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砂時計の唄  作者: 白基支子
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 短い階段を上がり、開いた自動ドアを潜れば、背後に満ちた春光の気配が遠退く。巨大建築物に入った際に必ず尾を引く、屋外から別の屋外へ放り出された様な覚束ない印象も、最初こそ胸を掠めたが、虚ろな空気が肌に馴染むにつれ霧散した。

 今迄、黄緑や桃色を透かした日光は、硝子一枚通した途端、直ぐに持ち前の色彩をも失い、無色透明となって、玄関ホールをより無機質に、閑散と照らした。

 広いホールの床は全て御影石を貼ったもので、灰色の斑模様を一斉に冷たく光らせていた。壁際には受付机が横長に据えてあり、その背後には「霞精密工業」と刻まれた銀板が又も掲げてあった。

 此処迄なら普通のビルと一緒。けど、中央に置かれた変な立方体キューブだけは、他のビルにはなかった。

 ホールの真ん中に居座る硬質な立方体は大きく、一辺は大体二メートルはある。しかし、変だと思ったトコロはその大きさでなく、表面を埋め尽くす歯車の方。

 日光を受け眩い立方体の許へ向かい、ぐるり、その周囲を一廻りしてみる。と、果たして、どの面もまるい歯車がギッシリ詰まり、それらは複雑に噛み合った儘、ピクリとも動かない。これが単なる置物なのか、それとも何かの歯車機構なのか、肝腎の歯車が動かないのでは判らない。

 しかし、歯車達の中心、即ち各面の中央には、必ず、斜線入りの、水色と白とで塗り分けられた八枚歯の歯車が取り付けてあった。

 象徴的な……社章たる「八枚歯の歯車」を支える数多の鈍色歯車を、もっともっとよく見る。と、随分薄れ、気付き難いけど、一つ一つ、表面に文字が刻んであった。文字は名前らしく、刻印は歯車それぞれに割り振られ、一つとて同じ物はない。

 円い歯車に収まった名前は、歯車が元々回転を目的としている様に、傾いていたり、真横になっていたり、逆様になっていたり、一層読み難い。もう一周、立方体の周りを廻って、読めるものだけ確かめる。


 株式会社霞製鋼

 株式会社霞通商

 カスミホーム

 南雲技研工業

 リンドウ精密株式会社

 株式会社霞合成

 ミヤマ飲料

 KSKツーリスト

 松本不動産株式会社

 …………


 厳めしい男の人の顔の様に居並ぶ沢山の会社名は、まるで父親か親戚みたく感じられ、そうすると、この歯車機構が、ある一族の複雑な家系図にも見えてくる。とすると、その中央に控える八枚歯の水白歯車こそ一族の主人で、つまりこのビルこそ本家。

 立方体からホール奥へと視線を移す。奥の壁に掛かった巨大モニターが、パチ、パチと、壊れつつ繰り返す画面の中には、「あなた共に生きる機械」という売り文句が、浮いたり沈んだりしている。

 本家の子供自慢。それを何度も何度も……親バカ……頭の中で呟く。と、胸のあたりが少しくすぐったくなった。

 途切れ途切れに広告映像(コマーシャル)を流すモニターの下には、右上へと一途に延びるエスカレーターがあって、吹き抜けの上層と繋がっている。外から斜に射る日光と、エスカレーターとの交点は、一際白く、其処だけ真空みたいで、停まったエスカレーターの黒い段々を一段ずつ踏み上がり、光の中を通り抜ける一瞬、息が詰まった。

 それでもどうにか上り切れば、硝子越しに桜の森が一望出来た。

 二階から見下ろした森は、青空の下、薄紅を湛えた大海の様に悠々と澱んでいた。

 それから視線を自分の足下に迄引き戻し、床を見下ろせば、しつこくも、うっすらと噛み合う歯車の画が地面に描かれていた。

 若しかしたらこの風景も偽物なのかも知れない。ふとそんな事を思う。この桜も、所詮歯車の組み合わせに因って造られたからくり、機械仕掛けの類、そんな風に思えた。

 二階廊下を進めば、この発想がそう的外れでないと知る。

 天井から床迄届く硝子の続く廊下は、右に桜の海を見せ、左に硝子で囲った部屋が並ぶ。日陰の浅瀬に浸る大部屋の中は、凝ったお弁当箱みたく、透明な板に因って細かく区切られている。

