四組目の来訪者 肆
早過ぎる朝食のあと、一つ残ったオムライスを脱衣所へ運んでみたものの、やはり俊介は眠っているらしく反応は無かった。
仕方なく戻った銀次は、腹が満たされた幼子達と共にもう一度朝寝に入る。
そうして次に目覚めたのは正午前だった。
「貴様ら、一体いつまで眠っておる」
顔面をペチペチと叩く平手に飛び起きると、目の前には機嫌の悪そうなオウカノヒメが立っていた。
自分だけご馳走を食べそびれた上、早朝に叩き起こされたのだから無理もない。
しかしそんな不機嫌をまるっと無視して、銀次は辺りを見渡した。
睡眠力と吸引力に定評のある低反発マットレスの上に転がっているのは、麻理子とお美希、それから年少餓鬼2人組だけだ。
「あれ?ミチルはどこいった?」
「外にフラフラ出ていきおったが。遊びにでも出たのかもしれんの」
「遊びにって・・・まだあの子にそんな精神的余裕がある訳ないだろ。」
あまりに楽観的な発言に脱力する銀次だったが、とにかくミチルの行方が気になる。
そもそもこの辺に遊べるような場所なんてないし、庵の周囲を囲む水溜まりに少しでも触れれば、即座に地獄行きだ。
「ちょっと探してくる。」
残った子供達の眠りを妨げないように、銀次はそっと外へ抜け出した。
古桜庵の周りの敷地はそう広くない。
20歩と足を進めるまでもなく浴室の離れにはたどり着くし、それ以外には大きな倒木があるだけで建物も無い。だから、俊介を見つけた時の様にすぐに見つかった。
しかし、問題はミチルの居場所だった。
「そこで何をしてんだ?」
『・・・・』
敷地の境界を示す黒い水溜まり。
大人の足でも一飛びには辿り着けない大きな水面の先の地面に、ミチルは立っていた。
予想を超える状況に冷や汗を流しながらも、銀次は何でもない風を装って言葉を続けた。
「別に責めてなんかいねえぞ。ちょっと心配しただけさ。外はあぶねぇからな、出かける時は俺らの誰かに知らせてくれると助かる。・・・っていっても喋れないなら、どうやって知らせるかって話だよな。」
『・・・・』
―――どうやって、あちらに渡ったんだ?
無表情のまま、対岸の淵に立つミチルを見つめながら、銀次は思考を巡らせる。
この巨大な黒い水溜まりを通過するには、地獄を通るしかない。
唯一地獄を通らず対岸へ渡る方法としては飛び越えるという手ももあるが、丈の低いミチルには到底不可能な距離だ。
しかも、飛び込んだ位置が短ければ短い程、地獄と出口の距離は長くなる。一体どれほどの時間を掛けて、対岸に辿り着いたのだろうか。
今から水溜まりに飛び込んで追いかけても、距離感の異なる地獄を通ってしまえば、逃げるミチルに追いつく事は難しいだろう。
そうして何より、こうやって庵に背を向けるということはミチルの意思表示を現している訳で。
「どこか別の場所へ、行きたいのか?」
こちらに背を向けて歩き出したミチルに、大きめの声で語り掛ける。
「お前たちに満足してもらえそうな場所を作りたかったんだが、やっぱり駄目だったか。そりゃそうだよな。場所も物も有り合わせを集めただけで、未来の人間からしたら全然ダメらしい。俊介にも不評だった。」
投げやりな自嘲に足を止めて、少しだけこちらを振り返ったミチルは何か言いたげだった。
齢四つほどの幼子がここまで思い詰めている背景を掴みたくて、銀次は疑問を投げつけていく。
「この場所の外に何があるのかは俺もまだよく分からない。だが、俺がここに来るまで歩き続けても人はおろか建物すら見当たらなかった。お前はここ以外に人がいる場所を知ってるか?」
『・・・・』
明らかに否を示す顔だった。
歩みを止めたミチルは今度は砂の上に座り込み、年相応の分かりやすい絶望を表していた。
「なあ、お前はどうして欲しいんだ。何をしたい?頼むから教えてくれ。」
懇願のような問いに、言葉での答えは期待していなかった。
