2-09 痛み盗み~痔星見セレナと切れ痔の秘密~
痔の痛みは星の瞬き。
痛みの深浅は星の瞬きと連動し、実に多くの物事を語ってくれる。
痔星見とは、この痔と星の瞬きの連関を解き明かし、吉兆を調べる者たちのことを言う。
セレナもまた、そのような痔星見の一人だ。彼女の相棒は切れ痔であり、その鋭く貫く様な痛みと星の瞬きの連関を読み解いて、日々の仕事をしている。
そんなある日、セレナはお尻に違和感を覚えた。お尻が痛くないのだ。
痔星見を仕事にして十年。その間に、一度も味わったことのない痛みの消失。
便所に入って踏ん張っても、いつものように水は紅色に染まらない。
不安になったセレナは、馴染みの肛門薬師レーネの診療所へ向かい、そこで切れ痔が綺麗さっぱり完治していることを知らされる。
これは、痛みを盗んで売りさばく「痛み盗み」と、とある痔星見との闘いの記録である。
切れ痔の痛みは星の瞬き。
痛みの深浅は星と連動し、あらゆる吉兆を調べる手がかりとなる。
今宵も私は便所の中で、座り、ふんばり、切れ痔の確かな痛みを感じつつ、ガラス張りの屋根から星の瞬きを眺めている。
便所は小世界樹ベリアーデの天辺に作られたものだ。ベリアーデの内部で暮らそうと決めた時に、真っ先に考えたのは便所をどこに作るかだった。
下のほうに作ってしまうと、ベリアーデの木の葉が邪魔で星が見えない。
だから自然と、便所はベリアーデの天辺に作ることになったのだった。
「空が見えるような便所を木の天辺に作るだなんて、聞いたこともないですがねぇ」
ベリアーデの内部に家を作ってくれた猫人族の大工はそう言って首を傾げていた。
まぁ、普通はそんなものは作らないのだろう。これは痔の痛みと星の瞬きを仕事の道具にしている私のような痔星見ならではの文化と呼べるものなのかもしれない。
「ああ、痛いなぁ。痛みの拍動が激し過ぎる。やっぱり、浮気現場の予言なんて柄にもないことを引き受けるんじゃなかったなぁ」
私はお尻の痛みに悶絶しながら、それでも星を見ることを止めない。紅色のマントを両手でギュッと握り、痛みを紛らわせていく。
「セレナ。どれだけ切れ痔が痛くとも、決して星の瞬きを逃してはいけないよ。痛みの拍動と星の瞬き、その両方の情報を総合して、ものごとを見なくてはいけないのだから」
戦争で両親をなくし、孤児となった私を引き取ってくれた師匠は、ことあるごとにそう言っていた。
痛みにくじけそうになると、必ずと言っていいほど、彼女の言葉を思い出す。
師匠の、アンネの家の便所はやはり建物の屋上にあった。ガラス張りなのも同じだ。いや、むしろあの便所を真似て自分の便所をベリアーデの天辺に作らせた節すらある。
アンネの便所で私が痛みに泣きながら修行をしていると、扉越しに彼女は優しく応援をしてくれたものだった。
その言葉の数々を思い出しながら、私は今夜も切れ痔の痛みと星の瞬きを、紙の上に書き記して行く。
切れ痔も星もお喋りだ。単純な浮気調査でも、必要以上のことを教えてくれる。これを全て話したら、依頼者の龍は憤死するだろうなと、私は呻きながら溜息を洩らした。
翌日は散々だった。
待ち合わせた魔喫茶で、浮気に関する予言の結果を知らせると、依頼者は烈火のごとく怒った。何度もしつこくそれは確実なのかと尋ねるので、切れ痔の拍動と星の瞬きによれば蓋然性は高いですよと宥めながら答えた。
相手は龍なものだから、本当に口から紅蓮の炎を出す。お陰で、私の緑色の髪がほんの少しだけ焦げてしまった。
ただお礼は言われたし、お金も取り決め通りしっかりと貰うことができた。
「次にお会いする時には、同居龍の生首をお目にかけますよ」
別れ際にそんな物騒なことを言っていたが、そんな事態にならないようにと、私は切れ痔の神レキディーヌに思わず祈っていた。
依頼者への報告が終わると、私はすぐに自宅へと戻った。
多分、その頃から私はお尻に違和感を覚えていたのだと思う。
自宅へ戻り、木の椅子にドッカリと座った瞬間、私は思わず首を傾げていた。
お尻が痛くない。
昨夜、切れたてのわりには、椅子に座っても痛みを感じない。
こんなことは初めてだったので、私は何度も椅子に座り直してみた。最後には、お尻を椅子にぶつけるようにして座ってみた。さすがにお尻の肉の部分は痛くなったのだが、肝心の切れ痔部分の痛みはやはりなかった。
私はとても不安になった。
十七歳で痔星見になってから早十年。こんなことは、一度たりともなかったのだ。
切れ痔が重症化せず、なおかつ治りもしないように薬も調合してもらっている。今さら、注入する分量を間違えるなんてありえない。
だが、痛みがないのは事実だったので、私は仕事前だというのに便所に駆け込んだ。
ベリアーデの天辺にある便器は、いつものように私を優しく迎え入れてくれた。
だが、やはり便器に座っても切れ痔の痛みを感じることができない。ふんばり、出すものを出す。感触はいつもの通りで安心した。
それでも、やはりどれだけ踏ん張っても、痛くはないのだった。
急にお尻の痛覚が鈍ってしまったのだろうか? そんなこと、ありうるのだろうか?
