近くにある脱衣所に向かう。手早く仕事着から部屋着に着替えて、台所に戻ってきて。なんてことないように「そういえば」と彼は口を開いた。
「今日って俺名義の住宅ローンが引き落とされる日だと思うんだけど。ちゃんと振り込んでおいてくれた?」
フライパンの中身をかき回している、菜箸が固まる。
「……ごめん」
「は?」
怪訝そうに顔をしかめた律に、澪は目線を落として一言。
「振り込むの、忘れてた」
「――ふざけんなよ!」
瞬間、律の怒号が小さな一軒家を震わせる。
「お前、これで何回目だよ!? 前回やらかしたとき言ったよな。『次に振り込みを忘れられたら俺の信用情報に傷がつく』って。お前、『分かった』って言ってたけど全然分かってねえじゃねえかよ。自分の信用情報じゃないからどうでもいいってか?」
「別に……そんなことは、」
「思ってないんだったらどうして忘れる? 重要なことだって思ってたら忘れるわけないよなぁ。忘れないようにする、って前に振り込み忘れたときに言ってたけど、その努力も見られないしな。どうして忘れたんだ、答えてみろよ!」
ドン、と大きな拳で壁を叩いた、その衝撃で家が揺れる。
澪はなにも言えないまま、身を縮こませている。
「結婚したときに『家計はわたしに任せて』って言われたからその言葉をずっと信じてたのに、どうして決まった日に決まった金額を振り込んでおく、たったそれだけのことができてないんだ?」
「……今日は、疲れてて、忘れてた」
「はぁ?! 疲れてたってなんだってやらなきゃいけないことってあるだろうが。それにどうせ今日も仕事から帰ってきた後はぐうたら寝てたんだろ? 俺は昼働いて休む間もなく夜勤に行くことだってあるんだぞ? 俺の前でよくそんなことが言えたな!」
「律くんとわたしじゃ体力差だってあるしやることだって全然違うでしょ! わたしも全然寝てなくって頭が働いてなかったの!」
「なら頭が働いてるときにメモを残しておくくらいの工夫はできただろ? なんでそういうことをしないんだよ!」
怯みながらもようやく声をあげた澪だが、律も変わらずに言葉をぶつけていく。
二人の声は、土砂降りの外にまで漏れ聞こえる。
雨の中帰宅してきた次女の彩未は、家の前で怒号の重なりあいを聞き、律に似た釣り目を細めてひとつため息をついた。
静かに玄関の扉を開き「ただいま」と呟く、その声が喧嘩中の両親に届くことはない。
電気が消されて薄暗い居間に足を踏み入れた彩未は、自分が埃を蹴ったことに気付かない。床に散らばる髪の毛に足を滑らせそうになったそのとき耳に入った、台所にいる律の「お前はどうして部屋の掃除をしないんだよ!」という叫び声。
彩未は首から下げていたスマホを手に取ると、けだるげに、けれど迷いなくメッセージアプリをタップしてチャット欄を開いた。画面上部、相手の名前が記されている場所には『姉さん』の文字。
彩未の親指が、一瞬止まる。
けれど、苦虫を噛み潰したような表情で、手早く文章を打ち込み始めた。
『また、母さんと父さんが喧嘩してる』
送信してすぐに、既読がついた。さらにその数秒後には、咲からの電話の着信を知らせる通知が画面に踊る。
電話を取るなり、彩未の口からはため息が漏れた。
「……なんでわざわざ電話なの」
「その方がいいと思ってさ。――さっそく本題に入るけど、最近そっちはどう? 私が上京する前からちょくちょく言い合いしてたけど」
優しい声色で真面目に問う姉に、彩未は「二日にいっぺんは喧嘩してるよ」と投げやりに答えた。
「うちはもう、終わりかもね。あの人たちを親だと思ったことはないけどさ」
「うん……。ねえ、彩未。ふたりの声、電話で拾える?」
「え? まあ、別にいいけど」
スピーカーモードに切り替えて、スマホをできるだけ台所の方に近づける。両親の言い合いが拾えているかどうか定かではなかったが、しばらくそのままにしていると「ありがとね」と静かな言葉が聞こえたのでスピーカーモードをオフにした。
「あのさ。……別にね、あたしはあの人たちが離婚しようがどうしようが、どうでもいいって思ってる」
言葉の意味を捉えかねたのか、咲の返事は、少しだけ遅れた。
「……うん」
「でも、どっちの世話にもなりたくない。もう成人したんだし来年から専門学校生だよ? 今すぐは無理かもしれないけど、あたしは、ひとりで生きたい」
毅然と告げた彩未に、咲は小さく唸ってから。
「――なら、戸籍を分けちゃうのはどうかな」
「へぇ……そんなこと、できるんだ」
「小説のネタにするために調べたことがあってね。大丈夫。全部、私が全面的に支える」
「姉さん、兼業作家だもんね。……姉さんらしいや」
ふっと呆れたような表情で呟いた彩未に「そうでしょ?」と返した咲は、ふと、真剣な声色になって。
「私、近々帰ることにするよ。全員で話し合う必要があるだろうしね。――もう、家族とは呼べないかもしれないけれど」
「そうだね。……うちは、家族もどきだよ」
一瞬のような、永遠のような沈黙。
どちらからともなく、「じゃあね」と言い合って、電話は切れた。
数日後、波良家はばらばらになった。