噂の話に気を付けて
ご覧頂きありがとうございます!
「見て、リュカ様よ」
「まぁ、今日も颯爽としてらっしゃるわ、素敵…」
「お姿を見ることが出来るなんて運がいいわ」
昼下がりの王立学院の食堂は、学生達の憩いの場。
令嬢たちが花を咲かせるおしゃべりは、賑わう集団の中心にいる人物の話でもちきりだ。
リュカ・オランド・マリタン。
この国の第三王子、王太子である彼が学生達と談笑している。
優しげな薄茶の髪は少し癖があり、陽の光でキラキラときらめいて目を奪われる。ペリドットのような若草色の瞳には好奇心が溢れ、時折微笑むと目尻が下がる。
その周りには側近と護衛の他、身分や年齢、性別を問わずに、たくさんの学生が彼を慕い集まっている。
「あの方の周りはいつも賑やかね」
「お優しい方だから、多くの人とのふれあいを大切にしているそうよ。身分に関わらず様々な意見を聞いたり、困っている方の相談を受けたり、お声をかけてらっしゃるとか…」
「なんというご立派な信念でしょう。愛のある治世となるのでしょうね」
「そういえば、婚約者の方はなんと言ったかしら?ええと……伯爵家の……」
「幼なじみで、子供の頃から遊んでいらしたとか」
「噂ではまだ辞退なさらないみたいよ?王太子妃に相応しい方が他にいらっしゃるというのに、ねぇ?」
「リュカ様が情が移って婚約破棄に踏み切れない、とも聞いたわ、お優しいから…」
「あら、私はリュカ様がしつこく付きまとわれてウンザリしてるって……レナ?エナ?」
(エマです。私、エマ・ロロットと申します)
噂話をさえずる彼女達の隣で居づらそうに目を伏せながら、エマは内心でそっと自己紹介をした。
濃紺の瞳に灰がかった紫の髪、一見冷たい印象を与える見た目のエマはロロット伯爵家の長女で、リュカの婚約者である。
物静かで派手な事や目立つのが苦手なエマだったが、先日リュカが王太子に立太子されたことにより、一躍噂の的となっている。
事実が少し混ざるだけで、噂の信憑性が上がるようだ。
悪意のあるものもそうでないものも、エマは自分の噂話に辟易していた。
周りに気付かれないようにそっと距離を取ると、そのまま食堂を後にした。
◇
エマがリュカと初めて出会ったのは、学院に入る前の話。
覚えた文字を読むのが楽しくて仕方がないエマは、両親に度々図書館へ連れてきてもらっていた。
ある日、もくもくと絵本を読み漁る彼女の横から、たどたどしく字を追う小さな声が聞こえてきた。エマがこっそり様子を窺うと、すすけた茶色のモシャモシャの毛玉が本を読んでいる。
毛玉がつっかえたり、間違えたりを繰り返すのが気になって、エマはだんだん読書に集中出来なくなっていた。
「『わたし……は、いの、い…ぬと、お、にん、ぎよう、…を』」
「そこは『にんぎょう』よ」
読み間違いに思わず口が出てしまった。
申し訳ない気持ちで顔を向けると、毛玉……らしき少年も口をポカンと開けてこちらを向いていた。
「……おしえてくれてありがとう、ごめんね、うるさかった?」
「ううん、きになっただけ……。きゅうにごめんなさい」
「わ、きみ、すごいね、こんなによめるの?」
少年の声に周りの人々の顔が一斉にこちらに向けられると、エマは慌てて『しーっ』と人差し指を口に当てた。
少年は、彼女の横に積まれた本の量にうっかり驚きの声をあげてしまったのだが、エマからの指摘に急いで両手で口を押さえる。
「あっちのおにわなら、すこしこえもだせるわよ?いってみる?」
小声のエマの誘いに、少年は口を押さえたままブンブンと首を縦に振る。2人は読みたい本を抱えて、館内のサンルームへと向かった。
「『そ、そして…まっかなかな、かぶ、かびんに…』」
「『かばん』よ」
「むずかしいなぁ、すらすらよめるきみはすごいね」
毛玉と思っていたのは彼の髪の毛で、不潔な感じはしないが、伸びっぱなしであまり手入れをされていないように見える。
上流階級の家の子のような服装をしているのに、髪の毛だけが鬱陶しそうにもっさりしていて、何ともちぐはくな印象だ。
白いベンチに2人並んで腰掛けて本を開いたが、エマの方はリュカが気になってなかなか進まない。必死な彼には申し訳ないが、読み間違えがあまりにヘンテコで、おかしくて読書どころではなくなってしまった。
「ねぇ、よかったら、まずわたしがよんでみようか?」
「え!?」
「いやじゃなければ、だけど……」
「……いやなもんか、うれしい!ほんとに?よんでくれるの?」
「うん」
跳び跳ねんばかりの少年は、毛玉のせいで表情はよく見えないがとても嬉しそうだ。
そのあまりの喜びように、エマも思わずにっこりと笑顔になる。それを見ていた少年は、ぴた、と動きを止めて、更にエマを凝視する。
「びっくりした……。てんしかとおもった…」
「えぇ?わたしはにんげんよ?」
こうして2人は何度となく図書館で顔を合わせるようになる。
エマの読み聞かせはすぐに効果が見られ、少年――リュカも1人でスムーズに読めるようになったのだが、彼のたっての希望により、読み聞かせはその後も続けられる事となった。
◇
学院への入学が近付くと、リュカの髪は少しずつ手入れされるようになる。ある程度切り揃えられて香油も使われるようになると、癖の強かった毛玉はすっかり影を潜め、フワリと揺れるほど柔らかい髪になった。
ただ、前髪だけは重たいまま、かすかに瞳が見えるかどうか、といった長さで梳かれ、整えられていた。
「リュカは、どうして前髪を伸ばしているの?」
「ん?」
「その前髪では目に悪いでしょうし、本を読むにも邪魔そうだわ。最近物にぶつかったり、つまずいたりするのも視界が悪いからではないかしら?」
「うーん、痛いとこ突かれたなぁ」
ある日、エマは何とはなしに思ったことをリュカに問いかけた。
もっさりとした前髪が目に悪いのはもちろん、いつも周りから遠巻きにされて友人が少ないし、特に女子からは不人気なのだ。
前髪を重くしている理由があるのだろうが、他に方法はないものか。
読んでいた本を閉じて、考えるような仕草をするリュカに、エマは何か触れてはいけないことを聞いてしまったのかしら、と内心ハラハラする。
こちらをジッと見つめる彼女に気付いたリュカは、フフ、と笑みを漏らした。
「ごめん、心配してくれたんだね。なんて説明したらいいかなと思って。僕がしたいことを、できるように?」
「前髪を切ったら、やりたいことができなくなるの?」
前髪がないとできなくなることって?
