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砂時計の唄  作者: 白基支子
2/7

神無

 冷ややかな水で以て顔を洗う習慣は抜けない。気温が低いのも相まって、意識は忽ち混濁の底から引き上げられる。朝、眠り半ばの頭も、新鮮な空気を取り入れればやっと覚醒する。

 少女は濡れた顔を上げた。肌寒い朝、山中。少女の姿は、その凜々しい恰好の所為か、朝靄の中、取り分け明瞭だった。

 一頻り顔を洗った後、少女は黒デニムを生地にしたショートパンツのポケットからハンカチを取り出し、それで以て顔を拭いた。丹念に拭き終えるとハンカチは仕舞い、今度は別のポケット……黒革、七分袖のライダースジャケットのポケットから、少女趣味の色が強い、可愛らしいシュシュを一つ取り出した。少女はシュシュを右の手首に巻いてから、両手を首の後ろへ回す。と、上着の黒革が、ギュ、ギュッ、窮屈そうに鳴った。少女は菫色の瞳を物憂げに細め、手慣れた様子で長い黒髪を後ろで一つに束ね、髪束の付け根をシュシュで留めてから手を離す。と、一本に結われた後ろ髪が黒革の背中で揺れた。

 今朝の彼女の後ろ姿は黒一色だった。黒革のライダース、黒デニムのショートパンツ、黒タイツを纏った細い両足と、くるぶしを隠す黒スニーカー。それらの対照(コントラスト)として、七分袖から伸びる白い手、襟足に覗く白い(うなじ)と、上着の中に着込んだ白いフリルシャツが冴え冴えとしている。精緻なフリルが前立てにあしらわれたシャツの第一ボタンを締めると、少女は改めて目の前の奇妙な岩を見た。

 小さな小さな屋根の下、丁重に据えられた丸い岩。直径一メートル程の半休を二つ、上下に重ねた不思議な岩。この丸さ、この構造は自然の産物ではない。多分、人工物。灰色に塗られた地球儀みたいなその岩は、丁度赤道の部分から滾々(こんこん)と湧き水を流していた。

 つい今しがた顔を洗うのに使ったその湧き水を、少女は両の手の平で受け止め、そっと飲み込んだ。喉から身体の中心へ清涼な水が沁み込む感覚。身体の内も外も清められたのは、この場所の因果だろう。

 山道を上がった先の奥まった場所。杉の木の茶色い幹が幾百と並び、朝靄と空気とを吸う森閑とした景色。此処より先、湧き水を流す丸岩の背後は土手になっていて、山の斜面には育ち切った杉林が続いている。

 少女は振り返った。湧き水の前を離れ、土手と木造家屋に挟まれた袋小路を抜けて、杉林に囲われた広場に出る。

 山の一画を切り開いて造られた神域。建立された時期は知らないけれど、見たトコロかなり古い拝殿が、少女の正面に構えている。

 平入りの切妻造。屋根の茅葺きは苔生(こけむ)し、スッカリ緑色に覆われている。軒下に垂れる紫色の帷が拝殿の内部を隠している。少女は賽銭箱の前に立って、畳敷きの屋内を見やった。昨夜はこの中で眠った……小規模ながら、山奥に端然と構える拝殿の中、安らかに眠る少女はまるで供物の様だった。

 拝殿を正面に捉えれば三方は杉林。左奥、拝殿の陰になっている所には先程の湧き水を流す丸岩が、そうして、枯葉舞う広場の左手には瓦屋根の社務所が控えている。

 社務所の窓口にはお守りの種類や値段の書かれた板が掲げられている。が、建物の中に気配はない。その上、肝腎のお守りは、枯葉に混じって広場の固い地面に落ちている。

 朝一番の風に杉林が葉を震わせた。それを合図に、少女は冴えた瞳を背後へ投げた。大きな注連縄(しめなわ)の両端を支え、掲げる木柱。これを門として、この拝殿に至る参道が杉並木の間に一本、通っている。

 昨夜、此処にやって来た時、空は晴れていた。けど、背の高い杉の木に星空は覆われ真っ暗だった。そっか、この道はこんな道だったの。

 今更ながらに確認しつつ、少女は寝泊まりした拝殿を背に注連縄門を潜った。黒と白を纏った少女の姿が消えると、拝殿前の広場は徐々に古代の色を取り戻した。

 朝日は少しずつ昇っていく。息吹は杉の木だけ。少女は短い石段を下り参道に立った。林を貫く砂利道の其処彼処に静けさが漂っている。道の上、杉並木の隙間、晴れの空や、池の上にも。

 白黒(モノトーン)の少女は周囲の静寂(しじま)に溶け込む様にして歩く。砂利を踏むスニーカーの音が小気味好い。

 と、少し進んだ先、参道の右手の池の(ほとり)に、赤い、漆塗りの鳥居を見付ける。少女は歩きながら身体を前屈み、鳥居の向こうを覗き込んだ。小さな鳥居を入口に、これも朱色の手摺(てす)りが際立った石橋が池に架かり、山百合の群生する水際の真ん中に建つ、立派な(ほこら)へと繋がっている。

 今日最初に見る色彩、目の醒める漆の朱色は、少女の菫色の瞳に混じるより早く外される。右手の赤い鳥居でなく、左手に構える質素な、石の鳥居を少女は選び、山間の細道に入った。

 この頃は気温もめっきり下がり、殊に此処は山中であるから寒さも一入(ひとしお)。山野草を濡らす冷えた夜露が、朝の日の光を浴びて気化、朝靄となって杉林に白く澱んでいる。そうやって作られた幽玄な山中の景色を、少女は無感情に観賞する。

 白い靄の中で見え隠れする青々と茂った野草と、泰然と直立する杉の木々。幾星霜、繰り返されてきたであろう朝に、山は今日も目を醒まし、この冷たい朝靄で以て、少女同様、顔を洗っている。

 踏み固められた山間の細道を行く。薄霧の道は歩くだけで服や肌が濡れる様。辺りは自然山水だというのに、不思議と草や土の匂いはしつこくない。薄く儚く、けれど確かに、尊く杉が(かお)っている。

 粛々と続く参道の途中、石の鳥居が建っていた。道の左側にひっそりと建つそれは随分と小さい。鳥居の前を通り過ぎる際、少女はチラと向こうを窺った。鳥居の彼方側に祠らしきものは見当たらない。唯、奥の方、杉の根元近くに、柵で囲われた石がある。その柵には注連縄が巻かれているから、つまりあれが磐座(いわくら)なのだろう。そんな推理をしながら、少女は鳥居の前から離れた。

 暫くは山を下る様に道は続き、その内に下りの石段が見えて来る。これも緩やかな石段……一、二、三と下りれば砂利の踊り場に着き、又、一、二、三と下りて踊り場。それが短い間隔で連続している。真っ直ぐ伸びる階段を少女はぼんやり下りた……一、二、三……一、二、三……。

