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砂時計の唄  作者: 白基支子
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イド

 雪が降っていた。どうりで寒いと思った。

 分厚く敷き詰められたにびいろの雲から、綿の様な雪がフワフワとゆっくり落下している。降り始め、積もるには今少し時間も要る。が、数多と白い点々の舞い落ちる姿を見れば、今日にも雪化粧を済ませ、そうすれば、何もない此処も少しは綺麗になる筈と推せる。反対に、もっと寂しくなるかも知れないけれど。

 暗い灰色の空から生まれた雪は、空中を漂い、やがて灰色の地面に落ちる。色の無い街。天と地を逆様さかさまにしても、きっと景色に変化はない。少女はそんな事を考えた。

 耳を切る寒さの中、少女の吐息も又白い。寒ければ寒い程、白はより白く、半透明、色も凍り付くらしい。膝近く垂らしたケープの裾と茜色のレインブーツの狭間から覗く少女の膝頭が真っ白い。

 辺りはしんと静まり返っていた。山沿いの道路を一人切りで歩く。道の左に低い山を仰ぎ、右にひたすら荒野を臨む。草も枯れたコンクリートの平野には、焦げた基礎や黒ずみ糜爛びらんした材木がチラホラあるばかり、人家の名残も朽ちた景色が地平線迄続く。

 寒々しい荒野を一瞥、少女はケープの前を引き合わせた。内に着込んだワインレッドのシルクシャツがその隙間から持ち前の光沢を深く湛えている。ケープとシャツの間には、粗編みニットカーディガンの生成り色が挟まっている。その上から、華奢な身体には大きいフードケープを羽織る。このケープは黒と青と灰色の三色で以て大形にフェアアイルの幾何学模様が生地に描かれた大仰な物。そんなケープの背に長い黒髪を仕舞っている。又、少女の小さな頭には、黒と見紛うくらい深いインディゴ染めの中折れ帽が乗っている。ケープの裾に隠れた黒無地ミニスカートの裾を、ヒラヒラ遊ばせながら、少女は黙々と足を動かしていた。

 深々と降り頻る雪を見飽きるでもなく見上げる。と、少女は一寸立ち止まって、菫色の瞳を背後へやった。白い息が灰色の空に吸い込まれる。自分の呼吸以外無音の道に、何をか聞いた気がした。

 その正体はエンジンだった。調子の悪そうな音を立てながら、バスが一台、此方へ真っ直ぐ走って来る。少女は暫くその場に佇んだ。バスは独りで動いているのか、運転手も客もない儘、車体を酷く揺らし、揺らし、やがて少女のいる場所を追い越した。荒野の脇をのろのろ走る姿を瞳で追う。車体は褪せた青色で、その上に水色の流線が太く描かれている。色合いも相まって、雪の寒さに身体を震わしている様にも見える。

 青い車体が雪に混じって朧になり始めた頃、不意にバスは停止した。エンジンか何処か、本当に壊れたのかしら。ぼんやりそんな事を考える。と、ほんの十数秒後、バスは一度大きく身体を震わせ、又のろのろ発進した。そうして、雪のまにまに、バスの姿は全く見えなくなった。

 少女も再び歩き出す。突き刺す寒さに両の頬が赤くなるのも構わず、白い息を吐き吐きゆっくり足を動かして、取り敢えず、さっきバスが停まった所を目指す。

 きっと昔、彼処は停留所だったんだ。

 感慨もなく考える。

 つい先程の記憶を残像に見る。バスの停まった道端に何があるか。道の右側は相変わらず不毛の地だ。が、左側には、山へと通ずる道の入口が設けてあった。

 山への道はキチンと舗装されていた。と言うのも、白い骨組みの露出した硝子のアーチトンネルが被さっていたからで、雪も入らず、その赤い石組みがハッキリ見えていた。

 少女は視線だけトンネルに伝わせて、繋がる先を見やった。赤い道は一路、山へ延びている。その先には大きな建物。少女は顔を上げた。雪に紛れて全景は判らない。が、大きな建物が山の斜面に建っている。それも三つ。

 麓には楕円柱の建物、中腹には山林に囲まれた四角い建物、それから頂上付近には、降雪に白んだ合間から、微かにドーム型の建物が見える。斜面に沿って一直線上に並ぶこの三つの建物を臨む否や、少女は硝子トンネルに向かった。

 この天気をやり過ごすには丁度良い。

 トンネルに入ると、幾らか寒さも和らいだ気がする。硝子越しに見る雪は、冷たくもなく、舞い散る綿埃に似ていた。

 透明なアーチトンネルは枯れ木立の間を貫き、真っ直ぐ麓の建物に通じている。大体二十メートルも歩けば出口、冬木立を抜け、建物前の広場に出る。

 此処も閑散としている。しとしとと、赤石組みの地面に雪が溶け込む音が聞こえて来る様だ。が、人のいない代わりに、彫像が数体、玄関先に冷え冷えと佇んでいた。

 緑青ろくしょうの彫像は人より大きい。どれも全体が丸みを帯び、手足はなく、大体背後に一つと、側面に二つ、三角形がくっ付いている。凡そ人の形ではない。では何の像か、肝腎の顔が砕けていて判然としない。が、種類は色々とあり、丸みの加減や、くっ付いた三角形の大きさもそれぞれ違った。後尾が長い物や、その逆で尾と胴体の境目の判らない物もある。口だけを残した大きな彫像は、ノコギリの様な牙を剥き出しにしていた。

 ズラリと並んだ牙の前を通って、少女は玄関を入る。

 やっと、と思いつつ振り返る。開いた儘の自動ドアの向こうでは雪が降り続いている。灰色の中、白い斑点がゆらゆら落ちる景色から徐に瞳を背ける。

 柔らかなカーペットを踏む。色は先程のバスと同じ、深い青色の上に水色の流線が何本もうねっている。

 部屋は薄暗い。が、どうやら相当広いらしい。奥には駅の自動改札に似た物が四台置いてある。辺りに立つ白い柱にはディスプレイが嵌め込まれていて、その黒い画面が少女の姿を反射していた。

 何の建物かは未だ判らない。少女はケープの肩や、中折れ帽の頭に被った雪を払って被り直してから、物の少ない室内を進んだ。ある物と言えば、床に落ちている細長い紙くらい。少女はその内の一つを拾い上げた。表、裏と引っ繰り返してみる。表には水中を泳ぐ魚や亀や鮫の写真。それから「カスミ浄水族館」の文字。

 裏面には細々しい文字と、斜線の入った八枚歯の歯車のマーク。他にも何か書いてあるが、その歯車マークを見た途端、少女は反射的に紙を取り落とし、顔を上げていた。

 兎も角、これはパンフレットで、此処は水族館なんだ。少女はゆっくり奥へ向かった。水族館なら、あの自動改札は入場口。

 銀色の滑らかな表面が黒ゴムで縁取られた改札機は閉まっていた。入るにはチケットが要るらしい。

 周囲を見回す。辺りは薄暗く、取り分け床の隅や壁際に暗がりが沈殿し黒い染みとなって、埃を被った床からひっそりと寂寞が立ち上っている。

 が、不思議と改札前には埃がなかった。拭った様にカーペットの青色が明るく、他の場所とは見違える。掃除された痕跡は改札前から向かって左へ延び、壁に突き当たった。

 そして其処に機械が嵌め込まれていた。

 視線を上げる。と、割れたディスプレイに「券売機」とノイズ混じりに表示された機械が五台、等間隔に並んでいる。近付いて見れば、画面の下に幅広の取り出し口が設けてある。丁度鳩尾(みぞおち)の高さにあるその銀色の口を覗く。と、妙な物が一つ、転がっていた。

