2-15 出征
自由なる不動の国よ
永遠にあれわが祖国
皆讃えよ人民の力強き
双頭の鷲の旗を!
讃えられてあれ
自由なる祖国
民族友好の絆よ!
党は我らを導く
主義の勝利へと!
「お姉さま!」
そう叫びながら私に抱きついてくるのは使用人ども。私を慕う、寝食を共にしてきた使用人どもだ。貴族向けの広大なドームの高く音のよくとおる改札前大広間で追いつかれてしまった。こういうところでこのようなことをされると目立ってしまって仕方なくて、鬱陶しいことこの上ない。時間も迫りつつある。思わず天井を見上げるが、非常に高いドームの白亜に輝くアーチが見えるだけだ。いやに音の響く大広間。軍靴の音さえよく響くのであるから、この阿呆どもの声を聞き流そうとするがそれを許さないほどだ。正直言えばこの使用人どもの事は無下に扱いたくないが好いてはいない。うっとおしさもあるが、いろいろと苦楽を共にした仲だ。で、あるからしてこう、自分の望んであるのとは違うように返してしまう。
「大丈夫。私は必ず帰ってくるから。いつでも帰れるよう、私のねぐらを整えておいてくれないかい?」
それぞれの肩に手を回して概ねこういった内容で言うのだから余計に向こうからの株は上がる。別にうれしくはない。うれしくはないが、でも平坦でもないこの複雑な胸の内を表す言葉はない。最後の握手と色々
ようやく改札を抜けることができた。帝都行きの特別急行列車。速度を維持するためにわずか5両しか客車のない高速列車だ。今はまだ列車に乗れないが、ホームで待つことはできる。貴人用の待合にいても退屈なだけだ。列車はすでにホームにはついているがこれから機関車の付け替えが終るまで、車内の清掃もあって立ち入ることはできない。だからホーム端に立ってぼんやりとあたりを見回してみる。
きらめくほど磨かれた茶色い客車。見た目は帝国の統制でどの客車でも概ね同じだ。さらに生産にも統制が入ったから、今後の生産は全部座席車だけになる勢いだそうだ。最近は新しいものほど鉄材の節約だとかでみすぼらしくなる一方で気が滅入る。
せわしなく行き来する列車の多くは大量の物資を積んだ貨物列車。戦時ダイヤとかで旅客列車は減らされているからこのような状況だ。物資物品の輸送は需要が増えるばかりとなっている。
帝国の食卓事情や衣類の在り方も、何もかもを大きく塗り替えた存在が鉄道であり、帝国そのものになりつつある貨物列車。いまや、帝国のどこに居住しようとも、食べたいときに鮮魚も生野菜も手に入るのだ。それを支える冷蔵貨車が轟々と音を立てて帝都のほうへ走っていった。
今、私の故郷は、この帝国は一つの大きな生き物になった。紅い双頭の鷲頭を持つ巨大な生き物に。きっとヒュドラでもこれほど醜い生き物ではないだろう。住民は本当の意味で国家の血肉となった。必要な時に国家の望むままに血を流すのだ。そして、私は今からこの生き物の腕の一部になろうとしている。腕というよりは触手かもしれないが。それも、よりその行く末に責任を持つべき将校として。
この前、『双頭の鷲』を怒らせてしまって打ち首すら覚悟した。しかし、ゆえなく赦されてしまった。そう、何の故もなく。ただ、ただ『帝国の勝利に奉仕せよ』とだけで。『勝利のみを誠実に希求している』化け物の目的に奉仕せねばならない。これには一種の狂喜すら覚える。そうだ。残念ながら私はそれに狂喜を覚えてしまった。『双頭の鷲』が狂気そのものだとしてそれに付き従うことに喜びを感じる私は何者だろうか。私は私だ。であれば、『双頭の鷲』のもとで死ぬ。それでいいじゃないか。何をいまさら。士官教育中にそういって忠誠心を骨の髄にまで染み渡らせてきた。忠誠心こそが命の支えであり、我らが親衛隊の存在意義。そういう存在になったのだ。
車内の清掃が終わり機関車も付いて、車内に入れるようになった。予約していたのは個室席。特別急行列車とはいえ一晩はかかるのだ。そして、『こんな種族の』私の場合、個室の他に選択肢はなかった。それに関しては仕方のないところもある。生まれや育ちは選べないものなのだから。
貴族の家に生まれて何だかんだとやってきた。恨まれたこともあるしなんなら殺されかけたこともある。あるいは結婚詐欺にだまくらかされて貢いだことだってあった。なにか間違えて探検家じみたことをしたことだってあった。使用人たちにはその都度迷惑をかけたように思う。まあ、それを態度に出すと怒られることも多かったのだが。貴族のお嬢様らしく、ということもあるのだが、それよりもっと別な理由もあった。どうも、私を一種の理想化して、「そのように」ふるまわせたい周囲の者がいたのだ。それらは私を直接見てくれていない。私にそのようなふるまいをさせて、私に『夢』を重ねているだけなのだ。
私は、いつもの服装ではなく、軍隊の服装をしている。士官教育中の支給品の服ではなく、ちゃんと仕立てさせた騎兵将校用の服装だ。サージの表はさらりと光沢をもって、絹布の裏地がつややかな肌触りを確かにしている。肋骨のような紐の飾りは体躯を堂々見せるだろう。紅いズボンに黒い側章がさらにそれを引き立てる。騎兵だけに許された鈍色に輝く銀の鞘の軍刀を提げて背筋をまっすぐに胸を張ったこの姿は堂々としてきっと格好いいだろう。ある一点を除けば。
目線を落とせば、大きく膨らんだ卑しい胸。ラナンシーらしく男に媚びるためにつくられたようなこの體。見目は美しい女に似て、でも中身は卑しい化け物、それが私のあるべき姿だ。でも、そういう生き方は好きでなかった。反吐が出そうになるくらい嫌いでさえある。だから、だから、別の生き方を探してきた。今、その第一歩を踏み出す。それは死への舗装道だ。血を固めたアスファルトのような道だ。私は死ぬだろう。そこには救いがあるか。
暖房の蒸気が濛々ホームを覆うなかを歩けば、まるで雲海をゆくかのようだ。山登りも好きだったこと思い出す。そして、そこから見る風景の良さが脳裏にある。車両に乗り込めば、手入れは行き届いた清潔な様相。切符にある予約の部屋に入って、軍刀であるとかいろいろ荷を下ろす。そして、ベッドを兼ねた座椅子に腰かけて、目をつぶる。ここまでの生活とも、これ以降は長くおさらばだ。足は戦場を歩むためのものとなり、腕は戦場を生き延びるちからの源泉となり、声は将兵を指揮して死地に送るために紡がれる。その中で死ぬこともあるだろう。死んでしまえば楽なほどの苦悩もあるかもしれない。でも、それはいまさらだ。故郷よさらばだ。
汽笛と共に列車が動き始める。二度と故郷に帰ることない。帰るときは白木の小箱の中だ。そう誓いながら、ベットに横になる。士官教育の同期のサキュバスがいた。彼女は歩兵で、私は騎兵になった。いつも休み時間に談笑した仲だ。またいつか会えるだろうか。彼女は彼女で面白い経歴で、面白い性格で、そのうちに激情を秘めていた。また逢えたらその時はまた話がしたい。まあ、死んでから逢うか。
目を開ければ、窓はもう故郷を映していなかった。代わりにきらめく陽光ばかりが私の行く先を示している。