凱旋
けたたましい泣き声がこだまする賽の河原では、まだ正午に差し掛かってもいないのにも関わらず、夕焼けのように赫い空が世界を一色に染めていた。
同じ色をした川のほとりで銀次は竹筒を取り出し、眼下の水面を眺めていた。
斜めに断った筒先を水面に浸し慎重に汲み取った液体は、水とは言い難い粘度でドロリと竹筒に吸い込まれていく。
「本当にこんな水で発芽するのか・・・?」
オウカノヒメに託されたのは何の変哲もない桜の種だ。
こんなベトベトの水を掛けた所で腐り果ててしまいそうな気もするが、地獄の理を知らない銀次はオウカノヒメの言った通りにするしかない。
不気味な液体に出来るだけ触らないように気を付けながら、栓をし、改めて背後を振り返った。
隔離世が灰色しかないのと同様、地獄では見渡す限り赤と黒しかない。しかし離れた所で立つ木藤の前、その場所だけは侵食する世界に抗うように白い塊が地に附している。
用事を一つ片づけた銀次がそこへ向かって歩み寄ると、木藤はまだ納得いかないといった顔で話しかけてきた。
『このような女性が鬼だなんて、にわかに信じがたい現象ではありますね。
どうやら化け物が鎌に集めていた魂が破壊され、解放された事で子供達が目を覚ましたと思われます。
しかし、いつあの姿に戻るかは分からないのですよ?
本当に連れて帰って大丈夫なのでしょうか。また危害を加えてくる可能性があるなら、ここに捨て置くか今の内に討伐するのが良いかと思うのですが。』
そう言いながらも上着を掛けてやる木藤は、訝しげな表情で横たわった女人を覗き込んでいる。
いまだ意識を失ったままの顔は、血の気を失ったように白い。
木藤や餓鬼達が一様に黒い体であるのに対し、そうでない姿なのは麻理子と同じように別の世界から来たのだろうか。
赤一色の禍々しい世界の中で、彼女の横たわる白い体だけが清浄を保っているようだった。
しかし、肝心の鉄蟻に変身する魔道具がまだ見つかっていない。
原因が見つからないようでは、いつまた元の姿に戻ってしまうかと不安になるのも自然だ。
一帯に君臨していた魂を狩り取る恐怖の化け物に、未だ木藤の警戒感は薄れていないようだった。
「そう怖がらなくたっていいと思うぜ。おそらく、麻理子の時と同じだ。きっと自分が暴れていた事すら自覚してない。せっかくなら事情を話して、力になってもらった方がお互いよっぽど有益だ。
それに、もしまた鬼になって暴れる事があれば、俺が出る。それなら安心だろ?」
明らかに納得してなさそうな表情の木藤だったが、最後に付け足した言葉に口を噤む。
銀次の考えでは、この女人も被害者だ。
そして今回見つかっていないとはいえ、鬼に変えられた原因は、麻理子の時と同じ鬼の頭領の持つ魔道具だと踏んでいた。
目の前で連れていかれた時の麻理子も、茫然自失で自分が地獄で暴れていた時の記憶すら無い様子だった。鬼になる前にどういった事情があったのかは不明だが、人型に戻った今、普通に会話は成り立つだろう。
問題は、本人に鬼であったことを伝えるかどうかだが―――
『それならば、教えてやるべきでしょう。罪悪感があったとしても、知らずにいれば必ず報いを受けますから。』
そう言い切った木藤の言葉に、銀次の脳裏に浮かんだ憂慮は吹き飛ばされる。
何を根拠に、とか
どうしてそう思う、とか
軽々しい反論を口にする必要もないほど、事実を知らなかったことで起きた波乱に、心当たりがあったからだ。
「ああ、そうだな。落ち着いたら話してやろう。色々と落ち込むこともあるかも知れないが、その時は助けてやればいいよな。」
木藤の清々しい真っ直ぐさに感謝しながら、銀次は苦笑する。
自分も麻理子が鬼であったことに気付けていたら。
