来訪者
引き戸の境界を越えて、ゆっくりと進む黒い何か。
明らかに生きた人でも動物でもない、最近まで銀次が信じていなかった類の現象だった。
しかし、ここに辿り着くまでに出会った異界や鬼の存在が、その結論に至るまでの敷居を下げていた。
「幽霊・・・?」
それは、人の形をしていた。
ただ、地面に垂直に立つ人の陰ではなく―――陰そのものに手足が、頭がある。つまり腹這いになった人の形の影だ。
しかし銀次が言葉を失ったのは、その不気味さに対してだけではなかった。
影は小さかった。
全長はおよそ1尺ほどだろうか。一抱えもない。
時間を掛けて小さな腕を、足を曲げ伸ばしながら、僅かばかりの距離を着実に前進していく。
こんな速度で、ここまで来るのに一体どれくらいの時間を要したのか。推し量ることも難しい位、途方もない労力をかけてきたのだろう。
そして―――
影の真ん中から漂う紐のようなモノ。
体色と同じ真っ黒く、途中で途切れた太い臍の緒が、腹の辺りから宙に向かってゆらゆらと漂っている。
繋がる先も、支える者も無く、潰えた命綱の名残を漂わせる影の嬰児に、銀次は恐怖よりも先に胸の苦しさを感じていた。
「お前は、何がしたいんだ・・・?」
目の前の怪異は、言葉を放つことなく真っ直ぐに銀次に向かって進んでくる。
そんな所作を見ながら、銀次はいつの日か話半分で聞いた内容を思い出す。
幽霊というのは生前の無念や恨みを晴らしたがっている、と。
この嬰児がどうやって亡くなったのかは想像の付かないところだったが、いつの世も真っ先に貧しさの犠牲になるのは子供である事を銀次は理解している。
恐らく、何らかの口減しなどで、生後間も無く殺されてしまった赤子なのだろう。
仮にその子が幽霊となったなら、どれほどの無念を孕んでいるだろうか。大人の幽霊とは多少異なっていたとしても、似通った感情を持ち合わせているのではないか。
そう想像して、銀次は悲観に暮れる。
恨み辛み、それどころか、自らを死に至らしめた全ての大人達を恨んでいても無理はない。
そしてその責任は少なからず自身にもあると、銀次は思った。
この赤子の死は、救貧であるはずの火鼠の、自分達の至らなさで起きたことに変わりないのだから。
―――この場で生きる俺を祟り殺してやりたいと、そう思ってここに現れたのかもしれない。
しかし、今は死んでやる訳にはいかない。
なぜなら。
「すまねえ。俺は生きて妹を守ってやりたいんだ。」
銀次は地面に膝を付け、目の前まで進んできた影に向かって丁寧に語り掛ける。
哀れなこの嬰児には、出来るだけ真摯に誠実に、優しく接してやりたかった。
しかし、そんな言葉などまるで通じないように、影はそのまま銀次の脚によじ登り始めた。
「う・・・っ。」
触れた部分が氷のように冷たい。
そして見た目以上のずっしりとした重みに、憑り殺されるのかと一瞬身を固くする。
が、影は銀次を憑り殺すことも呪い殺すこともなく、胸元の辺りで止まった。
体を丸めながら心臓の上辺りに頭を載せ、まるで暖を取るようにしがみつく様子は、親のぬくもりを欲する赤子そのもので。
「・・・お前は・・・。」
銀次は己の推測が誤っていたことを察し、そして恥じた。
この子は誰も恨んだり呪ったりなどしていない。むしろ―――
「すまねえ。俺で良ければ、気が済むまで一緒にいてやるからな・・・。」
―――あう・・・キャッキャッ
幻のようにこだまするうれしそうな笑い声が、大人の愛を心から欲していることを示していた。
*****
「これが妹のお美希だ。かわいい寝顔だろう?お前も成長できていればさぞ美人さんに・・・いや、お前男なのか。」
「たかいたかーーい。ハハッ。そんなに楽しいか?」
「外は寒いな。それでこんなに冷え切っちまったのか?袂の中に入ってみろよ。いつもはお美希の特等席だが、今は特別だからな。
そら、あったかいだろう。」
影の嬰児を抱き、小屋の中を歩き回りながら、本来受けるべきだった庇護を出来得る限り再現してやる。
触れ合った嬰児は全身が真っ黒でやわらかく、薄っぺらいが赤子としての重量はある。確かに怪異と言えば怪異だが、手足の動きはまるで新生児のような拙さで、反応は乳児のそれに近い。
冷たいが伸ばした餅のような質感の体を触りながら、銀次はもう一度その体を持ち上げてやる。
『あぅーあ!キャハハハ!』
赤子が喜びそうな動きをしてやる度、頭の奥に不思議な笑い声が響く。
やはりそれが目の前の嬰児の声なのだと、銀次は理解しながらあやし続ける。
相手が幽霊であれ、長い夜を赤子と過ごすことには慣れていたから、それ自体に特に恐れはなかった。
ただ、どうしても気になる一つの懸念があった。それは――――
『ふッ・・・ふええッ』
「ああ、やっぱりそうだよな・・・。」
何事もなく笑っていた嬰児の雲行きが怪しくなってくる。
その所作が示す原因は、空腹だった。
最初の細かい素振りから、そんな気はしていた。だからあやし続けて何とか空腹を気付かせないよう誤魔化していたが、とうとう堪忍袋の緒が切れてしまったらしい。
