花霞の園
明るい窓辺からベランダに出れば、このマンションの中庭が見下ろせる。
ベッドの柔らかなシーツの中に包まっていつ迄もうとうとしているのも良いけれど、折角こんなにお天気の良い温かい朝がみだりに過ぎてしまうのも勿体ない気がして、枕から頭を上げる。それでも、春眠に心残りがあるのは本当だから、せめてシーツの名残だけでもと思い、白いコットンのワンピースを選んで身に着ける。キャミソールの肩紐を掛ける。と、膝の辺りで裾が揺れる。これじゃあレースのカーテンかな。クローゼットを閉じ、裸足の儘ベランダへと出る。
部屋を照らす日の光が少し青み掛かっていたのも、こんな青空を仰げば納得出来る。のんびりと呑気な空は、その青の下に僅かに寂しさを秘めている。だからこそ冴え冴えと晴れ渡っていられる。吹く風も同じ。表面の一皮だけ温められた風が肌に当たって崩れれば肌寒い中身が零れ出る。
中庭の白詰草が風に揺れる。
全く、草木は、空や風の寂寥など気にも留めず爛漫と生い茂っている。狭い庭を埋め尽くす白詰草は、細やかな純白の花弁を綿みたく丸く咲かせている。一面の砂糖菓子の様に頼りない花園は、春の風を受け、一様に揺れる。その緑の葉の下に赤茶色の自転車が溺れているのは疾うから見付けていた。
欄干に寄り掛かる。
四階から見渡す景色は、手前に雑草、中央に白い花々、奥に植木の列、それらの向こうにはマンション。向かいのマンションの屋根も越すと、電線や家の屋根や背の高いビルが見える。
あの屋根達は雑草で、ビルは植木で。頭の中で勝手に置き換える。
空は青い儘。
その空を他愛なく舞う花を見る。
何処から流れて来たのか、間もなく空の雲に紛れ見えなくなった花を思う。小さな花弁は純白にも見えたけれど、ほんの一寸紅を溶け込ませた様に色付いていた。
徐に欄干に預けていた身体を離し、ベランダから部屋に引き返す。
サッシを跨ぐと、カーペットに黒い足跡が捺される。土踏まずの形がクッキリ浮かんだ足跡を見てから、クローゼットを開ける。下段のプラスッチックケースからタオルを一枚取り出して足の裏を拭く。くすぐったい。足裏が綺麗になったら、次は上段のケースを開け、キャラメル色のカーディガンを手に取った。
出掛けるのならこれを羽織らないと。ワンピースだけだと肌寒いから。
カーディガンの袖に腕を通す。と、晒されていた腕の、肩や二の腕の辺りが毛糸に包まれ、何と無くホッとする。
クローゼットを閉じたら玄関へ。一人暮らし用の部屋はコンパクトに出来ていて、短い廊下にはお風呂とトイレと台所が、手狭ながら、ちゃんと収まっていた。
廊下の先には靴が一足だけ置かれた玄関が控えている。エナメル製ローヒールは、ピンク色がお気に入り。それを履いたら、背筋を伸ばして身体を左へ。靴箱に掛かった鏡と向かい合う。
と、鏡の向こうの少女と瞳が合った。菫色の瞳。少女の髪は黒く、サラリと滑らかに、背中や肩や鎖骨に掛かっていた。
寝癖はないみたい。
鍵は掛けずに部屋を出る。パタンと、背後でドアが閉じた。
エレベーターは故障中で停まっているから非常階段を使う。
廊下の左端に掛かった薄暗がりの階段は、直ぐ隣のマンションとの隙間にあって、間隔の狭い一段一段をゆっくり下り、踊り場で左に半回転、又一段一段下りて行く。そうやってジグザグと折り返しながら下り切ると、顔の直前に配水管が現れた。
茶色い配管を避け、正面の通りに出る。
この辺りは住宅地になっているからか、表の通りも幅は車一台分しかなく、それも道端の電柱や壁沿いに並ぶ自転車の所為で一層狭まっている。道の両側に建つマンションや白いビルは青空をも細長く区切り、それでも道路は晴れ晴れと、建物の大きな影も何処か薄く、優し気だった。
細い道路の真ん中を歩きながら、道の端や交差点の角に佇む掲示板、電柱、それらに貼られた「〇〇事務所」と書かれた看板を物珍しそうに見て行った。こういった物がどんな道にも必ずあって、違和感もなく、周りの建物……よく見ればどれも色や形が違うのに、結局似たり寄ったりなビルと巧く調和している事が、とても不思議。
片隅にカーブミラーの立つ十字路に着く。
行き先は南東。足を左へ向ける。と、正面に暗がりの坂道が見えた。
そうして、雑居ビルに挟まれた坂道の遙か先、遠く向こうに、高い、高い双塔が仰げた。
そびえる石色の双塔を目指し、緩やかな坂を上がってしまうと、表通りに出る。
横に走る大通りの手前、つまり此方の歩道にはビルが建ち並んでいる。が、道路を渡った彼方側は公園が占めていた。
規模の大きい公園は植木も立派で、背景に並ぶ双塔や高層ビルの半分以上を枝葉で覆い隠し、ビルは緑色の上からこっそり頭だけ出している。
双塔を仰いだ儘大通りを突っ切る。公園に近付く程、木々は頭上を覆い、終にビルは一つも見えなくなってしまった。
その代わり、新鮮な木漏れ日が顔に降り注いだ。枝葉は全て綺麗な緑色に染まり、陽光に透かされると、宝石みたく黄緑に輝いた。
公園の入口から道は直ぐ枝分かれした。一先ず、左から二番目の道。
土を踏み固めた道は、ユラユラとくねり、道幅も不規則と、キッチリした直線や曲線のコンクリート道路ばかり敷かれた都会では珍しい。それが何処迄も続いている。
もっと暑い季節になったら、此処の緑も濃くなるんだろうな。未だ淡さを残す枝葉の下を歩きながら考える。今の季節は、やっぱり、仄かなピンク色が一番似合う。
緑の中に混じる薄紅の花を仰ぐ。ハラハラと、風もないのに散るハート型の花弁。木の根元は地面も見えないくらいの桃色に染まっていた。
花見の季節。今日の道行きの最中にどれだけ春が見られるだろう?