 頭の中で三つずつ数えていけば、いつの間にか杉林を抜け、石段の左右は葉を茶色くした生け垣に変わる。此処迄下れば景色も開ける。一、二、三と、依然頭の中で繰り返しつつ、少女は視線を上げた。よく晴れた空の青に、小石の様な雲が群れ泳いでいる。柔らかそうに浮かぶ白い斑点は、綿飴を小さく引き千切って空に投げた様でもある。空から一寸視線を下げる。と、冷たい風にそよぐ、衰え始めた木々の緑。枯葉を落とした枝の間から、何か黒々とした、大きな切妻造の屋根も見える。

 きっと彼処も神様の建物。

 少女は石段を下り切った。山の麓である此処にも砂利道は続いている。が、山間の細道とは異なり、此処の参道は広い。加えて、辺りには色々な建物があった。そのどれもが切妻造。此処も未だ境内らしい。

 広い広い参道。少女は両手を上着のポケットに突っ込んで歩いた。年頃を鑑みれば反抗期の様な歩き方。けど、唯々、朝の空気に手先が冷えただけ。端整な顔は無表情な儘、繊細な身体を己で抱き抱える様にして少女は歩いた。

 チラホラと道端に木製の灯籠が佇んでいる。久しく灯を入れていない灯籠は、並木にスッカリ馴染んでいた。石積みの土手の下、野草と杉並木と灯籠が自然に調和している。その中にあって、境内の案内板だけが不自然に人工的だった。

 其処に記された案内には一瞥もくれず、少女はその先にある大きな石段を見やった。

 朝日を受け、銀色の手摺りを鈍く輝かせる石段は、日陰になっている所を青く沈ませていた。明暗のハッキリした光景に、黒タイツの足が掛かる。一本に結った後ろ髪を揺らし、揺らし、少女は階段を上がる。銀色の手摺りを掴めばハッとする程冷たい。少し湿ってもいるみたい。

 少女は次の段に足を乗せながら、ふと、右下の方へ視線をやった。石段の下、右脇に、小規模な倒壊の跡を見て取る。東屋にしても小さい、緑色の茅葺き屋根が、石段の足下で崩れている。何を覆う屋根なのか……よくよく見れば、倒壊の下に太い切り株がある。元は立派な木だったであろう事を偲ばせる切り株。スッカリ枯れたその根元から、緑の葉を付けた若い芽が伸びていた。

 菫色の瞳が正面に向き直る。間もなく石段の終点。巨大な注連縄門を潜る。と、青空の下、紅葉が枝を伸ばす先に、相当に開けた広場が着いた。

 杉林の中に潜む紅葉の色合いは、漆のそれとは違って奥床しく、鮮やかながら慎み深さもある。階段を上がって頭上に被さるその紅葉に、もうそんな季節かと、少女は視線を奪われる。

 が、注連縄門を抜け広場に入ると、意識は最奥の拝殿にのみ向けられた。

 石段を上がり石畳の道を辿った(つい)、切妻造の三角屋根を雄々しく、堂々と広げたあの建物こそ、此処一番の拝殿に相違ない。周囲に控える建物の痕跡も瞳に入らぬ様子で、ふらり、少女は拝殿に引き込まれていった。

 壊れた賽銭箱を踏み越えスニーカーを脱ぐ。黒タイツの足でそっと縁側を上がり中に入る。板敷きの室内には様々な物が放置されている。奥の座卓には小さな御幣(ごへい)が並び、その傍には六角形の行燈が一対と、五色の布も見える。が、少女はそれらをチラと見たのみ、取り分け関心も抱かず、拝殿の最奥で腰を下ろした。

 この一画だけ畳敷き。多分、此処で拝礼するんだ。少女は顔を上げた。視線の先に拝むべきものがある。木で組まれた鳥居。それも普通一般の鳥居とは形が異なる。中心となる鳥居の左右に、小さな鳥居が一つずつくっ付いている。三つ組みの鳥居だ。

 少女は不思議な形の鳥居を菫色の瞳で以てじっと見据えた。鳥居の向こうには山野草の緑が覗いている。

「沢山」

 少女の小さな口が静かに動く。

「お願い事を聞いてきたね」

 風が吹き、山の緑がざわめいた。

 少女の言葉は、この拝殿に向けられたのか、それとも拝殿の背後にそびえる山になのか、判然としない。何の感情も含まない言葉は、風に溶け、何の意味も見出せなくなった。

 真意を確かめる事もせず、そも、真意など気にする素振りも見せず、少女は立ち上がると、何の感慨もなく鳥居に背を向けた。

 足音も立てずに歩を進め、縁側に立つ。見上げた秋空は、朝だというのに、微かに寂寞を宿している。寄る辺なき晴れの空、細かな雲が群れを成して飛ぶ。そんな空を、秋らしい渋色を滲ませた数多の杉の木が突いている。風景はどれも遠く、少女は正面の広場にピントを戻した。

 石段から拝殿へ繋がる石畳の道と、砂を固めた浅黄(うすき)の地面。此処には元々、色々な建物があったのだろう。地に落ちた白い看板には「おみくじ」、「お札・お守り」、「御祈祷申込所」等々、大きく記されている。が、全て過去の物。看板を掲げていた建物は軒並み潰れていた。

 白いシャッターも木の柱も屋根の瓦も、全てぺしゃんこ、皆々茶色い砂埃を被っている。最早その面影もない残骸の山が、広場を取り囲む様に積もっている。無事なのはこの拝殿のみ。少女は縁側を下りてスニーカーを履き、新しい物だけが壊れた広場に降り立った。

 残骸の広場を見渡す。と、瞳に留まるは、中央より少し南に佇む杉の巨木。その一本だけが瓦礫の広場にあって生命力に充ち満ちていた。

 木の周りは柵に囲われ、太い幹には注連縄も巻かれている。所謂(いわゆる)、御神木だろう。木を囲う柵には白い紙が結び付けてあった。近付いて見ると、ボロボロになって詳しくは読み解けないけれど、どうやらおみくじらしい。

 どんな未来を夢見て、此処にこれを結び付けたんだろう。

 そんな疑問が脳裏を掠めた。過去と繋がった未来を、この中の一つでも的中出来たのかしら。そう思ってみても、しかし、少女は直ぐ興味を失い、おみくじから視線を上げ、(かなめ)の御神木を仰いだ。

 太い幹を途中で二叉に分かつ杉の木。見上げても凡そ天辺(てっぺん)は見えない。棘々しい葉をふんだんに茂らせ、広場に大きな影を落とす御神木は、幹の半身が苔生しており、悠久の年月を経て依然此処に立っている事を教える。未発達な身体に、背伸びをして凜々しい服を纏わせる少女とは好一対、互いを引き立て合っていた。

