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砂時計の唄  作者: 白基支子
3/7

露天

 露わになった足の爪先と甲、足裏、足首から(ふく)(はぎ)を柔く包む温度。少女の膝から下を温める四十度の湯。白い皮膚に沁み込む温もりは足を伝って少女の身体の内を上り、丁度胸の辺りで留まった。

 湯船の(ふち)に腰掛ける少女は、湯の中に差し入れた素足を少し上げて、チャプンと、水面を揺るがした。裾をたくし上げた浴衣から伸びる細い足は、きめ細かな皮膚が華奢な印象を一段と深めている。

 纏う浴衣は白地に丹色(にいろ)矢絣(やがすり)を染めた物。帯は無地小豆色の物を蝶結び、浴衣の上には藍染めの綿ぬき半纏(はんてん)を羽織っている。長い黒髪は鼈甲(べっこう)の髪留めで簡単に結い上げ、大きな菫色の瞳は揺蕩(たゆた)う湯船を見つめていた。

 少女の足が生み出す水音の他にこれといった音はなく、浴場は静寂(しじま)に満ちていた。壁諸共(もろとも)崩れた屋根から差し込む日の光に照らされた大浴場の床は、ヒタヒタと濡れた石貼りで、灰色の表面が日光を粘っこく反射している。檜の桶や風呂椅子が隅の方に雑多と積まれ、黒く腐敗し、一つの山と化している。シャワーやカランはどれも錆び付いて使い物にならず、それらの傍には割れた鏡が並ぶ。

 暫くの間、少女は湯に差し入れた裸足を上げ下げして水面を波立たせていた。が、それも飽いたらしく、足を湯の無重力に委ねると、俯いた顔を上げ、崩れ去った屋根の向こうに広がる山の景色を仰いだ。

 秋深く、山林の葉は落ち、或いは紅葉に燃えている。山から肌寒い風が吹き込み、少女の上半身を包む。山の冷気と、足を包む湯の温度とが、一瞬、皮膚の下で混じり合った。

 立ち上る湯気が白々と午後の日光を受ける浴場は、少女の他に一人もおらず、貸し切り、絶え間ない掛け流しのささやかな音ばかりが湯船に打ち付けられている。

 延々と湯を吐き出す湯口を一瞥すると、少女は湯から足を引き抜き、腰を上げた。胸の辺りが充分に温まったのを確かめる為、胸にそっと右手を添える。左手は浴衣の裾を掴んでいる。スッカリ濡れ、光沢を帯びた両足を膝上迄露わにしながら、浴場の石床をヒタヒタと進む。その儘敷居を跨ぎ、少女は脱衣場に入った。

 石床から数センチのところを上がると、踏み心地がビニールに似た畳張りに変わる。十五畳程の脱衣場は、防水用の畳の上に鍵付きのロッカーや長椅子等が配置されている。元々は清潔であったろうビニール畳は、長い年月に光沢を奪われ、茶色く汚れ、所々剥がれている。経年劣化は全てに等しく訪れる。長椅子は表面の革が(ほつ)れ中身の綿を零し、ロッカーは軒並み倒れていた。横倒しになったロッカーは、広く床を占領している。

 部屋は散らかり放題だった。が、雑然としていながらも、落ち着いた静けさが、其処彼処に染み着いていた。

 天井の電球が割れて散らばった硝子の破片は踏まないよう注意しつつ、少女は浴衣の裾をたくし上げた儘、部屋の奥を目指した。其処に未だ倒れずにいるロッカーがある。埃を被って表面は茶色いながら、それだけは収納の機能を失っていない。

 少女はロッカーの前に立ち、上から二段目、瞳より少し高い所にある戸を開けた。四角い鉄の箱の中には、一枚、白いバスタオルが入っている。(あらかじ)め見付けておいた、比較的マシなタオル。そのタオルを手に取ると、少女は左の柱に取り付けられた大きな姿見鏡を見ながら、濡れた足先を拭き始めた。

 真ん中から縦に大きく亀裂の走る鏡。其処に映る少女は、割れ目から姿が二重にズレて危うい。が、分身した己の姿も少女は意に介さず、無表情に、ひたすら足を拭き続ける。そんな彼女を、歪な二枚の鏡は映し続けた。

 やがて二重映しとなった鏡の中の少女の動きが止まる。足を拭き終えたらしい。少女は半身を起こすと、掴んでいた浴衣の裾を離した。重力に任せ、裾が彼女のくるぶしを隠す。

 湿ったバスタオルを手に、少女は脱衣場の出口へ向かった。引き戸の近く、出口の傍には、解けた行李(こうり)の様な物が転がっていて、其処の壁には『貸タオルは此方へ』と、印字の古ぼけた貼り紙が出されている。注文通り、少女は行李の中へタオルを放り、それから脱衣場を出た。

 一筋の廊下。板張りの、障子に区切られた細い廊下に入る。縁側の硝子戸の向こうに、庭園と山林が臨める。半纏を羽織った浴衣姿の少女は、廊下を行きながら、落葉ばかりの庭園……組んだ石も崩れ、木の枝も不恰好に伸びて、本来の調和の面影もない日本庭園を窺った。

 歩く度に床板はギィギィと切ない声を上げたが、存外腐っている箇所は少ない。冷えた板張りを足裏で踏みつつ、秋風に唸る障子の破れを見送る。間もなく、少女は廊下の角を右に折れ、直ぐ立ち止まった。

 前方五メートル先、建物の玄関に通ずる廊下が、倒壊した屋根に押し潰されて通れなくなっている。が、少女は前以て知っていた様に、その手前にある階段の方へ瞳をやった。

 此処は行き止まりだから、二階を渡って玄関へ……一度、お風呂へ行く時に通った道だから、行き方は知ってる。

 白い土壁に手を付けながら、手摺りの落ちた木製階段を、少女は素足で以て上がって行った。

 二階は一階よりも荒廃が進んでいた。廊下の左側、ボロボロの土壁は内部の茶色も組んだ竹も露呈し、右側、くたびれた襖に描かれた蝶の羽根は色褪せている。漆塗りのお膳や汁椀が転がる二階廊下、少女はそれらを避けながら、裾を乱さず楚々と歩いた。

 途中、倒れた襖を見付け、視線を向ければ、宴会場が覗けた。少女はその広間の手前で束の間歩みを止めた。五十畳はありそうな大広間。床を占める畳は痛みが激しく、殆どが駄目になっている為、少女は広間に入らず、入口に佇んだ儘、広間の大きな窓から見える景色をじっと見ていた。

 鴨居の向こう、縁側の更に先に延々と続く山々。今時分、山の楓や銀杏は枝葉を鮮やかな紅と山吹色に染め上げている。その二色に加え、枯葉の茶色が段々に折り重なり、斜面に広がっている。それらの一番手前、窓の近くに、山々の雄大な景色を横切って、宿の庭に植えられた楓の枝が横一文字に枝を伸ばし、贅沢に紅葉を拡げている。

 遠近の秋景色。一つ、大きな紅葉の枝を主題に、遠く山の連なりが霞む光景を眺める少女は、立ち尽くし、見入っている様だ。が、その実、菫色の瞳は透明の儘、無感情な儘で、何も映していない様にも見える。景色を前に、何か、別の事を思案している様にも……。