 藍色の立方体キューブ

 手の平サイズのそれを手に取ってみる。思いの外軽い。手触りはスベスベしている。八つある角の一つに小さな穴が開いていて、其処にチェーンが通っている。ネックレスになるらしい。早速首に掛ける。と、キューブは又、少女の鳩尾の辺りで落ち着いた。

 胸の下で揺れるキューブを軽く撫でた後、少女は無表情に改札の方に引き返した。そうする事が正解と知っての行動ではなかった。が、少女が改札前に戻ると、鼓膜を引っ掻く様なノイズが響き、合わせて周囲が俄に明るくなった。

 振り返る。と、ついさっき迄死んだ様に沈黙していたディスプレイ達の電源が点いていた。全て無事とはいかず、寧ろ大体は砂嵐を映しているけれど、その内でも何とか故障を免れている画面には、白地に『いらっしゃいませ』の文字と、青と水色の二色で塗り分けられた歯車が表示されていた。

 少女は正面に向き直った。いつの間にか改札も開いている。天井の照明も疎らに点き、灯りの下、建物奥へ延びる廊下が現れている。

 殆ど無意識に少女は足を動かしていた。

 改札を抜け、壁に空いた入口を進む。白々と明るい玄関から一転、廊下は仄暗く、藍色の間接照明が点々と壁を灯していた。態と暗くしているのだろう。が、本来の意図より今は一層暗い。藍色の照明は壊れている物の方が多い。

 そんな中を暫く真っ直ぐ行くと、廊下は左に折れ、其処を曲がった途端、少女の瞳に弱い日光が当たった。

 何処か、高い吹き抜けの部屋に着いたらしい。見上げれば天井は硝子張り、濃い灰色の雲が部屋に重々しく被さっていた。

 視線を下げれば木目の床。正面の壁には本棚と黒板、その手前には書き物机。一見、書斎風の此処は、しかし唯の書斎ではないらしく、書き物机の上には古風な顕微鏡が並び、黒板には軟体動物の姿が何種類も書き残してある。

 妙な物は他にも多々見受けられる。部屋の至る所に、種々雑多な硝子ケースが配置されていた。

 先ず、入って直ぐ左の壁の傍に、ミニチュア空港を仕舞った平たいケースが据えられている。少女はその脇に寄って、腰の高さに展開された小さな滑走路と管制塔を見下ろした。奇怪な事に、ケースの中には水が張ってあって、空港はスッカリ水没していた。凪いだ水面と、水底のミニチュアとを見比べる。

 と、またぞろ少女の耳にノイズが響いた。菫色の瞳が微かに動く。ノイズは直ぐ止んだが、代わりに首に提げたキューブが弱い光を放ち始めた。

 キューブを手に取る。と、ある一面に「ホウボウ」という文字が現れ、次いで魚の画像が表示された。青い、薄膜の様な翼を持つ、赤い魚。

 少女は硝子ケースに視線を戻した。水没した空港の何処にも生き物の姿はない。

 再びキューブを見やる。と、今度は別の魚が表示されていた。黒っぽく、胴体が三角形の、変な魚。

 少女は自分の身体を見下ろした。手を広げ、ケープを持ち上げてみる。一寸似てるかも。

 少女はミニチュア空港の前から離れた。

 部屋の中央へ向かう。其処には円柱硝子が三本、直立している。大きな試験管の様な硝子は三本とも上部が直角に曲がり、近くの壁と繋がっていた。試験管の下半分には砂が詰まっている。残りは水が占めていた。他には何も入っていない。少女は空の試験管の表面に自分の顔を薄く映しつつ、その前を通り過ぎた。

 壁際に着くと、少女は早速本棚や黒板に触れてみた。どうやらこの本棚は模造品らしく、収まった本の背表紙も全て唯の飾りだった。本棚のレプリカと黒板の間にも硝子ケースは飾られている。少女は順番にその中身を見て行った。

 水の満たされたケースには様々な物が沈められていた。蓋の取れた箱、大きな岩、毒物を示す髑髏どくろマークの看板、等々。形も色々とある。四角いケースが多いけれど、丸形の物も沢山並んでいる。

 それらを次々に見送りながら、これらはつまり水槽で、此処は水族館だったと思い出す頃、少女は部屋の最奥迄来ていた。

 其処には大きな穴が口を開いていた。

 木目の床も本棚も途切れ、コンクリートが露出し、鼠色の配管が伝うその壁に、大きな穴が空いている。人一人くらいなら悠に飲み込んでしまう程の穴の中は、暗く黒く、見通しも利かない。が、足下だけは照らされている。中はどうやら動く歩道(オートウォーク)になっているらしい。

 “Mimicry”という表札を掲げた砂と岩ばかりの水槽から離れ、黒々とした穴の前に少女は立った。

 動く歩道は緩やかに下っている。穴の入口には「順路」と書かれている。なら、と、少女は躊躇なく一歩踏み出し、動く歩道に乗った。

 ベルトコンベアの要領で少女は真っ暗闇の中を運ばれていく。そんな内に、ゴポゴポと、ノイズ混じりの水音を聞き、それを合図に、不思議な光が頭上から差し込んだ。

 アクアライト……菫色の瞳は忽ち水の色に溶け込んだ。

 景色が開ける。道は硝子チューブの中を通っていたらしい。加えて、チューブは水の直中ただなかにあった。水中トンネル。少女はその中にいて、頭上から降り注ぐ、水を透かした柔らかな光を仰いだ。

 トンネルはそうと判らない程なだらかな傾斜を引いて明るい水中を下って行く。ゆったり運ばれる儘の少女は青一色の世界を見た。青一色と言っても色合いは豊かで、上の方は淡く、下の方は濃い。光も水に溶けるらしい。上から下へのグラデーションは、水の染め出す模様にも、海の息遣いにも見えた。

 トンネルはその濃淡のほぼ中心を終点としていた。歩道は建物の中に繋がっていて、少女はその大広間に運搬された。

 物一つない伽藍堂にて立ち尽くす。高い天井には照明もない。その代わり、向かいの壁一面が硝子張りになっていて、其処から青い光が差し込んでいた。

 無論、硝子の向こうは水に沈んでいる。窓辺のカーペットに水面の揺らぎが白い影となって映っている。絶え間なく動く水の影。他には何も見えない。水中は空っぽだった。

 少女は部屋の中央へ進みながら窓外を眺めた。そういう絵画の様だと思った。ズット昔、生まれたばかりの海を描いた、大きな大きな絵みたい。水一杯の外を見つめた儘、向かって右、部屋の奥へ歩いて行く。泳ぐ魚のない水槽はプールと殆ど変わらない。そんな事を考えながら。

 壁際に着くと、少女は水槽から視線を外した。正面に再び硝子トンネルの入口が空いている。硝子に囲われた動く歩道は広間の更に下へと通じていた。

 少女は躊躇せず歩道に足を乗せた。

 硝子トンネルが水槽の底を目指す。周囲の青が段々と深まる。硝子越しに少女は水槽の底に沈むスポットライトを見た。その後直ぐ、辺りは真っ暗になった。

 歩道の足下がぼんやり照らされる。照明の色は少女の瞳に近い紫色。灯りはそれだけ。暫く運ばれて行く。と、やがて出口が見えて来る。辿り着いた所は、幅広の、先の見えない廊下だった。

 紫色の照明が薄く照らす廊下は妙な造りになっていた。緩やかに弧を描きながら僅かに下る螺旋状の構造。更に、左右の壁には同じ大きさの丸窓が延々数珠繋ぎになっている。窓の大きさは少女の二倍以上あって、下は床に、上は天井に接していた。

