エスト
冬のさざなみに家出少女の風采は似合う気がした。
ある寒い日の午後。薄晴れの空と穏やかながら重たい海とが傍らの砂浜に打ち寄せ、砕ける。輪郭を忘れた雲は限りなく引き延ばされ、浜辺の波が白い泡を攫って行く。そも、空も海も本当に青いのか判然としない。黄味帯びの空、鉛混じりの海。潮騒を奏でる砂浜だけ白滑石を交ぜた様に明るい。こんな景色に似合う衣装の事を思う。態々取り揃えた訳ではない。が、海岸線を歩くセーラー服の自分は、まるで誂えたみたい。
先ずは形から。黒セーラー。胸の前で結んだスカーフの色は赤、襟には白の平ライン。スカートはキチンと膝上丈、合わせて黒のハイソックスと濃茶のローファー。コートはベージュの、大きめのフードの付いたダッフル。
潮風に長い髪がなびく。少女は掛け慣れない赤縁眼鏡を掛け直した。
耳に聞く波の音に合わせ歩いてみる。と、スカートの裾を蹴飛ばす程大股になった。それにも直ぐ飽きて、歩幅は細やかに戻る。
この道を、大海を渡る一本道、と、そう言っては大変だけれど、そんなに間違ってもない。右手に冬の海、左手にコンクリートの平野。細い枯草の列がなびく海辺も、コンクリートの平野も、甲斐も果てもない点は一緒。
但し、平野の方は未だ見所がある。午後の教室。授業中の生徒みたく行儀良く整列する黒い塊がある。
その丸っこい塊は殆ど原型を留めていない。が、車輪は残っていた。元々は車らしい。ズラリと、灰色平野に居並ぶ塊の向こうには、弧を描く高速道路の残骸が見える。ひしゃげた支柱を下敷きに地に伏す道路は、子供の悪戯で壊れた模型にも見える。
伊達眼鏡の奥に控えた少女の瞳は、暫くは道路のカーブを眺めていたけれど、やがて移ろい、遠く、正面にある別の模型を捉えた。
今は、あの、大きな観覧車が目印。
少女は海岸線を真っ直ぐ歩いた。
海からの風が身体に纏い付いて、頬を撫でては去っていく。取り分け膝頭の辺りに絡む冷気はしつこく、白い肌が引き締まる。それでも眉一つ動かさず、両足は動かし続けて、静かな渚を横切れば、模型と思った観覧車も段々大きく、本物に近付いていく。
と、前方、未だ遠い観覧車の足下に建物が現れた。金網のフェンスに囲われた、白い箱の様な建物。
右に潮騒を聞きつつ、少女は海岸線を左に外れて土手を下り、コンクリートの平野に降り立った。海の気配が遠退く。此処は鉄錆の匂いが濃い。黒い塊が原因だろう。
少女は眼鏡のテンプルを摘まんでパッドの位置を整えた。
砂や海水が掌からサラサラと零れる様に、海辺は何もかも穏やかに壊れている。白い四角い建物の壁は汚れ、茶とも赤とも付かない色が根深く染み着いている。窓は悉く砕け、室内で柱でも折れたのか、一部は全く潰れ切っている。
しかし、そんな建物の内でも、正面にそびえる一番大きな構えは割合無事な姿を保ち、他の壊れた箱に埋もれる様にしていた。
少女は手前の、建物を囲むフェンスを見やった。そうして金網の一端が大きく破れているのを見付けると、身を屈めその抜け穴を潜った。破れ目は大きく、コートのフードを一度引っ掛けただけで、容易く通り抜けてしまう。
敷地内にて上半身を起こす。悪い事をした際の高揚もなく、少女は普段の無表情を浮かべた端整な顔を正面へ向けた。
潰れた建物を避けた先、薄い影に潜むシャッターは半分開いている。足は自ずと其方へと動く。汚れた白壁の間を道に進む。シャッターの前には赤錆の目立つ救急車が停まっていた。
シャッターを潜って屋内に入れば、広い廊下がズット真っ直ぐ続いていた。
照明は絶え、ポツ、ポツと空いた天井の穴から、スポットライトの様に黄金色の日光が差し込む廊下。キラキラと、舞う埃がライトの中で輝いている。
造り自体はこれといって面白くもない。病院みたい……真っ先に病院を思い浮かべたのは、入って直ぐ右の部屋に「救護室」と掲げてあったから。
救護室の窓際には病人用のベッドが四床並び、シーツの破れたベッドの上で、破れたカーテンが緩やかに躍っている。床には薬棚から零れた瓶の破片が散らばっている。他、“AED-BT-DDC for A.B. USE ONLY”と刻まれた、赤い、プラスチック製の鞄が三個落ちていた。鞄の周囲には朽ちた機械の部品が散乱し、丸い鉄の輪や、ネジや、繋がった針の先端等が、遺跡の様に放置されている。
少女は廊下を進んだ。
瓦礫を跨いで黄金色のスポットライトの中を抜ける度、コートに埃が付く。それを払う度、廊下の両側に連なる部屋の中を窺った。
救護室を越えた先の右の部屋は事務室らしく、中央に机が並べられている。その中の一番手前の机上にはファイルケースと玩具の回転式拳銃が共にあり、椅子には古めかしいテンガロンハットが掛かっていた。
視線を左へ投げる。事務室の向かいにある扉は開いてはいるものの暗闇が深く、入口近くしか光が届いていない。が、扉の近くに段ボール箱が置かれていて、その中は見える。箱には陶器製のピエロ人形が仕舞われていて、此方に満面の笑みを投げ掛けていた。
ピエロの前を過ぎ、次の部屋の前に来る。此処は明るい。窓の磨り硝子の破片が大きな円卓の上に降り注いでいる。円卓の中央で物が倒れている。それはフェルト製の宇宙船や、銀の円盤のミニチュアや、胴の太いロボットだった。
会議室の向かいの部屋は空っぽ、物のない室内はひたすら広く見える。唯、明るい窓辺には、ケアーンテリアを連れた少女の絵が飾られていた。
伽藍堂を越えると、又も真っ暗闇の部屋に差し掛かった。が、此処も扉の近くだけは黄金色の光が届いている。光に照らされた床には教壇が置かれていて、教壇には高級車や骨董車の模型が置いてあった。
顔を反対へ向ける。向かいの部屋は収納箱で一杯だった。床を埋め尽くす箱、箱、箱。その中には紙を巻いた物が沢山収まっている。長い巻物はポスターで、解けた一枚が床に広がっている。少女は其処に描かれた山高帽の紳士を一瞥、部屋の前から去った。
そうして最後、廊下の突き当たりにある部屋の前を通り掛かる。
部屋の真ん中に長机、机上には灰皿、奥にテレビ、壁際にホワイトボードが配された室内。差し込む日光をマトモに受けるホワイトボードには小さな物が貼り付けてある。殆ど白く褪せた四角い物の中で、一枚だけ、悠々と飛行する白い鳥の姿を写した物が残っている。古い写真らしい。ホワイトボードには英語でこんな事が記してある。
『若しもかもめを見付けたら、オスならジョナサン、メスならニーナと名付けよう』
『そうすると、きっと、かもめは冷戦を始めちまう』