道はやがて池の手前で突き当たる。池は如何にも人工的で、横長の長方形に縁取られ、奥には胸丈の石版を並べそれを壁としていた。本来ならあのでこぼこの石版を水が伝い、チョロチョロと、池へ滴り落ちていた筈。今は流れ落ちる水もなく池は穏やか、水底の枯葉と共に水面は頭上を映していた。
人工池の右端には石段があり、下へ向かっている。銀色の手摺りを掴む。と、思いの外冷たく、手の平が痺れた。石段はなだらかに池の背後へ回り込み、白い裾を揺らし、揺らし、階段を下りて行く。と、終に灰色の広場に立っていた。
此処は広場の内でも奥まった所らしく、直ぐ左は最奥、仕切りの壁がそびえていた。
壁の丈は二メートル以上。横に並ぶ石板は先程の人工池の背中と同じ物で、壁の底には又も池が湛えてある。が、此方の人工池は、石版の高さに合わせ大掛かりに造られていた。
しかし、大きくとも静けさは変わらない。強いて言えば、此方は開けた広場に向かっている分マトモに日の光を受け、水面や石板の反射が強く、その点だけ、僅かに賑やかかも知れない。
けど、大小の事なら何も池を比べる迄もない。木々の勢いなら、此処から見る方が遙かに上だった。
と言っても、この広場自体に植木はない。そのお陰で開けているのだから。だから底抜けの青空も、その空に挑むビルの林立も、此処からだとよく見える。あの石色の双塔も直ぐ近く。
視線を下げれば、この広場を越えた先に延々森林が続いていた。
本当に、この広場だけポッカリ空いている。
ビル群を構える正面の大通りは、公園同様、それ以上の緑に覆われている。
景色一面に、緑、黄緑の濃淡が入り交じっている。車の通らない車道には縦横に亀裂が走り、どんなに細い亀裂からも草木が芽吹いている。あの大きなビルの方が森の合間から生えているみたい。建物の土台はどれも枝葉に紛れてしまっている。コンクリートは木漏れ日を受け自然に還り、信号機には蔦が絡まっていた。
森閑、とは、こういう音に相違ない。人のいない街に春の息遣いが沁み渡り、光や風を介して頬や額に溶け込む音。耳でなく、肌で聞く音を、一度深く吸い込んでから歩き出す。
広場と歩道の境界に整列するポールの隙間を抜け、歩道と車道を区切る生け垣をも避ける。と、大きな交差点の真ん中、煌びやかな黄緑の陽光の下にいた。
道の上に枝葉の蓋をする立派な並木は、背も高ければ胴も太い。欅、と、頭の中で呟く。正面に延びる四車線に従って、大きな欅がズラリ並んでいる。そうしてその根元には、種々の雑草が寄り添い合って茂っていた。
灰色の道路と頭上の緑。それから薄紅色。街は何処迄もこの三色に占められていた。
数は欅より大分少ないけど、道路の所々に桜が植えられている。繊細な新緑の中、朧ながら絢爛と満開の花を付ける桜の色は、白粉の下から微醺を帯びた頬を浮かせる乙女に似て、慎ましい艶を森に付与していた。
堪らないのは人工物の方……蔦の飾り棚、三方の信号機を見、交差点の中心から、正面、東へ延びる道路に入る。
四車線道路は生け垣に因って二車線ずつに仕切られている。が、肝腎の生け垣は体裁を崩し、唯の細長い藪に成り果てている。その藪の中に、ポツ、ポツと佇む鍵形の街灯は、電球も身体も錆び付かせ、元々何色だったか判らない程赤茶色に侵されている。その色合いは道端にも見られた。一体、どれだけの自転車や自動車が木々の根元で朽ち、雑草に埋もれているか……錆の塊と化し、窓硝子すら曇った車は、宛も初めから其処に在ったかの様に草葉の合間で落ち着いていた。
そういった残骸が、銘々、思い思いの恰好で打ち捨ててある道端と、藪生け垣の間に敷かれた道路は平らでなく、木の根が地下から押し上げたらしい隆起が、コンクリートの地を波打たたせていた。盛り上がったコンクリートは、堪え切れず皹割れ、その蜘蛛の巣状の皹を見逃さず植物は蔓延っていた。
見る限り蒲公英が多い。右の歩道に見えるバス停も黄色い花にスッカリ埋め尽くされている。バス停の天井に吊された、紙より薄い電紙製の広告は破れ、正体なく垂れている。即応時刻表は四角い角を丸くし、中腹から内側の機械を黒く晒している。煉瓦色のベンチは花々に占拠されている。
そんなバス停の前を過ぎ、コンクリートのでこぼこを慎重に上がって、下ると、高架橋の直前だった。
『桁下3.85m 車高注意!』
と貼り出された高架橋は、葉や桜の間に身を潜ませつつ、自身も又植物を纏っていた。上の手摺りから長々と枝垂れる藤。桜が全部散ったら、今度はこの藤の房が、一斉に、紫の小さな花をたんと咲かせる。菫色の瞳を透かせば、藤の色付く季節が早くも覗けそうだった。
高架橋の下に入る。
橋は道路の屋根みたく被さり、幅もあるから、日光が中心迄届かず、薄暗い。それにカビ臭い。風通しも悪く、いきなり地下に来たみたい。道の隅や橋脚にこびり付いた黒い物が瞳に付く。取り分け、右の歩道に設置された、下行きのエスカレーターから立ち上る空気は酷い。
停止したエスカレーターを覗き込む。と、段が下へ深まるにつれ、暗闇が黒い薄布を幾枚も重なるみたく段々と濃くなって、直ぐ見通せなくなった。が、暗闇の底で湿気が充満しているのは、鼻を突く匂いで判る。服や髪に匂いが付いては嫌なので、急いでその場を離れ、橋の下から出た。
再び新緑の下。藤棚の高架橋に因って一旦途切れたと思っても、森は猶広がっている。
束の間の薄闇から出、眩い空を仰ぐ。黄緑の日光を受けると、思わず瞳を細めてしまう。
その時、思い掛けない光景が瞳に飛び込み、俄に振り返った。
気付かない間に双塔を追い越している。
さっき、坂の手前で見た時はズット遠くにある気がしたのに、公園を抜け、道路を歩いて、橋の下を抜けたら、双塔は背後に現れた。
緑の天井があんまり濃いから、つい見落としたのかな。
近くで見上げ、その大きさを目の当たりにする。首が疲れるくらい顔を上げても見上げ切れない高さ。それだけじゃない、見た目も他のビルとは違う。枝葉の隙間を縫って眺めているから、全容はどうか、キチンと把握し切れない。けど、坂道の遙か先で見た際の記憶も用いて補完すれば、確か、同じ形の、角張った塔が二つ、左右に並び、その間に小さなビルが挟まっていた。丁度、幼い子供を真ん中に、親子三人が横一列に手を繋ぎ合う様な恰好。建物全体が青いのは沢山ある窓の所為。青空を映す窓は短冊形。窓の嵌め込まれた壁は黒と灰の二色格子柄。青と黒と灰の三色が緻密なモザイク柄を描いている。