 荘厳でありながら物言わぬ御神木の姿に、少女は何をか見出そうとした。何と言えば適切か……或いは父性と呼べるものやも知らん。

 お父さんがいたのなら、きっとこんな木の様な人なのかも。

 懐かしい様な不思議なその想念は、浮かんだと思えば沈み、日の出前の水面(みなも)を想起させる澄んだ菫色の瞳は広場の隅へ向けられた。御神木の他、唯一残っている物が其処にある。チョロチョロと水の流るる音。しとしとと、スニーカーの底で砂を踏みながら、少女は其処へ向かった。

 手水舎(ちょうずや)、参拝前に手を清める場。少女は場所の名前と役割を思い出しながらよく眺めた。此処のものはかなり意匠が凝られ、普通一般の手水舎とは様相を異にしていた。何より、水口が蛇になっている。細い水を吐き出す蛇の彫刻。蛇はその細長い身体を、同じく彫刻の酒樽とその上に置かれた金色宝珠に巻き付かせている。又、手を清める参拝客を見据える様に蛇は正面を向き、口から水を噴いている。

 少女は小さな両手を前に差し出し、蛇の口から噴き出る水に触れてみた。冷たい。けど、嫌な冷たさじゃない。一頻り手の平で水を弾くと、またぞろハンカチで手を拭い、もう手水舎を離れた。

 手水舎の傍には小川が流れていて、その川縁(かわべり)は鬱蒼とした木立や雑草の陰になっていた。日陰と木々に埋もれた其処には小川を渡る石段が架かっている。何の気なし、少女は木陰に入ると、薄暗い中、足下からせせらぎの立つ橋を渡った。

 渡った先は砂利の一画になっている。その直ぐ先は三つ辻。元々、この砂利の一画は簡単な駐車場だったらしく、川縁には車止めの白いポールが並んでいた。

 駐車場の傍の三つ辻は、それぞれ東と西と南に伸びている。

 少女から見て正面、即ち南へ伸びる道は、確かにコンクリートの道路らしいけれども、如何にも山間の道といった風情に満ちていた。細い道路は左右を山の斜面に区切られ、杉林に取り囲まれており、加えて地面はコンクリートが見えない程落葉に埋もれている。道の入口には小さな鳥居も建っている。その鳥居を入口に山へ登る石段が続いていた。

 少女は左を見やった。東へ通じる道は、先の拝殿の裏手、即ち山奥を目指す道。だからか杉林の天井厚く、作る影も色濃く、朝だというのに道の先は夜が居残っているみたく暗い。この道の奥にも石の鳥居がある様だけれど、その姿は闇中に没しうっすら見えるばかり。

 最後に、少女は右を見やった。此方の道は明るい。緩やかに山を下る道路。道に沿って民家も建っている。

 それだけ確かめると、少女は迷いなく右の坂道、即ち西へ伸びる道に足先を向けた。

 道に入って直ぐ左手には杉林、右手には二階建ての公民館の様な建物がある。割れた窓硝子が目立つその建物は、しんと、無言で沈んでいた。白い壁が拒絶を示している様な、事務的な外観。少女は玄関の前を横切る際、入口近くに転がる赤い消化器を見、観音開きの玄関から中をも覗き見た。が、日の光の届かない室内は見通しが利かず、暗闇の底、瓦礫と埃とが積もっている床だけを見る。

 其処を通り過ぎれば、下り坂は暫く生け垣の間を通っていた。長い間手入れのされていない生け垣は、枝や葉が好き放題に茂り、生け垣は歪な四角形になっている。そんな生け垣の下を見やれば、石積みの基礎も表面が苔に覆われ、道端の溝渠(こうきょ)もスッカリ落葉に埋まっている。これでは水路としての役目も果たせない。現に、溝渠に詰まった落葉はその殆どが腐り、腐葉土となって詰まっていた。

 少女は視線を上げた。生け垣の向こうには大きな瓦屋根が見えている。生け垣には時々切れ間があって、立派な構えの門が建っていた。瓦の落ちた門戸を見つつ、少女は歩き続けた。

 生け垣の路地を抜ける。と、道の右手には駐車場。奥に林を備えた駐車場には、二、三台、車が停まっている。卵をコロンと横に倒した様な丸い自動車は塗装が剥げ落ち、表面が錆び付き出している。あれでは、内部機関はとっくに駄目になっていて、動かない筈。あの自動車達はズット彼処に停まり続け、風雨に晒され、ひっそりと錆に冒され続ける。そして、その残骸すら風雨に削られ、いつかは完全になくなるんだ。

 其処迄思いを馳せると、少女は俄に顔を反対側に向けた。結った後ろ髪が柔らかくしなる。

 左手には又も二階建ての公民館が建っている。広い玄関口には黒い表札が掛かっていて、上半分の折れたその黒鉄の表札には、「記念館」と、金文字で彫られてある。此処も室内は相当に荒れ、瓦礫やガラクタに溢れていた。が、雑然とした光景とは裏腹に、空気には静寂が根深く染み着いている。此処だけではない。秋空の下、辺りは静まり返っていた。耳の痛くなる沈黙。少女は何も言わず歩を進めた。

 道を更に下って行く。と、程なく住宅地に差し掛かった。土塀やブロック塀に仕切られたか細い路地を、白黒服の少女が歩く。まるで古い無声映画のワンシーンの様。相変わらず、路地の左右に連なる民家は皆沈黙を守っている。

 もう誰も住んでいない民家は中身の抜き取られた箱。だとすれば、此処は空っぽの箱ばかり散らかった場所。窓は割れ、扉は倒れ、黒いカビが壁を汚す家の中は、形ばかり昔の儘、机や食卓、食器棚、箪笥やテレビ等が残っている。唯、人だけがいない。少女は一人、歩いている。

 神社を出てから大体百五十メートルは下った辺りだろうか。少女は三叉路に突き当たり、道の真ん中で立ち止まった。徐に左右を確認する。

 右は北。だから、神社の方。左は南。未だ行ってない方。

 それだけの思考を済ますと、少女は左の道を選んだ。

 一段と狭い路地。道というより、家と家の僅かな隙間と言った方が正しい。左右から土塀の迫る路地、古めかしい家々が建ち並ぶ合間を六十メートルも進む。

 と、今度は四つ辻に出た。

 四方に伸びる道は相変わらず細い。が、たった一つ、右の道の先から風が吹いて来るのを感じる。開けた空間の気配。進路を決めるにはそれだけで充分。曖昧な判断だけれど、少女は不思議と確信をもって右の道を選んだ。

 住宅地の道は、ともすると複雑になり易く、例に漏れず此処も迷路化している。四つ辻を少し行った先は再び三叉路。分かれ道ばかり。少女は道のない空を見るべく、視線を上げた。が、頭上の電線が視界を邪魔する。青空に黒く細い軌跡を幾重にも描いた電線は、電柱を中心に縦横へ渡り、少女の瞳に映り込んで機械図面を思わせる模様となる。