 少女はそんな廊下の、丸と丸の狭間を歩き出した。

 右側、螺旋の外側に並ぶ窓は、一々その景色を変えていく。赤い照明に浮き上がった石柱群、泡を噴き出し続ける地面、大仰な機械を飾った窓もある。凸型の銀色機械には小さなメーターやコップ型の透明な容器、細い管等が沢山くっ付いていた。

 その反対、左側に並ぶ窓は打って変わってズット同じ景色を見せた。そも、この廊下は太い円柱水槽を一巻きにした構造の為、螺旋の内側に連なる窓はその中をひたすら見せ続けた。

 円柱水槽の中は薄暗い。水は黒に近い藍色に沈んでいる。今被っている中折れ帽と同じ色。少女が帽子のつばに触れると同時、又も首に提げたキューブが光った。見れば、キューブの一面に「ミツクリザメ」の文字と、不思議な頭の形をした鮫の姿が表示されている。その鮫の、頭の先の長い突起は、まるで鋭利な帽子のつばの様。

 螺旋廊下を円柱水槽に沿ってぐるり一周する。と、唐突に丸窓の列が途切れ、無機質な壁ばかりが左右を区切った。加えて廊下は螺旋から直線に変わった。

 紫色に灯る廊下の中央には破けたクッションソファが並んでいる。奥の方から水槽の灯りが漏れているけれど、手前は矢張り壁しかない。不意の閉塞。臆せず少女は足を踏み出す。と、その途端、照明が弱まり、辺りは一段と暗くなった。

 そうして、別の光源が、ぼぅっと、虚空に現れた。

 光っているのは、頭の高さで浮遊する、潰れたボールの様なもの。その表面は透明で、中に小さな赤い球や豆の様な物が入っているのが見える。ボールは次第にその数を増やし、一つが二つ、二つが三つと、同じものが少女の周りをふわふわ漂った。それに触れようと試みるも、手は空をかするばかりで手応えもない。どうもこれらは実体のない映像らしい。

 儚く光る立体映像ホログラムを伴い、少女は廊下を進む。進むにつれ、映像はその姿を次々に変えていった。

 宙を漂うボール達は更に潰れ、やがては楕円に変形し、その表面に幾百の溝を刻んだ。溝は葉脈の様に茶色い楕円を覆っている。そうして、枯葉にも似た映像が揺らめいたかと思うと、それらは全く別々の生き物に変身した。

 胸の下でキューブが光る。立体映像が見せるものの名前が順番に表示される。「三葉虫」、「カナダスピス」、「アノマロカリス」……身体の節々がガチャガチャとした生き物。その映像が時折瞬く。此処にもノイズが走っているらしい。気にせず進む。と、古代の生物は又姿を転じ、今度は魚と巻き貝が現れた。

 魚の方は黒く大きく、二つの背鰭せびれと、胸鰭、腹鰭、数ある尾鰭を大儀そうに動かして、悠々と空中を泳いでいる。その隣に白い巻き貝が留まっている。魚は「シーラカンス」、貝は「オウム貝」。そんな説明を読んでいる間に、廊下の奥、水槽の前に差し掛かった。

 その時、四角い硝子の向こう、水中から小魚の群れが飛び出し、少女の頭上を掠めた。「イワシ」と、キューブに名前が出る。小魚の群れは、飛び出した勢いの儘天井を一頻り回遊した後、一糸乱れぬ動きで以て、廊下の角を左へ折れた。

 群れて一匹の大魚に見せ掛けている鰯の、小刻みに揺れる数多の尾鰭を追い掛け、少女も俄に角を曲がる。と、水槽を回り込んだ廊下の奥に小部屋が見えた。鰯の群れはその手前で進路を又も左に変え、水槽の中に帰ったかと思うと、煙の様に立ち消えた。

 左に真っ青な水槽の続く廊下を進んで、少女は奥の小部屋に立ち入った。三方の壁に嵌まった丸窓の外は全て暗闇、床の隅に紫の照明が仕込んである他は何の灯りもない。闇中に潜む小部屋。その戸が閉まる音を背後に聞く。それから一拍間を置いて、部屋は音もなく吊り上げられた。

 エレベーター……上へ向かう最中、少女は改めて窓外を見やった。床の照明が紫から青に変わる頃、丸窓は暗闇を抜け、水中を見せた。

 向こうに大きな建物が見える。大きな窓硝子の張られた水底の建物は、側面が硝子チューブと繋がっている。もっと瞳を凝らせば、建物の手前の水底にて、黒い円盤が動いている事にも気が付く。その姿は遠く小さいけれど、黒い背中に白い斑点模様があるのは見える。鋭利な尻尾も付いているみたい。そんな物が、三つ四つ、水槽の底を這っていた。

 蝌蚪おたまじゃくしの様な物が水底で蠢くサマを少女はじっと眺めていた。が、ポーンと、木琴を叩く様な、柔らかな音と共にエレベーターの戸が開くと、直ぐ振り返った。

 冷たい空気が頬を掠め、思わずケープの前を閉じる。知らず識らず、温かな空気に慣れ切った身体には、不意の冷気だった。エレベーターから金網の通路に出る。息を吐けば白い。何故と問えば、それも当然、天井の一部が大きく崩れ、其処から雪が舞い込んでいた。

 チラチラと落下する雪も水面に着けば忽ち溶ける。眼下に湛えられた青は水槽の色。少女は通路に立って、広々と水の張られた室内を見下ろした。

 海みたく波打つ水面。その真上、天井付近には、様々な機械がひしめいている。

 モルタルの天井から棒が六本、平行に吊されている。棒には大きなスポットライトが果実の様に何個もなっていて、どれも眩い光線を水中に差し込んでいる。が、よくよく見れば、落ちた実もあるらしく、一本の棒に付くライトの数が不揃いである事を見取ると、少女は水槽の底に沈むスポットライトを想起した。

 他、天井には監視カメラが数台と巨大クレーンが一台、設置されている。その全てが酷く錆び付いていて、表面を覆う赤錆が壊死の痕を思わせた。

 視線を落とせば機械の真下を渡る通路が瞳に入る。部屋を満たす潮の香りと舞い込む雪の冷たさを感じながら、誰も通る者のない水面の通路と、自分のいる通路とが、丁度平行線になっている事を確かめる。と、少女は無表情の顔を正面へ向けた。先ずはこの通路を歩かないと。

 通路は壁に沿って左へ折れ、又直ぐ右に折れた。大水面を背に離れて行く。が、足下の白い金網の下からは、サァーサァーと、滑らかな水流がいつ迄も聞こえた。

 天窓から入る弱い光を頼りに白い壁に挟まれた先を見据える。と、大きな配管が見えた。水色に塗られたその配管は、岩陰から現れた蛇みたく身をくねらせ、金網の下に頭を潜り込ませている。その様子を目標に廊下を抜ければ、広い場所に出た。

 見上げれば其処は人工の山中だった。

 さながら温室。硝子張りの壁や天井の向こうの景色は、重たい雲と舞う雪と、冬の山。枯木ばかりの山は黒くそびえ、空の色と殆ど区別が付かない。そんな陰気な山を奥に控え、しかし此処、温室の木々は青々と茂っていた。

 そういう趣向なんだ……山道の様に蛇行しながら斜面を上がるカーペットの通路。その右側には人の手で再現された自然山水が長々連なっている。石の川縁に木と葉の緑が重なり合い、その底には透明な川の水が流れている。