だからか、森林から突き出た双塔は、建造物という印象に乏しく、寧ろ取り残された巨岩みたいで、今猶天を衝く姿は孤高だった。
双塔の手前は広場になっているらしい。が、此処からだとよく見えない。何しろ、歩道に迄はみ出た松の太い枝が、広場を隠してしまっているから。
四方八方に見事な枝を振るう松は、銀色の身体に苔を纏い、割れた樹皮を刺々しい己の葉の緑より淡い浅緑に染めている。植わった松はその一本だけ、松脂の匂い立ち込める太い幹の根元には灰色の瓦礫が積み上がっているから、そも、広場はなくなっていたのかも知れない。
尖った松の天辺と、双塔の天辺とを、一直線に結ぶ。そうやって、一度注意が上へ向くと、道の両脇には、規模は双塔程でなくとも、鉄筋コンクリートや強化硝子のビルが数多くそびえている事に気が付き、とすると、此処は谷間に栄えた森と判る。上を向いた儘歩けば、枝葉の合間に色々なビルの面影が見え隠れする。それらは、一つ一つ、特徴的な山に似て、右は白榴石で出来た山、左はトルマリン、向こうに見えるは丸い水晶の山、と、日に照るビルを次々名付け、辺り一帯を山岳に擬えて行った。
その途中、ふっと、頭上が不意に暗くなった。
又橋の下に入ったらしい。こんな暗がりは植物も不得手らしく、緑の下よりも、橋の下は「人工」の勢いが強い。観客席からは見えない舞台袖に機械装置を仕舞っておくのと勝手は一緒。森林の裏手には、未だ、灰色の無機質が残っていた。
薄暗がりの右方、歩道の向こう側はもっと深い闇。橋脚を門とすれば、深淵の本殿には鉄錆の気配が充満している。肌に絡み付くザラついた空気。橋脚の間には銀色のゲートバーが落ちている。奥は駐車場になっているのか、確認する前に橋の下から出た。
意識といのは不思議で、舞台装置を見ると、つい瞳が其方へ引かれてしまい、眩い森の下に戻っても、何と無し、人工物の名残を探してしまう。
藪を越えた先、木漏れ日差す左側の歩道を見やる。
其処は丁度ビルの真下。背伸びして覗き込む。と、歩道から半地下へ向かう煉瓦の階段が見えた。階段を下りた先は通路になっているらしい。その通路の様子迄は判らない。けど、階段の手前、雑草に埋もれた集合看板はよく見える。
色取り取りの四角形パネルを規則的に並べた看板。
赤色のパネルには「カスミ服飾店 LIDI-GM-M01」と、
黄色のパネルには「イタリア食堂フィスキーア LIDI-FW-M05」と、
青色のパネルには「かすみの歯科 MCPI-DE-F02」と、それぞれの店名が記してある。
そうして、店名には必ず、斜線の入った八枚歯の歯車マークが添えられていた。
パネルは他にもある。けど、辛うじて読めるのはこの三枚ばかり。大概の看板は文字が擦れているか、或いは割れている上に、蔦に絡まれている。
が、どのパネルにも斜線入りの歯車だけは描かれている。それだけは判る。
小さな歯車が沢山描かれた錆看板は、この街の有様その物。
背伸びを止める。正面に向き直り、少し行った先、黒々と空いた二つの虚を見据える。
最初は高架橋とも思ったけど、どうも様相が異なる。暗闇ではあるけれど、今迄のものよりズット深い。言うなれば鍾乳洞の入口の様で、向こう側がまるで見えない。
木立の果て、道路も歩道も、並ぶ虚に吸い込まれている。洞穴前に近付き、立ち止まって、じっと、先行きの見えない闇を覗く。奥から流れて来る湿気とカビの匂い。洞窟の天井から雨に溶け出したらしいコンクリートが氷柱状に垂れている。それ以上は判然としない。入口に近い壁の落書きは殆ど消えていた。
洞窟……地下通路の入口で暫し悩む。
この上にある街へ行きたいけど、階段は……。
通路の手前には、木立に紛れ白タイルの残骸が積み上がり、左右を圧迫していた。数歩下がり、白タイルの瓦礫を抜け、森の中を見回してみる。が、都合の好い階段等は見付からない。
階段が一切無い、という訳じゃない。実際、左の、洞窟脇の壁には、折り返し階段がある。けど、その階段の踊り場には、ハラハラと、花弁を散らす桜の木が育っていて、一寸通れそうになかった。
その儘、左側の様子を見て行っても、後方の階段はさっき見た通り半地下に繋がっているから駄目。それなら、と、今度は反対の右方へ顔を向ける。
と、穏やかな枝葉の中に、別種の、硬質な輝きを見た。
瞳を凝らさなければ見逃しそうだが、葉々の陰に机や椅子等の家具が浮かんでいる。と思えば、それらは凪いだ水面の様に透明な物の中にある事に気が付く。
木々の合間に硝子宮が控えている……其処へ向かうべく、瓦礫やコンクリートの隆起を越え、欅も雑草も避け、短い石段を上がった。と言っても、明確な意志がある訳でなく、釣り込まれる様な、まるで糸で引っ張られる様な足取りだった。
草木の直中、玉砂利の道に佇む。眼前の硝子板は透明ながら切り立っている。透き通った板は、其処にあるのかないのか、日光を白く反射しながら木立を外に締め出し、薄青い内側を静謐で満たしていた。
この中は通り抜けられないかな。
葉に隠れ全体は判らないにしても、兎に角二階以上はある筈。なら、鍾乳洞の上にある通りにも繋がっている筈。
建物の入口は雑草の裏に潜んでいた。電源の落ちた自動ドアは、しかし、片側の硝子戸が叢に倒れ込んでいる。それをパキリと踏み、草を掻き分ければ、難なく屋内に入ってしまえた。
屋内。硝子宮の中は何の音もしない。何も聞こえない、というより、時間その物が停止した様な、永遠を閉じ込めた様な静寂に浸った空気は微動もしない。
流石に硝子張り、明かりがよく入る。床に落ちたシャンデリアの硝子玉もキラキラと輝いている。横幅のある廊下は縦に短く、直ぐ正面に上行きの階段があった。
階段の手前、短い廊下の左右には、それぞれ部屋が設けてある。左の部屋の入口には黒光りする格子戸が取り付けられ、それを潜ると長い土間の構え、その更に向こうには数寄屋窓に仕切られた座敷が見える。座敷は掘り炬燵らしく、袱紗の様に厚生地の座布団が、逆向けた畳の上、長机の傍で解れていた。
反対側、右の部屋はサロンといった風情の西洋式。金縁の入口から覗き込めば、右奥、通りに面した硝子壁から差し込む日光が、室内に散らばる物々を浮き上がらせていた。座と背板に赤いクッションを備えた猫脚椅子と、表面にアラベスクの描かれた丸テーブルが並ぶ。白いドレッサーに置かれた青磁の花瓶に生けられた花はスッカリ萎れ茶色くなっていた。
両部屋の観察が済むと、その間を他愛なく抜け、階段を上がってしまう。