 室内は酷く荒れていて、モニターは何台も横倒しになり、配線は床の上で氾濫している。が、それでも機器は故障しておらず、部屋の前を通り掛かると、壁に埋め込まれた白映機と共に、ぼんやり、モニターが点き、室内には白い光が満ちた。

 薄暗かった室内が弱々しく灯される。光はやがて形を結び、下絵(エスキース)から徐々に書き足され、最後には写真や文字となって瞳に映り込んだ。

“Facility Overall Management Interface (FOMI)”

“Life Design Interface (LIDI)”

 先ず瞳に付くこの二つの大きな見出しが、部屋の左半分を占める。

 見出しの下には、新聞の様に、紹介記事を繰り広げている。どちらの記事も商品の詳細に触れたもの、前者、“FOMI”の方には、滑々した球体の写真が載り、文章には「効率」や「能率」、それから「改善」の文字が矢鱈と出て来る。

 詰まるトコロ、「我が社のFOMIシリーズに施設の管理・運営をお任せ下さい」と、長々と書き綴ってあるだけ。

 つまらなくなって、後者に移る。と、此方に機械の写真はなく、代わりに機械の作った料理や服、家具等の写真が並び、いつどんな賞を受けたか、そんな事ばかり書き連ねてあった。

 主力商品の紹介に紛れた、『たおやか且つ気品溢れる女性型インターフェース“F12”が新登場』といった広告や、『公共交通機関に使用されていた自動運転システム「エレイン」が、ついに乗用車にも実装。日本国内の全地図を網羅、交通管制システムとの同期も完備』といった記事も見付ける。

 その他は細々しい記事が続く。新型の複合通信機の説明、処理速度向上がどうのと難しい話、海外向けのボランティア活動の実績等が、写真付きの記事となって、部屋の彼方此方に浮かんでいた。

 文字の泳ぐ部屋の前をゆっくり過ぎり、新しい見出しの前に来る。

 部屋の右側に浮かぶ記事は一つだけ。

 “Artificial Blood”

 この記事に載った、人の背骨を模した機械の写真に関心が向き、少しの間立ち止まって、文章を丁寧に追ってみる。


『……従来のA.B.よりもウィルスの診断、対応が素早く、自然に流れる白血球と比較すれば、実に56.5倍(※1)もの免疫力を凡そ半世紀(※2)持続致します。又、以前より霞精工のA.B.を御利用頂いている御客様であれば、血中微細(ナノ)装置マシンのアップデートは注射のみで完了致しますので、背面ユニットの換装等、御面倒なお手続きは御不要……』


 此処迄で黙読を中断する。これより先の文章には医学単語が溢れ、それらに因って記事が形成されているから、医者か科学者じゃないと、とても読み進められない。唯、「血中濃度」や「筋肉親和率」といった単語は、脳裏にある映像(イメージ)を浮かばせた。ヌラヌラと粘っこい、筋張った赤く温かい塊が、規則的に鼓動を打つサマを……。


『……現行のオーナー設定もその儘引き継がれます。生体反応の送信もより確実性を増しますので、結果的に機器の寿命も延び、万一の場合のセーフモードも……』


 部屋の前を通り過ぎ、次の部屋の前に来る。

 此処も相変わらず展覧ブースらしく、前を通り掛かると同時、白映機やモニターの電源が点いた。

 室内は忽ち記事映像に埋め尽くされる。


『哲学的乃至(ないし)形而上学的観点に於ける人間の定義は、今や机上の空論の範疇を超越し、医学的乃至機械工学的問題、即ち質量を獲得した問題に迄成長している――霞精密工業の創業者、霞湊人(みなと)は、この様に語りながらアンドロイド開発に尽力しておりました。我々はその遺志を受け継ぎ、完璧なアンドロイド完成と発売へ向け、日夜研究を重ねております。

 人間を人間たらしめるものは、姿形は勿論ですが、霞湊人の言葉通り、その内面、精神にこそ宿っていると我々は考えております。

 人は己の内面を実に巧みに表現してみせる。感情や思考を、言語、表情、身振り手振りを総合的に駆使し、見事に再現してみせる。こういった感情表現を習熟する機能が、人間には生まれた時から備わっているのです。