 川は通路の入口にあるあの蛇配管を終点としていた。更に、配管も川も、縦に真っ二つ、断面図として展示されている。

 少女は最初に配管を覗いた。アクリル板で透かされた配管の中には二枚の薄膜が張ってある。川の水は必ずこの膜を通過してから金網の下に流れ込んでいた。

 少女は顔を上げると、川の流れを遡る様に、渓流を模した水槽の観賞がてらいろは坂を上がって行った。

 水槽は渓流らしく傾斜に沿って階段状に繋がっている。上の水槽から下の水槽へ、岩肌を滑って絶えず水が流れ落ちている為、水槽の左側は常に泡立っている。果たしてその中に魚の姿はなく、水流が川底の砂利を洗うばかり。そんな様子も暗く、見え難い。水槽の上に枝葉が覆い被さっている所為だろう。育ち過ぎた緑の影が、水中をスッカリ隠してしまっている。

 少女は通路に迄伸びた枝先を避けつつ、魚のいない川底と、好き放題に育った木々の対比を眺めた。通路は温かく、流れ落ちる水の音が耳に涼しい。

 上がって上がって、くねった坂道を上がり切れば、次の部屋に着く。渓流の途切れた七メートル先には新しい水槽も見える。が、それが本当に水槽かは疑わしい。何故なら、其処にある硝子は真っ暗だったから。

 坂道と部屋の繋ぎ目に設けられた、男女マークが青鯛と赤鯛で表されたトイレの前を通り抜け、黒い水槽に近付く。この部屋が妙に明るいのも相まって、闇中に沈む水槽は酷く目立つ。電車の窓の様にキチンと並ぶ水槽はことごとく黒い。水が濁っているのか、中の照明が点いていないのか、判然としない。唯、黒い水の中から時折、揺蕩たゆたう海藻がぼんやりと輪郭を現し、又直ぐ闇の中に消えた。

 入って直ぐ、廊下は右に折れる。水槽を備えた壁が両側に続く。こうして黒い水槽の間を進むと、本当に夜行列車の中を歩いている様。窓の外はトンネルか、或いは夜の海。電車は今、どの辺りを走っているのだろう?自分の顔が映る黒硝子を二、三度見ると、少女は俄に興味を失い、カーペットをひたすら歩いた。その様子は、座席のない車両にて、己の椅子を求め彷徨さまよう旅人の姿に似ていた。

 やがて通路は左に折れ、その先でもう一度左に曲がっていた。四角い部屋をコの字型に回り込む一本道は何処迄も同じ風景。しかし、二度目の角を曲がると、目新しい物が現れた。

 両の壁の黒い硝子の果てに一つ置かれた机。多分、受付かカウンターの類。

 少女は其処へ向かった。その手前で通路は右に折れていて、其方には横長の水槽が据えてある。水草の黄緑、木の幹の焦げ茶色、砂利の象牙色が彩をなす明るい水槽。少女はしかし正面へ足を動かし続ける。机の奥の入口、『バックヤードツアー』と掲げられた下を潜って、部屋の裏側に入り込む。

 床がカーペットからリノリウムに変わる。事務的なオフホワイトの廊下は間もなく突き当たり、丁字路に差し掛かる。と、首から提げたキューブが微かに光った気がした。少女が瞳を下へ向ければ、キューブの表面に矢印が出ている。左。彼女の足は指し示された通りに動いた。

 蛍光灯が連なる細い天井の下、灰色ケープが尾を引く様に過ぎる。中折れ帽の下から覗く菫色の瞳は前を見つめている。

 やがて、一本道を左に折れると、少女は酷く煩雑な部屋に到着した。

 広さは大分ある。けど、見た目以上に入り組んで収まっている物々が、室内を随分と圧迫している。

 何より瞳に付くは、部屋の大部分を占める配管の往来。床から天井から伸びた配管が、彼方此方で複雑な格子柄を描いている。幾十と走る管は全て規則的な平行を守り、その全てに名前が付いていた。

 “PP-32-2-5 → OT-24-2”

 “OT-24-1 → PP-33-2-4”

 等々、記号や数字の付されたラベルが一本一本に貼り付けてある。そうして、配管は全て、部屋の中央に並べられた六基の機械を銘々の帰結としていた。

 全て同じ形の機械が、部屋の中央よりやや左右に三基ずつ配置されている。大きさは一寸見上げるくらい。そんな機械の、雛壇の様に段々造りの本体には、メーター等の機器が沢山取り付けられている。機械の左脇には、ヒダ付きのドラム缶めいた物が横に倒れた恰好で接合されている。右脇には、更に大きなドラム缶が此方は縦にくっ付いている。そんな機械の、上に下に、数多の配管が繋がっている。これが六基、少女の前に並んでいた。

 視線を下げる。と、機械の手前の床に二本の白線が引いてあるのを見、割れた海を連想する。多分、この線の内側が通路なのだろう。通路と言うより、機械の隙間と呼んだ方が、正しいのかも知れないけど。

 そう思うと同時、少女は鳩尾の辺りで光るキューブに気が付いた。見れば、四角い表面には矢印と、『機器には触れないよう、お気を付け下さい』の文字。

 矢印は真っ直ぐ。少女は歩き出した。

 配管の森を進む。と、少女は鼻を突く錆の匂いの中から、ピチャン、ピチャンと、コンクリートの床を打つ水の音以外何の音もしない事に気が付いた。次いで、少女は歩きながら赤錆の浸食を見た。「閉め忘れ注意」のタグが付いたバルブは半分に折れ、ナットは失われ、配管の弛んだ箇所から水が漏れている。肝腎の機械も六基全て押し黙っている。メーターの針は微動もしない。

 壊れてる。

 元々、どんな風に稼働していたのかは判らない。が、それだけは間違いない。端々から鉄の皮膚がめくれ、赤錆の斑点を浮き上がらせるサマをながしめに眺めつつ、少女は機械の間を真っ直ぐ奥へ向かった。

 錆びた管の向こう、右の壁に扉を見たと思うが早いか、部屋の最奥に着く。正面に向き直れば、行き止まりの壁に見上げる程の戸が設けてある。鋼鉄の引き戸は、少女の到着を待っていたみたく独りでに開き、中の小部屋を晒した。

 エレベーター。けど、さっきの、水中を上がってものとは随分違う。窓も意匠もなく、事務的な、いっそ一般的な造りで、簡素な壁が白々しく照らされている。

 しかし、広さだけは普通一般とはかけ離れていた。八畳もあるだろうか、少女が真ん中に立つと、舞台に一人取り残された様。

 ポツンと、少女が佇んでいれば、その内エレベーターは又勝手に戸を閉じた。それから一拍間を置いて、少女の華奢な身体を浮遊感が包んだ。下っているらしい。少女一人の重さなど問題にもせず、エレベーターは粛々と下降していく。

 大体八秒程後、小さな鐘が鳴り、エレベーターは停止した。戸が開くと薄暗い空間と繋がる。不思議な匂い。薬を薄めた様な、或いは水その物の様な匂いがする。そんな空気が微かに震えている。低く重たい回転音……澄んだ香りを上辺に、厳かな音を底に潜めた空気の印象は、エレベーターを出、外の光景を見ると腑に落ちた。

 背後でエレベーターの戸が閉まる音が静かに立つ。少女は両手で以て手摺りを握り、前方に広がる、暗闇と水色の灯りとが作る景色を眺めた。

 室内。それも多分、地下。にも関わらず、頬を耳を髪を風が掠める。此処はそれ程広かった。

 一辺が何十メートルという規模の、広大なコンクリート部屋。その壁際の通路に少女は佇んでいる。

 そうして、眼下には、巨大な機械が床も見えない程敷き詰められていた。

 金網の通路は大水面を見下ろした時のものと似ている。通路は壁に沿いながら機械の上を渡っている。少女は通路の上に立って部屋を見下ろしていた。

 広過ぎる所為で凡そ行き届いていない水色の照明が暗がりから浮き上がらせる機械群はまるで都市模型。黒々とした箱が立ち並ぶサマは密集するビル群を思わせる。それなら、その間を縫う配管は道路かしら。黒いビルの表面が照明の水色を反射する様子は菫色の瞳に夜景の様に映った。

