益井への便り
入学式というイベントはしばしば桜と結びつけられてイメージされるが、雪深い地方都市であるこの川北市においては、それは実態とかけ離れていると言わざるを得なかった。
まだ雪の残るコンクリートの道を、およそ新たな門出とは思えないような顔で歩く男、それがおれである。
浮かぬ顔なのも当然、これから入学するこの川北照石高校は、第一志望の高校ではなかったからだ。
嗚呼憧れの川北市立第一高校よ。なぜ私を落としたもうたのだ。
夢破れ、在るのはただヤンキー高校として名高い川北照石高校のみ。これでは登校初日からため息をつくのは無理もない。
そう、今日は登校初日なのだ。
川北照石高校は仏教系の私立高校で、入学式はお釈迦様の誕生日の4月8日に行われる。灌仏会だとか花まつりだとか呼ばれる日らしく、有り体に言えば仏教のクリスマスだ。
といってもナザレのイエスさまの誕生日と違って、この国におけるゴータマ何某の誕生日は七面鳥みたいなご馳走も出なければ、不思議なジイさんがプレゼントを持ってくるみたいな話も聞かない淋しいものだ。
そんな日を入学式の日に無理矢理合わせた弊害か、おれたちは実際に入学式が行われる数日前に初登校の日を迎えなくてはいけなかった。
全く風情もあったものではない。
そして後に我々が立ち向かうこととなる、川北照石高校のおぞましい実態の片鱗は、この初登校の日に既に顕現していたのだ。
始めにそれに気づいたのは、益井信太郎という男だった。
浅黒い肌に陽気でお調子者の性格、さながらハリウッド映画に出てくるムードメーカー役の黒人である。
そんな益井は最初にクラスの注目を集めた。
我々にはかねてより初登校までにやっておくよう指示された宿題が出されていた。
ヤンキー高の川北照石高校とはいえ、1~5組と違い勉強に力を入れた特別進学コースの6組である。
当然、この程度全員が済ませて来ているはずであった。
ただ益井信太郎を除いては。
教卓の前まで行き、担任の藪内康司に「忘れました!」と力強く宣言した益井は、そのままなに食わぬ顔で悠然と自分の席に戻っていった。
教室全体が畏敬の念で覆われ、そこにところどころ嘲笑や侮蔑が水滴のように滴り落ち波紋のように広がる。
そんな異様な空気もどこ吹く風で益井は席に着く。
だが背もたれに背中を預けようとしたその刹那、彼の体は大きく後ろに仰け反った。
本来人間工学に基づいて強力な素材で造られるはずの学校用の椅子が、その背もたれが、根本から見事なまでに折れていた。
益井は痩せぎすの男であり、背もたれにかかる荷重はそれほどとは思えない。
この奇妙な出来事はなんとなく、彼の行く末の不吉を暗示しているようだった。
だがそれだけではなかった。
藪内教諭が持ってきた代わりの椅子でひとまずその場は収まったが、いざ掃除という折になって椅子を机の上にようとした益井は見てしまった。
『君の瞳に乾杯
ファントム』
益井の椅子の座面の裏には、このような意味不明の文字が描かれていた。
文字の色は強いて言うなら青っぽい黒であり、字体は線虫の如くうねっており読むのがやっとという様相だった。
皆が気味悪がる中、益井は持ち前の能天気さを発揮し、
「ファントムから俺に向けてのメッセージだ、ははは」
といったような解釈を披露していた。
その場の教室の淀んだ空気は彼のおかげで幾分か和らいだものの、この高校の底知れぬ不気味さは、いずれおぞましい実態への確信という形で結実していく。
この出来事は、我々が感じた最初の違和感であり、異物感であったのだ。