 倒れた道路標識も色が抜け、褪せた青色。役目を失った標識を踏み越え、少女はひたすら真っ直ぐ進む。

 と、不意に視界が開けた。

 視界一杯に広大な空き地が広がる。少女は立ち止まった。

 一面の緑を撫でる秋風。その風の鋭い冷たさに、少女の白い頬と耳は切られた様に痛む。少女は黒髪を耳に掛けた。菫色の瞳は正面に向けた儘。

 草原。少女はそう思った。住宅地を抜けた先に、ポッカリ、こんな広々とした空き地があるなんて。錆び倒れたフェンスを踏み、少女は叢に入り込む。時節柄、雑草達に勢いはなく、垂れた葉先は薄茶色く染まっている。種を蒔いた後なのか、いずれ来る冬を前に、草はもう寝支度を始めている。

 カサカと、水気の失せた雑草の合間を掻き分けて行く。少女はひたすら真っ直ぐ進んだ。この草原の西へ。空き地の向こう、西の端に見える寂れた駅舎を目印にして。

 枯草の中から見てもそれは寂しい駅だった。霞んだ白花色(しらはないろ)の壁。横長のホームとその中央に設けられた階段。色んな人が行き来した場所。街の人が乗り、旅人が降りたホーム。

 旅。その一語をいつ迄も脳裏に思い浮かべながら、少女は草原を突っ切った。

 近付いて見ても小さい駅という印象は変わらない。黒革の上着や黒デニムのショートパンツに付いた葉を払い落としながら、少女はまじまじ駅を見る。風の音ばかり耳に流れ込む。秋の太陽が青空を低く廻るみたく、少女はゆっくりと駅舎を見て回った。

 今いるのは駅の外側。眼前には壁ばかり立ち塞がる。横に長く続くその壁を辿り、左側に回り込むかたちで、駅のホーム、ではなく、少女は線路に立ち入った。

 駅はじっと死んでいた。二本の線路を挟む屋根付きホームと、そのホームを繋ぐ跨線橋(こせんきょう)。何の変哲もないこの駅は、長い年月を経て、停止した空気にスッカリ馴染みながら静かに寂れている。

 小さな駅。向かって右手のプラットホームは壁一面が蔓草に覆われている。蔦はアスファルトの地面を這い、乗車口、黄色い線の内側に迄伸びている。ホームの屋根を支える柱の、白い塗装が剥げ赤錆びた表面にも、緑色の蔓が巻き付いている。屋根も一部が大きく崩れ、その瓦礫の合間から咲いた黄色い花が麗らかな日光浴に興じていた。

 背もたれの掛けた青いベンチも、電源の落ちた自動販売機も、表面は等しくうっすら茶色く、見分けが付き難くなっている。

 少女は視線を下ろした。砂利の敷き詰められた線路の周りには、背の低い雑草がびっしり生えている。そんな雑草の合間から、肝腎の、赤褐色の線路が覗いている。少女は視線だけで線路を追い掛けた。灯りの点かない信号機、線路に沿って均一に並ぶ架線支持装置。その更に更に向こう、平行する二本の線路が交わる果てを少女は眺める。華奢な両足で以て佇み、秋風に黒髪を揺らし、美しい顔を線路の行き先へひた向ける彼女こそ儚い。脆い紫水晶の瞳と、白いフリルシャツ、飾りの多いシュシュ、それから黒タイツが少女趣味の和音を奏で、黒革のライダースジャケット、黒デニムのショートパンツと、一本に結った後ろ髪が、朽ちた線路、死んだ駅の機械達の間で映えた。

 植物は乾いた音を立てて風になびく。死に絶えた駅舎は秋風に震えた。少女は線路から駅の方に瞳のピントを引き戻した。向かって左手の線路を見据える。と、其処には一両だけ電車が停まっていた。クリーム色の車両はホームのほぼ中央に横付けされた儘、沈黙している。

 こんな所に電車?それも一両だけ。

 頭に浮かんだ疑問に背中を押され、少女はホームの端にある階段を上がった。「駅員以外立入禁止」の札が掛かった門扉を開き、ホームに入る。

 クシャリ。スニーカーが落葉を踏む。と、落葉は忽ち砕け、茶色い破片は風に運び去られた。少女が歩く度、クシャリ、クシャリと、落葉の砕ける音が立つ。プラットホームは茶色い葉に埋め尽くされていた。秋深く、戸口から覗き込めば、クリーム色の車両の中にも落葉は吹き込んでいた。

 電車のドアは開いていた。日の光が窓から車両に差し込んでいる……窓硝子は未だ残っている。明るい車内、少女は先ず頭だけを差し入れ、右、左と確認してから足を踏み入れた。

 一本通った床を真ん中に、長ソファが左右に連なっている。山奥に打ち捨てられた別荘の渡り廊下を思わせる内装。落葉に埋もれている様子も、そんな連想を一層強くする。

 落葉に紛れた床の彼方此方には広告が落ちていた。が、印刷された写真も文面も褪せ、既に失われていて、艶っぽい表面が白く輝くばかり。

 そんな車内の、あるソファの上に、菫色の瞳が留まる。緋毛氈(ひもうせん)の様な座席の、落葉が重なった下に、開きっ放しの雑誌が覗いている。少女は落葉の中からその雑誌を拾い上げた。序でに、座席の落葉も払い落とす。そうやって座る場所が確保すると、少女は直ぐ腰掛けた。

 柔らかな座席に腰を沈ませながら、ボロボロの雑誌を陽光に照らし、開かれたページ、「あの戦争から二十年」という見出しの記事を少女は黙読した。


 あの戦争から二十年

 ―変貌した世界情勢から日本の今後を読む―


 鮮やかな記憶として未だ心に傷を抱く人もあるだろう。二十年。たった■■の月日は、世界の傷を癒やすのには短く、だが戦勝国から後悔を拭うには充分であった。我が国も三度目の世■大戦に直接の関係は無かったものの、連日テレビや新聞紙上にて報道された戦場の様子にこの胸を■■た事が、最早懐かしくすら思われる。

 あれから二十年、未だ平和は安定せず、各地で■■■やテロ活動が頻発して■る。「敗戦国の■■である」と真しやかに囁かれているこれら破壊活動も又、大戦の産物、負の遺産と言える。

 一体、あの戦争は何を壊し、何を生み出したのか?

