菓子のレシピ壱:ぷりん
早朝、まだ夜の名残の残る月明かりの下、目が覚めた銀次はその原因である痛みに身を起こした。
硬い板間に寝たせいで、背中全体が張って痛い。
お美希と眠る為に創った布団は、麻理子とエスメラルダが来た当日に譲ってしまい、以降お美希を預けて一人、庵の板間に雑魚寝する生活を続けている。
中々に疲労を感じてきてはいるが、仁の無駄遣いを指摘されたばかりで、新しく寝具を創る事も憚られる。
麻理子達は風呂と脱衣所がついている離れーーープレハブ小屋というらしい。そちらで寝泊まりをしていたが、銀次は一人我慢の生活を続けていた。
「ほんっとにごめん・・・次に仁を授かったら、銀次くんのベット―――寝具を創らせて!未来のテクノロジーの詰まった、すごいやつにするから!」
昨晩のオウカノヒメの話の後、そう力説した麻理子は何やら張り切っていたが、心許ない今の仁では用意出来るのはまだ先になるのだろう。
「未来の寝具ねえ・・・」
正直、この隔離世での生活がここまで長くなると思っていなかった銀次にとって、いい寝具が手に入るのはありがたい話だった。
先日はようやく風呂こそ出来たが、古桜庵にはまだまだ生活に足りない物が多すぎる。
餓鬼達をもてなすだけでなく自分達にも流用できるような、ごく一般家庭の備えを少しずつ揃えていくことが、銀次の中での当面の目標となっていた。
しかし―――
「腹が減ったな。何か食うか。」
空腹に動かされるまま、うっかりそのまま料理を出しそうになった銀次は慌てて頭を振った。
「あぶねぇ。料理は自分で作らないといけねぇんだったな。」
この世界における生命線で、貴重な餓鬼達の心付け。
そんな仁の消費を減らすことが、目下の最優先事項なことに変わりない。
まずは生きた人間3人の食い扶持を節約するために、銀次は必要な知識を思い出そうとするが・・・
「貴様、何か料理が作れるのか?」
「うわっ!!」
急に背後に現れた声に、銀次は飛び上がりそうになる。
振り返ると、洞の淵に腰掛けたオウカノヒメが涼しげな顔でこちらを眺めていた。
「突然話し掛けるんじゃねえ!ただでさえ気配がねえってのに、びっくりするじゃねえか。」
「何故妾が居候の貴様に気を遣ってやらねばならん。
それより答えよ。
貴様は何か料理を作れるのか?」
不遜な態度を隠さないオウカノヒメに、更に馬鹿にされそうな返答をするのも癪で、銀次は無言で目をそらす。
分かりやすいほどの誤魔化しに、首を竦めてオウカノヒメは鼻で笑った。
「使えぬ男よのう。」
自分でも少々感じていた所見を正面から吐かれて、銀次はぐうの音も出ない。
元の世界にいたころは、銀次は御勤ばかりで家の事は妹と弟の世話以外、ほとんどやってこなかった。
特に台所仕事、ましてや料理などは手を付けたことがない。
まさかこんなところで料理の技術を求められるなど思ってもいなかった銀次には、致命的な問題だった。
どうあがいてもその点においてはまったく役に立てないことを自覚しながら、銀次は負け惜しみを吐いた。
「ぐっ・・・お前だって何もできないじゃねえかよ。」
「妾は食べる専門じゃから、問題ない。」
何故か得意げに顔を揺蕩わせるオウカノヒメに青筋を立てながら、銀次は勢いよく冷蔵庫を開けた。
ひんやりとした冷気の中、空っぽの庫内の中央で鎮座するのは、昨日麻理子が創り出したプリンだ。
実体が不完全で食べられず、オウカノヒメが後生大事に収納したその器を掠め取り、仕返しとばかりに中身を口の中へ放り込む。
盗賊稼業で鍛えた早業と共に、憎たらしい性悪へざまぁみろと吐いてやるつもりが、口の中に広がった想定外の風味に、用意していた言葉と別のものがこぼれてしまう。
「う、うめえええっ!」
舌の上でとろける甘味と、ほんのりした苦み。
鼻まで抜けるような香ばしい香りに、体の力が抜けていく。
これまでの人生で、まさしく最上級、最高の美味しさに骨抜きになる銀次と。
その目の前、茫然としたオウカノヒメの顔が憤怒に代わるのと、お美希を抱えた麻理子が扉を開くのと。
全てが同時に引き起こされた、この日の修羅場は長閑にスタートするのだった。
「きさまああああ!!」
「おは・・・ってどうしたの?!やめて!ケンカしないで!ほ、ほらっお美希ちゃんも泣いちゃう・・ってああ!」
「ふぁああああああ!」
「痛てぇ!ッくそ!俺は謝らねぇぞ!こいつがケンカばっかり売ってくるのが悪いんだからな!」
「このっ!許さんぞ!妾のプリンの仇じゃ!このっ!」
******
ようやく全員が落ち着いたのは、日が昇り切ってからだった。
お美希を背負った麻理子が腕を組んで立つ前で、正座するのは銀次とオウカノヒメだ。
「何ゆえ妾がこのような事を・・・。」
「オウカノヒメさん、私も貴方の銀次くんへの態度は良くないと思います。そもそも銀次くんがいなければ貴方はプリンを食べることもできないでしょ?
