筆
日没までに書いてやる。
僕の寝室の窓は西側へ開いている。冬至を越したばかりの日はぐんぐん沈む。
クリスマスという文化が成立した当時、今日と明日の境界線は日の出でも午前0時でもなく日没だったそうだ。だから、クリスマスと呼べる時間は、今日、2019年12月25日の日没まで、と、文化の源を最大限に尊重すれば、そうなるらしい。
きっとこれは日本に限った話では無いのだろうが、他国の文化を取り入れる時、どうしてもその過程でおかしな出来事が起きる。土着文化と混ざって歪んだり、言語が混ざっておかしな名前がついたり。例えばそう、筆ペンなどは最たる例ではないだろうか。
『筆』も『ペン』も本来全く同じく『書くもの』という意味合いだったはずだ。鉛筆のことを硬筆と読んだり、万年筆という名称があったりといった所から、その様子は伺える。だが、時代が流れ、いつの間にか『筆』といえば『毛筆』のみを刺しているようなイメージが定着し、結果、『毛筆のような文字が書けるが毛筆ではない書くもの』という意味合いで『筆ペン』という新しい体現が成立したのだろう。
今のは僕の勝手な妄想だが、話の主題はそこではない。そうだ、筆ペンだ。
「クリスマスまでには郵送で返すよ」
とは、二学期の終わる終業式前、同じクラスの女子が発した言葉である。
事の発端は、終業式の4日ほど前。僕は同じクラスのとある女子に筆ペンを貸した。貸した理由は重要ではない。重要なのは、貸した後、僕がその日のうちに返してもらうのを忘れてしまったということ。それと、彼女がそれ以降、終業式までの間学校へ来なかったということ、この2点だ。結果、僕は終業式まで、筆ペンを返してもらう機会を逃してしまった。
そんな事態になってしまった原因。つまり、彼女が長い間学校を休まざるを得なかった原因を僕はよく知らない。ただ、彼女が以前、クラスチャットで用いていたLINEのアカウントを削除した理由なら、終業式の日、彼女と彼女と近しい男子たちが教えてくれた。
「ーーでも、郵送する、っていうと手間もかかるし、何かぐだったりもたついたりしてしまうとまずい。連絡先が欲しいんだけど。ーーていうか、LINEのアカウント消してたでしょ」
と言う僕に対して、彼らは、何かを訂正しようと弁明するときに浮かべる苦笑に近いような笑いと一緒に説明した。
「コイツの彼氏がさ、束縛強いから」
「あぁーー、なるほど……」
彼氏、が誰のことを指しているのかは、彼らが冗談交じりに名前を口走る以前から察しがついた。もう半年くらい前、同じ系列校の通信制高校へ転入した男子だ。
彼が彼女を束縛する、と言うような様子は容易に想像がつく。ツイッターのアカウントはフォローしているのでたまに彼のツイートが流れてくるが、たまに、喫煙や飲酒を匂わせるようなものがあった。
彼が通信制の方へ行ってしまう以前にあった様々な出来事から、彼が本当は弱い人間で、それを取り繕うために不良のようなそぶりを見せている、ということは分かっていた。きっとそういう人間は全国どこの高校へ行ってもいるのだろう。そんな彼のことを僕は悪く思っていなかった。だから、非行を匂わせるツイートが流れてきた時に一度だけ、それをやんわりと止めるようなリプライを送った。いいねの一つも帰って来なかったが。
「でも、連絡手段がないようだったら、やっぱり郵送なんていう回りくどい方法は危ないよ。直接会って受け渡すことはできないん?」
「いやな、ママがいつ帰ってくるんかわからんくて、帰ってきたら地元、行かなあかんのよ。だから、私がいつまで大阪に居られるかどうかわからんくて……」
そうかぁ…… と項垂れる僕に対して、「あ、でも電話なら大丈夫だから」と彼女が言うので、結局その日は互いの電話番号を交換し、そう言う話で決着した。
そして今、4時24分。該物は未だ届かない。今日の日没は4時50分程度だ、もう30分たらずで日は落ちる。クリスマスの。ーー期限の余裕はもうなくなってきていた。
彼女へ直接電話してやろうかと考え、電話アプリを開き、連絡先欄の中、彼女の番号まで指を動かした。ーー今日へ至るまで、何度も。
しかしそのたび、彼女の背景にある、僕の知り得ない、得体の知れない不幸な色が見えて、躊躇って、画面を落とした。
思えば、僕や彼女や、その周りにいる人間たちは、自分を悪い人間だとか何だとか言っておきながら、意外と義理堅い人間たちだ。たかだか筆ペン一本で、郵送だの、催促だの、『貸し借り』としてできる限り尊重した態度をここまで見せている。
そんな発想は、僕の中に最近巣食い始めた性善説的な価値観に栄養を与えるだけだった。結局、クリスマスが終わろうとしている今なお、インターホンのなる気配は無い。
世間はクリスマス一色。タイムラインは幸福を彩る話題で埋め尽くされている。
そんな世界の、裏側のように思えて、実は全く同じ空の下。同じ季節を、同じ夕日を感じられる場所で、彼女たちのように不幸の渦中にあって、それでも懸命に笑っている人たちがいる。
それを、忘れないでほしい。
だから僕は今、キーボードという筆をとっている。
ーーさて。この夕日が沈んだら。大阪のコンクリートジャングルが太陽を隠したら、クリスマスは終わりだ。その時になったら、催促の電話を入れてやろう。「クリスマスプレゼントがまだ届いていないようだけれど」って。
16時48分46秒。クリスマスの最期より。