なんとも不可思議な回答に考え込むエマの手を、笑顔のリュカが両手で優しく包み込んだ。
「昔はね、僕の眼が目立つから隠せって兄上達に言われてたんだ。けど今は……やりたいことや欲しいものを決して失いたくないから。目立たずに、今のままで居られるように」
「でも…」
「エマは、僕と一緒にいるの、嫌?」
聞いたことがないほどの悲しげな声に驚いたエマは、リュカの言葉を否定する。
「そんなわけないわ……」
「よかった。誰にも邪魔されず、エマとこうして居られるのがとても嬉しいんだよ。これも、僕がやりたいことの1つさ」
前髪を切ると私と居られなくなる、とは?
エマにはそれらが全く関係のない話に思えたが、彼がうっとりと幸せそうなので、リュカがいいならまぁいっか、と納得した。
「私もリュカと居られる時間が大好きよ」
「ん゛っ、うん……良かった…」
花が咲くようにふわりと微笑むエマを見て、リュカの動きが急にギクシャクと落ち着かなくなる。
頬を赤く染めながら、包み込んでいる彼女の手をギュッと握りしめた。
◇
8歳で学院に入学して、エマはあの毛玉のリュカが同い年の第三王子であることを知る。
第三王子は表に出ることが少ない『日陰の王子』と揶揄されており、『兄達に比べてあまりにも出来が悪いので、王家が隠しているのでは?』などと人々の憶測を呼んでいる。
頑なに前髪を切ることを拒むため、『額に大きな傷がある』だとか『二目と見られぬ醜い顔だ』などと囁かれる人物だった。
エマがこれまでの振る舞いが不敬であったと謝罪すると、リュカはその必要はないと受け入れず、これからも以前と同じようにいて欲しいと懇願した。
「いい?エマが不敬だと言うなら、これまで僕に携わったほとんどの人間を処断しなければならない。その者達のためにも、君にはそのままでいて欲しいんだ」
「優しいお言葉嬉しいですが、殿下……」
「ダメダメダメ、敬語も殿下もナシ。これまで通り、仲良しのエマとリュカだよ、いい?」
「う、うう……。リュカ様と呼ばせて欲しい…です……」
モジモジと頬を赤らめて願い出たエマの姿に、リュカは一瞬だけ目を丸くすると、すぐににっこりと口の端を引き上げた。
「あぁ、君の初めての願い事か……。わかった、いいよ」
「良かった…。ありがとうございます、リュカ様」
「敬語や敬称がとれる過程も楽しむのもいいかもしれないし」
「ケイショウ?カテイ?ごめんなさい、聞こえなくて」
「いいんだ、エマは気にしないで。さぁ、今日は何を読む?」
すっかり本の虫となった2人は、昼休みを利用してよく学院の図書室を訪れるようになる。
さすがに図書館のような規模はないが、陽当たりの良い静かな部屋は本のいい匂いがして、心落ち着く場所だ。
学院で出来た友達と過ごすことも増えたけれど、この穏やかな時間はなくならず、2人は親睦を深めていく。
お互いに読みたい本をじっくり読んで、内容についてあれこれ話をするのがとても楽しくて、エマにとってお気に入りの時間となっていた。
リュカの前髪は相変わらずだったが、エマは彼がそうしたいのならそれで良い、と思うようになっていた。
彼に関する噂も耳に入っていたが、それが本当でも嘘でも気にならない。
醜かろうが何であろうが、リュカがエマにとって一緒にいて心地よい人物であることに変わりはないのだから。
◇
「私と、リュカ様が婚約…?」
「うん、今頃ロロット伯には王家から書状が届いてると思うけど、エマには直接話したくて。これは僕の希望だったから、いろいろ頑張ったんだ」
「まぁ………」
婚約話が出たのは、2人が12歳の時。
リュカには優秀な兄が2人いて、5つ上の長兄が王太子となる予定だ。
リュカにも王位継承権はあるものの、将来は臣下に下るか婿入りか、どちらにしても彼が王位に関わる可能性は低い。
エマは彼の第三王子という立場をよくわかっているつもりだ。
婚姻によって勢力の大きな家と結ばれた場合、王位の簒奪やクーデターなどを疑われる事がある。リュカに全くそのつもりがなくとも、小さなことで妙な勘繰りをする者がいるかもしれない。
力をつけて兄の脅威になることのないよう、可もなく不可もないロロット家に白羽の矢が立ったのだろう。
(となると、この婚姻はバランスを取るための政略的なものなのね)
ふむ、とエマがしたり顔をしていると、リュカは立ち上がり、彼女の前に跪いて右手を差し出した。相変わらず重たい前髪からちらりと覗く若草色の眼差しは、真っ直ぐエマを見つめている。
「エマ・ロロット嬢、僕と結婚して欲しい。君とずっと一緒に居たい」
リュカからの言葉に、エマの心がポカポカと温かくなる。
政略ながらも直接申し込んでくれるのは、エマの事を大切に思う、彼の優しさなのだろう。
(仲良しのリュカ様と一緒なら、きっと楽しいわ)
ロロット伯爵家はエマの兄が継ぐため、エマは自分が家のために有益な結婚をするものだと思っていた。