 その考えが纏まったのか、少女はやがて踵を返し、廊下を戻った。階段迄引き返す。と、踏み板を上がって三階に入った。

 板張りの上に緋毛氈(ひもうせん)を敷いた三階廊下。左右の壁には磨り硝子の引き戸が連なっている。引き戸にはそれぞれ、「縁龍の間」、「漱月の間」、「大潤の間」、「綺路の間」等の表札が掛かっている。全て客室だろう。

 毛羽立った感触を足裏で踏み締めつつ、足音も立てずに少女は引き戸の間を行く。と、彼女の素足が動くのに合わせて、降り積もった埃が緋毛氈の中から舞い上がり、廊下の奥から差す日光を受けて輝いた。キラキラと、足下で光る埃は鱗粉を思わせる。一瞬、少女の脳裏に、先の襖に描かれた蝶の姿が思い浮かび、そうかと思えば沈んだ。

 少女の足は「大潤の間」の前で止まった。何の躊躇いもなく、紗綾形(さやがた)のあしらわれた磨り硝子の引き戸を開ける。と、まるでこの部屋の主が如く少女は玄関を上がり、最初の襖も開けた。

 途端、冷たい風が黒髪と突き出た耳を掠めた。

 客室の奥、窓際にて、切れ切れのカーテンが風に揺らめいている。開かれた窓の傍には、座に落葉の溜まった籐椅子が一脚、放置されている。部屋の中で他に形を保っている物はない。黒い座卓は足が折れているのか、平たい天板が畳の上にのし掛かっている。木製の座椅子は背もたれが根元からなくなっていて、布切れと化した座布団を寂しく乗せているのが唯一の名残。床の間の花器も掛け軸も失われて久しいのか、枯葉の吹き溜まりとなっていた。

 荒廃の果て、不思議と静謐な室内。少女は腐った畳を踏むと、黒く汚れた襖の前に立ち、ガタピシと、建て付けの悪い押し入れをどうにか開けた。

 押し入れには黒ずんだ(きり)箪笥(だんす)が一つ仕舞われていた。少女は箪笥を前にしゃがみ込み、まるで最初から在処(ありか)を知り抜いていた様に、下から二段目の抽出(ひきだし)を開けた。

 箪笥は外側こそ汚れているものの、中身を守る役目は果たしていて、抽出に仕舞われた洋服も綺麗な儘残っている。上から下迄、誂えた様に揃った服を、少女は広げて見た。丈は問題ない。そうと判ると、少女は早速立ち上がって、先ず半纏を脱ぎ、それから帯の蝶結びを解いた。

 浴衣の襟を開く。此処に裸を見る者はない。秋風が少し冷たいくらい。それも、さっき湯に入ったから平気。少女の痩躯から浴衣が滑り落ちる。剥き出しになる白い背中。壊れ物の様な白い背中には、肩胛骨や背骨の突起が薄く浮き上がっている。

 手始めに、少女は箪笥から黒いキャミソールを取り出し、裸身に着けた。次いで柔らかい生地のスカートを手に取る。フィラメント生地、恐らくジョーゼットで織られたスカートを腰に巻き付け、左腰にあるチャックを上げる。と、朽ちた客室が忽ち華やいだ。マキシ丈のスカートは紺の地に精緻な花柄の描かれた物。細かな葉の緑と、黄色や紅緋の花々が写実的に、生地を覆う様に咲き乱れ、それらの合間から紺の地が覗くサマは、夜の花園を思わせる。そんなスカートに合わせる上着は灰色のニットセーター。襟ぐりが丸く大きく開いたセーターは、袖が細く締まっている。ヘリンボーン柄のこのニットを頭から被り、細い長袖に手を通す。と、華やかなスカートの柄も幾分落ち着いて、少女の身体の内から微かに大人びた印象が滲み出た。

 ニットを着た際の静電気で乱れた黒髪を手櫛で整え、改めて鼈甲の髪留めで結い上げると、最後にくるぶし丈の黒靴下を履き、それで少女は着替えを終えた。

 矢絣の浴衣とは丸切り異なる洋装を纏いながらも、印象はそう変わらず、穏やかな、それでいて少し寂しそうな雰囲気が、彼女の端整な無表情に似合っている。

 くるぶしの辺りで揺れるスカートを翻し、高級感の腐り落ちた客室を出る。白い壁と緋毛氈の対照(コントラスト)が眩い三階廊下を戻り、少女はセーターの襟を気にしながら階段を下りた。

 山からの風が汁椀を転がす二階廊下。先程覗いた宴会場の前を通って、廊下の奥へ向かう。

 窓から枯葉が舞い込む。宴会場を通り過ぎれば、廊下右手には窓が連なり、山景色が長々と続いた。屏風世界。その光景を少女の姿が横切る。と、行き止まりに突き当たった。正面には障子紙の破れた丸窓と、その手前には大きな階段。汚れて木目の沈んだ黒い手摺りに白い手を伝わせ、少女は階段を下り、一階玄関に降り立った。

 開けた、板張りの玄関には、数え切れない程の木蓋が落ちていた。

 この蓋の群れは、沢山並ぶ靴箱の物だろう。何やら、額縁らしい空虚な四角形も、蓋の山の合間に混じっている。

 そんな、足の踏み場にも困る中を、少女は突き進んだ。番頭不在の番台の前を過ぎ、奥に見える待合室……見るも無惨に砕かれた、伊万里焼の大壺……の方へは瞳もくれず、蓋のない靴箱の一つに手を差し入れる。小さな手が引き抜くは黒いショートブーツ。それを三和土(たたき)に置く。と、少女はスカートを抑えながら上がり(がまち)に静かに腰掛け、ブーツに足を差し入れた。編み上げ(レースアップ)の紐を交差させ、蝶結び。履き終えれば少女はやおら立ち上がり、外に出た。

 地に落ちた青い暖簾を跨ぎ、振り返って見れば、青空の下、宿の全体が瞳に入る。立派な入母屋造(いりもやづくり)の三階建て。玄関には、「霞屋本店」と、屋号の刻まれた大仰な木彫り看板が掲げられている。

 秋晴れの空に張り出した屋根は三棟に分かれていて、よくよく見れば、その屋根瓦の色が棟によって少しずつ違う事に気が付く。

 正面の大きな棟は青みを帯びた暗い瓦。この屋根の真ん中には、黒髪から突き出た耳みたいに、小さな塔屋が建っている。

 向かって左の棟、此方は完全に倒れ、殆ど何も残っていない。柱が数本、健気に佇んでいるばかり。これでは瓦も何もない。

 右の棟は、屋根の中心が大きく落ち窪んでいるけれど、それでもどうにか外観を保っている。此方の瓦は緑色。それに幾らか新しいらしい。多分、この右棟は後から増設したものだろう。

 山を背に佇む宿屋の三棟を見終えると、菫色の瞳は流れ、少女は正面を向き、そうして、眼下に広がる街を見た。

 山の斜面に造られた温泉街と、街を真っ直ぐに貫く石段。この石段が目抜き通りの役目を担っている。少女の背後に控える「霞屋本店」を頂点に、石段の左右に軒を連ねる宿屋、茶屋、土産物屋、的屋は全て残骸、嘗ての繁盛も何処へやら、街は鳴りを潜めている。

 人一人いない温泉街の最上段に立って、少女は石段沿いに続く町屋通りを眺める。電柱を排し、代わりにガス灯の並ぶ通り。辺りには豪華な気風を偲ばせる建物が多く、少女の直ぐ傍、最上段の左右には、間口の広い数寄屋造の宿屋が残っている。が、どちらの宿屋も今は壊れ、それぞれ二階と三階から崩れて、階段下の建物に瓦礫を覆い被せていた。