どうしてそんな意地悪ばっかりするんです?」
「それは・・・こやつが嫌いじゃからだ」
麻理子の説教を正面から受けるオウカノヒメは、子供のようなセリフを吐いて悔しそうに歯噛みしている。
不遜極まりないオウカノヒメではあったが、プリンに固執するあまり、唯一それを創り出せる麻理子に対しては、強く出られないらしい。
そんな様子に、隣で正座しながらもニヤついていた銀次だったが、目ざとく気づいた麻理子に叱られる。
「銀次くんも。勝手に人のモノを食べたら泥棒だよ。ちゃんと謝って。」
「ちょっと待て。俺は元から泥棒稼業を「言い訳はしなくてよろしい!」
至極真っ当なはずの反論を封印されて銀次も押し黙る。
どこか既視感のある状況だと思っていたら、ずっと昔同じように父親に叱られた場面に酷似していた。
こういう時は、下手に言い訳はしない方がいい。
いつかの経験録を心に浮かべて、銀次は無に徹し始める。
「すみませんでした」
「くっ!これでは妾まで謝らねばならぬ流れではないか・・・!」
未だ感情の流し方の未熟なオウカノヒメに、麻理子はダメ押しの一言を投げ掛けた。
「オウカノヒメさん。ちゃんと謝ってくれるなら、またプリン作ってあげますから。ね?」
「うっ・・・」
もはや子供に言い聞かせるような優しい促しに、オウカノヒメは揺さぶられ、ついに頭を僅かばかり前に傾げた。
「す、すまなかったな銀次よ。
これで・・・これで良いじゃろう?」
「素晴らしいです。それじゃあ約束通り、プリンを作りますね。」
途端に顔を輝かせたオウカノヒメは立ち上がり、本当に反省してるのか分からない勢いで台所へ飛んでいく。
「おい、作って貰ったってその体じゃ食えねえだろ・・・」
「このうつけが。体が元に戻ったらすぐに食えるように、いつでも冷蔵庫に準備しておきたいこの気持ちが分からんのか?!」
どんだけ楽しみにしてるんだよ、とも思ったがーーー確かに先程味わったプリンは、確かに信じられないほど美味しく感じられた。
一度知ってしまった味を、何度でも味わいたくなる気持ちは理解出来る。
それこそ長らく生きていて、再び味わえる機会があるならばそこまで貪欲にもなってしまえるのかも知れない。
オウカノヒメの言い分に一定の理解を示しながら、銀次も麻理子へ伺いを立てた。
「おい・・・俺の分も作ってもらえるよな?」
控えめな問いに吹き出した麻理子は、笑いながらも頷いてくれた。
「もちろん。銀次くんにも、作り方教えるね」
麻理子が用意した材料は、鳥の卵と砂糖、牛の乳だけだった。
銀次は牛の乳を使う事に驚きながらも、真面目に手元のメモに書き込んでいく。
「まずは砂糖。何人分か作るからこの匙の5杯分ね。お椀に入れて水に溶かします。デザートは計量が命だから、慣れないうちは全部電子秤を使った方がいいよ。」
数字の表示される未来の秤に材料を乗せる麻理子は、そう念を押す。
銀次としても目分量ではなく決まった適量を教えて貰えるのは有難かった。
材料を数字で管理する事で、料理の出来ない銀次にも同じ事が出来るからだ。
「砂糖水を鍋に入れて、火に掛けます。焦がさないようにね。銀次くん、ちょっとやってみて」
「お、おう。」
言われるがまま竹のへらで鍋の中身をかき混ぜていると、徐々に中の砂糖水がとろみを帯び、茶色くなってきた。
あと少しで焦げるのではないかという所で、麻理子は横から鍋を火から外した。
「プリンはカラメルの火加減が一番難しいのよね。この色を目安にしてね。じゃあ次はボウルに卵を全部入れて、よく混ぜてから砂糖、牛乳を加えます」
説明しながら麻理子は鳥の卵を割り、専用の容器に中身を次々と投入していく。
箸で卵の一部を摘まんで捨てると、別の未来の道具を取り出した。
「ミキサーだよ。デザートづくりにはよく使う家電だから、覚えておいてね」
摘まみを倒すと金属の金具が勢いよく回転し、ぼうるの中の卵を満遍なくかき混ぜていく。
銀次が便利さに関心している横で、麻理子は砂糖と牛の乳を投入した。
この時点で台所には甘い匂いが漂い始めていて、お約束のように誰かの腹が鳴った。
「貴様、プリンはまだできておらんぞ。気が早いのではないか?」
「チッ。俺じゃねえ。」
「ごめんなさい、私です」
「・・・まぁそういうこともあろうな。」
麻理子が顔を赤くしながら、別の材料を創り出した。
小さな黒い瓶に入った液体を、数滴、ぼうるの中へ垂らす。すると嗅いだことのない、甘く芳醇な香りが一帯に広がった。
「これはまた腹を空かせる香りだな」