渦巻く不安を胸に秘めながら、全ての工程を終えて立ち上がり、便器の中を見て、私は思わず叫び声を上げていた。
切れ痔であれば、便器の水は必ず紅色に染まる。だが、私が目にしている便器の水はどこまでも透明で、全く紅くはなっていなかったのである。
「切れ痔、治ってるね」
私のお尻を診察した妖精の肛門薬師、レーネは、困惑した口調で診断結果を私に伝えた。
私は目の前が真っ暗になってしまった。世界に絶望した者は、誰でもこんな気分になるのだろうか。
「嘘でしょ。なんで急に切れ痔が治るの?」
「私に言われても知らないよ」
レーネは背中に生えた薄羽をパタパタさせながら、首を横に振ってみせる。
「昨日は確かに切れてたわけね?」
「うん。昨晩もしっかり痛かったし、便器の水も紅色に染まってた」
「その後、軟膏は?」
「しっかり注入した。もちろん、いつもの分量を守ってね」
「それでも切れ痔は治ってる。跡形もなくね」
私は意味もなく椅子の上でお尻を動かしてみた。やはり、切れ痔を患っている時の、あの独特の痛みを感じることはできない。
長年連れ添って来た相棒が急に消えた。挨拶も、置手紙もなく。私があの時感じていた喪失感はきっと、そういう類のものだったのだろう。
「それにしてもおかしいよ。たった一晩で、積極的に治療をしているわけでもないのに切れ痔が消えてしまうなんて」
レーネは納得いかないと言いたげに腕を組んで、軽く鼻を鳴らす。鼻息が可憐な青い花弁となり、机の上に落ちたが、すぐに溶けて消えてしまう。
「もしかすると、切れ痔は治ってしまったのではなくて、攫われてしまったのかもよ」
「なに、それ?」
ゆるゆると私が顔を上げると、レーネは便箋を取り出して、ある住所を書きつけはじめた。それは、私もよく知っている場所だった。
「聖レキディーヌ神殿?」
「そう。この神殿に失せ物探しが得意な人間の巫女様がいるんだ。もっとも、彼女が探せるのは痛みに関わるものだけなんだけど」
「そんな巫女様いたっけ……」
「まぁ、あそこで働いてる巫女様は多いからね。知らなくても仕方ないかもしれない。私も、縁がなければ知らなかったと思うよ」
レーネがトントンと指先で便箋を叩く。
「その巫女様が前に言ってたんだ。最近、痛みを盗んで秘薬にして売りつける奴らがいるんだって。『痛み盗み』なんて言われてるみたいけど、ほんとうに財布を盗むように自然と痛みや痛みの源を盗むらしいよ」
痛みを盗む。そんなことが本当にあるんだろうか。
私は自然とお尻に手を当てていた。
切れ痔の痛みがなければ、私は商売ができない。いや、そういう実際的な問題ばかりではない。切れ痔は、私が痔星見として歩んで来たこれまでの間、ずっと傍にいた存在なのだ。
大切な切れ痔。それがもしも、悪意のある者の手によって盗まれているのだとしたら。
「その巫女様の名前は?」
「アナスタシア。アナスタシア・ペインというのがその方の名前。とても真面目で誠実な方だよ。きっと、貴女の力にもなってくれるはず。紹介状も書くから、持って行って」
レーネの言葉が、私を後押しした。
もしも切れ痔とその痛みが誰かの手によって奪われているのであれば、それを取り戻さなくてはいけない。
「待っててね。必ず探し出してみせるから」
アナスタシアへの紹介状を書いてくれているレーネの姿を見ながら、私は決意を込めてソッと呟いたのだった。