『どうだろう?彼も彼女も芸術家だから』
ボードに残された会話に語り手の姿は見えず、写真の鳥とてかもめかどうか判らない。そんな事に関心もない。少女はふいと顔を背けた。
廊下は眼前にて潰えている。
洞窟の目眩く出口。白む景色に瞳が慣れるより早く、少女は廊下から外に出た。
途端、砂埃を含んだ横風に襲われる。現実が夢に切り替わったと、茶色い風が晴れると共に少女は錯覚した。
思わず白い息を吐く。それ程寒い冬の日なのに、景色だけ酷く暑苦しい。いつか見た映画のワンシーンを思い出す。それ程風景は様変わりしてしまった。あの、二階の鎧窓が風に軋む荒ら屋の玄関から、今に三つ揃いを着込みハットを被った男が出て来る……。
少女は俄に振り返った。今通って来た筈の廊下を確かめる。確かに、壁には扉のない出入口がポッカリ空いている。が、壁には壮大な背景も描かれていた。青空と、赤褐色の岩山と、地平線とが、無限に続く風景画。
正面に向き直る。この背景に似合う町。態々取り揃えたんだろうか?こういう町を開拓地と、そう呼ぶのだろうか。
通りに並ぶ破屋は、元から木材を打ち付けただけの簡素なものばかり。態とそういう風に造ったらしい。よくよく見れば、乾いた砂と思った地面も、それに色合いを似せた淡い飴色のブロックで舗装されている。
見せ掛けの、模造品の町。
だから住人も人形だけ。
少女は辺りを散策した。
町は一本の目抜き通りと、その両脇に連なる家が全て。乾いた目抜き通りを入って直ぐ左には、屋根ばかりの馬小屋が建っていて、その下に栗毛馬の模型が一頭と、破れたテントから肋に似た骨組みを晒す幌馬車が繋がれている。馬は所々塗装が剥げ、右足も膝から折れている。が、それでも皹割れた地面から伸びる枯草を食む姿で首を下に曲げ、地に口を着けていた。
馬の尾の前を横切れば、馬小屋と屋根の繋がった家の正面に着く。
玄関に大きく飾られた看板には、緑色の文字で“SALOON”と出ている。が、果たしてこの家が本当に酒場かどうか、疑わしい。
店内は、大体の酒場と同じく、良い塩梅の酔客で賑わい、あられもない事になっている。建材と同じ茶褐色の丸テーブルに着いた客は皆々、空の手を振り上げ、ある者は大笑いし、又ある者は恐怖に顔を歪めていた。
それでも、誰も声を上げず、身体も動かさないのは、全員が人形だからだろう。
少女は人形達の饗宴を眺めた。
どの顔も平面的だ。が、表情には富んでいる。女の人形は、化粧の積もりか、瞳にぼかしが入り、鼻梁は一本線、頬に紅が差してある。黒ドレスの第一ボタンを締めた貴婦人もいれば、胸元を大きく開けた娼婦もいる。殊に娼婦の方は赤や紫のドレスを召し、花弁の様なフリルが傷んで、白い肩を露わにし、果ては臍迄破けているものもいた。
対して、男の方は、殆どが三つ揃いにテンガロンハットという服装で統一されている代わりに、表情は大別されていた。
恐怖に戦く男と、下卑た笑顔と銃口を此方へ突き付ける男と。
銃撃戦。
無音ながら喧しい酒場。発砲音が白黒スクリーンから響く様。玄関横に空いた長窓には、旧式のライフルやリボルバーが括り付けてある。
これを使って撃て、と、そういう事?
つまり、この酒場その物が大掛かりな玩具という事。
人形は銘々が勝手な表情を通りに向けている。助けを請う女の顔、今にも泣き出しそうな男の顔、挑発的な酔眼。大概どの人形も、手足の一本二本取れている。にも関わらず、未だに遊び相手を求めている。
こういう玩具は男の子用で、実際に自分で遊んだ事はない。いつも遊んでいる姿を後ろから見守っていた。父親になっても、男の子は男の子の儘だから。
少女は歩き出すべく足を動かした。
道の反対側へ視線を投げる。と、淡い緑が上品な、白い三角屋根の家が潰れていた。玄関先には、硝子の破片に埋もれた看板が落ちている。仰向けに倒れる看板には、“Restaurant”のイタリックが擦れていた。
視線を又左へやる。と、丁度通りの建物が途切れていて、木壁の陰から放牧地が臨めた。
飴色ブロックの牧場の、倒れた木柵の内には、鞍を乗せた六頭の牛が砂風に佇んでいた。どれも茶色い毛並みを風に震わせつつ微動もしない。
牛達の背後には風景画が広がっている。荒野の画にも牛の群れが小さく描き込まれている。画の中にも、群れの中にも、入り損ねたのね。
少女はロデオから瞳を外すと、眼鏡を掛け直して、再び歩き出した。
五メートル、歩き、反対の建物を見やる。その玄関に半裸の男人形がポツンと立っていたから。頭に被った派手な髪飾りから、人形は先住民を模した物と推せる。男は険しい顔で口を硬く結び、訴える様な眼差しをひたと正面へ向けた儘、右手を差し出している。その手中には金色に輝く何かが握られていた。
程なく十字路に行き着いた。向かって左、十字路の手前には、背の高い時計台が建ち、日時計みたく、交差点に細長い影を落としている。見上げれば、塔の形こそ保っているものの、肝腎の時計は止まっていて、この町が時代錯誤である事を代弁するかの様に、無言の儘青空を突いていた。
時計塔の影を突っ切って十字路を抜ける。と、右側に牢屋が構えてあった。牢屋、と言っても正式のものでなく、精々簡易留置所といった風情で、中を窺っても、一階最奥に木組みの格子があるばかり。
留置所の玄関先には木片が落ちている。視線を足下に落とし、それを見れば、砂に埋もれた表面に“Undertaker”と、黒い文字が書かれていた。
通りの向かいには古教会が控えていた。三角屋根の十字架が斜めに傾いている。少女が窓のない壁を仰ぐ。ステンドグラスもない教会は逆光を受け黒々そびえている。
この教会が目抜き通りの終点らしく、此処より先は突き当たり、右を向けば、木造駅舎が大きく構えているのが瞳に入った。
“OLD TOWN STATION”
と、屋根の下の看板にあるのだから、駅に相違ない。が、木造の駅舎はハリボテで、入口から覗く悠大な風景は例の如く画だった。
町は三方を風景画に取り囲まれている。何処迄も続く空と荒野の画に因って、町は随分窮屈に区切られていた。
それでも、駅舎に停まる機関車だけは本物らしい。薄い駅舎の左端からはみ出た先頭車両……煙突付きの、黒く、硬質な車体が、しんと、線路上に横たわっていた。
今時珍しい蒸気機関。石炭の熱が蒸気を生み出し、蒸気の勢いがシリンダーを動かし、シリンダーのピストンが車輪を回す。
単純な仕組みなのに、機械は凄く複雑だろう?それが美しいんだ。鉄の筋肉だ。男の憧れだよ。
過去の台詞が脳裏を過ぎる。