 胸下のキューブが光る。少女はキューブを手に取って、その表面を見た。

『今、御覧になられているものはろ過装置です。

 ここから全ての水槽に綺麗な水を送り届けています。

 この装置一つで、水族館の全ての水槽へ、です。

 ここまで大きなろ過装置は、世界でも大変珍しく、当水族館の秘かな自慢でもあります』

 この「ささやかな自慢話」を読んでしまうと、少女はキューブから手を離し、手摺りからも離れた。胸の下でキューブが揺れる。少女は金網の通路を進んだ。

 部屋には他の通路もある。少女の歩く通路とて途中で枝分かれしている。下のろ過装置と繋がる分岐路の入口には鍵付きの戸が設けてある。が、「職員以外立入禁止」の表札が掛かったその扉には見向きもせず、少女は其処を通り過ぎた。

 壁沿いの通路はやがて太い配管と合流した。配管は、ろ過装置から壁伝いに這い上がり、緑の胴体をピタリと金網の下に従わせている。かと思えば、部屋の出口、通路が左へ折れた所でぬっと首をもたげ、金網の下から手摺りを越え、廊下の隅に入り込んだ。

 その跡を追う様に、少女も部屋を出、細い廊下に入った。

 真っ直ぐ延びた廊下の隅々には配管が走っていた。緑の太い配管は、それらの主人然として天井の一角を占めている。他にも、赤や青の大小様々な管が壁や金網天井の向こうで混み合い、廊下に横縞を描いている。

 廊下を歩いて暫く、十字路に着く。左へ続く道、右は上りのスロープ、正面へ続く廊下。少女は最早慣れた調子でキューブを見た。矢印は正面を指している。顔を上げ、前を見やる。

 と、矢印の示す方、廊下の先に、妙な物があった。

 それは黒い箱だった。黒い箱が、ノイズだらけの電子音を奏でながら、不意に現れたのだった。

 箱には車輪か何か付いているらしく、カラコロと、近付いて来る。少女は箱をじっと観察した。背丈は胸くらい。横幅はもう一寸小さい。箱はゆっくり迫り、少女の前に着いて、その儘通り過ぎた。廊下を、ろ過装置の方へ、速度も変えず行ってしまう。

 箱は漆器の様に全面が真っ黒だから、前後の区別が付かない。けれど、兎も角、去り行く箱の後ろ姿を見送ると、少女は正面に向き直って、今度は廊下の先を凝視した。黒箱が急に立ち現れた場所へ一先ず向かう。

 無機質な廊下を、歩けど歩けど、景色は代わり映えしない。が、目的の場所には、左右の壁に一枚ずつ扉があった。

 向かい合う扉の真ん中に佇む。どちらの扉も開いている。先ず少女は顔を左へ向けた。途端、左の部屋の照明が点く。

 手狭な室内は、果たして、細い配管の幾何学で組み上がっている。束になった配管の合間に殆ど埋もれる様にして、円柱型タンクや、大掛かりなモーターが配置されている。モーターは内部から低い回転音を轟かせていた。が、菫色の瞳は其方でなく、「オゾン反応炉」と記されたタンクの方へ向けられていた。

 全体が鼠色のタンクは錆に侵されていて、下の方はスッカリ赤茶色の領土と化している。直に、タンク下部に記された「火気厳禁」の赤い文字は読めなくなるだろう。少女はそんな文字の真下、タンクの土台を見た。其処だけ色が違う。本来の鼠色でも、鉄錆の赤茶色でもなく、土台のナットは黒かった。加えて黒い鉄板で補強されてもいる。

 よくよく見れば、タンクだけでなく、周りの配管を締めるナットにも、時々、黒い物が混じっていた。

 配管は赤と青の二色。ナットは大概、鼠色なのに。

 部屋に混じった黒い点々から少女は瞳を外すと、今度は顔を右へ向けた。途端、右の部屋の照明が点く。此方は比較的簡素な造りで、太い配管が一本あるばかり。その配管は天井から伸び、部屋の右奥にある硝子装置を経由して天井に戻り、金網を通って廊下に合流、ろ過装置の方へ向かっていた。

 少女は正面に向き直り、部屋の硝子装置を見やった。大鍋の上にシリンダーが固定されている様な機械。シリンダーも大きく、透明なその中身は細かな泡で満たされていた。

 視線を横へ動かす。次いで瞳を引くは、正面の机の上に積み重なった、黒く、背中に白い斑点模様のある蝌蚪おたまじゃくし……違う。蝌蚪よりもっと大きい。あれは……壊れ、剥がれた表面から中の機構が覗く、機械仕掛けの海鷂魚エイが、山と積まれている。

 正面から左の壁へ視線を移す。其処の壁に液晶画面が貼ってある。画面には数字の羅列と「℃」とが合わせて表示されていた。

 それらを見終えると、少女は再び歩き出した。

 廊下はやがてスロープに変わり、壁も天井も、其処を伝う配管も斜めに附いて来る。上へと延びるスロープは、踊り場を介して右に折れた。

 長い長い坂道。壁の配管も、進む間に中へ入り込み、反対に壁から現れ、数が増えたり減ったりしている。

 随分上がった気がする。疾うに一階分の高さは歩いた頃、ようやく前方に扉が見えた。もう二階分も歩けばやっと道は平らになる。と同時、潮の香りと寒さとが少女の身体を包んだ。

 少女はある部屋の前に立っていた。入口から中を覗く。と、奥に据えられた業務用冷蔵庫の、鏡面加工された扉に、中折れ帽を被った少女の姿と部屋の様子が映った。

 細長い室内は、先程見た向かい合う部屋とは異なり、機械の類が少ない。その代わり、長机や椅子、モルタルの生け簀が部屋の大半を占めている。

 冷蔵庫の傍に造り付けられた生け簀は大概干上がっていた。その手前、壁際に並ぶ長机の上は試験管や茶色瓶で雑然としている。瓶のラベルには「塩化ナトリウム」、「オキソリン酸」、「アクリノール」、「シュウ酸塩」、「トリクロルホン」という印字。中身は全て空だった。

 なら、ラベルは剥がしても良いんじゃないかしら?もう区別しなくて良いのだから。

 少女は無感動に顔を背けた。

 右を向く。と、青い絵の具溜まりと、それを縦に分かつ白線が見えた。最初、その冴え冴えとした青色が、油絵の具の様にトロリとした感触で以て瞳に映った。が、次第にそれが波打つ水面の色だと心付く。

 此処は見覚えがある。床一面に貼られた水。その上の機械群。果実の様なスポットライト、錆びたクレーン、潮の香り、崩落した天井から舞い込む雪……雪はいつの間にか吹き込む勢いに強まっていて、寒さも一入ひとしお。少女は小さな両手で以てケープの襟を掴み、前を引き合わせた。自分の身体を抱きながら金網を歩く。

 と、水面の手前に足が掛かった時、不意にキューブが光った。

『右の手すりにしっかりお掴まりの上、お進み下さい』

 大水面の真ん中を渡るこの通路は、塩害著しく、左の手摺りが腐食に因り欠損していて危うい。少女は顔を上げると、キューブの忠告通り、ケープの内から右手を差し出して、氷の様に冷たい右の手摺りを掴んだ。