と、忽ち青白のホールに着いた。
角度の具合か、或いは硝子に色が付いているのか、吹き抜け天井から斜めに差す光は少し青み掛かり、広々としたホールに清流みたく降り注いで、その光を床一面の大理石が白々照り返し、この場の空気を洗い続けている。壁を排し、これも大理石で造られた柱の並ぶホールは、見渡す、という表現が的確で、階段を上がり切って直ぐ、支柱の間から顔を出し、ホールの中を見渡した。
中央で輝く巨大シャンデリア……四段重ねの、ウェディングケーキみたいなシャンデリアが、落下、床の上で潰れている。
其処から視線を右へ流せば、白絨毯の敷かれた大階段が上がって行く。舞踏会の場に繋がっていそうな豪奢な階段は、しかし、隅々に塵芥が積もり薄汚れている。が、敷かれた白絨毯には汚れらしい汚れもなく、大理石に新鮮な、太い白線を引いていた。
白線の絨毯を辿り、視線を今度は左へ流せば、大仰な出入口が瞳に入る。
それを見、無意味に指折り数える。階段は一つ上がった。だから大丈夫。彼処から出れば上の街。
そんな計算を済ました後、柱の間から身体を離した。
吹き抜けの下を歩けば、天井があんまり高く、お陰で屋内という気がしない。色合いもあって、水中歩行の気分に浸る。敢えてホールの真ん中迄進み、それから身体を左へ向け、大階段を背に態々白絨毯の上を歩く。こんな事をする必要は全くないけれど、絨毯の踏み心地を試してみたかった。果たして、白く深い毛並みはふわりと雲を踏む様に柔らかく、面白かったが、少し頼りなかった。
愈々ドアに近付く。ふと見れば、ホール右手に壊れたグランドピアノが放置されている。足の一本が折れ、傾きながら地に伏す黒ピアノは、今でも音を奏でるだろうか?どんな音色だろう?こんな場所で朽ちているし、それはきっと青い色を静かに震わせるに相違ない。
正面ドアから外に出る。
玄関はタクシー乗り場になっているらしい。外に出て最初に、右脇に黒塗りの無人車が寄り集まっているのを瞳にする。車の上にちょこんと乗った「エレイン実装」の行燈と落葉。半月型の庇と同型の道路を辿って、タクシーの列を横目に、表通り、三方へ延びる交差点を、東側、正面に渡る。
何とか上の街へ来た。
道幅は狭まり、それに合わせて両側のビルが近くなっているけれど、道は相変わらず真っ直ぐ東へ延びている。道は細くとも傍のビルは高く、故に影も大きく、日当たりが悪いので、繊細な花の姿はなく、専ら蒲公英ばかり育っている。
薄影を落とす片割れ、左のビルを仰ぐと、工事中なのか、上から下迄、白灰色の幕が四角く被せてあった。が、幕はボロボロで、その破れ目から内側の様子が存分に覗けた。
縦横に組まれた鉄筋、鉄骨は、細く太く、規則的に、且つ複雑に互いを支え合い、まるで本当の骨みたいだった。その骨組みを見ていると、自ずと脳裏に浮かぶ映像がある。破れた幕や、赤錆びた機材……丸い無人重機や照明の数々は、ある種の医術用具に見立てられる。クレーンはゾンデ、溶接機は鉗子、複合コンプレッサやポンプは人工心臓。とすれば、きっと今、あのビルは手術中。機械を埋め込む為の。
眼前に冷たく光るメスが突き出される。
思考を打ち切り、いつ迄も完成する事のないビルから瞳を逸らす。
道は足の踏み場もないくらい蒲公英の葉で覆われている。その中にピンクのエナメルローヒールが埋もれるのを感じながら歩く。
路地に面したビルは、先程よりも距離が近いので、玄関の様子が具に見えた。
どのビルも、どんな建物にしたって、畢竟容れ物に過ぎず、とすれば中に何か仕舞ってある筈。では何が仕舞ってあるのか、余程大事なものなのか、玄関を見ただけでは判らない。態と判らないようにしてある。差異はあっても些細なもの、どのビルも雰囲気は皆一緒。玄関は硝子張り、床は御影石、奥にはエレベーター、手前には受付カウンター。これで見える箇所は全て、肝腎の中身はまるで判らない。こうやって、ビルは全部似た様に造って、見分けが付かなくして、中身を秘密にしている。けど、それで困る人はもういない。差し当たり、訪問客は砕けた硝子から入り込む植物ばかり。その内にどのビルも森の一部になる。
視線を道端に引き戻す。草葉に沈むバイクや自転車の数を口ずさむ。
と、そんな間に次の交差点に行き着いた。
十字路を隅丸ビルが縁取っている。その四方の内の一つ、左奥のビルを仰ぐ。青空に赤い郵便マークを投げ出すビルを。こんな風に判り易くしてくれたら良いのに。手紙を沢山仕舞っていますって。
日光を浴び、赤ながら白光りする郵便マークの下を通って次の路地に入る。赤い石畳敷きの路地は、木立が控え目ながら、石と石の継ぎ目に入り込む雑草はしぶとい。頭上の枝葉も密度がそれ程でなく、青の面積が広い。其処に、ふと、桜色が混じると、切れ切れの雲も色付き、其方へ視線をやれば、薄紅の花は「ト」の字型の分かれ道に寄り添っていた。
足取りが速まる。しかし其処へ着くと、桜よりも、通りの派手且つ異国的な情緒にこそ、意図せず瞳を奪われた。
路地の幅は車二台分ある。が、軒を連ねる雑居ビルにくっ付いた、異常な数の可変ネオン看板が無秩序な色合いを呈し、それらが左右から押し迫っている為に、道は実際よりもかなり息苦しい。
何のビルか判り易く、確かにそんな事を願った。しかし、これは度が過ぎていて、却って判り難い。
看板はビル側面に付いている物も多いが、華奢な支柱が腐食に堪え切れず道端に落下した物も又多い。長年の雨晒しに遭い、看板も雑居ビルも薄汚れ、晴れの日にも関わらず通りは鬱々としていた。
赤、橙、黄、緑、青、藍、紫と、看板の色は勿論、四角、三角と形も色々、書かれている言語もバラバラだった。ひらがなやアルファベットは序の口で、見た事もない漢字や、文字かどうかも怪しい記号で道は溢れ返り、混沌に拍車を掛けている。
案内が多種に渡れば、それを掲げる店も多岐に通じる。文字の読める物だけを挙げても食べ物屋から占いの館、ミニシアター、免税店、古美術商、古めかしい薬局、玄関の奥まった理髪店、入口の判らない立体駐車場と、一貫性がない。
その中でも一番怪しいのは、桜の根元に構え、分かれ道に面したこの店で、主に取り扱っているものは何か、何でもある様で何にもない。十畳程の細長い店内を圧迫する左右のアルミ棚には、茶色い地球儀、ヴィクトリア調の手鏡、カスタネット、古びたホワイトソースの缶詰、鳶の剥製、マグカップ、三角フラスコ、木箱型オルゴール、トランプの描かれた立て看板、等々が陳列されている。