同じ政略結婚でも仲の良い友人に嫁ぐ事が出来るなんて、とても幸せな事ではないか。
そう思い至ったエマは、自然とリュカの手に触れていた。
「はい、私で良ければ…、喜んで」
「やった!ありがとう!もしかして君も……」
「はい、お友達と結婚出来るなんて楽しそうですわ」
彼の言葉に込められた気持ちはどうしても正確に伝わらない。
満面の笑みで残酷な言葉を告げたエマに、感極まって彼女を抱き締めそうになったリュカの手がピタリと止まった。
そのまま少しの間考え込むと、両手で顔を覆い、ぶつぶつと何やら呟いている。
「伝わらなかった、が、想定内。むしろ良い傾向、良い傾向。トモダチ、大丈夫だ、勝負はこれから…」
「リュカ様?私、何か変なことを……?」
「いやいいんだ、大丈夫だよ。なんとなく僕の思ってた通りだから」
何とか立て直して顔をあげたリュカは、いつもの優しげな笑顔だ。
ホッと一息ついたエマの手を取り、指先にさらりと口づけをした。
「り、リュカ様!?」
「受け入れてくれると思ってたよ。…ありがとう、これからもよろしくね」
「えぇ?は、はい…どうしました急に……?」
「もう婚約者だからね、こうなったら立場を有効に使わなきゃ。そうだ、こないだの物語の続きを読んでほしいな?」
これまでとは違う彼の行動に、エマは真っ赤な顔で戸惑いの声をあげた。
ひとまず、企みが上手くいった、とばかりににんまりと微笑んだリュカは、さりげなく彼女の手を引くと、仲良くお目当ての書棚へと向かうのだった。
◇
婚約を結んだ2人は、何の障害もなく、これまで通り仲睦まじく過ごしてきた。
勉学で時間が無くなることもあったが、図書室での時間もできるだけ設けられていた。
17歳になり、いよいよ卒業まであと一年を切ったある日、事件が起きた。
「エマ、落ち着いて聞いて。兄上達2人とも失権する…」
「…え?…」
「どうなるかわからないが、僕を王太子とすると、さっき陛下からお話があった……」
第一王子と第二王子の王位を巡る諍いがこの数年で激化していた。派閥の貴族達に誑かされた第二王子から発端したものであったが、最終的には2人とも王位継承権剥奪の上、長兄は終身幽閉、次兄は鉱山での労働に従事するという救い様のない虚しい結果となった。
事態を確信した様子で、エマはじっと黙って彼の言葉を待つ。
リュカは優しくエマの手を取ると、沈痛な面持ちで思い詰めたように話を始めた。
「僕は、これまでと変わることなく君と居たい。どちらにしろ大変な苦労をかけることになるけど、それでも、エマじゃなきゃ嫌なんだ。お願いだよ、エマ。……そばに居ると言って…」
まだリュカ一緒に居られる、エマは静かに安堵の息を吐いた。
答えはもう決まっている。
彼がこんなにも自分を必要としてくれているのだから。
婚約者となって数年、エマはいつのまにか、勉強家で穏やかなリュカに恋心を抱いていた。
離れたくはないが、どうあっても政略結婚。リュカは幼い頃からずっと変わらずエマを大切にしてくれるが、今の状況なら突然婚約解消されることも充分あり得る話だ。
それを思うと胸がツキンと締め付けられるが、彼の為になることなら堪えられる。
突然のし掛かった大きな責任に、こんなにも不安げな彼の肩の荷を少しでも軽く出来ればいい。
彼から別れを告げられるまで、せめてそれまでは、大好きな人のそばで支えになりたいと決めていた。
エマは神に祈りを捧げるように懇願するリュカの手を握り返す。
「…私でよければ、おそばにいさせてください」
「エマ……ありがとう、よかった…」
リュカは喜びを噛み締めるように、震える声を絞り出した。
両手を包み込んだまま、厚い前髪の向こうからこちらにじっと視線を向けている。
静かに見つめられるのがソワソワして落ち着かないエマは、照れ隠しに明るい声を出した。
「はい、私も及ばずながらお支えしますので、国民に愛される王を目指しましょう」
「………そうだよね。君はそう言うと思った」
赤ら顔のエマの軽口に、リュカの口元に笑みが零れる。
エマの体を引き寄せて、ふわりと優しく抱き締めた。
「リリリリリリリュカ様!恥ずかしい!」
「フフ、エマがいてくれるなら何だってやれるんだよ。君がそれを望むなら、僕は皆に愛される、心優しき王になると誓おう」
◇
――――それが1か月前の話。エマはあれからリュカと会えずにいた。
第三王子リュカが王太子となるという話は瞬く間に国中に広がった。
これまで誰も見向きもしなかった日陰の第三王子、もっさりとした不気味な雰囲気のリュカが王太子なんて出来るものか―――野次馬と冷やかしで彼の元を訪れた人々は、その姿に一様に驚きの表情を浮かべた。
噂は全くの大嘘だった。
長かった前髪は短く整えられ、希望の象徴と言われる黄緑の眼が輝いている。滲み出る品の良さと堂々とした身のこなしも手伝って、容姿端麗で凛々しい王子様がそこにいた。
変身を遂げたリュカの周りにはたくさんの人々が集まるようになる。