 少女は崩落の間を抜け、破片の散らばる石段に足を掛けた。足先が濡れていた時の浴衣と同じく、スカートを掴んで裾を少し上げ、下りて行く。

 石段脇に植えられた並木の楓が、瓦礫を養分に大きく育ち、崩れた数寄屋に紅葉を被せている。紅い掛け蒲団みたい……建物を寝かし付ける楓の木を見つつ、少女は石段を下り続ける。と、パキパキと、ブーツの底が瓦や硝子の破片を踏み砕く音が、いつ迄も附いて来た。

 長い間人の手の入っていない街はスッカリ落葉に埋もれている。地に落ちて猶血の通っている様に赤々と色付く紅葉が、店々の玄関先に敷き詰められている。その、塵みたく積もって山となった紅葉の膨らみは、一陣の風にカサカサと乾いた音を立てて吹き飛んだ。秋風の掃除した店先、露出した石貼りの玄関口を見ると、ふらり、少女は無目的に其方へ向かい、打ち破られた引き戸を越えて店内に入った。

 埃の匂い。店内は広々として、細い柱が並ぶ他は壁もなく、奥迄見通せる。壁には窓硝子が張り巡らされ、山林の景色が室内を囲っていた。

 が、洒落た内装もスッカリ朽ち果て、元々此処がどんな店だったのかも判然としない。床に転がる行燈型の照明は、和紙が剥がれ、骨組みだけとなっている。黒いコードが途中で切れているから、元々天井に(つる)されていた物が落下したらしい。壁際に並ぶ長椅子や机にしても、割れたり折れたり、過去の面影もない。

 その内の一つ、入って直ぐ右手にある机を少女は見やった。机上に、一枚、茶色くなった「お品書き」が残っている。其処には「珈琲」、「紅茶」、「善哉(ぜんざい)」、「パフェ」と書かれている……どうやら、此処は元々茶屋だったらしい。

 少女は首を動かし、反対側を見やった。左側には小部屋があって、商品棚らしき横に長い廃材に埋まっていた。其処の壁には沢山のポスターも貼られている。「温泉饅頭」、「霞サイダー」と、観光地らしい宣伝ポスターが横一列に並ぶ中、少女の瞳はあるポスターの端っこに釘付けとなった。

 それは褪せた写真……ヨーロッパの片田舎の川辺……の印刷されたポスターだった。『ある日の記憶と共に』というフレーズに添えられたマーク、斜線の入った八枚歯の歯車を、少女は熱心に凝視した。

 記憶の奥底を掬い上げても真っ白い。地酒か何かの宣伝らしい牧歌的ポスターに刷られた斜線入りの歯車が、菫色の瞳の虹彩に映り込んで、幾何学模様を描く。が、その模様は呆気なく消え去った。少女は顔を背け、入った時と同じ無気力で以て店を出た。

 石段に戻ると、少女は再び下へ向かった。

 全体が観光街だからか、並ぶ店先は客引き用の趣向を凝らし、殊にこの辺りは上等な店が多かったらしく、宿屋の店先には頭の落ちた石灯籠や、育ち過ぎた松の木等が見受けられる。

 皹割れた様な木肌。松の枝は太く、うねり、葉は緑色の針千本の様。そんな、見上げる程の松を構えた凹型の宿屋は、しかし、どの窓も灯が消えて久しく、客室は全てひっそりと暗闇に沈んでいる。本来の上品さが却って陰気の度合いを注ぎ足している旅館。

 少女の瞳はそんな旅館に、ではなく、その隣へ向けられていた。

 旅館の隣、石段を少し下りた所に、二本のガス灯を左右に備えた、西洋風の門がある。アーチを描く大きな鉄門と続く塀は、ゴシック調の飾り付けが施されている。黒く尖った飾り付けは、有刺鉄線の代わりでもあるのだろう。

 蔓草の絡まる門扉の前に立って、少女は敷地の内を覗いた。門の向こうは、木漏れ日の麗らかな林道が続いている。この道が何処に繋がっているのだろう?そう考えるが早いか、少女は徐に手を伸ばし、そっと、門を押していた。と、門は容易く開き、僅かに出来た隙間から、少女は身体を滑り込ませた。

 此処は外と異なる空気と時間が流れている様。少女は瞳を上げた。並木道、青空を覆う枝葉は、大人好みの、苦い、珈琲色に染まっている。長い黒髪を結い上げた効果か、幼い印象を和らげ、少し大人びて見える少女の姿は、茶色の並木道によく映えた。

 落葉の絨毯を踏んで行く。柔らかい落葉の下には煉瓦道があるらしく、枯葉の茶色の下から、時折朱色の煉瓦が垣間見えた。

 元は庭だったらしい芒原(すすきはら)の横を通り抜ければ、間もなく正面に西洋館が見えて来る。枯葉の合間から覗く白い壁は、やがて和洋折衷式の三階建てとなって現れる。「お屋敷」という呼び方がしっくりくるその建物の軒下に、少女は立ち入った。

 洋燈が左右に掛かった門前。洋燈はどちらも形を灯籠に似せている。が、笠のところが割れて、煤汚れた電球が露呈していた。その所為か、玄関は昼日中にも関わらず薄暗い印象を拭えない。

 灯りを失った観音開きの戸口。木製の戸に付いた錆鉄の輪っかを引く。と、扉は簡単に開き、少女は何の気兼ねもせず、屋敷に御邪魔した。

 途端、視界一杯に玄関ホールの惨状が広がる。

 大理石の白い床には、柱時計の様なオルゴールが倒れ、その部品が散らばり、金色の円盤が古めかしい木材に埋もれている。シャンデリアも落ちているらしい。細かな硝子の玉が、溺れる程の涙の様に彼方此方に散らばって、割れた西洋窓から差し込む光に輝いている。

 一体、このホールの広さがどのくらいなのか?腐敗した家具や調度品に埋もれ見当も付かない。

 二階へと繋がる象牙の階段は踏み板が抜けていて使えず、ホール左奥の廊下と正面の部屋は、屋根や本棚等の成れの果てに入口を塞がれていて通れない。

 唯一残るは右の廊下のみ。消去法で、少女は其方へと足を向けた。

 入った廊下は明るかった。右には大きな窓が連なり、左の白い壁と、床の大理石が窓からの日射しを照り返す。マキシ丈のスカートの柄に夜の花園を携える少女は、西洋館の廊下を無表情の儘歩いた。傍目には澄ましている様。けど、そんな積もりはない。慣れているだけ。身体が、この家の空気に自然と打ち解けているだけ。

 この屋敷がどういった目的で建てられたのか、最初は判らなかったが、少女は廊下を行く内に理解した。

 それは突き当たりの部屋、扉のないその部屋の中を覗き見た時だった。其処には沢山の美人画が展示されていた。

 浮世絵風の色使い。描かれる美人も大半は着物姿だ。が、輪郭は淑やかながら、画の中の女は全て可愛らしい色香を漂わせていた。細い面立ち、優し気な瞳、くねった身体を描く線から、何処となく近代的な筆致を感じる。