唯でさえ風雅な花下に似付かわしくない雑多な商品が色褪せているサマはいっそ儚く、この儘劣化が進めばいずれ形すら保てなくなる事を思わせるのに充分だった。
取り散らかった看板群の前を通り過ぎる。と、乱雑の気配も消えない内に別の十字路に着いた。
十字路の此方側には、横一列に木が植えられ、大きな広葉で小さなビルを隠している。植木は南国風の椰子の木ばかり。葉の付き方はまるで打ち上げ花火の様で、頭から八方へ緑を垂らしていた。
対照的に、十字路の彼方側には木がない。その代わり、黒ずんだ電光看板がビルを覆っていた。
何より瞳に付く「直営 カスミ電器」の大文字は、十字路を渡り、右に建つ黒ビルの間口に掲げられた看板のもの。大仰な店名の下、入口脇には、各階の案内が出してある。が、案内板には細々した文字がギッシリと詰まり、その上風化が手伝って、文字は白い点々にしか見えない。そんな物は読めないし読む気もないけれど、ひっそり空いた出入口から暗い一階だけはチラと覗いた。
興味本位に窺っただけだが、電気の通っていない電器屋は予想以上にしんと耳が痛いくらい静けさに沈み、その反面、大小の商品が彼方此方と、好き放題に氾濫しているという有様で、音と見た目の印象があんまりかけ離れていた。
一階に置かれた売り物、機械は、大半が棚から転げ落ち、床に倒れ、どれも悉く壊れている。滑々とした表面の破れ目から小さな部品が零れ、集まり、床に広がり、どれがどの部品か、鉄の大海に紛れては見分けが付かない。故障の少ない物から推せば、形状は箱型が一番多い。色は黒や白、鶯色に水色と、淡い物が売れるらしい。縦や横の長さや色の違った箱が壁際に並び、或いは白い床に落ち、仄暗い店内にて、砕けた照明の下敷きになっている。
と、そんな床の上に、底に車輪の付いた黒い正六面体が引っ繰り返っているのを見付けた。もっと詳しく見てみれば、箱の大きさは両手に乗りそうなくらいで、底には車輪だけでなく丸い穴も空いている。という事は、つまり、あれは掃除機。なら、この店内の惨状も何とかしてくれたら……けど、引っ繰り返った儘だと無理かも。
掃除機の色違いは真上の棚に並んでいた。が、品番と値札は見付けられない。その奥の壁に貼られたポスターの大きな赤い字の「今ならオーナー付け設定無料!」ばかり瞳に付く。
無論、家電は他にも揃っている。何故かしら、次々とそれらの名前が判る。安楽電板、複製電紙、クアンタムPC等のデータ接続用装置から、アロマコロジースペコンや永年照明等の生活用品迄、店内にひしめいている。
それら機械は一概に箱型というのでなく、円錐、三角錐、球体にも象られ、しかしどれも必ず幾何学には則っていた。中の部品も例外はない。それどころか、この電器屋の建物も、周囲のビルも、あらゆる場所に根を下ろした植物、木の幹、枝葉の一枚一枚、花弁の一枚一枚、戻ってポスターの文字にしたって、結局は図形の集合に過ぎず、果てに瞳は床に散らかる歯車の一つに釘付けとなった。
神は永遠に幾何学する……何処かの哲学者の言葉。いつだったか読んだ覚えがある。音の波形、色の波長。この明るく静かな森の都はどんな形をしているの。今はどうか知らないけど、最後には六角形か円になる筈。
そう結論付け、電器屋の前を離れた。
出口が近い。喧しい看板の錆びた影を抜ければ、やっと広場に出られる。
路地から続く短い横断歩道を渡る。白、黄土、鼠色と、三色のブロックがランダムに敷かれた歩道は、右隣のビルとポールに因って台形に区切られている。「駐輪禁止」の看板を無視してポール沿いに並ぶ自転車の列の向こうの車道は、大規模なロータリーになっていた。
周回する車道の中心には巨木ばかりの林が出来、日光の角度に従って一個の太い影をコンクリートに落としている。根の強い野菊が一帯を薄紫に色付かせる楕円型のコンクリート道路は、その外に建つビルを文字盤とすると、自然の造った日時計の様だった。
その日時計の針、巨木林の奥には、横長の建物が控えていた。
街の中心に建ち、正面にロータリーを備えているのだから、あれはきっと駅。それにしても大きい。ロータリーから南北に延びる大通りに沿ってひたすら続く駅はまるで城壁の様で、逆光を受け黒々とそびえ立つこれが容れ物とは思えない。
高い壁には窓硝子一つない。その代わり表面はモニターになっていて、広大な壁面をキャンバスにして春景が動いていた。映像は、全く正常という訳には無論いかず、大半はノイズに呑まれていたけれど、無事でいる所にはそれは麗らかな景色が描かれていた。
何処かの山間、程良く茂った緑の底を流るる渓流の水面に枝垂れ桜が降り掛かる。清らかな水面は白く輝き、小鳥達の影が横切る、そんな映像を見上げながら、車道の、横断歩道でない所を渡った。
ポールを跨ぎ、駅に沿った薄影の歩道を行く。右上にて瞬く大きな映像は、近付いて見ると歪さばかりが目立つ。壊れていなければもっと自然に映っていた筈なのに、今は病的な人工灯しか発せず、見ていると瞳がチカチカしてくる。
視線を反対の車道側へ逃がす。と、林の生えたロータリーの中心の、宛も渦巻きが如く、中心へ向け下って行くサマが瞳に入る。木々は身体の下半分を渦巻きの中に埋めて猶大きい。
木は地下に根を下ろしている。という事は、この下に空間がある。今さっき、此処を「上の街」と呼んでいた事を、どうしてもう忘れたんだろう。遠く、石色の双塔とビル群を仰ぐ。あの麓の森を歩いて来た事を、どうして忘れられるんだろう。
……大丈夫。目的地の事だけはしっかり覚えてる。
徐に踵を返す。
振り向いた丁度正面の位置、ノイズ激しい映像に切れ間がある。一繋ぎと思った壁も窪んだ所で途切れ、其処を入口に細々と路地が続いている。この先は南東への抜け道になっている。それを知っているからこそ此処にやって来た。
岩場の切れ間みたいな、ノイズの隙間みたいな抜け道に入る。
映像も又、細い路地に入り込んでいた。両側の壁から放たれるノイズに照らされ、影に虹色が混じる。日向色のタイルの道。頭上には道行きを写し取った様なか細い青空が延びている。道は最初の数メートルは緩やかな坂になっていて、それを上がり切ると、可愛い店の連なる通りに変わった。
勿論、店の雰囲気はそれぞれ違う。けど、どれも硝子の小箱に玩具を収めた様な店ばかり並んでいて、つい見入ってしまう。