少女は機関車を背に駅前を右へ歩いた。
言葉の響きが尾を引く間に、駅と隣り合った家の前を通り掛かる。と、少女は足を止め、他より外観の立派なその建物を見上げた。三角屋根、白壁の二階建て。二階にて二つ並ぶ窓はどちらも鎧戸に塞がれている。入口に掲げられた長方形の看板には、“Sheriff”と、それから金色の星が描かれていた。
玄関テラスを上がれば、床板がギシギシと危うい音を立てる。玄関口は悠に六メートルはあって、妙に広い出入り口から少女は中を覗き込んだ。が、濃い闇の奥は何も見えない。廃材の匂いが此処迄漂ってくるから、通路は埋まっているのかも知れない。
入る甲斐がないと悟ると少女は踵を返そうとしたけれど、直ぐ足を止めた。右側、暗い玄関の壁に掛かっている一枚の画が瞳に付いたから。
それは騒がしく、滑稽な、漫画の様に物語のある画だった。
内容は……少女は瞳だけを動かす……粗野な見た目の無頼漢共が、町で暴れ、馬で逃げるのを、胸に星バッジを付けた二枚目が幌馬車で追い掛けるというもの。時に酒場で、時に荒野で、時には機関車と並走しながら、又時にはインディアンと共闘しながら、男達は激しい銃撃戦を繰り返し、最後に無頼漢共を一網打尽、二枚目はリボルバー片手にウィンク……。
一通り見終えると少女は俄に視線を外し、止めた足を動かして、身体を振り向かせた。悪い人ばっかり。頭の中でそう呟きながら。
通りの裏手を辿って進路を引き返す。建物の裏側は、玄関の有無以外、表とそう変わらない。荒野に建つ荒ら屋は明確な輪郭を保っているけれど、ともすると砂混じりの風に紛れ、危うい瞬間に霞む。その度に少女はコートやスカートに付いた砂埃を大儀らしく払い落とすのだか、道も半ばを過ぎた頃、地面の色迄もが曖昧になっているのを見、菫色の瞳を瞬かせた。
今迄飴色だった地面が緩やかに波模様を描き、それを境界線として、赤とモスグリーンの三勢力がひしめき合っている。
三色が打つかり合う逆さT字の国境は砂に埋もれている。左の地面にはモスグリーンのブロックが敷き詰めてあって、其方へ視線を伝わせれば、アールデコを思わせる図形的な花模様をあしらった黒柱と、硝子張りのアーケードが自然と視界に入った。
晴天に蓋をするアーケードの透明硝子を見るでもなく眺める。格子状に組まれた黒い骨組みが、半円形に垂れ、その儘黒い柱に繋がっている。格子の合間から覗く硝子は、雲の溶けた空を透かし、家の壁に明かりを差していた。
アーケードの下にも街並みが列を成している。彼方は荒野より時代が進んで、モスグリーンのブロックに似合う、近代的な西洋建築が建ち並んでいた。どれも三階建ての、鮮やかな色の家々は、全部商店なのか、一階間口に必ずショーウィンドウが備えてある。
可愛らしい商店街。しかし近付く事は出来ない。
少女は視線を手前に戻した。左に開けたアーケードに入る横道は、積み重なった物々で塞がれている。赤茶けた鉄骨や、腐食し黒ずんだ木材、破れた土嚢と、それらを覆うタンポポの葉が、行く手を邪魔している。
通行出来ない廃材の行き止まりを選択肢から取り除き、少女は顔を正面へ戻した。今度は赤い地面の方を見やる。
正面の空は開けている。薄い雲の漂う青地に、黒い尖塔を並べる鉄柵と、バタバタと翻る色取り取りの三角旗が、味気ない冬の空に彩りを添えていた。
遠目にもボロボロと判る程痛んでいる旗は、殆ど布切れと言って差し支えない。それでも猶、旗は自分の身などお構いなしにはためき続けている。少女は瞳を凝らした。その中で一等高い所で揺蕩う赤い旗は、何か、もっと大きな布の上に立っている。
あの光景は、何処か、記憶の何処かに眠っている。
少女は足を前へ進ませた。
荒野の裏手と商店街の裏手に挟まれた道。道端は左右で時代が異なる。右には転げ落ちたカンテラや樽、左にはガス灯と蔦模様のベンチ。取り留めがない。道を抜ければ正面に鉄柵が現れる。少女は足を左へ、柵に沿って歩いた。
黒い尖塔の列を並べる鉄柵は少女の背丈を悠々超している。その列を右に見ながら進む途中、左手にアーケードの出口の前を通り掛かる。屋根を被った商店街は、完璧な直線遠近法に因って収束し、遠く向こうの果てに、もう一端の出口が小さく白く覗いていた。
商店街の前を通り過ぎてから間もなく、右手に連なっていた黒鉄柵の列が門扉に変わった。
鋳物で以て蔓草の象られた両開きの門は開いていた。絡み付く本物の蔓草も色を失っている間を抜ける。
と、見目にも華やかな煉瓦敷きの広場に出た。
七色の彩が場を飾り立てている。広場中央を起点に、翼状に広がる屋台の列の屋根や柱に立つ三角旗の数々が、絵の具の様に鮮やかに、風になびいている。
少女は両の手の平を口の前に持って行って、ハーッ、白い息を吐き掛けた。
屋台の周囲には回転遊具が配されている。門を抜けて直ぐ左にはコーヒーカップ。白磁を模した、コーヒーでなく人が入る設計のカップは、三個一組が三つ、計九個放置されている。まるでワルツの様に回っていたコーヒーカップ。乗った記憶がある。あの、パラソルみたいな屋根の下で、クルクル、クルクル……今でこそ、赤錆がカップの下半分を侵してしまっているけれど。
遊具は他にもある。右奥、屋台の列を越えた場所に、ローラーコースターのレールが切り立っている。錆の所為で全体の色調が暗く沈んだレールは、上がり、下り、一回転、曲線に雑草を添え、それを支える複雑幾何の骨組みが、巨大生物の骨格標本を思わせた。
レールの陰には回転木馬が控えている。白地、金装飾の屋根と土台は円形。回転するのは屋根の方。軽快な音楽に合わせ、世界が回る様に回転していた白馬は、今猶金色のポールに胴を貫かれた儘、優雅に残っている。円状に配置された木馬はどれも艶っぽい鞍を乗せ、首回りや細長い足、尻尾を、金の鎖と欠けた色石で飾り付けている。そんな木馬に混じって豪奢な馬車も見える。
お姫様ね。
優しい声が耳許で立つ。あの馬車に乗っていた時、どんな曲が掛かっていたか。木馬の黒目だけが、今もじっと、人一人いない広場の様子を映していた。
伊達眼鏡の底で菫色の瞳を瞬かせる。少女はやがて思い直した様に歩を進めた。色褪せ、ピンクになった煉瓦を踏み、踏み、屋台の列が両翼をなす中心も越して最奥を目指す。
其処には大きな、大きなサーカステントが張ってあった。
杭に打ち込まれたワイヤーに引っ張られ、形を整えている巨大テントは、紅白縦縞の帆布に、金色で縁取られた赤布の屋根が段駄羅模様みたく被さった造りになっている。入口は、帆布を緞帳の様に両側から捲り上げた所らしく、少女は真っ直ぐ其処へ向かうと、直前で歩を止め、チラと中を覗き込んだ。