 画も、画の中の人も、全部同じ空気を纏っている。多分、全部、描いた人は同じ……。

 そんな展示室の手前に、又別の、レジを置いた部屋があった。少女は展示室ではなく、空っぽのレジカウンターの前を過ぎ、その部屋に踏み入った。

 物の少ない部屋。奥は一面硝子張りで、裏庭がよく見える。芒の群れが揃って穂を垂れる景色。そんな窓の手前には年季の入った猫脚椅子が一脚。そして更にその手前、少女の足下には、骨董品の様に古めかしい、黒マント付きの、ダゲレオタイプのカメラが倒れていた。

 此処は写真撮影に使われていた部屋なんだ。

 少女は猫脚椅子に近付き、その背もたれに軽く触れた。記念写真。記念と記憶の相違点について考える。と、先程見た斜線入りの歯車が、一瞬間、脳裏を過ぎり、少女は反射的に顔を上げ思考を取り止めた。

 そうして、曇りない菫色の瞳を背後へ投げ掛けると、その儘、少女は窓から裏庭に出た。

 芒叢(すすきむら)に入る。背丈の変わらない穂先の間を少女は突き進む。薄茶色の狭間、灰色のヘリンボーンと夜の花園が見え隠れする。やがて芒の中から出て来ると、少女は再び林道の上に立っていた。

 此処も枯葉ばかり。やっぱり、年老いたものを()んだら苦いのかしら。

 深い茶色のチョコレートを思い浮かべながら、少女は敷地の道を行く。

 先の西洋館の他にも、林道沿いに幾つかの家が建っていた。それは倉の様であったり、バンガロー風のコテージであったり、二階建ての純粋な日本家屋であったりした。

 それらを道端に見送りながら、枯葉の道、ブーツを汚しながら進む。と、いつの間にか元の道に戻っていて、正面にゴシック調の門扉が見えて来る。少女は門の前に立つと、宛も自分の家から出掛けるみたく、気軽く蔓の絡まる門を押した。キィと、鉄錆を軋ませ開いた門から、少女は温泉街の石段に舞い戻る。

 夢中と呼ぶより無意識と言った方が正しい足取りで以て、少女は長らく石段を下る。枯木も山の賑わい。辺りは枯葉が秋風に舞う音ばかり。観光地の賑わいは、その痕跡すら()うに風化したらしい。人いきれを失った温泉街は薄ら寒く、そう思っている内に、左右に建ち並ぶ店々の(おもむき)も変わってくる。

 石段の中頃に差し掛かると、大きな建物は段々減り、間口の狭い、小振りな旅館やホテルが、互いに肩を(すぼ)める様にして並ぶばかり。それらが(ことごと)く打ち捨てられている光景は、耳だけでなく、瞳にも静けさが沁み入る。

 パキッ、パキ、パリンッと、ブーツの底から破片を踏み砕く音も、足裏から伝わるその感触も慣れた様子で、少女はひたすらに下る。下りながら、菫色の瞳は窺う様に右側の、安っぽさの目立つ宿屋の店先を眺めている。

 全体が白く、入口の壁だけが赤く塗られたビル型のホテル。割れた自動ドアから薄暗い室内が覗ける。茶色いカーペットの敷かれた床を、赤や白の電気コードが無雑作に這う室内。辛うじて天井にぶら下がっているシャンデリアは、金メッキの枝先から肝腎の電球が失われている。「フロント」と表札の掛かった窓口には、赤、青、黄と、色取り取りのビニール袋が、細かな廃材と一緒に放置されていた。

 朽ちて一層廉価になったホテルから瞳を逸らすと、少女は下へ下へと続く石段の果てに思いを馳せて、正面を見据えた。が、彼女の意志とは別に引力が働いているみたく、菫色の瞳はやがて左の方へ吸い寄せられた。

 顔を向けた先にも又安宿が玄関を開いている。掲げられた看板には「へいず楼」と刻まれてある。中途半端な名前。少女は看板をじっと見た後、その、中途半端な屋号の下を潜った。

 玄関は狭苦しかった。床に敷き詰められた臙脂色のカーペットは端が白くなる程埃を被り、そんなカーペットの上に靴箱が倒れている。上がり框の傍の壁際には、電源の落ちた煙草の自動販売機が、立った儘白い(むくろ)を晒していた。

 寂しい玄関は孤独に満ち、ポツンと立っている小さな案内板が憂鬱に拍車を掛けていた。「この先、大浴場」と、赤い矢印を示す案内板を見ると、何と無し、少女は右の廊下を指し示す矢印に従ってみる気になった。

 矢印通り、玄関の奥を右に曲がれば、臙脂色のカーペットがズット続く細い廊下。この廊下を進むと、直ぐ正面と左にそれぞれ階段が伸びていた。案内はない。一体、どちらの階段が大浴場に繋がっているのか、此処に初めて来た少女には、無論、判らない。

 不親切な分岐だが、少女は迷いなく正面の階段を上がった。迷ったのなら、戻れば良いだけだから……。

 階段を上がった先、正面の細い廊下にも臙脂色のカーペットが敷かれている。窓から差し込む日光が、中庭の植木の影を白い壁に映す。揺らめくその影の最中を少女は歩いた。此処が二階なのか、それとも未だ一階なのか、判然としない。廊下の途中にある部屋も、何の為の部屋なのか、少女には判別出来なかった。ある部屋などは、事務机の上に黒い金属の箱……立体バーコード……が山と積まれていた。又別の部屋は、衣装箪笥の前に、形が文庫本に似た、数多の個人用複合通信機が、格子状に整然と並んでいた。

 そんな、不可解な部屋の前を通り抜ければ、やっと「大浴場」と、表札の掛かった引き戸に辿り着く。

 浴衣はないけれど、せめて足だけでも湯に入れたい。少女は曇り硝子のアルミサッシを開け、天窓からの日光が明るい脱衣場も突っ切り、早速浴場に踏み入った。

 が、少女は浴場の入口にて立ち尽くした。

 緑タイル貼りの大浴場、その中心に掘られた円形の湯船は、スッカリ干上がっている。

 浴場の奥には、四角い窓硝子が一つと、それを挟んで両側に極彩色のステンドグラスが嵌まっている。粉々になった二つのステンドグラスは、元々の粗悪さも相まって、割れ目のギザギザが酷く凶悪に見える。血に濡れた様に赤い硝子の破片が、緑タイルの床に散乱している。

 少女は底に枯葉を溜めた湯船を見やった。湯を張っていない温泉に用はない。

 少女はアッサリと踵を返した。

 よくよく見れば、脱衣場の天窓にも、ステンドグラス風の色付けがなされている。七色が虹の様に脱衣場を照らし、無残に壊れた鉄製の脱衣籠を浮き上がらせていた。野暮ったいその七色が、荒廃を皮肉る脱衣場を後にして、少女は廊下に戻った。細い廊下を戻る。

 中庭の脇を通り抜け、あの、不親切な、二叉に分かれた階段に差し掛かる。と、少女は不意に立ち止まった。と思えば、正面でなく、分かれ道の選ばなかった方、大浴場と繋がっていない方の階段を上がって行った。

 踊り場を折り返し、上の階に着く。此処は二階に間違いない。左右を確認すれば、延びる廊下の壁には木戸が並んでいる。客室だろう。少女は二階の廊下に入ると、一番近い木戸の前に立ち、ドアノブを回した。徐に戸を引く。