一番手前のお店の中は、元々真っ白だったんだと思う……白い壁紙が囲う店内にはバロック様式の肘掛椅子と丸テーブルが配され、白い天井にはアネモネの花を模した照明が咲き、その全てが象牙色で統一されていた。
店内に残った白い箇所は、宛もスクリーンみたく、差し込む虹色の光をその儘照り返していた。
玄関先にはこれも真っ白い看板が立っている。腰を折った様な形の看板は、上半身に液晶画面が嵌め込まれている。“Blanc Cerise”と、柔らかい字体を映す画面に指先で触れてみる。と、文字が白背景に溶け込み、それから直ぐ、色々なお菓子が映し出された。
四角いショートケーキ、丸いモンブラン、王冠みたいなカヌレ、ハート形の桜桃のタルト。
そんな甘い物ばかりの映像から瞳を上げ、改めて店の中を見る。店内は、象牙色を地に、緑や茶の斑点がポツポツと広がっていた。その色の正体は、破れた硝子から立ち入った土や、その上に育った苔。
植物もケーキを食べるのかな。
床やテーブルの脚、果ては机の上に迄蔓延る苔の傍には、枯枝も落ちている。そんな店内こそケーキみたい。白地は生クリーム、埃は塗した砂糖、枝はチョコレート、苔は抹茶味のスポンジ生地。甘くほろ苦いケーキが、硝子ケースの中に仕舞われている。
通りは、全体、そういう様子で、左右に並ぶ店々は、パステルカラーの、御伽話の様な内装の中に植物を抱え、趣深い温室みたく、草葉は室内装飾と同化していた。
早速隣の店を覗く。三方を囲むピンクの壁紙、その表面に造り付けられた飾り棚には花柄の洋燈シェードが沢山置いてある。一つ一つ、丁寧に作られたシェードは、ふわりと丸く、白から藍、マリンブルー、アイスグリーンと、優しい色に染められていた。
シェードの中の中で咲く花々も、生地の布が汚れていては自慢の花弁は擦れてしまう。散らかった床の隅で咲くカトレアは、ガラクタの中から持ち前の大きな、蝶の様な、桃色の花をもたげている。
つまり、床に散乱した花の画を肥料に、綺麗な蘭は育っているという事。
店の壁際はカトレアに占められている。けど、床の大半は巨大なシェードが占めていた。天井から落ちたのか、大きなシェードは潰れ、下にあった物も押し潰している。その所為でこんなに散らかっているんだろう。白地の巨大シェードには田園風景が描き込まれている。そんな白い傘も、縁はスッカリ土に汚されていた。
移り気な心につられた足を軸に振り返り、向かいの店を見やる。と、此方は趣味が一転して、純和風の、小柄な日本家屋の構えだった。色硝子の格子戸は、肝腎の硝子が割れているけれど、僅かに残った青や赤の透明な破片が、洒落た風情を偲ばせる。開け放たれたその戸から内を眺めると、柱や梁は組まれた形を頑丈に保った儘、斜めに入る日光に黒光りしている。店の奥には畳敷きの一画が設けられ、其処には床の間も備えてあって、蒔絵の棚と、針の停まった漆塗りの置時計が据えてあった。
さて、それで、この店の売り物は畳の上で砕けている白磁だろうか、それとも手前の、砂埃と蓬に埋もれた土間にある机の上の、番いの判らなくなった箸達だろうか。
そっと、格子戸の前を過ぎる。
その隣の店も又印象を反転させ、ヨーロッパ風に戻った。荘厳なゴシック風の白門を模した入口を覗く。と、クリーム色を基調とした明るいダマスク柄の壁に寄せられた、唐草を模した棚には、可愛らしいティーセットが並んでいた。青地にそれぞれカメオを嵌めたティーセットは、埃を被っていても、洗って、あれでお茶が出来たらと、少し空想してしまう。
他にもこの店の雰囲気に似合う小物や食器は陳列されている。が、一度気になる物が瞳に入ると、他の物は意識から離れてしまう。欲しいな。けど用事があるし、名残惜しくても行かないと。
壁に挟まれた細い空から太陽の目が此方を見下ろした。途端、薄影は拭われて、路地の色合いは明るく、温かくなる。パステルカラーのお店にしても、植物にしても、人工灯ではなく日光を受けた方が、やっぱり瑞々しい。
と、店の並びが途切れ、路地はY字型に分岐した。左の方には板張りのオープンテラスがあり、黄色いパラソルの残骸が、引き裂かれた布を春の花みたく咲かせ、ヒラヒラと、そよ風にもなびく。それらを越えた先にはエスカレーターが見える。ノイズの走る壁にピタリと寄り添うエスカレーターは、その儘壁の内側に上がり込んでいる。
けど。其方に用はなく、行き先の右の道を進む。と、間もなく、大きな店舗の前に着いた。
今度の硝子箱は随分大きい。横幅も奥行きも大分ある。ショーウィンドウの前に立てば、その表面に自分の姿が薄く映る。
ショーウィンドウは舞台に似ていて、背景に因って視界は遮られ、裏側、店の中は見えない。背景には赤、ピンク、撫子色のリボンが数百と描かれ、錯綜している。その前にはマネキンが立っている。彼女の衣装は白いキャミソール型ワンピース、その上にキャラメル色のカーディガンを羽織っていた。
しかし、そう見えていたのも束の間で、ショーウィンドウの様子は目まぐるしく切り替わり、四季折々を披露していった。
一瞬間、背景が真っ白になったかと思えば、直ぐ群青波打つ海が描かれ、マネキンの衣装も、襟付きの、目の覚める様な朱色のワンピースに変わる。次いで背景には銀杏の黄葉が敷き詰められ、衣装はヘリンボーンのニットセーターとジョーゼットの花柄ロングスカートに。その次には紅葉の絨毯と、黒革のライダースジャケットと白いフリルシャツと黒デニムのショートパンツ。秋の葉が吹き攫われれば、雪が降り始め、フェアアイルのフードケープに藍色の中折れ帽を着込む。雪が晴れたならもう夕焼け、マネキンはダッフルコートとセーラー服に着替えていた。
まるで万華鏡の様なショーウィンドウは、けれど、此処で唐突に変化を止め、背景は白に、マネキンも裸になって白い肌を晒した。
故障したのか、今度は季節も衣装もなく真っ白の儘、いくら待っても甲斐はなかった。硝子の粒がマネキンの汚れた足先で輝いている。それが答え……。
行かないと。
正面に向き直る。
この先はトンネルになっていた。右側の壁が出っ張り道の上に被さっている所為。中の照明は未だ生きていて、埃っぽいトンネルの床や壁に鱗みたく貼られた白タイルを、冷えた緑に変色させつつ照らしている。このタイルも損傷が酷く、所々から地の灰色を露出していた。
加えて、白タイルに紛れて判り難いけれど、両壁には白映機も埋め込まれていた。丁度瞳の高さで延々と並ぶ白映機は、プラスチック製の表面を艶々とさせていた。
しかし、トンネルを歩いて暫くすると、白映機が一斉にぼんやりと発光し始めた。