 世界は混迷を脱していない。■■格差、社会の二重構造化は益々深まっ■いくばかりである。

 それは日本とて例外では■い。

 本誌はそんな現状を危■■、戦後爆発的に普及した■■の技術躍進と、それに付随して比例拡大する格差の是正案を■■に提案し、そこから見えて来る問題を指摘、合わせて我が国の今後を予想するものである――。


 所々文字が滲み読めなくなっている記事は、それ切り読むのを止めて、少女は飽いた様にページを閉じた。雑誌を座席に置くと、少女は立ち上がって電車から出た。

 誰もいない駅。地に落ちた案内板を頼りに改札を目指す。小さな駅は改札も小さく、そも、元から無人駅だったのか駅員室も見当たらない。黒い画面を晒す「のりこし精算機」二台と、壁に貼られた路線図を順番に見た後、少女は改札手前の、右隅に設けられた待合室へ視線をやった。

 硝子戸で締め切られた待合室の広さは六畳程。深緑色のベンチがあるだけの狭い部屋だ。が、硝子を透いて見える、壁に貼られたビラの数は異常だった。殆ど壁一面を埋め尽くすビラは、どれも素人の手作りらしく、内容も似たり寄ったり。


『迷子の犬を捜しています』

『この猫に心当たりはありませんか?』

『行方不明の娘の情報を求めています』

『息子と夫が帰って来ません。どなたか御存知の方は、是非御一報下さい』

 …………。


 そんな訴えと共に載っているのは、いなくなった家族の写真と依頼主の連絡先、それから『遺体だった場合も御連絡下さい』という注意書き。

 その意味と切実さに思考が追い着くより早く、少女はふいと顔を背けた。冷淡な背中。待合室から離れると、その儘改札から駅の外に出る。

 小さな駅のささやかな駅前。正面、ロータリーの向こうに控え目に建つ休憩所。その玄関に据えられたソフトクリームの置物、放置自転車、全て壊れている。白いソフトクリームを(かたど)ったプラスチックは縦に大きく割れ、中身の電球を露出している。放置自転車は前車輪が外れている。壊れ無用になった物を一瞥、少女は正面を向いた。

 破れたのぼり旗の向こうに緑色のアーチが見える。あのアーチは、鳥居と一緒で、入口を示す門だろう。駅前の目抜き通り。真っ直ぐ伸びるその通りに、少女はふらりと入って行った。

 閑散とした目抜き通りには種々雑多な看板が落ち、破片が散らばっている。通りの店は軒並み白いシャッターを下ろし、そのピッタリ閉じたシャッターは砂埃や赤錆びに汚れていた。白茶けた商店街。道端に佇むのっぽの外燈の、黒く煤けた電燈の下に「商店街」と表札が掲げられているのを少女は見た。少女は外燈の下を通って、倒壊した家屋を避けつつ、通りを進んだ。

 たばこ屋の立て看板が右、空っぽの冷蔵ケースが左……少女は瞳を動かして、初めて見る商店街を一々観察した。シャッターが半分開いている店を見付ければ、身体を屈めてその隙間から店内を覗き見る。が、薄暗い店内は、屋根が落ちているのか、グチャグチャと建材の亡骸が横たわっているばかり。昼日中の暗闇に廃材の輪郭だけが浮き上がる店内を見、少女は上半身を起こした。

 俯せに倒れた自動販売機を踏み越え、「精肉店」の看板を見上げる。白い室外機が落下した店先。閉じたシャッターには黒いペンキで大きく「閉店」の文字。少女は瞳を隣の店へやった。あっちはクリーニング屋。それから、煉瓦調の壁タイルという懐古趣味な喫茶店。

 少女は早足気味にその喫茶店へ向かった。

 大きな窓硝子の嵌め込まれた玄関から狭い店内を見る。アールデコ風の、極彩色な洋燈が吊り下がった下にはスツールが並び、奥のカウンターの上には砕けたサイフォンが取り残されている。足の折れた机や椅子は生々しく床の上に散らかり、動転の様子を今猶伝えていた。

 きっと珈琲が苦かったから。

 少女はじっと店内を見据えながらそう思った。カウンター席に置かれた青磁の珈琲カップを見終えると、関心も残さずその場を離れた。

 喫茶店のお隣はお蕎麦屋さん。古めかしい和風の店先にて、少女は又立ち止まる。磨り硝子の引き戸は開いていた。店内を覗けば、入口近くにビニールの丸椅子が積み重なっている。屋根の隅に置かれたテレビはもう何も映さず、黒い画面の儘。その傍に奉られた神棚には灰色の埃が積もっている。

 少女は暖簾の出ていない間口を離れると、店の角へ向かった。其処は硝子張りになっている。多分、通行人に蕎麦打ちを披露する為の造りだろう。硝子の向こう、広々とした調理台の上には、幅広の包丁と長い麺棒が打ち捨てられていた。

 少女は澄んだ瞳で以てそれら道具を見ながら、店に沿って角を曲がり、細い道に入った。

 こんな細い道、狭い路地にも看板が連なっている。大人二人がすれ違えるかどうかの道幅にも店はひしめいている。少女は蕎麦屋から視線を外し、薄暗いこの路地を見やった。横丁。そんな言葉が脳裏を過ぎる。

 少女はアスファルトの地面にスニーカーの底を吸い付ける様に、足音も立てず横丁を行く。服装の所為か(はた)(また)場所の所為か、そうすると彼女は毛並みの良い黒猫の様にも見える。

 黒タイツを履いたしなやかな両足を交互に動かし、一番近くの店舗を覗く。一見、民家と見紛う二階建ての、屋根瓦の落ちた建物は、倒れた看板に()れば本屋らしい。バラバラと道路に落ちた雑誌の原色の所為で店先は雑然としている。暗い地面に散乱するくたびれ色褪せた雑誌の山。雑誌はボロボロで、中身の記事はまるで判読出来ない。本屋の中はと言えば、崩れた本棚が戸口に倒れ、店内は完全に封鎖されている為、様子を見る事も適わなかった。

 少女は本屋への興味を失い、次の店を見やった。お隣は白いシャッターが下ろされている。が、そのシャッターには擦れた青文字で「文具店」と記されてある。

 文具屋の向かいは雑草の空き地。空き地の隣は……少女は猫の様に歩く……看板の出ていない店。しかし玄関脇のディスプレイには、プラスチックで出来た寿司のサンプルが散らばっている。

 その更に隣は小柄な日本家屋の構えだ。が、倒れた扉の向こう、土間の室内に破れた赤提灯の残骸があった。

 そうやって順々に横丁の店を見て行けば、やがて通りを抜け、少女は広い道に出た。振り返ってみると、たった今通った雑多な横丁も、畢竟(ひっきょう)日陰と静寂の中で寂れていた。

 その印象を一層深める店が、横丁の入口に並んでいる。

 少女は入口の左右に構える店を見据えた。寂しい路地の入口左に建つ店は、緑色の店舗用テントが破れ、秋風になびかせている。テントの切れ端には「神具店」の文字。少女は顔を左へ向けた。遙か其方には山が見える。朝方、少女が下りた山。青空に迫る(うぐいす)色の山を見、少女は瞳を細めた。山中の境内を思い返す。神様の道具。無表情も崩さず、少女は正面に向き直ると、今度は右の店を見やった。

 此方は雑多に過ぎる。店というよりバラックに近い。今にも倒れそうな脆い柱にトタンの屋根が乗っかり、入口にはブルーシートが被さっているだけの簡単な構造。その軒下は買い物カゴやふやけた段ボール箱、貼り紙、机、自動販売機で溢れていた。