麻理子を鬼であると疑っていたオウカノヒメに、詳しく話を聞いていたら。
始めて地獄で鬼から逃げ出したあの時、あと数秒、地獄に残っていたら。
次々と浮かぶ、たらればの話をすればキリがない。
けれど、せめて自分だけでも麻理子が鬼だと知っていれば、今頃古桜庵で待っていてくれたはずの存在に心が焦がれてやまなかった。
―――きっと今、どこかで麻理子も苦しんでいる。
今の自分にも、これまでしてきたことにも。
それなのに、傍にいてやれない自分がもどかしかった。
「連れて帰るぞ。」
目の前を差して言った言葉だと判断した木藤が、背負子を広げて準備を始める。
しかし、銀次の心には別の女性が描かれていた。
いつか。必ず連れて帰る。
どんな姿だって、見つけ出して連れて帰る。
銀次は知っている。
麻理子がどんなに心優しく、賢く思いやりのある人間かを。
銀次は見てきた。
麻理子がどれだけ正義感に溢れ、餓鬼を救おうとしてきたかを。
だから銀次は諦めない。
目の前で気を失った女人がしでかした罪を目の当たりにしても、それは揺るがない。
麻理子がこれまでどれだけ多くの罪を犯してきたとしても、一緒に背負う覚悟はできていた。
―――麻理子、待ってろ。
強い決意は言葉にすることなく、ただ胸の奥に焼き付けた。
『銀次殿、子供達も連れて帰れるだけ連れていきたいのですが。』
背負子に女人を括り付けた木藤が声を上げた。
銀次も出来るだけ多くの餓鬼達を救いたいと思ってここに来た。しかし―――
「これだけの人数となると、一度に連れていけるのは無理か・・・」
河原に転がっている子供達は皆一様に泣き、体を欠損しているか、そもそも歩けるような年齢に達していない者も多い。
ある程度の手当はして回ったが、全く足りていないのが現状だ。
手つかずの餓鬼や幼すぎる餓鬼達は、未だ地面を這いまわっている状態で、時折歩ける子供も見受けられるが、傷跡を庇って痛みに喘いでいる。
まさしく地獄としか言いようがない様相に、銀次も言葉を失ってしまう。
―――一度、庵に戻ってから往復するというのが最も現実的だろうな。
そして苦悩の末、呟いた言葉が事の発端となってしまう。
「とりあえず、体を欠損した赤子二人を連れて帰る。それから往復して全員回収しよう。それまでは俺の持ってきたメシをここに置いてお――『おじちゃん、ごはん持ってるの?』
銀次の言葉が終わらないうちにその単語を聞き取ったのは、鉄蟻から助けることが出来なかった方の幼子だった。
よく通る声が放った言葉に、周囲の餓鬼達全員が振り返った。
言葉が分かる年齢の子供達の泣き声が一斉に止み、幾許かの静けさが戻る。
硬直した銀次の視界の端で、木藤が逃げろとハンドサインを送っている。
銀次はこの時になってようやく察した。
なぜ、木藤が地獄に食糧を持ってこなかったかを。
『『『『『『ごはん!!!』『たべもの!!!』『ください!ください!』』』』』』
一斉に走ってくる餓鬼達を躱し、押し寄せる餓鬼達に踏まれそうだった赤子を左手に一人、右手に二人抱えて走り出した。
先に背を向けていた木藤を目指し、全力疾走で林に飛び込み、古桜庵を目指す。
「すまねえ!下手打っちまった。」
そもそも、賽の河原と古桜庵の距離はさほど遠くない。
行きは化け物の回避と周辺の把握の為に時間を掛けたが、大人の脚で直線距離を全力で走れば15分ほどでたどり着いてしまう。
それはつまり―――
『にぃに、にいちゃ!おかえりなさい!早かったね!あのね、寝てた子達が起きたよ!トオルくんっていうんだって。それでね・・・どぉしたの?』
背後に感じるたくさんの気配を浴びながら、飛び込んだ出口の先で銀次は木藤に謝り倒した。