 刹那、湿ったい草の匂いが少女の顔を覆った。六畳一間の客室は、ふやけた畳の表面が波打つ程湿り、又奇妙なくらい陰翳が強い。割れた窓の直ぐ近くに植えられた木の幹が日光を遮っている所為もあるだろう。押し入れの襖ばかりが矢鱈(やたら)と白々しい。

 飾り気のない、のっぺりとした、湿気の溜まった和室の窓は閉じられている。が、微かに風の音を聞いた気がして、少女はやおら振り返った。風を受けたスカートが波打つ。背後の扉、丁度、廊下を挟んで正面にある客室の木戸が、キィ……キィ……と、風に揺れているのを少女は見た。耳をそばだてれば、風に混じって、ハラリ、ハラリ、紙の捲れる様な音もする。

 その、するかしないかの音を頼りに、少女は今いる客室を出、風に軋む木戸の前に立ち、そっと、引き開けた。

 此方の客室も向かいと造りは変わらない。が、明るさは段違いだった。西に傾く秋の日光は、玉子の黄身を思わせる雌黄(しおう)に照って、窓の外の紅葉に降り注いでいる。黄と紅に彩られた室内は六畳一間。柔らかな光を浴びる壁と襖。畳には一面紅葉が散らばっている。開いた窓から舞い込んだのだろう。

 中庭に面したその窓の傍には小さな書き物机が置かれていた。少女が机上を見れば、其処には秋風と戯れ、汚れたページをヒラリ、ヒラリとはためかせる一冊のノートがある。

 誰に(そそのか)されるでもなく、少女は窓辺に近付いた。枯葉に混じって、ブーツが原稿用紙を踏み付ける。何も記されていない原稿は、年月の所為か茶色く日焼けし、枯葉と見分けが付かず、色が付いているだけ紅葉の方が未だ鮮やかだった。

 少女は書き物机の前に立つと、徐にノートを取り上げた。表紙を開けば、此方には何か書き付けてある。所々インクの滲んだ手書きの文字を、少女は一ページ目から黙読した。


 〇09/16 この頃の残暑を払う為、又己の身体の為、湯治に来る。安宿である。玄関の掛け軸にこう書かれている。

 等閑世事任■浮 万古滄桑眼底納

 偶□心期帰図画 □□蘆荻一群鴎

 落款には「王一亭」とあるが、贋物であろう。

 〇09/17 雨降る。外出する気失せる。然りとてやる事もなし。部屋一人、仕事でもする。

 〇09/18 隙間無く耳塞げども、世俗の騒ぎは耳に入る。これでは仕事にならない。

 〇09/19 中庭の紅葉が雨露に濡れて青々と美しい。色付く時期を女中に訊くと、二月後と言われる。その際、女中に嫌な顔をされる。

 〇09/20 度々女中に嫌な顔をされては嫌なので街をぶらつく。相応の賑わい。しかし、湯治客は皆々、■元気に思える。

 〇09/21 終日部屋に籠もる。路銭が些か心許ない。畢竟(ひっきょう)、この世の沙汰は銭である。

 〇09/22 日増しに■ぎ大きくなる。これでは仕事が進まない。思わず、窓から外に怒鳴りつけてしまう。しかし、誰も耳を貸さず。

 〇09/30 こんな山奥に居ても世俗の事件と無関係で居られないらしい。宿にて朝夕出される飯がどんどん質素になる。

 〇10/03 愈々(いよいよ)首が回らない。原稿料を稼ぐ為、何か書いて出版社に送ろうと思う。

 〇10/04 無計画もこの儘では破綻する。この身を湯に沈めても作品は浮かばず。「滅亡の日」という題を思い付くが、あんまり直接的な作風は己の好むものではない。

 〇10/08 いっそ宿を移ろうか悩む。もっと街の■にある宿ならば安上がりで済む。しかし、一度堕ちれば終わりとも思う。最上段の「本店」の前を歩き回りながら、決心つかず。

 〇10/09 下の方を見に行く。碌々(ろくろく)温泉もない。色宿と略■ばかり盛んである。

 〇10/10 金持ちは殆ど死んだと風の噂に聞く。この世の沙汰は銭ばかりでもないらしい。しかし、今度こそ己の■だ。

 〇10/11 外も大分静かになった。■奪もなくなり、街の下段も落ち着いている。これでやっと仕事に掛かれる。冒頭を思い付いたので、少しばかり此処に記す。


 広漠

 鴻巣司

 僕は無重力の(とりこ)だった。己の作品を頭の中で壊しながら、その度に己の身体を包む浮遊感に感動していた。足が地に着いていない。安宿の一室に居ながら、僕は何もせず、唯机の上を睨みながら、じっとして、動かずに、破壊活動に勤しんでいた。夜も暗い儘、じっとしているのである。電気は点けない。疾うに点かないのだ。電線か電球のどちらかが切れたらしい。僕はまるで青ざめた彫刻だ。そう思うと同時、安宿の一室に居て、動かず、暗い中じっと机上を見続けている僕によく似た彫刻を僕の頭の中で打ち壊す。凄まじい無重力が僕を襲う。彫刻の口の端が少しだけ上がった。皆、同じ事をしている筈だと考える。星は無重力の海を巡っていた。


 ページの端に書き込まれた『208■/10/11』という日付を最後に、ノートの文字は途絶えていた。どれだけページを繰っても、一文字とて発見出来ない。

 白い砂漠みたい。

 少女はノートを閉じ、元の場所に戻した。読んだ文章の全てを忘却へ追いやったか様に、菫色の瞳は澄み渡っている。

 少女は振り向いた。又も原稿用紙を踏み付けながら木戸へ向かい、部屋を出る。その儘階段も下りてしまうと、今度こそ宿の玄関を目指して歩き出した。

 孤独とガラクタの他は何も無い玄関に戻る。入った時には気付かなかったが、入口脇には簡単な床の間がある。が、花器は失われているのか見えず、書幅は落ちた儘、打ち捨てられている。

 又、煙草の自動販売機の陰にはフロントらしき窓口も見える。窓口の奥には、各部屋の鍵を掛けておく為のフックと、固定電話、それから「旅の思い出」と表紙に書かれたノートが置いてあった。

 少女はノートの表紙を一瞥した。が、生憎(あいにく)とペンの持ち合わせがなく、加えて書き記す程の思い出もない為、何もせず、宿屋「へいず楼」を出た。

 外気に触れると露わになった(うなじ)が寒い。少女は頭の後ろへ手をやり、楕円形の髪留めに触れた。鼈甲の艶が指先を滑る。

 左を向けば、相変わらず石段が下へ続いている。何処迄も真っ直ぐ下へ伸びる石段。右を向けば、最上段の宿屋、その入母屋造がぼんやりと見える。

 あの大きな屋根が、頂上から覆い被さっているみたい。

 温泉街の主人然とした「霞屋本店」から顔を背けると、少女は日陰の濃い下段へ足を向けた。

 が、安宿の連なりの中に一軒だけ、「霞屋本店」と同じ造りの建物が混じっていた。

 それは町屋の切れ間に不意に建ち、尚且つ周りの安宿とは様相を異にしていた。

 立派な玄関に掲げられた看板には、「■■■温泉観光組合・管理局」と、あの斜線入り歯車が一緒に彫られてある。玄関に被さる入母屋造の向こうには、五階建てのビルが見えていた。玄関を頭とすれば、背後のビルは蝸牛(かたつむり)の殻。角張った渋色の殻は、大きな影を目抜き通りに落とし、それでいて矢鱈と威圧的だった。