 大小入り交じった四角形の集合は、しかし少女の瞳には不思議と規則的に映った。完成した立体パズルみたい。少女はそう思った。パズルは完成した瞬間から時間が止まって、その儘時代に取り残された。そんな感じ。

 動かない歯車、完成したパズル。永遠に変化の見込めない景色から、呆気なく少女は顔を背けると、山に背を向け広い通りを西へ向かった。彼女の興味はもう次へ移っていた。

 四車線道路の真ん中にあるコンクリートの台。いや台だけではない。少女は舞台に上がるみたく、軽やかに短い階段を上がって台の上に立った。細長いその台には屋根とベンチと案内板が揃っている。

 加えて、台の傍には、先程見た鉄道の線路と似た物が敷いてあった。

 枕木の数を数えるみたく、道路に敷かれたその線路を少女は瞳で追い掛ける。菫色の瞳に映る線路に、けれど枕木はない。アスファルトに埋め込まれた線路は、延々と平行し続ける二本の溝の様にも見える。

 そんな線路の頭上にはか細い電線が複雑に渡っている。住宅地で見たものより緻密な図面を描く電線。よく縺れないのね。他人事みたく少女は空を眺めた。

 ……と、空を見上げていると、ふと、僅かに電線が揺れた気がして、かと思うと遠くから鈴を鳴らす様な、リィン、リィンという音が聞こえて来る。

 少女は徐に瞳を閉じ、耳を澄ました。鈴の音に混じって、タタンッ、タタンッ、動力機関が駆動する音も聞こえる。音は段々と近付いて来るらしい。少女は瞳を開き、音のする方を見やった。

 タタンッ、タタンッと、小気味良くカーブの向こうから顔を出すは、一両編成の電車。アスファルトの道路に敷かれた線路を滑る様に辿って、電車は少女の許へやって来る。路面電車……少女の立つ此処はその停車場だったらしい。角を取った箱形の車体を、象牙色と臙脂(えんじ)色の二色で上下に塗り分けた電車は、果たして少女の目の前で停まった。

 ノイズばかりが目立つ人口音声が何か言うと同時、シューと、空気の抜ける音がして、ドアが横に開く。未だ走り続けている電車を目の当たりに、少女は束の間呆然とした。が、彼女の足は自然とドアへと向かい、ドアステップを上がって乗車していた。

 ワックスの剥がれた木の床が素朴な車内。内装はレトロ、いやこういうのはモダンと言うんだっけ?眩い窓辺。木目の窓枠と、天鵞絨(びろうど)みたく艶やかに毛羽立った朱色の座席が照らされている。

 少女はそんな車両の奥へ向かうと、其処に一組だけあるボックス席の片隅に腰を下ろした。

 この電車には車掌室がない。となれば無論、車掌もいない。乗っているのは少女一人だけ。少女は座席の背もたれに身体を預け、窓枠に頬杖を突きながら、さっきチラと見た先頭の様子を脳裏に描いていた。フロント硝子の手前には鍵付きのハッチ。鍵は開いていた。開かれたハッチの中には沢山のボタン。赤、青、黄。チカチカと光る色取り取りのボタンの間には、銀色の鍵が一本、杭の様に突き刺さっていた。

 車内に人工音声が響く。殆どノイズに紛れ聞き取れないけれど、声が「総合庁舎前行き」と告げた部分だけは聞く。と同時、再び空気の抜ける音と共にドアが閉まった。

 一つ、大きく車体が揺れる。窓の外の停車場がゆっくり後退(あとずさ)っていく。

 どうやら此処は始発駅だったらしく、折り返し、やって来た時とは反対の方向に電車は走り出した。少女は窓枠に頭をもたれさせ、物憂げな瞳で以て、徐々に速度を増して後ろへ流れる景色を眺めた。

 白いフリルシャツの襟を指先で(いじ)りながら、過ぎ行く街路樹を見送る。植わっているのは松だろうか。その向こうの家は全部壊れている。静けさにも慣れた様子で、無人の町を路面電車は行く。

 少女は頬杖を解くと、両手を上着のポケットに突っ込んだ。

 ほんの三分くらい走った辺りで電車は速度を弛め、その内完全に停止した。瞳だけを動かし窓の外を見る。次の停車場に着いたらしい。車内にノイズが響く。間を置かず空気の抜ける音と共に開いたドアから乗り込む者はいない。停車場の柱の向こうには、秋の弱い太陽に照らされた広い駐車場。

 少女は視界を車両の中に戻した。

 よくよく見れば、天井近くに何枚か広告が残っている。結婚式場、介護施設、素麺屋……全てこの電車の沿線にあるらしい。広告に載った住所を見、少女は退屈そうに瞳を逸らし、又窓の外を見やる。と、ドアの閉まる音がして、間もなく電車は出発した。

 電車の振動を華奢な身体で感じながら、少女は瞳を細める。ボックス席はまるで揺り籠の中。うつらうつらと、この儘寝入ってしまいそうだ。車窓の景色は代わり映えしない。崩れた民家と、未だ崩れていない民家。閑散とした駐車場。荒れ果てた小料理屋。瓦礫の下に車が埋もれたタクシー会社。それらが順番に前から後ろへ流れて行く。秋空に浮かぶ薄雲の様に溶けていく。景色は全て、菫色の瞳の上で曖昧になる。

 シャッターが開いた儘の、壁の崩れた鉄工所。暗い工場の中の大型機械や鉄板、鉄筋はどれも区別が付かない。見分ける前に電車は其処を走り去ってしまう。

 そして、電車は巨大な鳥居の下を潜った。

 少女はハッとして瞳を見開いた。顔を上げ、振り返る。電車は大きな交差点を左に曲がっているトコロ。少女は今の鳥居をもっとよく見ようと窓を開けた。重い硝子戸を苦労して上げ、開いた窓から身を乗り出す。と、丁度よく電車は次の停車場に着いた。空気の抜ける音とドアの開く音。それらを聞き流しながら、停車場の屋根の向こうに、少女は大きな鳥居を見た。高さは悠に三十メートルはある。あの鳥居も、山の神社の為に建っているのだろう。

 窓枠に手を着き、半身を窓から出す少女は、もう大きな鳥居に飽いたのか、やがて動き出した電車の車輪に合わせて、身体を窓の内側に引っ込めた。

 広い道路の真ん中を電車は突き進む。いつの間にか線路は二車線になっている。流れる景色も変わって、民家の代わりに商店が目立ち始める。電車は交差点の真ん中を我が物顔で突っ切って行く。怖いものなどないという風に。

 車が一台も走っていない道路に電車の音だけが絶え間なく響く。行き先も知らず、気にする事もなく、少女はボックス席に収まっている。開いた儘の窓から流れ込む風に、彼女の耳に掛かった髪も流される。