登用のための自己アピールや領地の相談、城下の出来事などなど、彼はなるべく多くの人々から話を聞いて、必要ならば力になれるように努めていた。
王子とは思えないほど親身になって話を聞いてくれるので、皆口々に『リュカ様はとてもお優しい』と噂した。
そんなリュカの元に特に熱心に訪れたのは、麗しいご令嬢達であった。
「リュカ様、よろしければ私どものお茶会にいらしてくださいませ」
「すまないね、その日は先約があるんだ」
「家の産業がなかなか軌道に乗りませんの…。なにかいい方法はないものかしら…」
「担当の事務官を派遣するから、相談してみるといいよ」
「リュカ様のお側に居られる女性は、幸せですわね…」
「そうかい?僕の愛する人もそう思ってくれると嬉しいな…」
「私、婚約者の事で悩んでいて……、相談に乗ってくださいませんか?」
「大変だね。でも、僕はあまり役に立てないなぁ。まずはご家族やご友人に話してみては?」
有り体に言って、誘惑である。
『リュカ様は不仲な婚約者と婚約破棄を検討している』という噂に、わかりやすく色めき立つ令嬢達。
『あわよくば婚約者に成り代わる』と目の色を変えて、次から次へとチャンスを獲るため彼の元にやって来る。
そういう類いはのらりくらりとはぐらかすリュカだが、それでも彼女達の勢いは止まらない。
その矛先が彼の婚約者へと向くのに、そう時間は掛からなかった。
◇
「エマ様、そんなに急いでどちらへ?」
「カサンドル様……」
食堂から図書室へ向かう人気のない廊下で、エマは数人の令嬢に囲まれている。
令嬢達を代表するように進み出たダルトワ侯爵家のカサンドル嬢は、その美しい金髪を耳に掛けるとニヤリと微笑んだ。
リュカが王太子となってから、彼女は度々エマの前に現れる。自分の家柄や容姿について自慢げに語ったり、エマの容姿を貶して嘲笑い、思いのままに振る舞って去っていく。
始めは彼女の意図が読めなかったが、最近になりその真意がわかり、対策を考えていた矢先の事だった。
エマは軽く膝を折り、その呼び掛けに応える。
「…何かご用でしょうか?」
「あまりにも空気の読めないあなたに単刀直入に申し上げますけれど、リュカ様の婚約者をさっさと辞退して下さらない?強い力を持たない伯爵家の出のあなたよりも、侯爵家の私の方がリュカ様のお役に立てるし、釣り合いも取れるわ。おわかり頂けて?」
背筋を伸ばして落ち着いた声で言葉を返したエマに、カサンドルはその傲慢な思惑をそのままぶつけてきた。礼を欠いた言い回しと自信たっぷりな表情で、エマの事を軽んじる気配がにじみ出る。
周りの令嬢達の中には先ほど食堂で見た顔もあり、彼女を援護するように攻撃的な口調で後に続く。
「いつまでも周りをうろついているから、お優しいリュカ様が決断出来ないのよ」
「カサンドル様こそ王太子妃に、未来の王妃にふさわしいわ」
「あなたみたいな華のない根暗な娘と政略結婚だなんて、リュカ様がおかわいそう」
「最近は会ってももらえないのでしょう?みじめな真似はおやめなさいな」
「後の事は心配なさらないで。あなたの家と王家にはお父様からお話しして頂くから。あなたにもちゃんとした縁談を用意するつもりよ」
最近、こういった噂があちこちで囁かれている。
『王家が婚約を破棄するようだ』
『王位に相応しいもっと高位の家と繋がるらしい』
『あの娘が過分な地位惜しさに王太子につきまとっている』
その真偽に関わらず、人々は無責任に噂を口にする。
そのうちに、それはまるで真実のように語られて、正しい事であるかのようにジワリと浸透していくのだ。
しかし―――――
「……できません」
「は……?」
「リュカ様が私の事を必要としてくださったから、微力な私でもお支えしていこうと決めたのです。リュカ様から直接お話があるまで、今の立場から退くつもりはありません」
エマは、噂には惑わされない。
もし婚約の解消が必要なら、彼はエマに直接告げてくれるはずだ。
リュカの言葉だけを信じると決めたのだ。
「何ですって!?」
「やっぱり妃という立場が惜しいのね、あさましい…」
「たまたま都合が良かったから選ばれただけのくせに!」
ご令嬢達の罵倒がザクザクと胸に突き刺さる。
きっと何を言っても火に油を注ぐだけ。
エマは早々に立ち去ろうと、彼女達に完璧な淑女の礼をする。
「それでも、私はリュカ様を愛しておりますし、お慕いしております。お話が終わりならば失礼します」
「待ちなさい!この身の程知らずが!」
カサンドルが、手にしていた数冊の本をエマに叩きつけようと振りかぶった。これは避けられないと覚悟したエマはギュッと目を瞑り体を縮ませる。
瞬間、バサバサッと本が何かにぶつかる音がして、優しいぬくもりに体を包まれた。
おそるおそる目を開けると、見慣れた薄茶の柔らかそうな髪と、まだ見慣れないペリドットの瞳がそこにあった。
「あんまり君が遅いから、迎えに来たよ」