口パクでも、何か身振り手振りでもいいから、とにかくそれを表して欲しかっただけだった。
しかし―――
『・・・・て』
「ん?」
頭の奥に響く特有の音声。
餓鬼特有の異能であっても僅かばかりしか届かないのは、本人の伝えたい意志が関わっているからなのだろう。
それでも、小さな声は確かに届く。
銀次が見つけた時、ミチルは立ち去ろうとせずまだ対岸に立っていたのだ。それは期待だと、銀次は思った。
心のどこかで自分を捕まえて欲しいと、この子は誰がが来るのを待っていたのだと。
『た・・・て』
「教えてくれ、どうして欲しいんだ」
砂に埋もれた脚を抱え込み、顔を上げたミチルに銀次は息を呑む。
『た、すけて』
「待ってろ」
どうしてそんな顔をしているのかは、分からなかった。
けれど、その絶望と恐怖の入り混じった泣き顔を見た瞬間、銀次は飛び出した。
力の限り踏みつけた地面が離れ、体が黒い水面に吸い込まれて。
刹那に視界が切り替わるのも気にせず銀次は走った。
鬼の音は聞こえない。たとえ聞こえたとしても止まる気は無かった。
吐き気のするぬるい風を吸い込み、吐き出して全力で前へ体を送り続ける。五分程の全力疾走ののち、再び反転した世界の先にミチルは座っていた。
明らかな狼狽の表情を浮かべて。
「助けにきたぞ。さぁ、帰ろう」
『あの、その・・・』
「もう大丈夫だ。ん、どうした?」
もしかして、本当に地獄を通って追いかけてくると思っていなかったのか、ミチルは急にオドオドし始めた。
しかし理由は別にあった。
『あのね、喋っちゃダメなの。だからみんなには内緒にして欲しいの』
「・・・?どうしてダメなんだ?皆きっと喜ぶぞ?」
『しゃべったら、また切られる』
短く返された台詞に、銀次は一瞬言葉を失う。
切られる、とは間違いなく自らが受けた暴虐の事だ。
木藤が去って数日は経った。それでもなお消えない強迫観念を残している事実に、銀次は居た堪れない気持ちになる。
「大丈夫だ。木藤はもういないから、喋っても誰も怒ったりなんかしない。もしヤツが戻ってきたとしても、俺が、俺たちが全力で守る。
だから―――安心しろ。」
諭すように語り掛ける銀次に、目を瞬かせたミチルが口を開こうとした時。
『―――あれ?何やってんの?』
対岸の先、浴室の離れの方から俊介が歩いてきていた。
昨日の残りとコーラを片手に古桜庵へ向かう俊介は小腹が空いたのだろうか、籠の中のポテトの欠片を探しては口に運んでいる。
声を掛けてから初めて、銀次達が水たまりの外にいることに気が付いたらしく今度は興味深そうに口の端を歪めた。
『あー。そんなとこにいるって事はもしかして、俺たちの事見捨てて逃げようとしてた?』
「んな訳ないだろ。ただの散歩だよ。ミチルが退屈そうにしてたから、俺の散歩に付き合わせただけだ。」
何が面白いのかニヤニヤ笑いを浮かべる俊介に、銀次はため息を付いて頭を振る。
適当にミチルが逃げようとしていた事は伏せて、散歩に出かけていたことにする。
真実を話した所で、この少年の印象が良くなるとも思えなかったからだ。
『ふーん。退屈そう、ね。ってかそいつの名前、ミチルにしたの?確か別に名前があったと思うけど。』
「そうだろうけど、話が出来ないから呼び名を決めたんだ。もしかして、俊介はこの子の名前を知ってるのか?」
確かに、最初から俊介に名前を聞いていれば名づけの必要も無かった訳だが、当初はそんな余裕も無かったのだから仕方がない。
それならば今名前を教えて貰えたらいいか、と問いを返したが、俊介の反応は芳しくなかった。
『うーん、全然覚えてないや。本人から聞けばいいんじゃない?まあ、喋れるようになったらだけど。
じゃ、僕お腹空いたからご飯食べてくるよ。じゃあね~』
ハハッと笑いながら去っていく俊介はもう会話に興味がないらしい。
片手をヒラヒラと振って背を向けた俊介に、銀次は声を張り上げた。
「オムライスは冷蔵庫に入ってるからなー!電子レンジで温めてから食べるんだぞ!あと、子供達が寝てるから起こすなよーー!!」