テントの内は薄暗いと予想したが、意外にも、屋根の布が破れた箇所から差し込んだ薄明かりに点々と照らされていた。
円いテント内部の中心点、円形ステージの中央には、円錐屋根を支える大黒柱が立っていて、又その柱には、放射状に、三角旗の連なったものが結ばれている。旗は客席の頭上を渡っているが、中には糸の切れたものもあって、赤や青や黄の三角形が、ダラリと、しどけなく客席に引っ掛かっていた。
他、客席には、多くの物が散らかっているけれど、少女は一先ず中心のステージを注視した。
土の露出したステージは、土が殆ど見えない程雑草と若木に埋め尽くされている。冬らしく灰褐色に痩せた若木が一本、大黒柱に寄り添う様に生え、その周り、取り分け日の当たる場所には背の高い草が群生していた。
そんなささやかな木立の狭間から、大道芸に使う道具が顔を出している。
火の輪潜りに用いる鉄輪、白と水玉の縦模様になった大玉、どちらも草の陰に萎れている。綱渡りに使う二本の棒は両方倒れ、右左の客席にそれぞれ埋もれている。若木の根元に横たわる剣の突き刺さった棺桶はきっと手品用。
お囃子の楽器も揃っている。全て叢の中、道具と共に打ち捨ててある。左から、蛇腹の伸び切ったアコーディオン、破れた小太鼓、弦のないマンドリン、鍵盤ハーモニカ。
ハーモニカの傍には、繻子に金糸を縫い込んだ襟の大きな道化服が土に汚れていた。
道具は揃っている。演者だけがいない。道化師不在の道化服は頼りなく萎れていた。
それから少女は改めて客席を見渡した。
客席は茫々たる紙の海に沈んでいる。
円状に広がる客席を埋め尽くす紙はたった一種類のポスター。図案は全て同じ。白地の中央にサーカスの演者が勢揃いしている。道化師も手品師も、タイツ姿の軽業師も、猛獣使いもライオンも、皆が皆、満面の笑みを浮かべ、此方にピースサインを差し出し、そんな彼らの頭上に甚だ明るい調子で、
“In 20th, The Anniversary of The End of AI War, We’ll Show You Special Performance!”
と印字されている。
少女は徐に視線を外し、そっと、その場を離れた。広場中央に戻り、行き先は左、粗末な屋台の合間を進む。
最初の目的地は其処にある。
波の音が黒髪を横切って耳に入る。後は布のはためきだけ聞こえる。
サーカステントの頂上に立つ赤旗は背後。両脇に原色に塗ぬられた屋台看板が次々と立ち現れる。荒い木組みの屋台の店先で鉄板が錆び付いている。足下には砕けた硝子ケース。
少女が顔を上げると、不意に視界が開けた。
屋台の列を抜け切れば、其処は空の広い場所だった。色褪せた煉瓦広場の、この一画だけ、大空は大空の儘、開けている。
但し、薄晴れに重なる物は建っていた。
手前の回転遊具を見上げる。高さは十メートル程、形は傘の平たい茸を彷彿とさせる。空中ブランコ……傘から吊り下がる椅子の列を見、少女の脳裏にそんな単語が過ぎった。
回転木馬と同じ色合い。ブランコは全体が白地で派手な金装飾が施されている。そんなブランコの背後には小高い丘が控え、コンクリートの丘陵を交互に上がった坂の先には、観覧車がそびえていた。
やっと着いた。
少女は澄んだ瞳で以て観覧車をぼんやり見上げた。
大空に大輪を投げ出す観覧車は、緻密な蜘蛛の巣みたく骨組みが白く、玲瓏としながら華奢に佇んでいる。その輪郭、円の外周には、木の実の様に丸いゴンドラが環状に垂れている。ゴンドラはそれぞれ赤、橙、黄、緑、青、藍、紫と、順番に塗られていた。
高さは少なくとも五、六十メートルくらい。あの高さから見る景色を思う。敷地の内は勿論、きっと反対側に広がる大海原も見渡せる。
束の間、少女は観覧車の上から見る冬の海を思い出した。この時期の海は、日に当たって銀絹の様に眩しく輝き、金を溶かした様な空と、最果てにて打つかっている……。
しかし、追憶から現実に立ち返れば、目の前には大きな蜘蛛の巣が太陽光に射抜かれているばかり。観覧車は押し黙った儘、白々と日光を照り返していた。
雪の結晶。
動かない観覧車を見てそう思う。白くて眩しくて冷たい。
あんまり眩しく、視線を逸らす。と、視界に図形が映り込んだ。
黒鉄柵の外、此処から少し離れた場所に見える建物の一群は白と銀で構成され、又悉く流線型を描いていた。記録でしか見た事のない様な、古めかしいサイエンス・フィクションの造形。
その中でも一際異彩を放っているのは、巨大な白球と、細長い三角錐の塔だろう。少女の瞳が捉えた図形もこの二つ。装飾は疎か、窓すら排した、ひたすら滑らかな表面を晒す二つの図形は、どちらも平たい屋根の上に置かれている。この屋根も又特異な形で、零れた水銀が広がる一瞬間を保った様に、庇部分が波打っていた。
銀の屋根に覆われた下は全く暗い。対照的に、球体と円錐は青空に浮かぶ雲よりハッキリ日光を照り返していた。
少女は観覧車の前を離れた。意志はなく、足は弛まず動き、右脇、開いた鋳物の門扉を抜け、赤煉瓦と青いモルタル地面の境界を跨いで、旧式の近未来に近付いて行く。
水銀屋根の建物の前には何物かが据えてあった。青い三角形フラクタル。その周りを硝子の卵が取り囲んでいる。雛が孵った後なのか、硝子の卵は全て割れている。又、三角形 フラクタルの、自己相似の継ぎ目には、ほんの小さな穴が空いていた。
噴水。
一瞥と共に浮かんだ単語は、正面に視線を戻す頃消えた。
建物の玄関前迄歩く。屋根は全て繋がっている。が、建物の入口はいくつか分かれている。それぞれ何処に繋がっているか、ニキシー管式看板に案内が出ていた。
数ある玄関を渡り歩き、一々、その中を確かめて行く。
右方から順々に、波打つ屋根の影をなぞって巡る。先ず右の玄関は、天井から垂れ下がった浅葱色の配管に因って完全に塞がれていた。折れた配管の空洞を晒す断面を観察する。腐食の痕跡が甚だしい。配管はどれも端から赤黒く変色し、細い物も太い物も無関係に折り重なって、通路を入口から遮断していた。
又、この玄関は丁度白い球体の真下に当たっている。銀色屋根に乗った白球を詳しく見る。と、球体の左下、屋根と接する辺りに扉が開いていた。扉の上には緑色灯。非常口だろう。扉の向こうは唯々暗闇ばかり。しかし非常口が設けてあるのなら、あの球体の中は室内という事。