 失われた左の手摺りの向こうにも通路が見える。あれはさっき通った壁沿いの道……この道とは平行の道。少女は過去の自分の残像を、古い映画の様に、網膜の上に映し出して見た。

 その時、強い吹雪が、広い水面の上を一撫で、行き渡った。

 狂い舞う雪の玉。背後からの強風が黒髪を舞い上げる。

 そうして気が付けば、藍色の中折れ帽は雪と共に空中にあった。

 少女は、ついと、ケープの内にあった左手を伸ばした。帽子は更に左へと流されていく。少女が右手を離す。と、次の瞬間、華奢な身体は無重力の直中ただなかにあった。

 咄嗟に瞳を瞑る。風を切る感触。激しい音が耳許で立ち、しかし、音は直ぐ籠もる。何かにつかったと思うが早いか、柔らかいものに全身を抱き留められる。トロリと、密度の濃いものの中、長い髪が後ろにたな引いている。息が止まって、少女は瞳を開ける。

 と、視界一杯に青色が広がった。

 上も下も青一色の世界をゆっくり落下している。泡がゆらゆらと昇って行く。頭上から差し込む淡い光。いつか見た光景。少女は辺りを見回した。青色の底に黒いビルが建っている。その窓近く迄落ちる。と、暗い窓硝子に己の姿が映った。

 黒髪もケープも、ミニスカートの裾も、穏やかに揺らめいている。そういう絵みたいだと思った。明るい海の中に飛び込んだ少女を描いた、青い青い絵みたい。何もいない水槽の中、少女は過去の自分の残像を硝子越しに見た。灰色ケープの幾何学模様、白い足、カーディガンから覗くシルクシャツの赤、揺蕩う黒髪、飾りの多い鰭の数々。少女は足を動かして温かい水中を向かって左へ泳いだ。魚の様に。これでやっと水槽になった。そんな事を考えながら。

 身に纏った衣服が水を吸って重たい。太古の魚が深海に棲み着くみたく、少女の身体は徐々に沈み始める。遠退く水面は白に青に輝いている。少女の瞳にその光が映り込むと、菫色の宝石が内側から光を放っている様だった。

 頭上の水面を漂う船影は、多分、中折れ帽のもの。上を向き、手を伸ばしても、何も掴めず、解けた水を握ったところで何の手応えもない。

 溺れる。溺れている。

 感慨もなくそう思う。透き通った水中に危機感はない。少女は再び瞳を閉じようとした。そろそろ息も続かない。この儘、あの、海底に沈むスポットライトの隣に横たわるんだ。そんな未来を思う。

 が、当然の予想に反して、少女の身体は緩やかに浮上し始めた。

 少女を押し上げる物がある。少女の胸から腹に寄り添うそれは、先程迄水槽の底を這っていた海鷂魚エイだった。黒い海鷂魚が、白斑点の背中に少女を乗せて、翼を上下に動かし水の中を飛んでいる。が、矢張り無理をしているらしく、両翼の動きは何処かぎこちない。それでも、機械仕掛けの海鷂魚は飛行を止めず、少女と共にようやく水槽の中頃に着く。

 と、上から何か、吊り下がってくる物が見えた。それは大きな、赤錆のフックだった。

 少女がフックを両手で掴む。と、鎖が巻き上げられ、フックごと少女は吊り上げられる。水面が近付く最中、少女は黒い海鷂魚をじっと見ていた。水槽の底へ真っ逆様に落下する機械の姿を。

 釣り針に掛かった魚同様、フックを掴んだ両手から頭、黒髪から足先迄キチンと引き上げられた後、少女はその儘通路に運ばれた。フックから手を離し、グッショリと、全身を濡らした少女が金網の通路に座り込む。その間にもクレーンは仕事を続け、赤錆のフックを又下げて、今度は水面を漂う中折れ帽を器用に引っ掛けた。そうして釣り上げた帽子を少女の傍に落とすと、クレーンはフックを巻き上げ、部屋の隅に帰って行った。

 少女は……息を吐き吐き……額に貼り付いた前髪をかき上げ、濡れた顔を拭った。睫毛まつげに付いた水玉が視界を滲ませる。水を吸った髪とカーディガンとケープが重たい。何より肌が冷たい。雪の舞い込む此処よりも、水中の方が余程温かかった。

 けど、どうしよう?

 濡れた服と身体の始末が付かず、少女は首のチェーンに指を伝わせ、キューブを手に取った。が、表面には何も表示されない。

 壊れてる。

 少女はキューブから手を離した。中折れ帽を拾って立ち上がる。と、濡れた服の圧が細い両肩に掛かった。裾からの滴が、金網を透かして、水面に小さな波紋を生んだ。

 打ち上げられた少女はしとど。レインブーツの中迄水浸し、歩く度に、カッポン、カッポンと、変な音が立つ。カッポン、カッポン、少女は金網の通路を歩いて、一先ず対岸に渡った。渡った先の、点滅する電灯を目印にして。

 蛍光灯が切れかけている、という訳ではないらしい。その証拠に、電灯は規則的に、キッチリ一秒毎に、明滅を繰り返している。

 どうにか大水面を渡り切ると、十字路に着いた。右には下りのスロープ、左には上りのスロープ。けど、目印の、チカチカ光る電灯は正面。明滅信号を頼りに少女がその下に立った途端、左の壁が光る。反射的に其方を向けば、壁だと思っていた其処は、その実、部屋だったらしく、開いた扉からロッカーの並ぶ室内が見えた。

 隣にも部屋がある。扉も開いている。が、其方は暗い。となれば勿論、少女はたった今照明の点いたロッカールームの方へ濡れ鼠の身体を入れた。

 匂いの少ない温かな部屋には、ロッカーが横に二列と、その間にプラスチックベンチが置いてある。ベンチにはウェットスーツが一着、引っ掛かっていた。

 部屋の奥から唸る様な風の音が聞こえる。覗き込めば、奥の壁に四角い送風口が開いている。部屋の温度はあれが原因らしい。更に、送風口の手前には物干し竿が架かっていて、何本かハンガーもぶら下がっている。

 お誂え向きの物々。少女は部屋に入り込むなり中折れ帽をベンチの上に置いて、徐に羽織っていたケープを脱いだ。びしゃりとした手触りの外套をハンガーに掛けてしまうと、次は生成り色のカーディガン。これはローゲージだけあって、水を随分吸っている。ポタポタと、滴を垂らすカーディガンを物干し竿にやった後、少女は首の後ろへ手を回してチェーンを解き、キューブをベンチに置いた。そうしてから、身体に貼り付くシルクシャツのボタンを上から順番に外していく。ワインレッドのシャツは濡れた袖口がピタリと肌に吸い付き脱ぐのに一苦労したけれど、何とか片付けると、今度は黒ミニスカートのチャックに取り掛かろうとして、思い直し、ベンチに腰掛けレインブーツを脱いだ。引っ繰り返してみれば、ブーツの中から滝が落ち、コンクリートの床に川を作った。その行き先を瞳で追う。と、流れは部屋の隅へ向かい、排水溝の底に吸い込まれていった。

 コンクリートに裸足をヒタヒタと着けながら立つ。今度こそチャックを下ろしてスカートを腰から外す。それも物干し竿に掛けてしまえば、服はこれで全部。続いて下着と、白レースの上下も少女は躊躇なく脱いでしまう。

 濡れた服達と共に華奢な裸身を送風口の前に晒す少女は、立った儘前屈み、長い黒髪を両手で絞った。足下で派手に水飛沫が立つ。一通り髪を絞り終えると、半身を起こし、今度は己の手の平で以て身体を拭いていった。

 水気は殆ど全身を覆っている。冷えて陶器の様に蒼白くなった肌が温風を受け血色を取り戻す頃、水も熱を得、上気した。一見そうと判らない程薄い水蒸気の膜が少女の白い身体を包み込む。

 肌に弾かれた水玉を少女の手の平が払う。と、後には瑞々しい肌だけが残った。少女は己の身体を隅々迄拭った。二の腕、鎖骨、腰周り、太腿から足先、上がってうなじ迄。少女が両腕を動かす度、細い背中に浮かんだ肩胛骨が健気に上下し、少女が身体を屈めたり反らしたりする度、背骨が柔く伸縮した。

 どれ程経ったか……送風口の温風が強く、一時間程で乾いた服を身に着けていた時、背後の気配に少女は振り返った。

 其処には黒い箱がいた。

 少女の胸程の大きさの箱はベンチの脇に留まって動かない。少女は黒い箱とじっと見合いつつやおらケープを羽織って、中折れ帽に手を伸ばした。

 その際、ベンチに置いたキューブが視界に入る。

 ……これ?