遠くから『オカンかよ!』というツッコミが聞こえた気もしたが、銀次は気にせずミチルに向き直る。
確かに、ミチルが喋れるようになったなら聞きたい事が山ほどあった。
真っ先に聞きたい事として、名前があったが―――
「・・・ミチル?」
銀次の腰に頭を埋めたまま震えているミチルが、その日再び声を発することは無かった。
「―――ってなことがあった訳だ。」
ミチルを連れて古桜庵に戻った銀次は、事のあらましを麻理子とオウカノヒメに話した。
俊介はオムライスを平らげたあと、さっさと脱衣所に戻って行ったので、話を聞いているのは起きているミチルを含めて4人だけだ。
当のミチルは銀次の膝に頭を埋めたまま、じっとしている。
哀れな幼子に心を痛める麻理子が、その頭を優しく撫でていた。
「こんなに怖がってるってことは、よっぽど喋れる事を知られたくないのね。」
「ああ。もしかすると、俊介辺りに告げ口されて木藤に痛めつけられた事があるのかもしれんな。あの性格なら平気でやりかねん。」
まだ少し震えているのは、先ほど交わした俊介との会話の余韻もあるのかもしれない。
それほどミチルの負った心の傷は、深い。
「にも関わらず、妾達に話を打ち明けようとは。貴様も鬼畜よのう。このように大人共に打ち明けられて、ミチルも気が気ではなかろうて。」
オウカノヒメの言う事はもっともだった。
言わないで欲しいと言われたことを打ち明けるのは、とても勇気が要った。しかし、繊細な問題だからこそ知らずに地雷を踏むような事を避けたいという気持ちがあった。
だからここに来るまでに、この二人にだけは話せないかと根気強くミチルを説得したのだ。
「とりあえず、ミチルは安心してここで暮らしてくれ。何があっても俺たちが・・・俺が守るからな。」
『・・・・。』
答えは相変わらず沈黙だけだったが、代わりに握りしめられた着物の裾に銀次はしかと頷くのだった。
そこで、そういえばと銀次は思い出す。
「そういえば、ミチルはどうやって水溜まりの対岸まで行ったんだ?よくよく考えたらお前の足じゃどんなに助走をつけて飛んだって、俺の半分の距離も稼げず着水するだろ?
そしたら地獄の道もとてつもなく長くなったと思うんだが・・・」
それは帰り道にも疑問に思っていたことだった。
ミチルを背負って行った走り幅跳びの距離は、行きの距離よりも短くなった。
そのせいで、帰り道はさらに長くなってしまったのだ。
時間にしておよそ一刻ほど。
幸運にも鬼が出なかったせいで何とかなったものの、子供の足で水溜まりを渡ったとしたら、途方もない距離になったはずだ。
それこそ銀次達が朝寝をしている間に対岸に辿り着くなど、到底不可能だろう。
そんな疑問を投げかけられたミチルはすっと立ち上がり、困惑する銀次達を連れて、そのまま古桜庵の外へ出て裏手を指さした。
そこに広がっているのは、だだっ広い黒い水溜まり―――池と言っても差し支えない程の水面が広がっている。
古桜庵を囲む水溜まりの中で、最も面積の広い箇所だった。
通過を諦める程の幅に興味を無くしていた場所で、改めて観察するのは初めてだった。
「え、あれって・・・丸太?」
ミチルが指さした先、浮かんでいた物に気付いたのは麻理子だった。
「ほう、なるほどな」
桜の倒木の一部が池の表面にいくつか浮かんでいた。
どうやらミチルはこの上を渡って対岸へ渡ったらしい。
「なるほどな。こいつを使えば地獄に行かずに向こう岸へ渡れるってか。ちょっと試して見ようぜ!」
ある程度助走を取って、銀次は走りだす。
飛び乗った倒木は沈み込みはしたものの、その浮力を持って持ち直し・・・横転した。
「あ、銀次くん!ゆっくり乗った方がきっと・・・ああっ!」
「うわああああぁ―――!」
銀次の叫びは途中から地獄に木霊するのだった。
「はぁ・・・やはりあやつは阿呆なのか。」