「……リュカ様!」
リュカが令嬢達との間に体を入れて、エマを庇うように立っていた。眩しいほどの笑顔を浮かべて腕の中のエマの無事を確認すると、くるりと後ろを振り返る。
「わぁ、醜悪な顔がいっぱい」
先程とは違う冷たい笑顔と共に、リュカは令嬢達に怒りと侮蔑の眼差しを向けた。
そのまま投げつけられた本を拾い、唖然と立ち尽くして動けない持ち主に押し付けるように手渡した。
素早く取って返しいつもの笑顔に戻ると、なすがままのエマの手を取り、スリスリと頬擦りを始める。
「あぁ、僕が今どれだけ嬉しいか、君にわかるかな……。とにかく行こうかエマ。やっと業務が一段落したんだ、ここのところ寂しい想いをさせてごめんねぇ」
王太子の登場に固まる令嬢達をそのままに、リュカはテキパキとエマの手を引いて、この場を離れようとスタスタ歩きだした。
「り、リュカ様!お待ち下さいっ……」
我に返ったカサンドルがリュカ達を引き留めた。
リュカの怒りにあてられた彼女の顔色は悪く、先程までの迫力は失くなっている。
リュカは足を止めると、地の底から響くような不機嫌な声で顔だけを彼女へ向ける。
「何」
「わ、私の方が、その娘よりもお役に立てますわ!家の力も華やかさも、何もかも私の方が上です!どうか、リュカ様のお側に…私をお選び下さい」
「はぁ……?今の見て何とも思わないの?僕と可愛いエマはとっても仲良しなんだけど」
カサンドルのえげつない売り込みに、リュカは呆れ顔でエマの肩を抱く。彼女の願いには応えることなく、イラつきをたっぷり込めた笑顔で語りだした。
「家の力が不足というなら、僕がそれを上回る力を持てば良いだけの話。家格は君の家に比べれば確かに劣るが、まぁ君はそこしか誇るところがなかったんだろう?優秀なエマは周辺国の言葉を僕と一緒にマスターしているし、各国の歴史や文化もしっかりと頭に入っているから、国の代表として僕の隣に立つのにとても相応しい。マナーや教養は言わずもがな、運動だけは少し苦手だけど、他の能力については申し分ない。普段は静かでとても優しいけど、本の話になると夢中になっちゃうのとかすごく微笑ましいし、たまに見せる笑顔の破壊力はハンパないし、照れた顔なんて可愛すぎて誰にも見せたくないよね。あと『華がない』なんて聞こえたけど、ゴテゴテ飾るのは華とは言わないよ。そういうのは『品がない』っていうんだ」
「……リュカ様…?少し落ち着きましょう…」
流れるように次々と紡がれる悪態と、自分に対する盛り気味の称賛の声に焦ったエマがそっと苦言を呈する。
「この婚約はそもそも僕の希望で叶ったことだ。君達わかってる?これは政略結婚なんかじゃない。僕がエマを求めているんだから」
「……えっ?」
リュカの言葉にカサンドルは憎々しげに眉を寄せて顔を背けた。
ご令嬢達は事実とは違う話を聞かされていたらしく、自分達の過ちに気付いて顔を青白くさせている。
リュカは言葉の穏やかさとは真逆の、威圧のある眼差しを彼女達に向けた。
「さて、君達は未来の王妃であるエマに何をしたのかな?」
「―――――ひ!!」
「これは重罪だ、君達だけの罪じゃない。家の存続だって危ういかもしれない。何しろ将来の王妃の失脚を狙って悪評を流し、あまつさえ本を投げ付けて傷を負わせようとしたんだからね……」
「そっ…、そんなつもりは……。私共も騙されて」
「発言を許した覚えはないよ。おおかた、話の真偽すら確めずにおもしろがって噂を広めたんだろう?騙された、なんて言えないよねぇ」
「お待ち下さい、リュカ様」
いつもの王子様の様相はどこへやら、恐ろしい悪役のような顔でニヤニヤと呟くリュカに、エマが静かに声をかけた。
思わぬ声に驚いた令嬢達は、自分達の未来がかかった2人のやりとりを固唾を飲んで見守っている。
「元はと言えば、私にも責任はあるのです。『噂は間違っている』と、毅然とお伝えすれば、きっとここまでにはならなかった筈ですわ」
「しかしこのままでは!君が傷付けられる所だったんだ、僕の大切な、愛してやまないエマが……」
「ん゛っ…………。で、では彼女達には『噂の上書き』をお願いしてはいかがでしょうか?『婚約の解消はない』と噂話に乗せていただくのです。そうすれば、間違った情報に踊らされる方も少なくなるのではないでしょうか?」
「エマは優しいな……よし!彼女達がきちんとやり遂げたら、今回の事は不問にしよう。『王太子リュカと婚約者エマは恋仲でとても仲睦まじく、エマは才女でとても可愛い』という真実を、国中に広めてもらおうね」
「こっ、後半は……いらないですわね」
子供のように無邪気に、どこかウキウキと嬉しそうなリュカと、そんな彼を恥ずかしそうになだめる穏やかな表情のエマはとても親しげで、不仲というのが間違いであるのは一目瞭然だ。
それを目の当たりにした令嬢達は、カサンドルの嘘と巷の噂を安易に信じ、広めてしまった事を恥じた。