 何故ともなしにそう思う。少女は帽子を被ってからキューブを手に取ると、徐に床へ放った。ころころと、キューブは床を転がって、箱の手前で停まる。と、今度は箱が動いて、キューブの上に覆い被さった。かと思えば、ガランッ、と、何か音がした。

 菫色の瞳が瞬く。

 箱はカラコロ車輪を動かし引き返して行く。キューブの姿は何処にもない。視線を上げれば、扉の所で黒い箱がじっとしている。少女も其処へ向かう。と、まるで彼女を待っていたかの様に箱は動き出した。

 少女と箱は連れ立って部屋を出、向かいのトイレの前を左へ折れた。大水面を背に廊下を進む。

 配管の張り巡らされた廊下は森閑としている様で、しかし管の中を絶えず流れる水の気配に満ちていた。そんな中を黒い箱と少女が黙々と行く。元々移動の遅い箱だが、今は少女の歩行に速度を合わしている。少女は未だ湿っぽいレインブーツの爪先を冷たく感じながら、この角張った案内人に附いて行った。

 丁字路に着く。箱が左に折れれば少女も其方へ。暫く歩くと右の壁が唐突に途切れ、その切れ間から大掛かりな機械が現れた。

 それは斜面に敷かれたレールがケーブルカーを思わせる昇降機リフトだった。

 廊下をもう少し行けば階段もあるらしい。が、案内役の黒箱は迷わず昇降機に乗り込んだ。少女もその横に立つ。銀色の台に柵の付いた、簡素で、故に頑丈そうな昇降機は大きく、少女と箱が真ん中に立つと、持ち前の面積がより際立った。

 廊下と昇降機との隙間が徐々に広がっていく。少女と箱を乗せた台は、揺れる事なく、甚だ静かに、淡泊な壁に囲われた坂道を、レールを伝って昇って行く。

 やがて上の階に着けば、リフトは音も立てずに停止、合わせて鉄製の枝折り戸が開く。と、箱は車輪を回し、少女も跡を追って台を降りて広い廊下に入った。

 見通しの利く廊下は、蛍光灯の、冷え冷えとした、科学的な光に疎らに灯されている。淡黄色の壁に配管は見出せず、代わりに扉が多い。

 リフトを降りた左脇には暗い階段の出入口が空いていた。その奥の影に男女のマークが見える。トイレが潜んでいるらしい。その暗がりを少女がぼんやり眺めている間に、箱の車輪の動く音を聞き、顔を反対へ向ければ、黒い箱は右の暗がりに入り込むトコロだった。

 扉の倒れたその部屋は、照明が点かないのか、それとも疾うに失われているのか、廊下の灯りが僅かに差し込むばかりで、中の様子はまるで判らない。が、箱は暗闇の中で何かしているらしかった。

 少女は部屋の前に佇み、中には入らず、暗闇を透かして室内を眺めた。闇中に大きなものがそびえている。それはうずたかく積もり積もった黒い塊、塵の山。箱はその山の麓にてガチャガチャと雑多な音を立てている。そうして作業を終えると、明るい廊下の方へ戻って来た。部屋の前で箱とすれ違う。少女は視線を室内に戻した。薄闇に輪郭が浮かんでいるばかりだけれど、打ち捨てられたキューブと機械の手(マニピュレーター)が見える。更に注視すれば、部屋の中央にそびえる黒山も、残骸と化した機械の部品(パーツ)だけで構成されている事が判る。

 奇妙な光景だった。が、壊れた物を此処に集める意味など一考もしない。もっと妙な物が少女の瞳を捉えている。

 塵山の陰で何か動いた。細長い足をくの字に曲げた、流線型の胴体をもつ蟹の様な物が、此方をじっと見ている。

 あの蟹には機械の手がある。なら、あれはきっと、裏方さんね。

 頭の中でそう呟くと、少女は部屋の前から離れた。

 と言っても行き先にアテがある訳はなく、キューブは元より、此処には電灯の合図もない。箱も独りでリフトに乗って何処かへ行ってしまった。下へ戻ったのかしら。一人切り、取り残される。取り立てて方針もなく、真っ直ぐ延びた廊下をぼんやり歩く。

 その途中の事。三度十字路に差し掛かった際、少女は片隅に微かな音を聞いた。

 微かな……ほんの小さな音。少女はふと、音のする左側を見やった。其方の突き当たりに扉がある。嵌め殺しの磨り硝子に蜘蛛の巣状の皹が入ったその扉には、「中央管理室」の表札が出ている。

 無意識下、少女の足は自然と扉の前へ向かった。ケープの内から右手を差し出し、ドアノブを掴んで回す。と、鍵は掛かっておらず、扉は容易に引き開いた。

 入ってみれば其処は半円形の一等大きな部屋で、且つ奥は分厚い硝子に因って間仕切りされていた。

 仕切りの手前には事務机や椅子が放置されている。埃を被った机上ではファイルケースや固定端末、コンピューター、書類の束が無秩序を奏でていて、無音無動ながら騒がしい。床に迄及んだ紙の雪崩、足下に散らばる書類の表面でおびただしい量の記号やアルファベットが黒い隊列を組んでいる。視線を上げ、壁際のホワイトボードを見れば、幾つか図が描かれていて、黒い箱や機械の蟹の絵も残っていた。

 それから……散乱する書類を踏んで奥へ向かう……水槽の硝子に似た仕切りの前に来ると、少女はその表面にそっと触れた。

 硝子の向こうには大きな球体が据えられている。

 上下に数本のケーブルが連結された水色の球体。その真ん中には切れ込みが入っている。地球儀に引かれた赤道の様な切れ込みの、其処に刻まれた白い文字を見つめる。

 “FOMI-AR-F03”

 確かにそう刻まれた文字の隣で黄色と赤い洋燈が瞬いていた。

 球体の中から、ジ、ジッ、と、引っ掛かる様な異音が聞こえる。その音が少女の触れる仕切りを僅かに震わせていた。

 そんな硝子の手前に、机が一つ、据えてある。机上はモニターと電紙プリンターだけ、他の物より遙かに片付いている。そのプリンターが吐き出したらしい電紙を少女は眺めた。見出しに「緊急時日誌控え」と表示された続きを瞳で追う。


 緊急時日誌控え


 十月六日 担当番号 六 300/1500

 ・到頭展示の生き残りも三割を切った。客足も遠退いている。職員の数だって随分減った。これ以上は意地の問題になる。ならば、意固地になっても仕様がないし、そろそろ当館も閉鎖すべきと考えます。