 この「魂」という機能を機械に実装する。これこそ霞湊人の夢であり、現在の霞精工の使命でもあります。

 脳医学や精神医学の発展目覚ましい昨今、有史以来の謎が解明されるのももう間もなく。加えて我が社のOSやA.B.(Artificial Blood)の技術を組み合わせる事に因って、既に六歳程度の「魂」は完成しつつあります。

 完璧な、人間と見紛う程の機械、アンドロイドの完成へ至る道は踏破寸前、五年以内には商品化し、一般の御家庭にもお届け出来るよう、我々は日々精進しております。どうぞ、今後の霞精密工業の発展に御期待下さい 2080/06/23』


 長々しく仰々しい前置き。続いて実際の研究内容がひたすら連なる。が、其方も専門用語が乱用され、読むだけでも大変そうだから、写真と偶々瞳に入った文字だけを拾い読んだ。

 つなぎを着込んだ、厳格な老人の写真……その胸ポケットには八枚歯車の大きな紋章が縫い付けてある。その写真の下には機械の解剖図が載っている。形状から推すと手足らしい。鋼鉄の骨格に配線が絡み付いている。その下には鉄の胴体も紹介されている。

 しかし顔だけがない。

 記事に因れば『次の課題は自然な口の開閉と発声』との事。『その後には仕草や癖等の処理が問題になる』とも書いてある。

 顔は未だ出来てないんだ。

 結局、解決出来ない問題もある……時間ばかり流れる内、物の角は欠け、其処から少しずつ崩れ、風化し、長い間に綺麗に何も無くなって、後には桜だけが舞っているのかな。

 部屋の前を離れれば、モニター達の電源も落ち、記事も消え去る。廊下は建物を飛び出し、空中を渡って次の建物へ。硝子チューブみたいな連絡通路を歩く途中、外を見るでもなく眺める。風はある?なびく桜は信用ならない。何も無くとも花は散る。

 通路を抜け次の建物に移る。が、廊下は引き続き左右を硝子に区切られた。しかし、造りに変化はなくとも、様相はバルコニーを思わせる。と言うのも、硝子越しに階下が見下ろせるから。

 下層では白い机や椅子の群れが転がっていた。

 風に吹かれたミニチュアが丁度あんな風になる。或いは「錯乱」とでも名付けたい芸術作品。そんな調子で床一面に乱れ机と椅子を見ていると、不意に蘇る記憶があった。

 階下にて、スーツを着込んだ人々が行き交う。彼らはやがて席に着いた。当時は机も椅子も整然と並んでいた。そして、彼らは思い思いのお昼を過ごしていた。

 此処からその様子を見下ろしていた。

 ……社会を学ぶ為によく観察なさい。声が聞こえる……誰が誰の隣に座り、誰と誰が一緒に食事しているか……。

 言われるが儘、名前も知らない人達の昼食をじっと見詰めた。けど、そうしていると少しずつ怖くなった。ズット見ていたら、見詰め返されちゃうよ。

 すると、背後の誰かは満足気に微笑んだ。大丈夫、この硝子は魔法の硝子で、彼方からは鏡にしか見えない仕掛けになってる。だから若し誰かが此方を見上げても、その人は自分の顔を見付けるだけ。

 今、椅子に座る者は一人もいない。

 観察するものもなく、瞳は真っ直ぐ、足も前へ進む。

 十メートルも進むと廊下は一度左に折れ、かなり奥まった場所で突き当たり、黒塗りの扉の前に行き着く。姿を映す程磨き込まれた金色の取っ手を掴み、重たい扉をゆっくり引き開ける。

 と、懐かしい部屋が現れた。

 来たのは一度切り。けど、あの時から何一つ変わってない。

 貴賓室……そう呼ばれていた部屋。

 ピラミッド型の天井は、その儘磨り硝子の天窓にもなっていて、中央に吊られたシャンデリアの水晶が燦々と入る日光を穏やかに乱反射し、無色ながら淡い光を室内の隅々に注ぐ。と、赤い絨毯や中央に置かれた一対の黒ソファの色がクッキリ浮き上がり、ソファの間に据えられたローテーブルの木目すら冴え冴えと、壁際の金屏風や白磁の壺も輝いた。