水溜まりの前ではチエミと目を覚ました餓鬼の二人が一緒に昼飯を取っていた所らしい。作り置きしていたおにぎりが置かれているのが見える。
トオルと呼ばれていた二歳ほどの餓鬼は人見知りしているらしく、温室の陰に隠れている。しかしもう一人の赤ん坊は我関せずといった顔で、隣のお美希と一緒に哺乳瓶を傾けている所だった。
これから親睦を深める所だっただろうに、せっかくの静かな団欒をぶち壊しにしてしまうことに、銀次は本当に申し訳なかった。
『起きてしまった事は仕方ありません。チエミ、今から他にもたくさんのお友達が来るから、ちょっとだけ手伝いをしてくれないか?』
『ほんとぉ?!わたし、いっぱいお手伝いする!』
「とりあえず今は時間がねぇ!簡単に事情を説明する」
新しいおともだちの来訪に純粋に喜んでいるチエミだが、木藤も銀次もこれから訪れる波乱に戦々恐々としているのだった。
そんな時―――
「う、ううん。ここは・・・・?」
木藤の背負子と一緒に地面に置かれていた女人が目を覚ました所だった。
辺りを見渡し、銀次と木藤、それからチエミ達を眺めて―――自分の体を見下ろす。
背負子に縛り付けられた裸体と、無造作に着せられた上着を凝視して、何かを思ったらしい。
途端に叫び声を上げ始めた。
「きゃあああああああーーー!!」
『ふぁ、ふぁああん!!!』
つられて泣き出す赤子2名、慌てて背負子に縛り付けていた縄を外そうと女人に近づく木藤、その木藤に警戒してより大きな声を上げる女人。びっくりして声も出ないチエミとトオル。
そしてこの間にも迫りくる飢えた餓鬼達の集団。
文字通り阿鼻叫喚の最中、諸問題の当事者である銀次は無礼を百も承知で言い放った。
「とりあえずシャラーーーーーーップ!!」
「俺の名前は銀次、こっちは木藤だ。詳しい話はあとでするが、ここはあの世だ。地獄に落ちてたアンタを拾って・・・今から色々事情があって大量のメシの準備をしなくちゃならねえ。
混乱してる所悪いんだが、まずは手伝ってくれ。な?」
『・・・・。』
縄を外してやろうとしただけなのに絶叫された木藤は若干根に持っているらしく、仏頂面のままだ。
未だ状況が読めず混乱している様子の女人に、代わりに銀次がまくしたてる。
必死に説得する姿が効いたのか、訝し気ながらも肯定のかぶりを振ってくれた。
「手伝い、ですか?それくらいならいいですけど・・・痛ッ。これは・・・。」
何かに気付いたように、女人が不意に髪を梳かす。そしてその手に握られていたのは、2センチ程もある蟻だった。
見覚えのある灰色と紫の色をした蟻は、欠損した脚の代わりに顎の力だけで髪の毛の中にくっついていたらしい。
どうりで見つからなかった訳だ。
「・・・悪ぃが、そいつをこっちによこしてくれねえか?」
まだ息があるソイツを要求する銀次だったが、しかし、当の女人は頭を横に振る。
「嫌・・・です。私、たぶんこの蟻の事知ってます。なにか、なんでだろう。この蟻のそばにいないといけなくて。それに何か思い出せそうな気がする・・・。」
『銀次殿。』
「ああ、そうか。でもな、そいつは危険なんだ。悪い事は言わねえ、今すぐこっちによこしな。」
女人の蟻に対する執着に違和感を感じたのは銀次だけではなかった。
木藤もすっと立ち上がり、無理やりにでも奪い取れるように構える。
雰囲気の変化に表情を強張らせた女人と、語気を強める銀次、警戒する木藤。
三者の緊迫した空気が立ち込めた時、ついに静寂は破られた。
ポチャン。
黒い水面が、見たこともないほど多くの波紋を浮かべて。
『『ごはん』『まんまーー!!』『お腹すいた』『まーーー!!』『ぅあぁぁぁぁん!』』
時間切れを示すたくさんの泣き声と足音が、押し寄せたのだった。