幽霊であっても腹が空くのか、という驚きを表す間もなく、けたたましい泣き声に翻弄される。
銀次は困り果てた。どうあがいたって乳など用意出来ないのだ。
「すまねえ。乳を飲ませてやれなくて。」
せめてもの代用に水を飲ませようと台所に立つ。
筒の取っ手を倒し、茶碗に水を溜める。
「ん?今度は湯が出るぞ・・・」
さっきまではいくら待っても水しか出なかった筒から、今度はぬるめの湯が流れ出した。
前回と何が違うのか、銀次はよくよく眺めて考える。
取っ手を元に戻し、もう一度倒す。
再び流れ出した水を見て、その手元の特徴が目に入った。
「なるほど、紅と蒼の紋様か。」
右が紅で湯、左が蒼で水。
つまりこの筒は取っ手を倒す向きによって、流れる水の温度を変えることが出来るのだ。
恐ろしく便利な装置だと、銀次は感心してしまう。
こんなものが世の中に普及していけば、至極暮らしやすくなるに違いない。
「この取っ手を考えたやつは天才だな。我が家にもあればお袋が―――。」
喜んだだろうに、と続けようとして口をつぐむ。
考えないようにしていた事が溢れそうになって、銀次は無理矢理目の前の水に集中する。
取っ手を真ん中から紅色よりに少しだけ向けて、倒す。
すると思った通り温水が流れ始めた。人肌までに調節した流水を茶碗の中に貯めて匙ですくい、泣き喚く嬰児の口元へ運ぶ。
真っ黒な口を開けてコクリと嚥下すると、もっと頂戴とばかりに口を開く様子に、銀次は安心した。
「よしよし、お気に召してくれたみたいだな。ついでに風呂にも入っちまうか。」
二度三度と匙を往復させたのち、今度は鉄の盥いっぱいに湯を張り沐浴をする。
そこまで目立った汚れは無かったが、生まれてから一度も湯に入れてもらえなかっただろうという事と、冷えた体を温めてやりたいという気持ちがあったのだ。
温かい湯の中で全身を按摩してやると、よほど気持ちよかったのかそのまま寝息を立て始めた。
「・・・ふふ。こうしていると、まるで生きている赤子と変わらないな。」
銀次は起こさないようにそっと体を拭いて抱き直し、お美希の横の壁に寄りかかって座る。
胸元に抱いた嬰児は、赤子本来の温かさといい匂いがした。
そうして二人分の寝息に囲まれ、銀次はようやく落ち着いた気分になる。乳児の世話特有の慌ただしさから解放されたというのもあるが―――今回は、短期間の間に多くの事がありすぎた。
「・・・疲れたな。」
火鼠の崩壊に、両親の死。助六たちの裏切り。立て続けに起きる、不可思議な出来事。
本来の銀次の器量を越える出来事が、あまりにも重なりすぎていた。
それでも。疲弊しても空腹でも、生きる為には進んでいくしかない。
「お前たちにも、早く乳を飲ませてやらんとな。」
未だ目を覚まさないお美希はもちろん、この嬰児にも、出来るだけ安心できる環境を整えてやりたい。
そういえば、と銀次は思い出す。
「そうだ、お前に名前をやろう。金太郎、なんてどうだ?金が付くなど、俺の名前より箔があると思わないか?」
胸元で眠る子に語り掛けながら、そっと頭を撫でる。
返答のない小さな体に愛撫を続けながら、銀次は今後の計画を思い浮かべた。
夜が明ければやることはたくさんある。
まずは医者や食料問題も早急に解決する必要があるし、その為には小屋の周りの地獄を抜けなくて人里を探さなくては。ああ、明日はお美希も風呂に入れてやりたいな。
まずは―――
疲労した心身が銀次を無意識に夢へと誘い、静かな小屋の中で三人分の寝息が聞こえ始めた頃。
小屋の中がまばゆい光に包まれる。
光の根源は銀次の胸の中。
胸元から零れる光にも、男は気付くことなく眠っている。
『愛されたい』
その一心でこの世に生を受けたはずが、産声を上げた直後、真冬の川に投げ捨てられて死んだ。
愛も温かみも乳も、何も与えられず、呼吸すら許されず、ただ冷たい水に溺れ、死んだ。
『愛されたい。愛されたい。』
満たされることの無い飢餓に苛まれながら、死後に課せられた苦役の意味さえ知らず、抜け出した賽の河原。
果てしない孤独と苦しみの末、ようやく辿り着いた大人の元で、念願のぬくもりと愛を手に入れた。
自分を抱きしめてくれる大人。
お水を飲ませてくれる大人。
温かくしてくれる大人。
それに対する感謝を―――生ある内には習得出来なかった『言葉』を伝えることは叶わなかったけれど。
次、生を受けるときには叶えられるだろうか。
黒く小さなかりそめの肉体が、純白に輝く。
ポロポロとその境界線を崩しながら、ゆっくりと天へ昇っていく。
不自由な体はもう必要ない。
少し名残惜しかったけれど、もうあたたかな肌から離れても、寒くない。
―――十分過ぎるくらい、その心は喜びと幸福に包まれていたから。
行かなきゃ。
上へ。上へ。
小屋の天井を透けて、漆黒の空を抜けて、小さな魂は征く。
純白の残滓が舞う、真っ暗な小屋の中。
銀次は知らずに眠り続ける。