 充分に明るい室内にあしらわれたこんな調度品の奥には、もう一枚、漆塗りの扉が構えてある。

 其処へ行かないといけない。

 貴賓室を横切る為、ソファを避ける。その際、ソファの背を支えにすれば、黒革の張りが残っていたらしく、ギュウッと息苦しい音が立った。破けてしまいそうなその音に気兼ねし、パッと手を離した途端、身体の重心がぶれ、透かさず重力が背中を引っ張って、後ろによろけてしまう。背後には壺。白磁の割れる派手な音が部屋中に散らばるかと思ったが、間一髪、踏み止まり、事なきを得る。

 早鐘を打つ鼓動を落ち着かせようと、深呼吸を一つ吐く。失敗の直後は過敏になり、金屏風にだけは絶対近寄らないよう注意しつつ、やっと奥の扉の前に立つ。

 白壁に埋まった黒い扉は壁の窪みにも見える。扉を囲う黒縁に一点穿たれた円いボタンを深々押し込む。と、直ぐ身許認証が始まり、それが済むや否や、ポンという音がし、扉は開いた。

 扉の内側に開いた小部屋に躊躇なく入る。四角い床には白絨毯が敷いてあり、踏んでみると雲の様に柔らかく、そして頼りなかった。

 やがて扉が閉まり、四方を白い壁に囲まれる。それから直ぐ、ふわりと、軽い無重力感が足下から昇った。

 エレベーターは下へ、下へ、随分と長い間下降し続けた。

 星の中心へ向かっているのかも。

 そんな空想をする頃、エレベーターはやっと停止した。

 扉は、やっぱり、ポンという合図の後に開いた。明るい小部屋の先は暗がりの一本道と繋がっている。地下らしい暗さの通路に踏み出せば、ポツ、ポツと、壁に灯る橙色の人工灯が、白いワンピースの生地に沁み込むみたいだった。

 廊下の隅々には暗がりが蔓延っていた。が、右の壁には窓硝子がズット嵌めてあった。

 その窓から外を見てみる。と、硝子の向こうには、非常に……異常に大きな空間が存在した。

 こう大きいと遠近感が変になる。少なくとも、二階建ての家程度ならスッポリ収まってしまう筈。そんな地下空間の壁には、黒く太い配管が幾十本も縦に並べられ、殆ど隙間なく密集していた。窓辺に寄って、黒配管の列を下へ辿れば、眼下に広がる水面も視界に入った。

 水は澄み渡っている。混ざり物のない純水だと思う。その水底から青い光が放たれている。沈んだ白い照明が水を透かし青く染まったのかも知れない。床一面を浸す水の深さは窺い知れない。が、壁面の三分の一以上は沈んでいると思う。

 内側から発光する水面にはその光を反射する物が浮かんでいた。まるで小魚みたく群れた物……純白のシリンダー……引き金付きの、先端の尖った注射器(シリンジ)……そんな物が、凪いだ水面に数多と漂っている。

 だってこの通路の先には「手術室」があるんだから。

 さぁもう少し、行かないと。

 正面に向き直る。

 通路の先にある二重の扉はどちらも開いていた。廊下と手術室の間に挟まった部屋は準備室だろうか?其処に入り、奥の手術室を覗く。

 無菌の白衣を思わせる月白の照明が四方から投射され、壁を覆う緑青色のタイルが冷たく光る手術室の中は、あるべき機材が一つとてなく、寝台だけが中央に取り残されていた。

 ……どうして?

 絶望するより早く呆気に取られ、呆然としている内に哀しくなってくる。しかし手術室には何も残っていない。

 ……いや。残っている物はある。手術室の床は、電紙書類の雪崩に全く飲み込まれていた。

 大量の文字に気圧される。その上、電紙に書き殴られた文面はどれも脈絡がない。それでも一縷の望みを捨て切れず、咄嗟に屈み込んで、散らばる書類を一枚一枚縋る思いで確かめていく。