 町並みは様変わりした様で、やっぱり何も変わっていない。平家造りの土産物屋や、鉄筋コンクリートのホテルが瞳の上を過ぎる。どれもこれも、折れた柱、潰れた屋根、亀裂の走る壁、ガラクタばかり。長い時間を掛けて壊れいく建物は、まるで記憶その物。どんなものも、時と共に忘れ去られてしまう。

 次の停車場に着いた時、少女はそんな事を考えた。車窓の外、道路を跨いだ先に、一際大きな平家が倒壊しているのを見た時。

 ぺちゃんこの切妻屋根。瓦がバラバラと落ちた建物は、手前の石碑を読むに「道の駅」らしい。一段と広く造られた駐車場に、しかしその面影はなく、今や雑草の園と化している。草原の中に沈み込む様にして潰れる瓦屋根。

 プシューと路面電車はドアを閉め、再び走り出す。車体は草原の横を抜け、「道の駅」は段々遠く、小さくなっていった。

 タタンッ、タタンッ、一定の調子を刻む電車にも慣れて、少女は振動も全く感じずにいた。走り続ける電車は一路南へ走る。吹き込む風を横顔に受けながら、電車の向かう先へ瞳をやった。向かう先に橋が架かっている。緩やかなアーチが美しい下路橋(かろきょう)。電車は橋に入ると調子を少し高くした。

 冷たくも澄んだ風が少女の耳を掠める。黒髪から少し突き出た耳が線路の音の底にせせらぎを聞く。橋の下には清流が通っていた。太陽を反射して輝く川面(かわも)。その銀色の川面を少女は見るでもなく眺める。水草がひたひたと根を漬ける川は限りなく透明で、砂利を洗う川底迄ハッキリと見える。そう深い川ではない。流れも穏やかだ。

 水は絶え間なく流れ、移ろい、けれど何も変わっていない様に見える。時間が止まっているみたい。川の流れは硝子の様に乱れもせず、しかしその均衡は気紛れな秋風に容易く崩れ、川面には波紋が広がる。少女はズットそれを見ていた。

 橋を渡った先で電車は停まった。此処からだと土手の木々に阻まれて、もう川は見えない。少女は振り返るのを止め、正面を向いた。再び窓辺に頭をもたれさせる。

 少女の背後でドアの閉まる音がする。電車が走り出す。

 川を越えると、沿線には民家が目立ち始めた。小さな店も多い。道も狭まり、建物と建物の間隔も開いた気がする。ポッカリと空いた駐車場を、空虚なものを見るみたく少女は眺める。通りに並ぶ店はどれも小さいのに、駐車場ばかり広い。逆に、駐車場を持たない商店の連なりは、ひしめきながらも、その大概がシャッターを下ろしていた。

 車窓は脈絡のない紙芝居の様に次々と場面を変えていく。そして全部が荒廃の色に染まっている。色褪せたものは見分けがつき難い。時間は平等。平等に時計は止まっている。

 それとも、見えないだけで、未だに衰退は進んでいるのかも。

 揺り籠のボックス席の中、少女は白昼夢を見た。家も店も建物は全部壊れて、辺り一帯何も無い荒野。そんな中をこの電車だけが走っている。そんな夢。若しそうだったなら、或いは安心出来るかも知れない。

 少女は瞳を開いた。が、視界には猶、壊れかけた家々が映っている。

 そんな町中の、何でも無い道端に電車は停まる。ドアが開き、閉じる。少女は座席を撫でた。フワフワとした感触が手の平を伝う。そんな間にも電車は走り出し、何でも無い景色が又後ろへ流れて行った。

 少女は再び微睡(まどろ)んだ。窓の外に広がる平凡な日常を(かたど)っていた住宅地は朽ちている。経年劣化はいつからだろう?少女は朧気ながら思案する。人がいなくなってから?それは違う筈。きっと人がいた頃から……巧く言えないけれど、劣化は最初から始まっていた筈。少女は建物と時間とを見比べる様に考える。じゃあ、いつになったら、この家達はあの神社みたいになるの?

 基礎から崩れた家の、露出した地面から若木が伸びている様子を見、少女はモゾモゾと座り直した。先程から何度も人工音声が車内放送を繰り返している。ノイズばかりの声は睡眠を妨害する。鼓膜をザラザラと撫でられる感覚。人工音声は酷い風邪をひいた嗄れ声に似て、殆ど聞き取れない。が、辛うじて「総合庁舎前」と告げている事だけは判る。

 少女は顔を上げた。窓から電車の行き先を見据える。大きな交差点を抜けた先に、屋根の立派な停車場が見えている。線路は其処で終わっているらしい。終点……間もなく、電車は停車場に滑り込み、ゆっくりと停止した。

 黒デニム生地のショートパンツに覆われた腰を上げ、少女はやおら立ち上がる。ボックス席を出、プシューと、空気の抜ける音と共にドアが開くのを待ち、ドアステップを下りて、停車場の硬い地面に降り立つ。

 深呼吸。外気は少しヒンヤリとしている。んっと背伸びすれば、黒革のジャケットがギュ、ギュッと音を立てた。一頻り伸び終えると、浅く息を吐いて、少女は停車場を歩き出した。が、二、三歩のトコロで不意に足を止め、振り返る。

 電車が発進しない。どころか、ドアすら閉じない。

 これ迄通って来た停車場だったら、そろそろドアが閉じても良い頃合いなのに……少女はキョトンと電車を見つめた。その途端、ノイズばかりの人工音声が何か言い、と同時、俄に空気の抜ける音を立て、ドアが閉じる。リィン、リィン。鈴を鳴らしながら、一つ、車体を大きく揺らし、電車はゆっくり走り出した。徐々に加速を付け、電車はたった今通って来た線路を折り返して行く。

 段々と小さくなる電車の後ろ姿を少女は暫く見送った。が、疑問を抱く前にアッサリと正面に向き直った。

 終点らしい、大きく立派な停車場。改札を出れば直ぐ歩道と繋がっている。並ぶ自動改札を抜け、手摺りに杉の木の紋章の刻まれた短い石段を下りる。と、少女の眼前に景色が開けた。

 最初、少女はそれを見た時、火の粉だと思った。晴れの秋空の下を舞う火の粉。しかし瞳を凝らせば、それが燃えていない事を知る。風のまにまに漂う紅。少女は足下を見やった。黒いスニーカーの足下には、開いた手の平の形に似た赤い枯葉が舞っていて、道路を覆い尽くしている。

 紅葉の敷物。火の粉の正体がこの紅葉なら、あれは火炎。少女は正面の秋景色を仰いだ。

 燃える様な色に枝葉を染め上げた楓が風にそよいでいる。大きな木だ。それも沢山植えられている。見事に育った楓の木立は、長らく人の手が入っていない所為か、気儘に枝を伸ばし、道路や建物に覆い被さっている。