其処から屋根の影伝いに歩いて、真ん中に開いた自動ドアの前に立つ。照明が消えているから奥は少しも見透かせず、低い西日が入るドア近くが視界の限界。入口を抜けて直ぐの所には上へと続くエスカレーターがある。その両側、エスカレーターと共に延びる青地の壁には、白い菱形が連続して描かれていた。
エスカレーターは丁度三角錐の塔の真下にある。とすると、この玄関は屋根の上の細長い塔に繋がっている筈。
あの白い塔が何なのか、通路の壁に解答が残っていた。
斜めに上がる青地の壁には額縁が掛けてある。その銀縁の内には色褪せたポスターが入っている。視覚的に直線を主張する図案。ポスターの下三分の一は赤地、上三分の二は冴え冴えとした藍地、全体を縦に貫く三角錐の塔が真ん中にそそり立ち、それを柱にスペースシャトルが寄り掛かっている。シャトルは煙を噴き上げ、打ち上げる寸前といった様子。その白煙が文字となって、
“SPACEPORT, Safety Space Travel”
と読める。
再び光と影の境目を踏みながら、左方へと歩いて行く。光と影は屋根の上下でも区切られている。銀色屋根が白む程光を反射し、屋根の下、建物の中は一様に黒い。
そんな暗闇の手前に四体のロボットが立ち並んでいた。
四角い胴、アーム型の両手、太い足と、スイッチが目、鼻、口の位置にある顔。右から、白、赤、橙、黒に塗られたロボット四体が、玄関前に佇んでいる。
ロボットは四角い目鼻立ちを此方へ向けた儘ポカンとしている。若しかすると、長い間立っていたから、感情機能が壊れたのかも。
動作を止めたロボット達を見つめる。
四体のロボットは皆、手に手に布切れを持ち、胸の前に掲げている。茶色くなった白布には、それぞれ規則的に書き殴られた文字が記されていた。
“In 20th”
“NO WAR!”
“Zum Ewigen Frieden”
“We are NOT Army!”
ロボット達の背後にはアクリル戸がある。頭上のニキシー管は消えている。例しに戸口を押してみる。鍵が掛かっているのか、アクリルは少しも動かなかった。
これで此処の玄関は全部。銀色屋根の中には入れなかった。
振り返る。日は少しずつ傾き、空の低い所に浮かんでいる。そうして、西へ沈み行く太陽を背に、緑の城壁がそびえていた。
城壁は三角形フラクタル噴水の向こうに見える。が、大半は植木の後ろに隠れ、キチンと見えているのは城門とその周りだけ。青色モルタルの地面は、城門を抜けた先でその色を変えていた。
枯れ枝を伸ばす植木の背後に続く古風な城壁は、緑の煉瓦を積み上げた物。その色合いが冬の並木を青々と見せ掛けている。
近未来の銀色屋根を出る。意志はない。本能なのか、足はひたすら動く。と、城門の前に着く。
これも緑色に塗られた木製城門の両脇には、小振りながら立派な円錐塔が備えてある。両開きの門は、ペンキが剥離し生地の木目を露わした箇所以外、鉄輪の取っ手も、蝶番も、全てが緑色。
青色モルタルの境界を越え、緑尽くしの門から城壁の内側に入る。
と、形の崩れた落葉の下から、目の覚める様な、黄色い煉瓦の道が現れた。
鮮やかな黄色の道。その両側には成長した雑草が茂っている。黄色い煉瓦が草の間を分け入って行く様。そんな野草園の合間合間から、何か、御伽話的な物々が覗いている。
草に隠れたそれらを見、昔、母親が優しく読み聞かせてくれた寝物語を思い出す。昔?物心付く前の記憶は薄く、映画みたいに他人事、いまいち実感が湧かない。
けどこの物語は知ってる。“Oz”と題名の付いた絵本。
絵本の筋書き通りに道を進む。そう言えば、こうして黄色い煉瓦の道を辿っているトコロも一緒。これで可愛いテリアが、後ろからチョコチョコと附いて来てたら完璧。
少女はコートにも、黒セーラーにも、ローファーにも頓着せず、「絵本の道」を、お供も連れず歩いて行った。
城門を抜けて直ぐ左には、灰色の小さな家が、叢に埋もれる様にしてポツンと建っていた。草の葉先が窓に届く程小柄な家は、どうしてか少しだけ傾いている。家の下に何か挟まっているらしい。が、雑草が邪魔してよく見えない。
家の反対側、右の道端には小人の人形が寄り集まり、此方を見上げていた。どれも背丈は少女のスカートの裾に届くかどうか。そんな彼らの中央には、杖を持ったお婆さんがいて、その足下には一枚のプレートが埋めてあった。
角の欠けた銀プレートの表面には英文が刻まれている。
“Oz, himself is the Great Wizard, he is more powerful than all the rest of us together. He lives in the City of Emeralds.”
物語と共に煉瓦の道を進む。次に、少女は草葉の陰に横たわる案山子に出会した。倒れた時に壊れたのか、俯せた案山子の右腕と背中の竿は取れている。それでも彼は微笑を浮かべている。そんな案山子の、転がる頭の傍にもプレートは埋められていた。
“You see, I am stuffed, so I have no brains at all.”
唯のコンクリートの人形なのに?
少女は小首を傾げると、倒れる案山子もその儘にして、先に進んだ。
更に歩くと、黄色い道の左右には、雑草だけでなく、木々も見え始めた。森深く入り込む。と、道端に二体の人形が現れる。左にはブリキの人形、右にはライオンの像。少女はローファーの踵をコツコツと鳴らしながら、順番に両者を見やった。
最初は左。全身を鈍い銀色に染めたブリキの人形は、手に持った斧を振り上げた儘、ピクリとも動かない。そんな人形の足下に埋まったプレートには、
“Get an oil-can and oil my joints. They are rusted so badly that I cannot move them at all; if I am well oiled I shall soon be all right again.”
と切実に刻まれている。
続いて右。ライオンの方は、どうしてか前足で顔を隠した恰好で地に伏せている。黄金色の背中に乗ったフサフサの尻尾も萎れた儘、無性に怯える姿は、大きな猫にしか見えない。そんなライオンの鼻先に埋まったプレートを覗き込む。
“It is my great sorrow, and makes my life very unhappy. But whenever there is danger, my heart begins to beat fast.”