始めは『噂の上書き』などという処罰でもなんでもない量刑に戸惑ったが、自分達のせいで片身の狭い思いをしたにも関わらず、窮地を救ってくれた慈悲深いエマのため、不名誉な噂を根絶やしにすると心に誓う。
エマにこれまでの事を謝罪し、『エマ様はとにかく素晴らしい』と、今後は王家を…というよりもエマを盛りたてていくと、令嬢達誰しもが決意を固めるのだった。
1人を除いて――――
「……何が上書きよ…、何が恋仲よ」
苛立ちで声を震わせるカサンドルが、忌まわしげにエマを睨み付ける。
涼しい顔のリュカがすかさずエマを背中に庇い立つが、エマがそれを抑えて彼の横に並び立つ。その行為もカサンドルにとっては腹立たしいのか、表情の険しさが増した。
「あなたみたいに見栄えのしない娘が、国の女性の頂点に立つなんてあり得ないでしょう?嫌な思いをする前に忠告してやったのに」
「ご忠告は感謝申し上げます。しかし、私は見栄えだけが女性の全てだとは思っておりません。王妃となれば尚の事、学ぶべき事はまだまだたくさんあります。私なりにリュカ様をお支え出来るよう努力致しますわ」
「―――――!」
ギリリ、と音がしそうなほど顔を歪めたカサンドルは、その場を去ろうとくるりと踵を返した。
「今頃君の父上が、陛下に謁見している頃だと思うよ」
今度はリュカが声を掛け、彼女を引き留めた。
その言葉にピタリと動きを止め、カサンドルが背を向けたままゆっくりと返事をする。
「―――どういうこと、でしょう?」
「僕の婚約者に関する噂の発信源は、君だろう?」
ケロリとリュカが核心を突くと、周りの空気が固まった。
返事の代わりに振り向いたカサンドルに、リュカはそのまま話を続ける。
「エマに関する噂を調べてたら、捨て置けない情報が入ったんだ。『ダルトワ侯爵家がエマ嬢を害して、娘を王太子の隣に据えたいと狙っている』とね」
「な…」
衝撃的な言葉に、場の緊張が高まる。
令嬢達は信じられないものを見るような目でカサンドルを見つめる。
カサンドルもショックを隠しきれず、動揺しながらも弁解を始めた。
「……知りません、私は…、私は何もしてませんわ!」
「ダルトワ家の総意なのかは確認するとしても、何もしてない、はないんじゃない?さっきの見てたし、最近エマの周りをウロチョロしてたでしょ?僕は噂を鵜呑みにはしないから、ある程度裏も取ったしね」
リュカは淡々と無表情で一見平坦に見えるが、視線の圧が凄まじい。内に秘めた激しい怒りがじわじわと溢れ出て、カサンドルを少しずつ追い詰めていく。
「…でも、害してはおりませんわ!」
「全部事前に阻止しているからね。池に突き落とそうとしたり、階段で転ばせようとしたり、怪我を負わせるつもりでやろうとしたことだろう?言い逃れは出来ない」
「そっ、それは、ちょっと脅かそうとしただけで……」
「自分のしたことがどういう結果になるのか考えられないの?想像することも出来ないなんて、本当どうしようもないな」
「ヒッ」
会えなくとも、連絡は欠かさず取っていた。
エマの周りで不穏な動きがあるかもしれないから護衛を入れるね、とリュカから手紙が届いていた。人が側に居る気配は感じられなかったが、どうやら気付かぬうちに護られていたらしい。
「君を王妃にというのはどうあっても叶わないよ。僕は陛下に、エマと結婚出来ないなら王位は継がないと言ったんだ。僕の即位は、エマとの結婚が大前提なのさ」
騒ぎを聞き付けたのか、ちらほらと人が集まっていた。
リュカの護衛達も後ろに控えている。
何もできずに立ち尽くし、はくはくと口を動かすだけのカサンドルに近づいたリュカは、彼女にだけ届く程度の声で囁いた。
「本当はここで今すぐ処分してやりたいけど、エマにそんなの見せるわけにはいかないから。彼女を攻撃した罪はきっちり償ってもらうので、そのつもりで」
へたりと、糸が切れたようにカサンドルがその場に崩れ落ち、茫然とした様子でただ空を見つめていた。
◇
――――こんなはずではなかった
出来損ないの、日陰の第三王子。
薄気味悪いと見下していた彼が美麗で爽やかな王太子となり、その隣には自分よりも格下の令嬢が婚約者として寄り添っている。
カサンドルは不満だった。
あんなに綺麗な顔を隠しているなんて思わなかった。ひどい。
あの娘はその事を知っていたに違いない。ずるい。
私が始めから彼の顔の秘密を知っていれば、あの席は私の場所だったはずなのに。
そうだわ、退けてもらおう。今からでも遅くない。
未来の王妃なんて、あの娘の器ではないもの。
悪い評判で孤立させて、少し脅かせばすぐに尻尾を巻いて逃げ出すわ。
そうすれば私がこの国の女性のトップになれる。
リュカ様も私のように美しく華やかな王妃がいれば、喜んで下さるに違いない――――
カサンドルの自己中心的な思惑は、計画というにはあまりにお粗末で幼稚なものであったが、王族に係わる人物に対しての暴挙であると判断された。