 何だか、此処だけ山奥みたい。

 建物を取り囲む楓の紅葉が秋風を受け一斉にそよぐ。静かな音を立てて揺れる紅の大群は、建物を襲う火炎の様。

 足下の枯葉が、カサカサと、軽やかに飛んで行く音を聞き過ごしながら、少女は木立の中心に潜む建物を見付けていた。

 茂る紅葉を緞帳(どんちょう)に、陰に控えるその建物は、これだけ大仰な紅葉の裏手にあっても、その姿を隠しきれない程に大きい。造りは簡素な四階建てだ。が、白壁に汚れや亀裂は少なく、状態は大分良い。少女は建物の壁に並ぶ窓を眺めた。紅葉を映す窓硝子。横一列に並ぶ各階の硝子は、二、三階のものは大体が楓の枝に突き破られている。が、一階は殆ど無事。

 少女は建物前の駐車場を突っ切り、楓の木立の合間を抜け、玄関に立つ。と、自動ドアが横に開いた。途中引っ掛かりながらも何とか開いた自動ドアには頓着せず、少女は建物の中に入る。

 ヒタリと、スニーカーの底がリノリウムの床に吸い付く。自動ドアの先、一階は壁の少ない、見通しの良い大部屋の造り。窓から差し込む光で室内は思いの外明るい。が、無論、隅々迄照らされている訳はなく、一階の凡そ半分は暗がりに没していた。

 開いた窓から風と紅葉が舞い込む室内は、特殊な造りになっている。壁の代わりに、室内をグルリと、少女の胸くらいの高さのカウンターが巡らしてある。一階はそのカウンターに因って四角く区切られ、内側には事務机が並び、外側にはベンチやテレビが置いてあった。

 少女は部屋の中を囲うそのカウンターに沿って歩いた。カウンターの内側にて群れる事務机は、全て埃を被り、引き出しは中途半端に開かれた儘放置されている。又、どの机上も散らかっていて、ファイルから溢れた書類が床に迄散乱し、足の踏み場もない。そんな紙の海の下で、画面の割れたノートパソコンや椅子等が溺れている。

 紙の波乱を堰き止める防波堤代わりのカウンターの周りには、幾つかの看板が落ちていた。鎖の付いた白い看板達。それぞれ「総務課」、「食品衛生課」、「生活衛生課」、「健康増進課」、「保健予防課」と、黒いイタリックで記されてある。

 少女は瞳をカウンターの外側へ向けた。打ち倒れたテレビの破片が、キラキラと、リノリウムの床の上で輝いている。小豆色のベンチは端々から裂け、中身の黄色い綿が漏れている。床に転がっているクッション。骨組みから壊れたベンチもある。

 その、小豆色のクッションが紅葉の蒲団を被っている向こう。其処にある渡り廊下を少女は見やった。

 渡り廊下の入口には、「職員以外立入禁止」の注意書きの掛かった扉。そんな注意も意に介さず、少女は扉のドアノブを回してしまう。鍵は掛かっておらず、アッサリ開いてしまう。と、ほんの五メートル先にもう一枚扉があって、少女は廊下を伝いその前に立った。この扉にも注意書き。黒く縁取られた黄色い三角形の、稲妻型の矢印と共に「高圧電気」と記された標識が貼られてある。少女はそれも無視して、扉を開けた。

 そして機械の一群に出迎えられた。

 隔離された小部屋に少女が踏み入るや否や、天井に設置されたLEDが点く。窓のない十畳程の部屋は白々照らされ、壁を埋め尽くす数多の電気メーターが光を反射した。

 規則的に並ぶメーター達はどれもピクリとも動かない。針が錆び付いているらしい。

 こういうメーターの集合を、確か、コンソールと呼んだ筈……メーターの上には「水道」や「ガス」、他にも「一丁目」や「二丁目」と名前が記されている。名札の下には照明が仕込まれている。が、灯りの点いている物はない。いや……二つだけある。

 たった二つ、名前を光らせるメーターに、少女は近付いた。

 一つは「庁舎館内」。それからもう一つは「路面電車」……「庁舎館内」の名は煌々と灯り、メーターの針も右に振れている。

 が、「路面電車」の方は、チカチカと、頼りなく明滅を繰り返し、針も左の方で弱々しく震えるばかり。と思えば、力尽きた様に、針は終に「0」を指し、名札の灯りも消えてしまった。

 動かなくなった「路面電車」のメーターを少女は暫く見続けていた。が、やがては視線を外し、今度は部屋の中央を見やった。

 其処にこの部屋の主がいた。

 金属製の正十二面体。

 大きさは少女と同じくらい。そんな立体が部屋の真ん中に鎮座している。十二面体にはチューブの様な物が何本も取り付けてあり、又、それらチューブの片端は、地面に固定された、蝸牛(かたつむり)の殻を思わせる緑色の機械に繋がっていた。更に、その巻き貝型の機械は、床から生える太い管とも連結していた。

 そう言えば、スニーカーの底、床の更に下から、何かが動いている様な振動を微かに感じる。少女は微動する床を踏み、正十二面体の前に立った。蒼白い十二面体の一面、正面の正五角形はモニターになっていて、『燃料(可燃ゴミ)埋蔵量残り3%』と表示されている。

 モニターの映し出す文字を見ると、その意味を考える前に興味を失い、少女は踵を返した。無表情の儘、部屋の扉を押し開け、渡り廊下を引き返す。

 建物に戻ると、少女は入口とは反対側、建物奥を目指した。

 ふらり、何かに引き込まれるみたく、少女はカウンターを周って、一階の奥、柱の陰になっている所へ向かう。

 と、其処は階段下のささやかな休憩所。上へ続く大階段の手前にある物は、ベンチと、チカチカ光る自動販売機だけ。その、今にも電灯の潰えそうな自動販売機の、頼りない灯りに照らされた壁が、少女の瞳を引いた。

 丁度、大階段の正面にあたる壁。其処に夥しい数の貼り紙が出されていた。殆ど折り重なる様に壁一面を埋め尽くす貼り紙は、見る人もなく、未だそよ風にはためいている。

 よくよく見れば、壁の中心には一際大きな紙が貼り出されていた。他の貼り紙に埋もれたそれは、どうやら地図らしい。描かれた山と川の位置関係から、此処一帯の地図だとも判る。

 白地図は、塗り絵みたく、上から色が塗られている。赤一色。真っ赤に塗られた地図と、地図を取り囲む鱗の様な貼り紙達。

 菫色の瞳に、それら貼り紙に書かれた内容が、自然と映る。


『妻が帰って来ません。どんな情報でも構いませんので、どなたかお寄せ下さい』

『〇〇病院にて、サユリさんという御老人が、御家族との面会を希望していらっしゃいます。お心当たりの方は至急お見舞いを』

『娘の収容されている病院を知りませんか?せめて生きている間にもう一度顔を見たいのです』


 痛切な願いの数々。それらを今猶代弁し続ける貼り紙の群れ。

 少女は一通り貼り紙の文字を見終えると、階段下のベンチに腰掛けた。

 今夜は此処で眠ろう。

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