 が、壁の窓硝子が悉く割れているのを見れば、威厳も何も過去の物、取り戻せない物だと判る。脆くも崩れ、瓦礫を石段に散らかすビルの様子は、他の宿屋と何も変わらない。

 そんな玄関口には、一本、見事な銀杏の木が植えられていた。

 大きな木。黄金色に染まった幾千の葉が、風に吹かれ一斉に揺らめくサマを、菫色の瞳は捉える。玄関の瓦屋根や、ビルの壁、割れた窓を撫でながら、銀杏は葉を散らす。と、黄金の蝶が羽根を羽ばたかせる様に、ヒラ、ヒラと、黄色い葉は地に落ちた。

 空中の蝶を追い回す幼さは残っていない。けど……黄色い葉の舞う姿と、荘厳な入母屋との対比に吸い寄せられ、知らず識らず、少女は玄関へ向かっていた。

 和風な外観は矢張り玄関のみで、室内は真新しい市役所を思わせる。

 いいえ、荒れ果てた市役所。

 玄関近くの窓から差し込む日の光が床に当たる部分だけが、四角くクリーム色に輝いていた。床はリノリウムらしい。が、それ以外は光が届かず、所々残った蛍光灯が疎らに灯っているばかり。従って、薄暗い一階の全貌を見る事は出来ない。が、少ない蛍光灯の照らす箇所だけは、夜道を照らす外灯の様に暗がりを除け、此処の惨状を伝えていた。

 一階中央には巨大な柱。その柱には鉄の引き戸が二つ並んでいる。エレベーターだろう。エレベーターの手前に吊された、点滅する蛍光灯の下には、壊れたエスカレーターと、倒れた植木鉢。鉢から零れた土塊と、倒れた植木の枝葉は、共に薄茶色い。

 少女は足下に落ちた雑多な物々を踏みながら、一階中央、エレベーターの方へ向かった。砕けたパソコンの画面、埃、枯葉、土、茶色くなった包帯、等々……床は酷い有様だった。床に落ちた瞬間からゴミになり、時の流れの中で遺物と化した物々を踏み分け、少女は立ち止まる。

 チカチカ光る蛍光灯が照らすエレベーターホール。外は未だ夕方前。けど、此処は随分暗くて寂しい。不規則に明滅を繰り返す照明。少女の周りだけ夜の様。スカートに夜の花園を描く彼女の姿は、照明と暗闇の連続に、浮いては沈み、入れ替わり立ち替わり、現れては消えた。

 此処からだと四方が見渡せる。この惨状、散らかり様は、その儘過去の出来事を物語っている。向かって左、待合所の長椅子は、革のカバーが無理矢理に引き剥がされている。壁のポスターは引き千切られ、机は引き倒されている。そんな光景が、頼りない照明にぼぅっと浮き上がっている。

 少女は一階の様子をぐるり眺め回した。そも、生き残っている照明がそれぞれ遠いのか近いのか、それすらよく判らない。日光は黄金の様に輝いているけれど、蛍光灯は化学的に白い。昼と夜とが一緒にやって来た様な明暗の、玩具箱を引っ繰り返した様な室内にて、少女は太陽のものでも蛍光灯のものでもない光を見た。

 右奥、「源泉管理」と表札の掛かった一画、事務机の向こうから光は漏れている。少女は其方をじっくり見た後、足を踏み出した。

 近付いたカウンターの上は、多くのパンフレットで乱れていた。カラー印刷されたパンフレットには「温泉観光」の見出しと、その下に温泉の効能が記されている。そんなカウンターの端から、「源泉管理」の内側に入る。

 此処も散々な状況。列を乱した事務机の群れはまるで複雑な迷路。少女は暗闇の浅瀬に足を漬けながらその中を進んだ。足下が見えない中、倒れた机を跨ぐのには難儀したが、少女は息も乱さず、何とか目的の光源に辿り着いた。

 眼前の壁には、磨り硝子の扉と、青く光る小さな画面が、親子みたく隣り合っている。

 少女は先ず扉中を覗いた。割れた磨り硝子の向こう、暗い部屋の中にもう一枚扉が見える。かなり大きな、円形の、鋼製の扉が。

 銀色に輝く円形の扉は、如何にも厳重そうだ。が、金庫の様なその扉はスッカリ開いていた。暗くてよく見えないけど、扉の中では何かが動いていた。何か、機械の様な物。それは部屋のほぼ中央に据えられている。影から察するに、形は正二十面体らしい。そんな機械の内部から、鈍い回転音が響いている。

 少女は二十面体の影から瞳を逸らすと、次に青く発光する画面を見やった。画面には「非常時運行状況」と、その下に三つの単語が表示されている。


「霞屋本店」

「管理局(本館)」

「セイラン」


 少女は直ぐ顔を背けた。画面の文字の意味など考えもせず、その場を離れる。又も事務机が形作る迷路を抜け、振り返りもせずに「源泉管理」を去る。

 ホールに戻ると、少女は顔を左に向けた。此処は一階の奥で、玄関は遠く右の方に小さく見えている。が、日の光が眩い其方の方でなく、少女は菫色の瞳で以て、暗闇の中から何をか透かし見ようとしていた。

 階段。

 少女がそう思うと同時、傍の蛍光灯が生き返り、眩く辺りを照らし出した。闇中に潜んでいたものが露わになる。

 直ぐ其処の行き止まりの陰に、階段の入口がある。

 少女は歩き出した。階段手前の壁に貼られた案内板の「食堂」という文字と、左斜め下を指し示す赤い矢印に従って、暗い階段を下りて行く。

 階段はまるでトンネルの様に、下りた先、出口が白んでいる。他は真っ暗闇。少女は壁に手を付けつつ、一段一段、転ばぬよう慎重に下りる。そうして、ようやく下り切ると、不意の日光に晒され、少女は瞳を細めた。

 見上げれば青空が広がっている。食堂の屋根は広く崩落していた。床にはその廃材が山と積み重なっている。元々、此処には沢山の机や椅子が並んでいたのだろう。六十畳程の食堂は、しかし、廃材と瓦に押し潰され、面影もない。

 (うずたか)く積もった廃材の山の向こうに調理場が見える。客席に面した調理場は白タイル貼り。壁際のコンロはつまみが取れている。表面の銀色がくすんだ業務用冷蔵庫は扉が開いた儘、暗い空洞を露呈している。冷蔵庫の中には何も無い。此処からだとよく見えないが、食材の類は全て失われているらしい。

 他、包丁や鍋等の調理器具も一切見えない。その代わり、ステンレスの調理場には妙な物が放置されていた。

 点滴用のパック。

 少女は瞳を凝らした。調理場の上に雑多と積まれた透明なパック。中身の残っている物もある。どす黒い液体の残ったパックには、“Blood B”の表記。

 それだけじゃない。調理場の彼方此方、廃材の下に至る迄、見慣れない、色の付いた紙が沢山落ちている。四色の紙は、下から緑、黄、赤、黒と塗り分けられている、その、折り紙の様な物にはマークが記されている。壊れゆく生物細胞を模した様なそのマークが、少女の瞳に映り込む。

 嫌悪感と危機感は、若しかすると、同じ脳信号なのかも。

 どちらの信号も発していない少女の脳は、唯々飽きたと訴える。もう行こう。少女は廃材を避けながら玄関へ行き、格子戸を開いた。

 外に出ても青空は変わらない。屋根の落ちた家の内と外は代わり映えしない。が、街の様子は再び様変わりしていた。晴れの空に不相応な陰鬱が、目抜き通りたる石段に迄にじり寄っている。人一人いない静けさも鬱々とした空気を一層色濃くしている。