一連の出来事にダルトワ侯爵家の関与は見られなかったが、カサンドルの父親である侯爵はその責を取り、家督を遠縁に譲り退任した。
カサンドル本人は最後まで『こんなつもりじゃなかった』と、自分に罪はないと訴えたが、国の最北端にある戒律の厳しい修道院に入ることとなった。
カサンドルの側にいた令嬢達は『噂の上書き』に懸命に取り組んだ。現場を目撃していた者も居たためか、信憑性の高い話としてたちどころに人々へ拡がっていった。
『リュカ様とその婚約者エマ様は仲睦まじい』という話が周知の事実とされる頃、上書きをやり遂げたとして晴れて無罪放免となったのだった。
◇
「……いつから、聞いていらしたのですか?」
「そうだねぇ、エマがあの子に挨拶してるときかな」
「……ほとんど始めから、ですわね」
騒動の数日後、いつもの図書室ではなく王宮のサンルームに招かれたエマは、リュカから事の顛末について報告を受けていた。
「彼女達が君に何を言うのかなって。案の定僕達が政略結婚だとか訳のわからないことを言い出したから、ダメだこりゃ、と思ったよ」
「そ、そうですか……」
「でも、まさかあの場で君から『僕を愛している』なんて言葉が聞けるとは思わなかったな、嬉しかった」
「ぐっ…」
「でも今日はどうして、そんなに離れて座っているんだい?」
「だっ、だって」
「僕の顔もちっとも見てくれないし、何が恥ずかしいのかな?」
ニッコリと優しいけれど、迫るような空気を含ませてリュカが問い掛ける。
座り心地のよい大きなソファの端と端に、それぞれ腰を下ろしているため、2人の間には大きくスペースが空いているのだ。
バレてた!エマは赤くなった顔を両手で覆い隠す。
だって、エマは知らなかった。
この関係が政略ではなく、リュカがエマを望んだ事だったなんて。
あの日、リュカの言葉を聞いて、令嬢達と一緒に驚きの声をあげたくらいだ。
(私の気持ちを知られてしまった!いやそれよりも、リュカ様も同じ気持ちでいてくれたの?)
嬉しい予感にエマの胸がずっと高鳴っていて、リュカの顔をまともに見られない。
ちらりと指の隙間から覗くと、いつの間にか距離を縮めてきたリュカが隣に居る。ニコニコと幸せそうに微笑みながら、エマの背中に腕を回し、涙目のエマのこめかみの辺りに口付けた。
「わぁ、エマ、耳まで真っ赤だ」
「――お、お戯れが過ぎます!」
「びっくりした?」
リュカは悪戯っぽい笑顔を浮かべて、エマの肩を引き寄せる。これまでにない攻められ方に、エマはとっくにいっぱいいっぱいだ。目一杯うろたえながら、彼に訴える。
「わ、私もてっきり、政略的な婚姻だと…」
「ふむ」
「リュカ様は、いつだって私に優しくて」
「ほぅ」
「初めて、会った時から、変わらなかったし」
「だから、仲のよい友人同士の政略結婚だと思っていた、ということ?」
「うぅ………は、はい」
「それはいけない!」
するりと無駄のない動きで、リュカの手がエマの頬に優しく添えられた。顔の距離が更に縮まり、彼とがっちりと視線が合う。
とても優しくていい笑顔のリュカなのに、何故か彼の眼差しが肉食獣のそれに見えてきた。エマは狙われる小動物の気持ちだ。
「僕の愛情表現が足りていなかったからに違いない!君の気持ちもわかったからもう遠慮することもないし、大丈夫!これからみっちりと教えてあげるからね」
◇
リュカはずっと孤独だった。
美しい顔立ちのリュカを疎んだ兄2人が、彼が目立つことがないようにあらゆる場面で妨害した。使用人に手を回して身仕度をさせなかったり、家庭教師の授業が受けられなかったのもそのせいだ。
両親も兄達の言葉ばかりを取り上げて、まだ幼いリュカの話を聞こうともしない。『日陰の王子』の噂もこの頃から聞かれるようになった。おそらく兄達が流布したのだろう。
誰も彼も自分を見ようともしない、捨て置かれたような暗い日々、そんなときに出会ったのがエマだった。
リュカの希望と幸福の全てが、彼女にあった。一緒にいると春の日差しのように暖かくて、エマが笑うと胸の奥がくすぐったい。
この甘く痺れるような幸せを手放したくない。
彼女とずっと一緒にいるためにはどうしたらいいか、リュカはその事ばかり考えるようになる。
兄達は口は上手いが凡庸だった。リュカが目立たずにいればおとなしくしているだろう。これまでのように髪を伸ばして、従順なフリをしていればいい。
この状況に慣れてしまったリュカにとって、それはとても簡単な事だった。
『リュカの婚約者なら、どんな名前で呼んでやろうか』
ようやく彼女との婚約話がまとまった頃、兄達がボソボソと話しているのが聞こえてきた。
エマをリュカと同じように貶めるつもりなのか、醜く顔を歪めてニヤニヤと笑っている。
感じた事のない、悪寒のようにざわざわとした感覚が沸き上がった。嫌悪と怒りがぐるぐる混ざり合って、破裂してしまいそうだ。
僕と同じように、彼女の事を虐げる?