 FOMI-AR-F03入力質問

 ・テロについてどう思うか。魚も人もウィルスに殺された今、矢張り此処は閉めるべきではないか。

 FOMI-AR-F03解答

 ・テロについて、ですか。ご免なさい。私はそういった世相に疎くて、何とも言えないんです。けど、ワクチン開発は急いでいます。だから閉鎖については、どうか、もう暫くお待ち頂けないでしょうか。


 十月七日 担当番号 十九 233/1453

 ・日に日に魚の数が減っていく。この惨状を目の当たりにするのは辛い。しかし、FOMIと協力して何らかの策を講じ、どうにか打開出来ると信じている。

 ※特記事項 担当六番はFOMIに対し不適切な質問を入力した為、更迭、自宅謹慎とする。

 FOMI-AR-F03入力質問

 ・ウィルスの塩基配列解明の進捗

 FOMI-AR-F03解答

 ・塩基配列は殆ど解明が済んでいるんですが、どうしても核部分だけ判らない点が多くて、ワクチン開発に必要な情報が揃っていません。本社のデーターベースに問い合わせてみても、似た様なウィルスは見付けられませんでした。ご免なさい。謝ってばかりですね。私もシミュレート回数を増やしてみます。


 十月八日 担当番号 十九 172/1145

 ・久し振りに数組の御客様がいらっしゃった。人の目に触れると、心なし魚達も元気を取り戻した様だ。

 FOMI-AR-F03入力質問

 ・イルカショーは継続出来るかどうか

 FOMI-AR-F03解答

 ・今も残っている二匹のイルカ、カイ君とウミちゃんの血管からもウィルスが見付かりました。予断を許さない状態です。けど、カイ君もウミちゃんもショーを楽しみにしていますし、それに潜伏期間中なら問題ないと思います。


 十月九日 担当番号 十九 63/523

 ・第一館の大水槽が全滅した。長年当館の目玉として活躍していたホオジロザメを始め、沢山の希少種が失われた。これ以上、被害を広める訳にはいかない。

 FOMI-AR-F03入力質問

 ・ウィルス解明とワクチン開発の進捗

 FOMI-AR-F03解答

 ・このウィルスはAirborneとDropletの両方を感染経路としている事が判りました。元々、血中機械だけを攻撃していたものらしいのですが、いつからか変異し、動物細胞全てを侵すようになったみたいです。罹患から死亡する迄の期間がとても短いので、直ぐにでもワクチンが必要なのに、三千六十二種の合成試薬をシミュレートした結果、どれも有用ではありませんでした。お魚の数も減りましたので、CPU使用率を館内維持から多少ワクチン開発に移してみて、一日でも早く特効薬を提供出来るよう頑張ります。


 十月十日 担当番号 十九 42/514

 ・魚もそうだが、職員も大分減った。いや、お客様も住民もいなくなった。怖ろしい。唯々不安だけが募る。

 FOMI-AR-F03入力質問

 ・ワクチン開発の進捗

 FOMI-AR-F03解答

 ・ご免なさい。六千九百二十五回のシミュレートでも成果が得られませんでした。既存の薬品の組み合わせでは効果が得られないのかも知れません。


 十月十一日 担当番号 十九 33/263

 ・私を含め、もう三人しか職員は残っていない。今日も出勤すべきか悩んだ。しかし、此処の閉鎖は考えられない。

 FOMI-AR-F03入力質問

 ・

 FOMI-AR-F03解答

 ・お客様もいらっしゃらず、お魚も大分減ってしまって、寂しいです。けど、だからこそ、私のリソースにもかなりの余裕があります。当館のウィルス罹患状況も全て把握しています。ですから、水族館の運営は私に任せて、職員の皆さんは、どうか、御自身と御家族を心配なさって下さい。


 ******Auto*intellectualize*mode*Shutdown******Restart*Safe*mode******

 20801012******survival*24/124*****************************************

 20801013******survival*8/27*******************************************

 20801014******survival*2/2********************************************

 20801015******survival*0/0********************************************

 21001224******customer*1*********************************************


 電紙の上で瞬く黒文字はこれで終わっていた。

 少女は視線を上げた。震える硝子に触れ、部屋の奥を見やる。仕切りの向こうには“FOMI-AR-F03”と刻まれた球体がある。

「帽子、拾ってくれて有り難う」

 抑揚の乏しい声で呟くと少女は硝子の仕切りから手を離し、言葉の余韻が切れぬ内に踵を返して部屋を出た。

 十字路迄戻ると、正面に『バックヤードツアー出口』の案内が見えた。リノリウムを柔らかく踏んで真っ直ぐ歩けば、床はカーペットに変わり、踏み心地も一層柔らかくなる。壁に貼られた矢印の前も過ぎ廊下を抜ければ、ドーム型のホールに着き、プラネタリウムの様な丸天井を少女はやおら見上げた。青く塗られた天井は青空とも水面とも付かない。

 広々としたホールには色々なものが揃っていた。薄暗い通路と繋がる右奥には土産物屋が構えてあって、ヌイグルミが溢れんばかりに陳列されている。青やピンクのイルカ、色取り取りの熱帯魚、変わり種ではサンゴ等が、解れたフェルトから綿を零しつつ棚の上に収まっている。レジ周りの台にはホオジロザメを模したクッキーやチョコレート、煎餅の缶が売られていた。

 顔を反対側へ向ける。ホールの左奥にはショーケースが設けてあり、その中にはハンバーグやカレーやスパゲッティのサンプルが飾られている。レストランだろう。店先には立て看板風のディスプレイが倒れていた。

 そうしてレストランの向こうには暗闇を透かす自動ドアが見えた。

 出口……そうと判るより早く、少女の足は自然と其方へ向かう。

 と同時、周囲が不意に明るくなった。

 少女は歩を止め、俄に辺りを見回した。ホールにあるディスプレイ、その全てが点いている。土産屋に置かれたレジのディスプレイ、レストランの店先で倒れる立て看板、壁や柱に埋め込まれたディスプレイも全部。

 どの白い画面にも、青と水色の二色で塗り分けられた歯車と、『ありがとうございました』の文字が表示されている。が、映っていたのはほんの一、二秒の事。その後直ぐ、ふっと、今度は全ての灯りが消えた。

 真っ暗闇。これが本物のプラネタリウムなら、やがて天井に宇宙が描かれる筈。しかし、いくら待っても星座が結ばれる事はなく、何も見えない闇中に少女は沈み込む。カーペットの水色も、ヌイグルミのあどけない色合いも、照明も、火災報知器の赤灯も見失う。黒い布を被せられた様な、そんな場に、か細く、銀色の灯りが差し込んでいた。

 一縷の灯りに少女は夜の魚が如く引き寄せられる。銀の色合いは、近付けば近付く程寒さが身に沁み、そうして掴んだと思えば、少女は外にいた。

 其処は不思議な場所だった。

 開けた空間を見渡す。ひしゃげた鉄筋が夜空に喰い込んでいる。崩落したドーム天井から舞い込んだ枯葉の絨毯に、氷河を思わせる一面の雪が薄く積もった景色は、落葉に白銀の衣を被せている様。

 此処は元々観客席らしく、枯葉と雪で覆われた扇状の座席の中心には、舞台代わりに凪いだ海があった。海と言っても、規模からすれば湖に近い。けれど、確かに潮の香りがする。

 雪化粧の真ん中に空いた藍色の水面には、イルカショーに使う様な銀色のボールが一つ映っている。もう一つ、ボールは空にも浮かんでいる。水面と夜空に照る双子の月を見ながら、少女は一つ、白い息を吐いた。

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