「これはバニラエッセンスっていうの。ほんの数滴入れるだけで香りが良くなるの。あ、たくさん入れちゃダメだよ?味がおかしくなっちゃうからね」
そう言いながらぼうるの中身を茶漉しに通し、凝りの無くなったことを確認すると、麻理子は小さな小鉢へ砂糖水を入れたのち、かき混ぜた中身を流し込み始めた。
「プリンを作る容器は、特にこだわりが無ければ陶器がいいかな。蒸し器なら何でもいいけど、電子レンジで作るときは金属は使えないからね。」
「金属は使えない、とはどういうことだ?」
「ふん。それなら妾は知っておるぞ。金属を電子レンジに入れると爆発して危険なのじゃろう?」
「そうそう、知ってるなんてさすがオウカノヒメさんですね。」
ふふん、と得意げなオウカノヒメは、褒めて育てられていることに気が付いていないらしい。
横で繰り広げられる児戯を無視して、銀次は電子レンジの注意点も書き足した。
やがてすべての卵液を注ぎ終わった麻理子は、電子レンジの黒い皿に水を張り、その上に小鉢を並べていく。
そしてそのまま中へ入れると、ボタンを操作しだした。
「今回は焼きプリンにしたいので、オーブンで160度で30分くらいで・・・っと」
「つまり、プリンが出来るのは30分後ということか?」
「焼きあがるのはそれくらいかな。そこから冷やすことも考えると、1時間は掛かると思って。」
「意外と時間が掛かるもんなんだな。」
複雑な菓子は手間が掛かる。
調理の様を目の当たりにしたせいで、瞬間的にそんな評価を浮かべた銀次だったが、よくよく考えると元の世界で食べた饅頭や団子などはもっと時間が掛かっていた気がした。
だとすれば、小一時間で出来て、しかも美味なぷりんはかなり優秀な方なんじゃないだろうか。
頭の中で認識を改める銀次に向かって、違う方面から文句が飛ぶ。
「貴様何を言っておる。たかだか一時間でプリンが食えるのだぞ?妾なぞもう果てしなく食べておらんぞ。
ああ、一時間か。口惜しいのう。もっと仁が、体さえあれば一時間後にはあの味を楽しめたものを。」
「オウカノヒメさん、前にも食べたことがあるんですか?」
「そうじゃ。以前ここの庵で食事処を開いておった者がいての。そこでは様々なメニューを出しておった。
その中でも妾はプリンに目がなくての。
今となってはもう食すことなど叶わんと諦めて思っておったが・・・こうして目の前に出されると、欲が出てしまうのう」
「へぇー。お店だったんですね。道理でいろんな料理器具が揃ってると思いました。
その人もここで餓鬼ちゃん達をお客にしてたんですか?」
「そうじゃ。しかしあの頃はここまで餓鬼がくることなど無かったからのう。ほとんど開店休業のような状態だったが。」
そんな事を話している間に、オーブンの中から美味しそうな香りが漂い始め、全員がそわそわし始めた。
「まんまんまー、あー」
お美希も食べ物の匂いに気がついたのか、目を覚ましてキョロキョロと見回し始めた。
指を咥えて分かりやすく空腹を訴えるお美希に、申し訳なさそうに麻理子が言う。
「ごめんね。お美希ちゃんには甘過ぎるし、アレルギーが出るかもしれないから、オススメ出来ないの。」
「アレルギーとな?そのような病魔の類など、妾の力があれば発現などするはずも無かろう。甘さ控えめのモノを作って食べさせてやるが良い。」
「すごい!そんな力があったなら、誰でも食べさせても大丈夫ですね。
それなら、エスメラルダちゃんにも、食べさせてあげたかったなぁ・・・。」
「・・・。」
「・・・ああ、そうだな。」
もしエスメラルダが居たなら、喜んで食べたに違いないだろう。
そんな光景を思い浮かべたのは、銀次だけではなかったらしい。
麻理子の笑顔が翳りを帯びたのを見て、銀次はわざと明るい声を出した。
「よし、俺たちも次来る餓鬼達の為に、たんまり菓子を作っておこうぜ。アイツら皆腹ペコだからな。
もう食い切れねぇってぐらい、用意しようぜ。・・・でもまぁとりあえず。麻理子、次はメシの作り方を教えてくれ。
菓子もいいが、とにかく俺は腹が減ったんだ」
わざとらしく腹を摩ってみせる銀次に、麻理子は口元を緩ませ、オウカノヒメは呆れたようにため息を付き、お美希はキャッキャと笑う。
まだまだ色濃く残る悲しみも、こうやって穏やかな時間が解決してくれればいい。
銀次の願いは一つだった。
麻理子にはいつも笑っていて欲しい。
しかし傷を癒す穏やかな時間が、そう続かない事はこの世の定石でもあって。
『どなたか、おられんか』
開かれた引き戸の外、明るい外光を断絶したような黒いヒトガタ。
新しい来訪者の姿に、一同は静まり返るのだった。