『バイオ工学の分離、失敗、分離、失敗、分離、失敗、分離、失敗、分離、失敗、分離、失敗』

『中枢神経だけはどうしても電子回路では代用出来ず、有機体を併用せざるを得ない。次回から有機体の濃度を段階的に薄める実験に切り替える』

『被験者六番のA.B.との同調は良好』

『十四歳』

『手術費は支払い済み。維持費、管理費については来年分を年末に一括支払い。料金は引き落としでなく直接手渡しする事』

『社内で噂になっているA.B.のバグを精査したところ、新型の寄生ウィルスを発見した。早期治療を要する為、バグ報告者は隔離入院の処置を執るように』

『 2080/10/06 FOMI-ZO-M02 問い合わせ内容:未知ウィルスのワクチン開発依頼

                返信:保留

 2080/10/07 FOMI-AR-F03 問い合わせ内容:未知ウィルスの類似例検索 

                結果:0件

 2080/10/07 MCPI-IM-F01 問い合わせ内容:未知ウィルスの解析

                結果:%aGe4】■艪4Gv仝5r會※※※※※※※※※

 2080/10/08 FOMI-AR-F03 問い合わせ内容:施設内全生物の余命計算

                結果:三日前後                 』

『A.B.に罹患するウィルスが二週間で変異し、白血球その物を攻撃するようになる。これは偶発的な変異ではなく元々の性質であり、即ちこのウィルスは最初からそういう風に変異するよう設計されていた、という事だ。二十年前の敗者はどうやら無理心中を計画したらしい』

『賊のブレインを特定、接触。今回の事は制限を外した半脳回路に因って立案されたテロだとブレイン本人が告白した。又、ブレインは自らを“Liberator”と呼称。大層な名前だと私が皮肉を言えば、奴は「いや、古い古い、継ぎ接ぎオンボロ拳銃の名前だ」と自嘲した』


 次から次へ、無意味と書かれた物を読み進めていく内、言い知れぬ不安は何故か胸中から消え、探し物は見付からない、というより、そも、何を探しているんだろう、と、キョトンとしてしまい、電紙を漁る手を止め、やおら立ち上がった。

 何も無いのなら、此処に用事もない。

 つい深入りしてしまった手術室を引き返し、準備室迄戻る。

 と、視界の端に、チカ、チカ、赤いものが点灯した。

 最初は見落としていたけれど、此処は別の部屋とも繋がっていて、チカ、チカと、不安定に明滅する赤色灯の方を見やれば、「保管庫」と、黒文字の浮かぶ赤洋燈が壁に掲げてあった。

 その更に奥、暗闇の奥底から、ぼうっと、朧な光が漏れている。

 変な色の光。冷たい白でもなく、温かな黄金でもなく、生温なまぬるい様な支子(くちなし)色。

 誘蛾灯。足は自然と其方へ向かって動く。

 赤色灯の下を潜ると、海底を歩く様に辺りは何も見えず、ひっそりした。音も消え入る深淵の直中ただなか、最奥から差す光は灯台の役割をも担っていた。

 瞳が段々と暗闇に慣れれば、周囲の様子もうっすら見え始める。通路の左右には朽ちた機械が連なり、その機械の中には細長い物の輪郭が浮かんでいた。

 光に近付くにつれ音も蘇る。それはか細い音だったけど、耳の奥底で唸る様な回転音が確かに聞こえた。

 そうして最奥に着く。

 目指した光は、部屋の奥に置かれた機械が発していたものだった。向かい合う二台の機械の内、右に据えられた物を見上げる。「被験者六番」と刻まれた黒い円柱。硝子に仕切られたその中は支子色に灯り、加えて人の背骨と、剥き出しの脳が吊り下げられていた。

 しかし、背骨も脳も、全て自然の儘ではなく……そう……交通事故で損傷した箇所は人工物に取り替えられている。胸椎と仙椎と尾椎は銀色に輝き、脳の下半分は黒い箱に収まっている。その黒い箱には細い配線が何本も接続され、機械と繋がり、円柱の内側に張り巡らしてある。

 暫くの間、生々しい骨と臓器を眺めた。残酷だとも、気持ち悪いとも思わない。もっと別の感情が胸を占めている。けど、この感情に名前が付けられない。

「鏡?」

 無意識に言葉が零れる。

 これが……今、眺めているこれが、自分自身、そう思えたから。

 その時、暗闇の中から声を掛けられた。

「お帰り」

 そう言われた途端、不意に意識が遠退く。


 ……ベッドの天蓋……。


 Hello, 22nd Century!

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