曖昧な白光が通路を満たした、その刹那、鼻先に一輪、不意に真っ赤な躑躅が咲いた。
虚空に咲いた赤い花。葉も茎もなく、地に足の着かない様子で、ひたすらふわふわと軽やかに浮かぶ躑躅。
気が付くと、花はこの一輪だけでなく、宛も透明な模様が色水を注がれ浮き出した様に、辺り一面、花々が咲き乱れた。
紅白躑躅の五角形の花が頭の上で冠を編む。黄色く可憐な菜の花が足下を埋め尽くし、もっと細やかな沈丁花が、季節外れの雪みたく、白い花弁を肩の辺りに舞い散らせる。
皹割れたタイルに立ち現れた花園の一輪に触れてみる。と、花は忽ち白い泡となって消えた。その様子が……花が白い泡になって消える瞬間が……嘘みたいで、堪え切れず、思わず両手を広げ、片っ端から花弁に触れて行く。
期待を裏切ってくれずに、どれもこれも、指先の当たった花は全て、染み出す様に泡となり、それでも花園は続き、石鹸水に沈んだみたく、その内に花弁と泡の区別も付かなくなった。
掴む事すら儘ならないもどかしさを握り締めつつ、蝶の羽根より薄い色取り取りの花弁が厚ぼったい泡に変身する、この鏤められた矛盾をひたと見据えた。
が、ズット続くと思えた景色も呆気なく潰える。トンネルが終わると共に白映機はスッカリ光を失い、洗濯途中の花園も掻き消えて、短い階段を下りた先の床は日光を受け白々しい。
無機質な光景は安心するけど、こんな一度に色彩が消えてなくなると、少し寂しい。
両脇を硝子で仕切られた下り階段を一段ずつ確かめながら下りて行く。
左右の硝子板の表面には擦れたアルファベットが残っていた。が、それだけで、板の向こうは空っぽ、何も無い。唯、店舗の残骸らしい四角い空間が青冷めたコンクリートを残すだけ。向こうの床が明るい所為で此方の陰気の度合いは更に深まる。階段はそんなコンクリートの段差を滑り落ちる波紋みたく、硝子板の間に緩やかな段々を形作っていた。
最後の段をピョンと飛び下り、明るい床に立つ。
正面から直に差し込む光が眩しい。彼方が出口らしい。真っ直ぐ向かう。と、歩く度、靴の裏に何か引っ付く様な感触があった。足を上げれば、ニチャリと、嫌な黒い物が粘着質な影みたく附いて来る。
何がへばり付くのか、足下を確かめる。と、埋め尽くす黒いインクの海が、べったりと、白む床に見渡す限り貼り付いていた。
インクは灰色の紙に印刷されてある。つまり、これらは新聞紙面の成れの果てらしい。年月を経て破れ、湿気り、磨り減り、集まり折り重なり、終にコンクリートから剥がれなくなって、騒がしい記事は床に転写された。
夥しい新聞紙上を賑わせる黒蟻めいた文字の大群は断片的にしか読み取れない。絡まり合う黒い奔流の中から、「号外」、「致死性」、「テロ」、「変異」、「初動ミス」と、意味のある単語をやっとこれだけ見付け出した。
そうやって、立ち止まって文字を探す内、導かれるみたく、視線は床を伝って背後の空間へと流れ、知らない儘通り抜けかけた、茫洋とした駅構内が瞳に入る。
此処から、一面の新聞の貼られたコンコースを跨いだ所に、二十数台の改札機が半円に並んでいる。土塊に一様に穢された改札から入場すると、大広間より広く、二階より天井の高い構内に通じる。その随所に掲げられた緑色看板には、白抜きの矢印と案内が出ている。が、看板はその役目とは逆様に、彼方此方、上下右左、名前や番号の付いた矢印を用いて態と人を迷わせようとしていた。
駅の床全域には、足跡のない雪原みたく、埃が深く敷かれていた。そんな床に色々な物が据えてある。手前に建つ、銀色の掘っ立て小屋めいた物は売店の名残、だと思う。彼処の近くが一番新聞の文字が濃いから。それから奥の壁際には「立ち喰い蕎麦」の青暖簾がくたびれている。この二つの丁度中間には下へ向かうエスカレーターが設置されている。横一列に並ぶエスカレーターには、各々番号が割り振られ、十四、十五、十六と、此処から見えるのはこの三つだけ。
視線を上げても、緑色看板や擦れた広告看板が頭上を隠し、天井はまるで見えない。けど、上から差し込む黄金色の春光が、キラキラと、埃や、商店街を仕舞った駅の中を温めているから、きっと天井には大穴が空いている。
そう、青空が空いている。
さぁ、外へ出て。
振り返り、溢れた文字を踏み付けながら黄金に輝く出口へと向かう。
駅舎の屋根を抜け出すと抜ける様な空が出迎えた。崩れた屋根から差し込むと、どうしても追憶めいた薄膜を通す分、日光も古く感じられたけど、こうして屋外に出、直接肌に触れてみれば、太陽は燦々と新鮮に輝いていると実感出来る。
目の前の八車線大通りが横切る向こう、行き先の南側に建つビルは一つだけ、その麓を目一杯の桜の花が覆う。
青空に澱む薄紅の積雲。そう錯覚するくらい桜は密に、柔らかく、風に吹かれれば一斉に揺れ動いて泡より容易く形を崩した。が、こんなにも、燃え立つ様に咲いても、瞳を圧倒せず、寧ろ風景を和らげ、瞳を気遣う様なのも、生来の色調の効果、神代の昔からズット受け継がれた花は、その代名詞に相応しい気品と脆弱とを変わらず兼ね備えている。
森の足下は散った花弁に厚く埋もれ、地肌は土かコンクリートか、全く見えず、木の幹の茶色を真ん中の支えとすると、景色の上下は両方桜一色、天地の区別は付かない。
不定形の大樹林、花弁を重ねた所々が白の中に濃い桃色の斑点を滲ませる処女林へ……八車線を横切って、桜の森の満開の下へ向かう。
風に舞う花弁が白昼夢に誘う。怖いくらいの風景に、つい、カーディガンの上から二の腕を擦ってしまう。地に落ちた花を踏む。と、足首や足の甲に纏い付く花弁は死体の様に冷たい。時折、花弁の下に盛り上がった根が隠れているから、油断は出来ない。足を引っ掛けても転ばないよう、乱立する幹を支えにして慎重に進んで行く。
明晰夢、空の青を隠し切る花の天井が実感を薄める森の中に、しかし、現実に置き去りにされたらしい小屋の姿が度々ちらついた。
小屋はどれも粗末でその上背丈も低く、屋根すら花に届かないから、森の下にスッカリ沈んでいる。こんな小屋が二軒、三軒と、朽ちながら残っていた。
小屋の白壁は大概黒カビに侵されていて、その黒と白の色合いが焼き豆腐を彷彿とさせた。脆いサマも一緒。壁は窓から崩れ、角を欠き、四角形すら保てず、グズグズと、傍に瓦礫を積み上げている。酷い物だと、床から生えた桜に屋根を突き破られている小屋すらあった。
けど、何故、森の中に小屋があるの?