それを読んでしまうと、少女はやおら俯いていた顔を上げた。
途端、周囲が一変する。
木立はいつの間にか消え、北風が一面に草擦れの音を奏でる。寒々しく乾いた音が満ち、風と共に少女の許から遠離る。
黄色い煉瓦の道は目前で途切れている。そうして、入口と同じ様に、終点にも城門が口を開いて待ち構えていた。城壁も張り巡らしてある。やっぱり、全部が全部、緑色に塗られている。
門前には軍服姿の人形が二体、鼻先が欠けながらも守衛に当たっていた。
勿論、この二体も、帽子の天辺から軍靴の先迄、くたびれた緑色で統一されている。少女は先ず守衛の足下を確かめた。が、何処にも英文の刻まれたプレートは見当たらない。
その事を不思議に思いつつ、少女は城門を抜けた。
二つ目の城壁も越えると、円状の広場が瞳の前に開けた。
広場の中央には立派な宮殿が建っている。と言っても本物ではない。本物よりズット小さい。そうして、広場の全てが緑色に染まっている。
少女は伊達眼鏡の奥で菫色の瞳を瞬かせた。
緑色の地面、城壁の内に沿って円形に広場を取り囲む緑色の商店、アーチ状の屋根も回廊を支える柱も窓硝子も緑色の宮殿。建物だけじゃない。ショーウィンドウの硝子も緑色。となれば当然、売り物も緑、緑、緑ばかり。看板に描かれた緑のキャンディー、緑の硝子ケースの中で作られるポップコーン、緑のレモネード、緑の、緑の……。
少女は自分の恰好を見下ろした。緑だらけの此処では、ベージュのコートが浮いてしまう。緑の景色から逃げるべく上を向く。空が青いのも不自然。瞳はもう、緑の広場に慣れ始めているらしい。
こうも緑色ばかりだと、どれが建物なのか判らなくなる。屋根の丸い宮殿は、その屋根を支える太い柱も含め、緑の地面からその儘の形で盛り上がったみたい。軒を連ねる商店も同じ。と言うより、緑が過ぎて、城壁と見分けが付かない。
だからか、風化して塗装の剥がれた箇所が矢鱈と目立つ。
緑の中に点々と白い欠損の混じる広場を迂回し、少女は向かいの門へ歩いて行った。
緑色の門は開いて、仄暗い外を覗かせている。兎も角、瞳すら緑に染まりそうな広場から脱出する為、亀裂に生えた雑草も踏み締め門を抜けた。
西門を出れば城壁の外。少女は顔を上げ、周囲に緑のない事を確かめた。序でに青空も道もない。
東側とはまるで様相が異なる。黄色い煉瓦の道は勿論、道らしい道すらなく、唯、木立の曲がりくねった隙間が獣道みたく延びている。
視線をもう少し上げれば、互いに組み合った枯れ枝が頭上を全く覆っている様子が見える。まるで天井、灰色の枝は殆ど隙間なく空を覆い隠している。何だか態とらしい。案の定、木と思ったものは人工物で、灰色の木肌を撫でてみると、滑らかな感触が手の平を伝った。
人工森林を歩く。細く暗く続く獣道は心細い。枯れ枝は形が鋭くて、贋物だと知っていても、見るだけで胸の辺りが冷たくなる。それらを越え、道の終点に着く。と、森を抜けた先には、無気味な洋館がひっそりと佇んでいた。
黒い煉瓦造り、二階建ての洋館は、窓枠等に緑の木材が使われている。鬱蒼とした森の出口に不意に現れた黒館は、暮れ始めた空に現れた黒雲みたくそびえている。
玄関は開いていた。少女はセーラー服のスカートを揺らし、ローファーの踵を、コツン、コツンと鳴らして玄関前の階段を上がる。一寸立ち止まって赤縁眼鏡を掛け直す。長い黒髪を耳に掛ける。そうやって身嗜みを整えてから、館に入って行った。
暗闇が少女を飲み込む。何も見えない。近くの壁に触れつつ手探りで進む。少し先に明かりが差し込んでいるから、一先ず其処を目指している。後三歩、二歩、一……。
少女は日の入る吹き抜け天井を見上げた。
此処は玄関ホールだろうか。高い天井。広い床は黒と緑の市松模様。部屋の奥には幅広の階段。階段には毛羽立った緑色の絨毯が敷かれている。手摺りの洋燈は割れている。又、踊り場の壁には大きな画が掛かっていた。
黒いトンガリ帽子を被った、肌が緑色の、随分悪い笑顔を浮かべた老婆の肖像。
見上げた天井には四角い機械が沢山設置されている。黒々とした機械の狭間から、黒いキャンバスに穴を空けたみたく、青空が覗いている。多分、崩落でもしたのだろう。
視線を落とす。と、床の上には砕けたスポットライトと、水色のトロッコが転がっていた。
少女はトロッコの方をじっと見た。
水色の地に、銀のパンプスの画が細かく鏤められた、可愛いトロッコが、横倒しになっている。中には白いソファが三つ収まっている。つまり、人の座る場所が三列拵えてあるという事。
それから、少女はホールを横断するレールを見やった。
右の廊下から入り、少女の足下を過ぎて、一直線に左の廊下へ向かうレール。日光を浴びて銀色に輝くこのレールの行く先が気になる。少女は早速このレールに沿って歩いて行った。その途中、度々壊れたトロッコを目撃しながら……。
黒と緑の入り交じる、細長い廊下を歩く。レールの幅しかない廊下は、少し行くとふっつり途切れ、合わせて床が地面に変わって、唐突に夜の森が開けた。
屋内の森は、微かに霧が立ち込め、全体がほんのり白んでいる。木々は全て奇っ怪な形に幹や枝を曲げ、うねり、尖っている。レールはその間を蛇行していた。
キョロキョロしながら森を進む。と、突然、木の陰から狼の群れが襲い掛かってきた。
少女の瞳が釘付けになる。と、よくよく見れば灰色狼達は皆、剥製だった。大概どれも毛皮が削げ落ち、頭だけのもの、その逆に頭の取れているものと、痛々しい。それでも怖ろしい顔に牙を立て、此方へ飛び掛かろうと身体を躍動させた儘、黒い木々の間で固まっている。
更に森深く行く。と、多くの大鴉が地面に仰向けになっている場所に着いた。
黒い羽根が周囲に散らばり、辺り一面、黒い蒲団みたく地面を覆っている。鴉達は羽毛蒲団の上で黒い身体を反らし、黒い翼を大きく広げた恰好で寝転んでいる。逆様、黒い地面を背に滑空しているのかも。
更に更に進む。と、今度は大きな蜂の巣の目立つ場所に差し掛かった。森閑とした中、攻撃的な色の巣の内から羽音は聞こえない。住民のいない巣が、其処の木にも、其処の木にも、ぶら下がっている。
レールを辿ってかなり深く迄来た。そう思い始めた頃、木立の陰から扉が佇んでいるのが見えた。森の中なのに。あの扉は何処に繋がっているのか。レールは扉の中へ吸い込まれている。少女は小走りになった。開いた扉を急いで抜ける。
と、其処は室内だった。
どうやら台所らしい。木目の床には食器棚や、石組みの窯、大きな井戸が配されている。台所は舞台に似て一段高い所にあって横に長く、レールはその手前、観客席に当たる場所を横切っていた。
役者も揃っている。大きな窯から伸びる石の煙突の周囲、天井近くに、翼の生えた猿が何匹も浮遊し、少女を見下ろしている。
そうして舞台の真ん中には、顔を引き攣らせた老婆の人形。
両手を上げ、大袈裟に背中を反らす老婆は、全身に黒い服を着込み、黒いトンガリ帽子を被って、何より肌が緑色だった。
少女はレールを外れ、台所に上がり、人形……悪い魔女を一瞥した。
“Didn't you know water would be the end of me?”