 通り沿いに背の高い建物はない。精々が二階建ての木造家屋ばかり。古ぼけた和風建築は、どれも今にもくずれそうなくらい不安定に建ち並んでいる。

 が、鬱々とした雰囲気に相反して、石段の通りには祭の屋台が出ていた。

 蝋燭の最後の灯……色取り取り、派手な看板に大仰な文字。「たこ焼」、「わたあめ」、「りんご飴」、「お面」と、愉し気な文字を躍らせる屋台は、その大半が、連なった提灯と共に潰れている。祭の後、その間を通り、少女は石段を下りて行く。

 その途中、唯一形を保っている屋台を見付け、少女は立ち止まった。「射的」、のぼりにはそう出ている。店先には玩具の小銃。屋台の奥には木の棚。棚の上には、一つ、ミニカーの箱だけ残っている。

 何の気なし、少女は玩具の小銃を取り上げた。ミニカーと小銃とを見比べる。何をすべきか、何と無く理解しながら、どうすれば巧く箱を落とせるか考える。少女は銃を持ち上げた。銃口が屋台の奥に向けられる。その拍子、思い掛けず引き金が指に掛かった。

 ……カチッ……。

 銃は間の抜けた音を立てた。撃鉄が起きない。何度引いても、カチャカチャと、虚しい金属音が鳴るだけ。弾は出ない。

 何が起きたのか判らず、少女は再びミニカーと小銃とを交互に見た。箱は棚から落ちていない。

 つまんない。

 少女は店先に壊れた小銃を放り、屋台に背を向けた。

 石段の両脇には潰れた屋台の列がズット続いていて、屋台の裏にあばら屋が建ち並んでいた。出ている看板や間口に落ちた暖簾に因れば、これらあばら屋も一応宿屋であるらしい。が、そも、石段の上の方に建っていた大きな旅館と、今歩いている此処とが、一本の石段で繋がっているという事実が俄には信じ難い。

 荒廃の似合う街並み。石段の両脇に並ぶ家々はどれも似通っていた。或いは、年老いると外見が似てくるのかも知れない。

 古宿はどれも二階建ての入母屋造。漆喰の剥がれた壁には亀裂が走り、酷い物だと抉れていて、中身の茶色が露わになっている。意外にも瓦は無事なものが多く、黒々とした屋根が青空を反射している。反対に、玄関戸が残っている家は稀で、大体の宿屋は戸口をポッカリと空いた儘、暗い(うろ)を通りに晒していた。

 安いという印象を通り越した無気味な町屋の間を少女は無警戒に進む。平然としたその態度は、ともすれば傲慢にも、我が物顔にも見えた。

 建物の死骸が陳列された石段に風が吹く。と、山の楓が葉を散らし、少女の頭上を舞った。周囲の雑草もそよいでいる。屋根瓦の隙間から伸びた野草と、三和土の隅に咲く野花。散る楓の紅葉を血飛沫に見立てれば、此処は本当に死体置き場の様。

 そんな中、一軒だけ大きく、且つ陰鬱の度合いが群を抜いている建物の前を通り掛かる。それは宿らしくなく、纏う空気を取り上げれば、先の管理局に似ていた。他のあばら屋の間口が二メートルもないのに対し、此処の玄関は悠に五、六メートルはある。が、広々とした自動ドアの入口には、木の板がバッテンに打ち付けてあって、無言の内に来客を拒絶していた。

 少女はニットセーターの襟ぐりを直しながら、バッテンの先、胡乱な室内を見通そうとした。

 暗い屋内、薄ぼんやりと見えるは鎮具破具(ちぐはぐ)な物々。

 詳しい広さは判らない。けど、奥の方が暗い所為か、かなり大きい様に思える。

 見える範囲に壁はなく、安っぽい淡黄色の床から生える白く太い柱だけが、点々と一階を区切っていた。

 瞳を凝らす。薄暗い奥には、少女の背丈と同じくらい大きい箱が乱雑に放置されている。箱には色々な種類があって、又、その殆どに画面がくっ付いていた。大きな画面の手前にボタンやレバーの設置された物、画面と座席とが一体になった物、一際大きな画面の前に玩具の拳銃がぶら下がっている物、等々。他にも、硝子の箱の中にヌイグルミやお菓子の大きな箱が入っている物も見える。それらが一箇所に寄り集まって、等しく埃を被っていた。

 少女は視線を手前に引いた。入口近くの割合明るい場所に東屋が設けてある。屋内の東屋に何の意味があるのか、不思議に思って観察すれば、屋根を支える中央の柱に「足湯」の焼き印が見える。しかし、長腰掛けに区切られた東屋に湯は張られていない。柱に設置された銀色の蛇口も黙っている。

 が、少女の関心は別にあった。

 菫色の瞳が見つめる先には、長腰掛けに置かれた段ボール箱があった。その中一杯に、殻の注射器が詰まっている。鋭い針を錆び付かせ、容器も割れた注射器の群れは、入っている段ボール箱が汚れている為か、それともひしめいているからか、本来の清潔な印象は欠片程もなく、今は唯、苦痛と細菌とに塗り潰されていた。

 針山を思わせる、段ボール箱に詰められた注射器達。そんな気味の悪い光景からも瞳を離さず、少女は暫く数多の針先を見詰めていた。が、集中の糸がふっつり切れたのか、飽いた様な憂い顔を正面に戻すと、少女は建物の前を通り過ぎた。

 一段一段下りて行くにつれ、石段も没落の匂いを深めた。屋台の列も途切れ、道端にはゴミが目立ち始める。紙屑は枯葉より軽やかに秋空を舞い、空き缶はカラコロと中身のない音を立てて転がっている。赤児の玩具を思わせる音。カラン、コロン、空き缶は少女の足下を転がり、石段を落ちながら進み、そして到頭終点に着く。

 少女は顔を上げた。目抜き通りの終点、石段の最下段には、瓦屋根の門が建っていた。

 温泉街の入口らしきその門の前迄下りる。石段は段々と細くなって、一番下は最も狭い。故に、其処に建つ門も小さかった。寂れた貧民窟には丁度良い大きさなのだろう。

 何しろ、門を入って直ぐの所に路地裏が控えているのだから。

 少女は路地の手前で佇んだ。危うい空気が薫ってくる仄暗い路地に、敢えて迷い込んでみる。

 壊れた室外機やゴミ箱が占拠する此処は、人がすれ違うのも難しいくらいに狭い。建物の間を縫う路地は昼日中にも関わらず薄暗く、足下は湿った枯葉に満ち、屋外だというのに地下の空気を醸し出している。こんな怪しい路地に少女が立つ姿は、それだけで妙に現実離れした、夢の様な、それも辻褄の合わない混沌とした夢の景気を思わせる。

 そんな夢の常で、少女は行き先も知らぬ儘、路地裏、息苦しい街道をひたすら歩き続けた。地面を踏む度、グチャグチャと、落葉から水が滲む。

 秋晴れは暮れ始めている。両側の建物は、少女も、そんな秋空も押し潰そうと迫っている。汚れた壁の色はコロコロ変わった。白い壁から小豆色、黒い壁から藍色。割れた窓、割れていない窓。空色のカーテンが彩る窓際には植木鉢と目覚まし時計。室内を覗き見る事は出来ない。少女はそれらを次々見送った。

 どれ程歩いたか、実際は大して深くない場所に、ポッカリと、洞窟みたく開けた空間があった。夕方の空が四角く切り取れられた場所。少女は其処に出ると、一寸足を止めて、深く息を吸った。

 静かな場所。周囲は全て建物の裏手、周囲のビルは(こぞ)って背を向けている。見上げれば、建物を繋ぐ配管が何本も頭上を通っている。赤味を帯び始めた空を横切る黒い配管が、何に使われているのかは判らない。

 そんな一画に、一つ、電飾看板が立っていた。少女は視界の端にそれを見付けると、正面に看板を見据えた。紫色の看板には、「セイラン」、褪せた白抜きでそう書いてある。

 見覚えのある店名。何処で見たんだっけ?