ふと、そんな疑問が過ぎり、じっと、小屋を観察してみる。と、扉を失い虚ろに開いた玄関の横に赤い十字が消え残っていた。更に入口から半壊した屋内を覗けば、床に転がる芯の折れた無影灯と、プラスチック製の赤い鞄を見付けた。
“AED-BT-DDC for A.B. USE ONLY”
赤鞄にこれ以外の文字は刻まれていない。
それから、床には他にも何か……静かに輝く銀色の何か……人の背骨を模した機械……が、錆びもせずに打ち捨ててあった。
二度目の事だけれど、夢の様な森の中にて機械を垣間見ると、舞台装置の例で、瞳は「人工」に敏感になる。森の風景はいつ迄も変わらず、いつ終わるとも知れないが、左の幹の合間に仕切りを発見する。如何にも人工的な仕切りには手摺りのある物、よくよく見れば欄干と判る。
とすると、この桜の森にも果てがあるという事。
意外な事に興味が芽生えれば、ふと其方へ寄り道する気にもなる。
混み合った幹を避け、薄紅の敷物を荒らし、ハラハラと降り掛かる花も払い除ける。そうやって森を出れば、線路が見下ろせた。
欄干に寄り掛かる。
此処から見渡す景色は、手前に線路、中央に白い花々、奥に架線支持装置の列、それらの向こうには百貨店。向かいの百貨店の陰には、小さいビルがひしめいている。街の東側に建つそれらは、屋上に広告塔を掲げ、派手な色遣いを青空の下に密集させていた。
視線を下ろす。欄干の遙か下には鉄道線路が敷いてある。此処を二層目とすれば、線路は一層目。そう言えば、さっきの駅舎で見た階段は全部下に通じていた。
大きな駅を発つ路線は多く、此処から見える南北へ走る線路だけでも十本はある。赤錆びた線路は、白詰草の群生に飲み込まれ、溺れている。
空は青い儘。
その空を他愛なく舞う桜を見る。
と、ぼんやり空を見上げていたその時、砂糖菓子の様な白詰草が一様に揺れる気配がし、視線を下ろせば、予想外な事に、ガタンゴトン、大きな音を引き連れた電車が眼下を走って行った。
一路、南へひた走る電車の列。しかし車窓から見た車内に乗客は一人もない。無人の逃避行。銀色の身体に緑の一本線を引いた車両は、段々と速度を上げて遠退き、車輪を回すけたたましい音と共に、その姿を小さくして行った。
あの儘、何物にも邪魔されず、無事逃げ果せるだろうか。電気の尽きるその前に……。
電気の心配なんて、と、去り行く列車を見るでもなく眺めつつ思う。電気のなくなる心配をするなんて。昔は電車だってもっと沢山走っていたのに。勿論、乗客もいて、それどころか街は人で溢れていた。若者も老人も。あべこべに、こんな森はなかった。空だって植木だって、人いきれと文明に穢されて。
束の間、耳の奥で都会の喧噪が蘇る。
変わらないのは独りぼっちだって事くらい。
人々は無関心を装いながら此方に一瞥を寄越す。だから此方も同じ事をする。
徐に欄干に預けていた身体を離し、森に引き返す。
風が桜を舞い散らす度、欺されている気分になる。春の温かな空気が震えて結ぶ幻影、或いは人工機械が瞳に直接流し込む映像。ヒラ、ヒラと、頬に触れた花弁は、少し湿っていた。
それでも過去を思い出す。森に隠され、面影はないけれど、目的地の直ぐ近く迄来ている。此処が昔、人通りの多い、石畳の道だった頃、行き交う群衆に紛れ、両親に附き添いながら歩いた。今はあの時とは真逆の方向に歩いている。案内もなく、記憶だけを頼りに。道など疾うに失われ、此方の都合などお構いなしに乱立する木々を避けて行く。一本一本、太い幹を躱す度に方向感覚が狂う。それでも……。
一体、何処を訪おうとしているか、何が待っているか、考え考え、急がず弛まず両足を動かす。
これが最後の桜。
そっと、密やかに森を抜け、晴れやかな正面を仰ぐ。
ポッカリ空いた広場に、ポツンと、孤独にそびえるビルは、三十階建ての立派なもの。箱型ビルの表面は強化硝子で覆われ、大空を映すその内側にて、白鉄骨を格子に組んでいる。そんな青色硝子を透かしたビルの中は、事務机や椅子が白雲と共に空中に浮かんでいるみたく見えた。
顔を下げ、玄関を見やる。と同時、五基ある自動ドアの内、丁度真ん中の物が開いた。
入口手前の階段の脇には、銀色の一枚板で造られた看板が立っている。
「霞精密工業」
そんな社名の横に刻まれた、斜線入りの八枚歯車を凝視する。今度こそ瞳を逸らさずに。