そんな嗄れ声を聞いた気がする。少女は床に転がるバケツを避け、奥の舞台袖へ向かった。退場……暗い袖の内に眩い出口がある。夢から醒める時と同じ感覚。少女は光の中へ入って行った。
そうして気が付けば外の通りに立っていた。
眩しさに細めていた瞳を少しずつ開けて、強がる様に、雲の溶けた空を仰ぐ。やっぱり寒い。少女は自分を抱き留め、コートの上から二の腕を擦った。
辺りを見る。茶色っぽいモルタル道路にいる。道は太く、横一文字に延びている。少女が右を見やる。と、道路の行き着くもっと向こうに、青空にクッキリと輪郭を浮かばせる白い球体と円錐塔が小さく見えた。
続いて左を見やる。と、茶色の道路はアーケードの下に繋がっていた。煉瓦造りの建物が建ち並ぶ商店街は、此処から見るととてもお洒落に見える。
最後に正面を向く。と、道路に沿うコンクリートの壁が視界を邪魔していた。
壁は落書きで埋め尽くされていた。コンクリートの灰色に、スプレー特有の、粒々とした色が線を描き、崩れたアルファベットを形作っている。不良だけど、賑やかな壁には、戸も設けてあった。
落書きに埋もれていて、最初は見落としたけれど、気にしてみれば、その戸は少しばかり開いている。少女は道路を横切り、ギィと軋む戸を手前に引いてみた。開いた。その儘引き切って、戸を潜る。
と、木漏れ日が景色を満たした。
少女は森の中にいた。
森、と、そう言っても、暗くて深い……怖い夢の様な……ものとは違う。背の高い木々が穏やかな日射しに浴している。
深い木の薫りと麗らかな木漏れ日が、空気に溶け込んで、寒さを和らげている。此処は針葉樹ばかりらしく、冬ながら青々と細い葉を茂らせている。そんな森の間を、一本、灰色の車道が走っている。道端には“ROUTE 66”と、標識も立っていた。
少女はゆっくり息を吸い、長々白い息を吐いた。木々と共に呼吸する。そうすれば巧く息が出来る気がした。そうすれば巧く歩ける気がした。
少女は傍の木を支えに土の地面を下り、車道に立って、正面を向いた。そうすると、自然、足は前へ動いた。
針葉樹林は高く、見上げても葉影は日光に霞む。道路は直線という訳でもなく、常に緩やかに波打っていた。赤茶けたさかむけ幹の中を蛇行する灰色の道路。通り掛かる車もなく、少女は一人、道路の真ん中を歩き続けた。
やがて森は途切れ、少女は広大な土地に放り出された。
急に視野が広がる。青空が一度に降って来たみたい。森を抜けると周囲は芝生ばかり。車道は黄緑の間を貫いている。と、向こうの方に建物が見える。別に急ぐ事もなく、少女は何も無い周囲を見渡しながら、遠くの建物目指し、道路に従って歩いて行った。
近付くにつれ、建物は段々と大きく、鮮明に見えて来る。一目でそうと判るあの形。平たい板みたいな屋根と、それを支える柱だけの、空っぽの建物。
ガソリンスタンド。
道路の脇に建つスタンドの屋根の下に入る。と、其処には既に数十台の車が停まっていた。
押し合いへし合いしている車は、どれも小さく、子供用の物ばかり。けど形は凝っている。クラッシックな物から、レース用の物迄、高級車ばかりが、互いにくっ付き合うくらい密集してズラリと並び、敷地の半分を占めている。
こういうのをゴーカートと呼ぶんだっけ。
男の子なら競争するんだけどな。
パパにそう言われた事は覚えてる。でも、何で男の子は競争するんだろう?
少女は色取り取りの車達の前を素通りして、ガソリンスタンドの屋根の下から出た。
途端、照り付ける日射しに容赦なく晒される無人街が瞳に飛び込んだ。
此処が一番荒廃の色が強い。泡沫、建物は殆ど全部潰れている。日光の具合か、地面はオレンジ色に見える。或いは広場を囲む廃材の所為かも知れない。
広場の両側には、手前から奥迄、色々な三角屋根が並んでいる。支えを失い、地に伏した屋根達は、その下にかつての記憶一切を閉じ込めてしまっている。建物だった名残は、時折残っている柱だけ。倒壊から逃れ、未だに直立する柱は、意固地に直立し、黒ずんだ先端をひたすら上へ向けていた。
少女はそんな広場の中央を見据えた。其処に、唯一形を保った建物がある。
横に長い建物は、本当に四角く、箱みたい。それに上、中、下と、三色に塗り分けられているから、とてもカラフルだった。幾何学模様の描かれた土台。一列の窓硝子。屋根には派手なネオンで“Amusement Park Diner”と記されている。
少女は近付いて行って、少し背伸び、窓から簡易食堂を覗いた。
密閉された室内は、埃と静けさで一杯になっている。窓辺に並ぶソファの褪せた赤。白い机の上には、メニューと、中身が心配になるくらい変色したトマトケチャップとマスタードの容器。キッチンも荒れ果てている。銀盆の様なカウンターの向こうで、黒い油に塗れたコンロと、赤錆を垂らす大鍋がその儘になっていた。
そんなコンロの上の、暗い換気扇の横の、収納の戸には、ポスターが一枚、貼り付けてあった。
少女は爪先立ちで食堂の周りを歩きつつ、ポスターを読んだ。
“In 20th, Special Menu for Peace”
文字だけのポスターに飽きてしまうと、少女は背伸びを止め、広場の出口へ向かった。
広場は廃材に取り囲まれている。が、左奥だけポッカリ空いている。其処を勝手に出口と思い、茶色い道路に出れば、直ぐ右にアーケードがあった。
酷く遠回りをした気がする。ようやく踏み入ったアーケード商店街は、最初に見た時と何ら変わらず、都会的な空気に満ちている。黒い鉄骨製のアーチ硝子の天井。モスグリーンのブロックを敷き詰めた道路。両脇には煉瓦造りの家々が連なっている。
ベージュの壁に縦長の窓が並ぶビルの、一階ショーウィンドウを覗き込む。と、お菓子の缶詰を並べ、椅子の形にした上に、クマのヌイグルミが座っていた。
お隣、赤い家のショーウィンドウには、白地花柄のワンピースを着込んだマネキンが、手にバックを提げていた。
こんな所に服屋。変だなと、少女は思った。ママは喜びそうだけど。いつも、二人で服を選びに行っていたから。