そんなこと、させるわけがないだろう。
その腐った口で、エマを語るな。
このままではいけない、守らなければ――――
少しすると、兄達の仲が険悪になってきた。
何でも第二王子が王位の簒奪を狙っていると、真しやかな噂が囁かれているらしい。
最終的に取り返しのつかないほどの争いとなり、互いに身を滅ぼすこととなった。
リュカは何もしていない。
権力志向の強い第二王子について、人前でうっかり溢してしまったが、それだけのこと。
ほんのひと匙の不安は、面白いほど大きく広がった。
噂に乗せられたのか、元々王位を狙っていたのかは知らないが、最初からお互いに信頼などなかったのだろう。
王に頭を下げられ、王太子となるよう告げられた時、リュカの頭をよぎったのはエマの事だった。
リュカがいずれ王位に就く事をどう思うだろう。
慎み深すぎるエマの事だから、身を引こうとするのではないだろうか。手に取るように簡単に想像できて、リュカは青ざめた。
エマの返答次第では、王位継承権を放棄しよう―――
彼にとって何より大事なのは彼女の事だけで、王位も国も、他の事はどうでもいいことだった。
離れることだけは、なんとしても阻止しなければならない。
心許なく不安げなリュカに、エマは女神のように微笑んで、側で支えると約束してくれた。
何の迷いもなく、リュカが王位に就くことを信じて『国民に愛される王』になって欲しいと笑ってくれた。
君が望むなら必ず叶えよう。賢王だろうが暴君だろうが容易い事だ―――
◇
「そろそろ、僕がどれだけ君を愛しているか、伝わったかな」
いつの間にか、エマを横抱きにして抱えるように腕の中に閉じ込めたリュカが、満足そうににんまりと笑う。
彼はこの状態で、先程から彼女に切々と愛の言葉を囁き続けている。
彼に身を任せている状態のエマは、どうしてこうなったのか全くわからずただ戸惑い、今にも火を吹きそうなほど顔を真っ赤にしている。
だがこれで彼の気持ちはしっかりと理解したつもりだ。
顔のあちこちに口づけを落とされるので、もう政略結婚などと二度と言うまい。
「そういえば、エマが僕の事をお慕いしてるって、直接は言ってくれないの?」
「え?」
エマの頭にペッタリと頬を貼り付けて、口を尖らせながらリュカがボソリと呟いた。
拗ねたような口ぶりが珍しくて、ふと彼の顔を下から覗き込んだ。
エマだって、こんなにも愛を示してくれたリュカに気持ちを伝えたいと思っているけれど、いざ本人を目の前にすると恥ずかしいのはもちろん、どう切り出していいのかもわからない。
しかし、彼にそんな風に望まれれば、そうも言っていられない。
顔から耳から、目に見えるところは全て赤くしたエマが、照れた顔を隠すように俯いた。
「あ、あの…」
「なにかな?」
「私…、も、リュカ様をずっと、お慕いしていました……よ?」
「………」
「……あの…?」
反応がないので顔を上げると、逆に囲いこむように覗き込まれる。
リュカはニヤリと妖しく笑うと、繊細なガラス細工に触れるように、優しくエマの頬に触れた。
照れくさくて、恥ずかしくて仕方ないのに、彼に捕らえられたように視線を外せない。
「僕も好きだよ、出会った時からずっとね」
「出会っ、あ…」
うっとりとした妖艶な微笑みが近付いてきて、エマは思わず目を閉じた。
軽くなった前髪がエマの顔に触れ、唇をついばまれるような優しい感触。それが口づけだと気付いた瞬間、エマの顔の温度が急激に上がっていく。
若草の眼を少しだけ潤ませたリュカは、何でも無いことのように静かに、エマを囲う腕の力を少し強めた。
「……この分だと、『王太子は婚約者に骨抜きにされてる』とか、噂が立っちゃうかもね……、まぁ、いっか!」
「い、いけません!」
エマの頭上にアゴを乗せてぼやくリュカを慌てて窘める。そんな彼女の脳内に、ある思いがサッとよぎる。
(そんな甘い噂が流れるなら、……まぁ……ちょっとは……?って)
頭に浮かんだとんでもない考えが堪らなく恥ずかしくなり、エマは振り払うように一心にかぶりを振るのだった。
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