 頼りない夢の唯一の頼り。曖昧な記憶を手掛かりに、ふらり、少女は看板に近付いて行く。

 見れば、看板の奥、建物の隅に隠れる様にして洋風の木戸が潜んでいた。その、薄汚れた木戸の表面にも、「セイラン」の四文字が刻まれてある。

 死角に隠された扉。少女はその前に立つと、秘め事を曝くみたく扉を開けた。

 瞬間、甘ったるい風が少女の顔を覆った。その風に乗って、饐えた空気が開いた扉から外に飛び出した。甘い様な酸っぱい様な空気を受け、少女は束の間瞳を細め、それか店内を眺めた。

 見目にも店は静寂に沈んでいる。灯りは吊された四つの洋燈だけ。木製のカウンターに沿って、スツールが十脚程並ぶ細長い店内は、まるで深海に居着いた沈没船の様。

 少女は手前から二番目のスツールに腰掛けた。カウンターに積もった埃を手で払い、頬杖を突く。

 カウンターの奥には酒瓶の並ぶ棚が造り付けられている。丸かったり四角かったり、各々の線を描く酒瓶は、洋燈の灯に輝いている。

「甘くてもダメなの」

 少女は無感情に呟いた。

「でも綺麗」

 菫色の瞳が洋燈の灯に輝いている。

 整然と酒瓶の並ぶ棚には、しかし、一つ空席があった。瓶が窮屈そうに並ぶ中、一箇所だけ空白があると、規律を破っているみたいで、其処だけ酷く目立っている。完成したパズルから一ピースだけ抜け落ちると、酷く落ち着かず、そのピースを捜すべく、少女は辺りを見回した。

 座った儘身を乗り出し、カウンターの内側も見る……ない。シンクにはショットグラス、調理台にはシェーカーとカクテルグラスが、洋燈の灯を反射しているばかり。少女は身体を引き、スツールを降りた。市松模様の床を辿って、店の奥へ向かう。

 天井から吊り下がった洋燈が、ポツ、ポツと連なる先、奥まった場所に入る。スポットライトの様な、傘状の白い灯りが落ちる最奥には、「御手洗い」の札が掛かった扉が一枚。少女はその扉へ向かった。金色のドアノブを掴み、徐に引く。

 と、黒タイル貼りの洋式トイレが現れた。

 一見、何の変哲もないトイレ。正面の天井近くには磨り硝子の窓。頭上には換気扇。入口右手に手洗い場。そんなトイレの中、少女は自分の足下を、じっと、凝視した。

 あった。

 トイレの手前、黒タイルの床に、青い瓶が転がっている。形は直方体に近い。真っ青に澄み渡ったその瓶にラベルはなく、唯、あの斜線入り歯車だけが刻まれている。それ故、これが何の瓶なのかはまるで判らない。少女はもっと詳しく見る為、瓶の首を掴み、拾い上げた。

 その際、僅かに残った瓶の中身が一滴、外に飛び出た。

 栓はされていない。瓶から漏れた真っ青な液体は、弧を描いてトイレの水溜まりに落ちた。青い一滴は忽ち水に溶け、透明になり、見えなくなる。

 と、何か背後で物の動く音がして、少女はやおら振り返った。

 壁が開いている。

 トイレの入口とは別に、手洗い場の設けてあった壁が直角に開き、仄暗い階段の入口を露出していた。

 束の間、少女は身動(みじろ)ぎもせず、隠し階段の入口、手洗い場の裏側を見ていた。送水管と配水管はゴムホースになっていて、壁が開くと伸びる仕組みになっている。が、腐食し穴だらけになったゴムホースへの関心を失うと、少女の興味は隠し階段に向いた。

 態々(わざわざ)隠してあった階段の行き先は、その儘、秘密に通じている筈。

 そう思うが早いか、少女は開いた壁の中に入っていた。

 足が乗る度、ギィ、ギィと踏み板が軋む。階段は木で出来ているらしい。踊り場を回る。と、上の階から橙色の灯りが微かに届いていた。弱々しく、辿々しい灯り。階段を上がり切ると、その灯りが行燈のものだと判る。と言っても、行燈の中身は本物の火でなく、破れた和紙から円柱型のLEDが覗いていた。

 態と暗くしているのだろう。凡そ明るさの足りない行燈は等間隔で柱に取り付けてあった。ほんのり照らされた板張りの廊下の隅や天井には、拭い難い暗闇が蔓延(はびこ)っている。そんな廊下の入口には、表に画の描かれた衝立が置かれていた。ある男が、花園の中の、名も知らぬ花を手折り、又別の男が川岸の柳の枝を引っ張る日本画。そんな衝立の向こうに廊下は短く延びている。此処はそれだけの階らしい。

 少女は衝立を避け、廊下に立ち入った。行燈の儚い灯に浮き上がる左右の壁には、扉が二枚ずつ、計四枚の木戸は全て表面に紗綾形(さやがた)があしらわれている。飾り模様の木戸を引けば、ガラリ、容易く開いてしまう。

 戸が開くのに合わせて、自動で部屋の行燈が点く。間接照明の淡い色を灯す室内は中々に広い。畳敷き、奥には金箔の屏風、右の壁には床の間が設けてある。床の間の花器は紅色、掛け軸には人物が描かれている。金色の布を纏ったその人物は、温和な表情を浮かべて座し、右手を軽く掲げ、左手を此方に差し出していた。

 他、室内には蒲団があるだけ。大きく厚い錦の蒲団は、部屋の真ん中に横たわっている。蒲団は一つ。枕は二つ。

 少女は襖の近くに立って、部屋の中を一通り観察し終えると、視線を左へ投げた。其処の壁にも木戸があって、内側から光が漏れている。誘蛾灯、少女は光に誘い込まれ、戸を引いた。

 夕日に瞳が眩む。

 其処は部屋付きの風呂場だった。脱衣場と繋がった石造りの風呂場の湯口は、今でも滾々(こんこん)と湯を掛け流している。浅く浸水した洗い場、湯に濡れた石や、湯船から立ち上る湯気が、崩れ落ちた壁や屋根から山の方へ流されて行く。

 風呂場の景色は開けていた。秋の山。枯葉と紅葉、茶色と紅色の入り交じった山々が、全て一様に夕日に染まる景色が一望出来る。

 少女は脱衣場に佇んで夕焼けに照る風呂場を見、次いで暗い室内の蒲団を見やった。

 丁度良い。

 少女は先ずブーツを脱ぎ、それからスカートのチャックを下ろした。

 今夜は此処で眠ろう。

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