硝子天井から入る赤らんだ陽光が街並みを夕暮れに染める。通りには一人、ビルとビルの隙間の路地裏を覗き込む少女の姿。
建物の隙間に入り込む路地の、薄暗がりのその奥、突き当たりの壁にも看板が見える。“Shop in the Alley”と、怪し気に書かれた看板。好奇心はあっても、躊躇いの方が強く、少女はふいと顔を背けると、路地の入口から立ち去った。
通りの中頃を過ぎると、小休止、ビルの列が途切れ、鉄柵と庭園が道端を埋めた。
芝生の庭園に植えられた薔薇は、伸びた葉と棘とが鉄柵の隙間を抜けて、通りに迄突き出ている。だからか、鉄柵の足下には落葉の山が出来上がっていた。
溜まった落葉が赤い日の光を浴び、燃える様な色に変わる。その中で、一際盛り上がっている所があって、不思議に思いよく見てみる。と、落葉の中に、籠が一つ、埋もれていた。
籠の中は落葉で一杯になっている。あれが全部薔薇の花だったら、古い映画のワンシーンと一緒。両親が好きだった白黒映画。喜劇役者が、盲目の花売り娘に恋をするお話。
映写機か幻燈機が、多くの人を映し出し、けれど此処には一人切り。少女には何だかそれが不思議に思えた。映画でも遊園地でもお客さんはいる筈。
振り返ってみたところで、アーケードの通りは寂れ、夕暮れに伸びる人影もない。少女は自分が迷子になったと思った。が、自分の風采、セーラー服を見下ろし、家出少女だった事を思い出す。
「パパやママと遊ぶ年齢じゃないもの」
そう呟いて、儚くも顔を上げる。知らず識らず、アーケードの端迄来ていた。
終点。入口でもある。どちらも同じ事。天井代わりのアーケードと共に西洋の街並みが途切れれば、屋内らしかった様相も急に開け、目の前に夕暮れが広がった。
気の早い星がチラホラと瞬く藍色の空。向かって左、西の果ての、地平線近くだけ、橙色の帯が炎々と澱んでいる。暗い髪の少女の頬に血が上った様な空色。
アーケードを抜けると直ぐ広場になっていた。
時計みたく丸い広場の真ん中には、天を衝く柱が一本。石畳から生えた白い石柱は、五、六メートル程の高さで、宛も冬の冷気を支えるが如く虚空に伸びていた。
その石柱に近付く。と、白い表面に、連綿と文字が刻まれているのを見付け、少女は黙読していった。
甲信静復興協会地域産業部
ナカタニAIテクノロジー
後藤服飾店
タニヤ
三山組
フジ観光連合
……………………
USARJ
見慣れない名前の一覧。それを、上から順に少女が瞳で追っていた時、夜気と潮の香りを含んだ北風が吹いた。肌が引き締まる。舞う黒髪を整える白い指先こそかじかむ。
横合いから夕日を浴び、広場に細長い影が二つ落ちる。その内の一つが動く。コツ、コツと、少女は石畳を鳴らして歩き、石柱の横を通って、広場を突っ切った。
程なく、遊園地の入場口が見えて来る。低い屋根の下に居並ぶ改札は、落葉と雑草の溜まり場と化している。その上、夕刻の所為で全体が薄暗く、実体が影にすり替わっている。
少女が屋根の下へ入り込む。と、忽ち身体が影に溶け込んで、自分の腕すらも見えなくなった。
カサカサ、パキリ、薄暗がりは音ばかり。前に突き出した手も、乾いた細い草にくすぐられる以外、何の手応えもない。
かと思えば、手の平が何か、ザラザラと、堅い物に触れた。改札だろう。草に隠れた改札機を手探りで以て確かめ、盛り上がった腐葉土を踏み付けつつ、雑草に埋もれた隙間をどうにか通り抜ける。
と、ようやく影の下から出られた。
肩越しに後ろの様子を見やっても、刻々と日は暮れ、影を濃くしていくから、今通った屋根の下はまるで見えない。諦めて正面に向き直り、少女はエントランスの広場を眺めた。
夕闇が辺りの彩りを奪って、何処の隅にも濃い影が潜んでいる。白昼下ならこの薔薇に溢れた広場もきっと賑やかだったのに。
四角い広場の中央に配された円形花壇。その中から溢れた蔓が、伸び、生い茂っては絡み合い、複雑化を繰り返した果てに、広場を占拠している。薔薇特有の棘がひしめくサマは酷く重々しい。自然の有刺鉄線……と言うより、薔薇の金網に近い。解れのない蔓の塊は、しかし影の中で棘の輪郭を曖昧にしていた。
この薔薇が花を付けたら、と、少女は想像する。緑の海に点々と色付く赤い花の数々。今は見る影もないけれど。
少女は改めて広場を見回した。左右の壁際には木が三本ずつ植えられている。どの植木も濃い蔓の下に根元を隠されている。その奥、蔓を越えた向こうの左右には、一棟ずつ平家が建っている。どちらの壁面にも蔓が伝い、亀裂と共に、白壁に毛細血管の様な細かい筋を描いていた。
そうして花壇に取り囲まれた広場の中央には、三メートル程の、彩色の洗い落とされた像が、薔薇のうねりの間を掻き分け佇んでいた。
夕暮れが薄闇を被せているから像の委細は判らない。が、刹那、瞳が眩む程の赤に景色は染まった。
夕日が建物の隙間を抜け、広間を照らす。その一瞬間は蝋燭の最後の灯りに似て、蔓と少女と像を芯から真っ赤に染めた。
薄闇のベールを外された像を仰ぐ。像は丸い台に乗っている。台の上にはコンクリート製の旗が二棹、交差しつつ、ある球体を支えていた。
風雨に因って色が落ち、欠損もあるので判り難いけれど、旗は右が星条旗、左が日の丸らしい。二つの国旗に支持された灰色の地球。地球の上には一羽の鳩が羽ばたいた恰好の儘固まっていた。
少女は、それから、蔓の合間を覗き、像の土台に刻まれたその文字を確かに見た。
“A.I. & A.B. for Peace”
少女が読み終えるのを待つ様に、間もなく日は没し、今迄気配だけを忍ばせていた夜が地に満ちた。
振り返ってみる。こんな夜なら、数多の電球に灯が入り、鮮やかな電光飾に輝く遊園地が遠くに見えると思ったから。
しかし、背後には、黒い衣を被せた様な暗闇が広がるばかり。
その代わり、夜空には、キラキラと、綺麗な音が聞こえそうな程の星々が瞬いていた。
冬の澄んだ空気が透かす夜空の彼方には、二つの円が浮かんでいる。星空に黒い影を落とす観覧車と、夜の中心で銀に照る満月を見ながら、少女は一つ、白い息を吐いた。




