狂人学生
僕は意を決して扉を開いた。すると4人部屋らしい大部屋に、1つだけ埋まっているベッドがあった。そこに向かって震える声で声をかける。
「や、ヤァ、久しぶりだね。見舞いにきてあげたよ」
仲澤はペンを動かす手をとめてこちらを向いた。どうやらノートに先程の意味不明瞭な単語群を書き付けていたようだ。
「オォ、尊師じゃないか。」
この『尊師』というのは僕の高校時代の渾名だ。いつ、どんな理由でそうなったかは誰も覚えていないが、今でもみんなそう呼ぶ。
「ちょうどよかった、すまないがシャーペンを貸してくれ。」
「え?ああ、ごめん。いま筆記用具は持っていないんだ。」
よく見てみると、ノートの傍らには十数本の筆記用具が散らばっていた。もしや目につく人全てにペンをせがんでいるのだろうか。
「何のためにそんなに筆記用具を借りているんだ?そのノートに書いている単語は?」
僕はノートに書いてある意味不明な単語の羅列を指差した。
『初々しい歴史
親しみやすいユキちゃん
懐かしいヘルモ
良いサディちゃん』
「単語?違うこれはミニマル・フレーズだ。語彙はコロケーションで覚えるべきだというのが英語の亀田先生の教えだったろう?」
話が理解できない。このあたりで徐々に、彼が病棟にいる理由が納得できてきたような気がした。
「いったい君は何の話をしているんだ?」
「何って、尊師。女遊びにかまけて若年性の痴呆にでもなったのかい?川北市の教育大学に行った奴は脳髄が蕩けるというが、その話はあながち間違いではないかもな。」
話が理解されなければすぐに相手を狂人と決めつける、精神が正常な状態にない者にありがちな行動だと辟易しつつも、僕は話を変えることにした。
「そんなことより、最近高校時代の友達とは会ったりしたかい?」
「ああ、この前の同窓会、行けなくてすまなかった。あの時おれはシンガポールにいたんだ。」
「い、いや気にしなくていいんだ。」
とある事情により彼を同窓会に誘っていたのは僕が大学に入った年のみで、ここ数年彼を同窓会に誘ったことはない。記憶が錯乱しているのだろうか。
「へ、へぇ…シンガポールにねえ、観光かい?」
「いや、あの国を南北に縦断する地下鉄を…」
仲澤の目が一瞬泳いだ。嘘だ、と確信した。狂気に取り憑かれながらも、意識して嘘をつけるほどの社会性は残していることに感心した。
高校の同窓会には川北市の教育大学、すなわち僕と同じ大学の数学科に通う千奈美という女が来る。千奈美は彼のかつての恋人であり、そのあたりの気まずさが彼に同窓会を忌避させたことは想像に難くなかった。
「そ、そんなことより調子はどうだい?入院したと聞いて気を揉んだよ。」
「いやね、見て解るようにそもそもおれにはどこも悪いところなどないんだよ。」
「へぇ、ではなぜ入院など」
「あいつのせいさ、あの忌々しい新堂のせいだよ」
「新堂というのは、新堂病院の院長のことかい?」
言うまでもなく新堂病院の名前は開業医である新堂氏の名字からとられていた。
「いや、その息子の方さ。おれ達の一個上の6組、石田先生のクラスにいただろう。頭の焦点が拡散したような野郎が。」
「新堂先輩のことか。たしかに変わり者と評判だったが、君の入院と何の関係があるんだい?」
「あのにっくき新堂めが、俺の担当医なんだ。精神科医を気取った藪医者の癖に、院長の息子だからってもう自分の病棟までもらってやがるのさ。」
「新堂先輩が医者に!?」
そのような話は聞いたことがなかったので僕は驚いたが、同時に整形外科しか持たなかったはずの新堂病院が精神病棟を持つに至った経緯も理解できた。この冷たい空気の病棟は、親馬鹿の院長が息子のために作ったものだったのか。
「へぇ、藪医者といったが、新堂先輩の腕はそんなに悪いのかい?」
「あれは良い悪いなんていう話じゃない。人を勝手に狂人呼ばわりした挙げ句、都合が悪くなればすぐにむりやり鎮静剤を打って眠らせる。この病棟でヤツは『スリーピー』と呼ばれて蛇蝎のごとく嫌われているよ。」
「ははは、それは僕たちが高校時代に新堂先輩を呼んでた渾名じゃないか。」
新堂先輩は奇行が多く、陰で様々な渾名をつけられた。「スリーピー」は彼自身がつけた渾名で、黄色い貘を模した、とあるゲームのキャラクターからとられていた。
「ああ、あの頃からあいつは裏で催眠術を使ってよからぬことをしていた。だからおれ達は新堂をスリーピーと呼んでいたんじゃないか。」
彼は誇大妄想を現実だと信じきっているらしく、淀みなく続けた。
「しかし奴の父親は社会的地位の高い院長だから、あの腐った高校では何をしてもお咎めなしだった。むしろ高校すらアイツと協力していたんだ。」
「おいおい…妄想もいいとこだよ、それは」
「はぁ?何を言っているんだ?
君も『尊師』の名を得て共に圧政に立ち向かった同志じゃないか。
忘れてしまったのか?
それではもしや、『蟷螂』の不埒な悪行三昧も忘れてしまったのではあるまいな?
奴の悪徳に対する憎悪の焔は、何年経とうと未だ我々の五臓六腑にて燻っているはずだ。」
蟷螂とは我々のクラスを3年間担任した社会科教師、藪内康司の渾名だ。渾名の由来は、誰が言い出したとも知れないが恐らく…その顔であろう。
しかし憎悪の炎とは…
決してよい先生とは言えなかったが、卒業してから何年も引き摺るようなことでもあるまいに。
「そんなこと未だに気にしてるのは君くらいだよ。
いつまでもそんなこと気にしてないで、前に進んだらどうだい?」
「フン、きさまの蒙昧さには呆れてものも言えない。おれ達が高校生活を送っていた間、裏では陰謀が渦巻いていたのに!」
どうやらこの男が狂ってしまったことに、高校時代が一枚噛んでいるようだ。
そう考え、高校時代の親友であった自分が真剣に話を聞かねばならないと思った。
「6組に入ったせいで灰色の高校生活だったのは分かる。でも現実を受け止めるんだ。」
「そんなに信じないなら今一度思い出させてやる。他の奴らが家畜のように安穏と過ごしていた間、我々がどのような戦いを行っていたかを。」