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砂時計の唄  作者: 白基支子
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砂礫の島

 全ての砂が零れ落ちた後……。


 遠く、向こうに霞む水平線の方へ、視線はつい引き込まれる。ズット奥迄広がる青い青い夏の風景。眼下の海は群青を湛え、空は淡く澄み渡っている。輪郭のハッキリした白雲は風に流され、滑る様に海の上を渡る。足下からせり上がる波の音。白い波は防波堤にぶつかり泡となって、海にかえる。

 そんな海と空の交わる彼方、水平線は熱気にぼやけ、白む。その朧な境界を、立ち止まった儘、一人眺めている。彼女は間もなく(スミレ)色の瞳を正面に戻すと、再び防波堤の上を歩き出した。足の裏に伝わるザラザラとした感触。彼女は裸足だった。

 塩気を含んだ風が、少女の柔らかな頬と未成熟な身体を包んで、伸びた黒髪と、朱色のワンピースのスカートを、ふわり、舞い上げる。両腕を広げる。帆を張る船の様に潮風を受け取る為に。

 強い日射しに、襟のあるワンピースの朱色と、白く丸い肩、その付け根から滑らかに伸びる腕。両手にはサンダルが提げてある。艶っぽいエナメル製の、緋色のサンダルを、灰色コンクリートの地面にカランと落とす。サンダルを履いて、それから波に削られた防波堤の(へり)に腰掛けて、飛び降りる。

 そう高くない地面に着く。それからしゃがみ込んで、サンダルの紐を足首に結び付けて、それからゆっくり身体を起こし、顔を上げた。

 砂礫の島。

 正式な呼び名は知らないけれど……。

 海に浮かぶ名も知らない島を眺める。

 今いる場所は三方を防波堤に囲まれた広場。きっと昔は此処も広場ではなかったのだろう。今も「広場」と呼ぶのは相応しくない。コンクリートの荒野……追憶は灰色の瓦礫となって崩れ、剥がれ落ち、風雨に晒され岩となり、足下に沢山転がっている。

 建物は、遠くのものも、近くのものも、全て(うつろ)、今猶残っているものは少ない。地面に散らばるゴツゴツした灰白色の岩は、(かつ)ての建物の成れの果て。こうして一塊の岩になっているものと、洞ながら四角い建物の形を保っているものと、見比べる。少女の大きな瞳は、空と同じ透明度で静かな世界を眺めていた。

 夏の熱射は音のない島をジリジリ灼いている。大きな雲の影が頭上を()ぎり、束の間、強い日射しを遮る。と、空が青かった事を思い出した様に、彼女は歩き出した。

 雲の影が通り過ぎ、太陽が顔を出す。白いコンクリートは日光を強く照り返す。眩しい。瞳を細める。近くにたった一つある建物の残骸、その屋根の下へ、彼女は逃げ込む。

 と、一段と静かになった気がする。ボロボロの壁も潮風は防ぐらしい。影の形は壊れた建物その儘の輪郭を映す。鉄筋が露出した壁。触れれば僅かにヒヤリとして、かと思えば忽ち体温と同化する。刹那の冷たさを求め、身体をピタリと壁にくっ付ける……やっぱり何も聞こえない。

 彼女は壁から身体を離した。

 内部をよく見ても、一体此処が何の建物だったかは判らない。どうにか壁が残っているけれど、建物の形を保つのもやっとな残骸。その小さな屋根から抜け出す。んっと、太陽の下で背伸びする。

 彼女は改めて島の内陸を眺めた。

 見えるのは空っぽのマンション群ばかり。その灰色の群れが、四角い山岳の様に重なり立ち並んでいる。

 けど、そんなマンション群の合間から小高い丘が覗いていた。緑に覆われた丘が。其処には、玩具みたいな白い塔が建っている。

 元々、当て処もなく歩いてただけ。なら、あの可愛らしい塔を目指しても良い。

 彼女は歩く。重苦しい要塞の方へ。

 朽ちた建物に近付いて行く。と、足下の瓦礫に赤い煉瓦が混じり始めた。迷路の入口は防波堤とマンションに挟まれ細長い。その先は更に狭い。マンションの間を縫う様にして伸びる階段、その最初の数段はスッカリ崩れている。

 階段に隣接する左側のマンションを覗けば、入口から灰色の廊下が続く。日中でも薄暗いコンクリートの色合いが、夏の日射しすら寒々しい青色に変えている。

 反対、右側に建つマンションは損壊が激しい。崩れた箇所から瓦礫に埋もれる明るい中庭が見える。瓦礫の合間から若木が伸びて、日光を浴びている。昔は此処にも人が住んでいた。規則的に並ぶ窓の一つ一つに人の暮らしがあった……。

 そんなマンションの隙間にある崩れた階段。その手前には、崩れた階段の部品らしい岩やら煉瓦やら、よく判らない大きな鉄の支柱やらが散乱している。

 この、何かよく判らない鉄の支柱を、少女は足場にした。

 どうにか這い上がった階段は「く」の字型に伸びている。そそり立つ壁の様なマンションの狭間に、朱色のワンピースが潮風を受け揺蕩(たゆた)う。手すりは鉄の匂いを手の平に移しつつ、ハラハラと錆を剥がす。グラグラと不安定に揺れるその手すりを掴み、少女は石の階段を上がって行く。

 階段を上り切る。と、細道は未だ続いた。が、進めなかった。道は廃材に埋もれていた。マンションから剥がれ落ちた物々だろう。角材の群れが、停止した土砂崩れの様に、此方に迫っている。

 少女は辺りを見回した。

 足下に生える雑草、硬い地面の僅かな皹割れから生える逞しい雑草達は、道を細く切り取る石積みの壁にも蔦を伸ばし、礁の隙間を伝って、上へ上へ、這い上がっている。

 その岩礁の手前にある、壊れかけた建物の中へ、彼女は迷わず向かった。

 腐り、途中で折れた木製の電信柱が寄り掛かる外階段を上がる。と、辛うじて原型を留めた障子の枠組み、ベランダのサッシ越しにその障子の中を覗く。と、穴の空いた靴箱から立派なイラクサの葉が生えていた。

 外階段からベランダを周り二階へ。其処から屋内に入れる。

 この建物が生きていた頃、どんな人達が出入りしていたのか、それは判らない。家具や調度は大半が木製だったのか、年月を経て脆く腐り、形を保っている物の方は殆どない。ミシリ、ミシリと、少女が歩く度に腐敗した板の間が鳴り、偶に抜ける。そんな廊下の隅には潮風の運んだ土塊(つちくれ)が溜まり、其処から伸びる雑草の緑がある。その緑が深まる奥に、階段を見付ける。

 三階へ上がる。と、此処は木片すらない伽藍堂。広いだけの空間に、古茶色の土壁が暗く沈んでいる。

 沈鬱な光景を一瞥、少女は朱色のスカートを翻して、四階、五階へと上がって行く。

 お誂え向き、最上階の五階には、丘と結ばれた渡り廊下があった。その中央には打ち捨てられた木の椅子がある。それを避けつつ、彼女はエナメルサンダルの(かかと)を鳴らして、薄暗い日陰から、日向の緑の中へ舞い込んだ。

 セメントで固められた石の地面も、緑豊かな自然の前では無意味らしく、スッカリ植物に占領されている。燦々と、夏の日を浴びる木々。少女の艶やかな黒髪にも木漏れ日が降り注ぐ。輝く枝葉と、その間から覗く空。黄緑と青の(まだら)模様が風に揺れている。

 風に吹かれ騒ぐ枝葉の下、雑草をかき分け、かき分け、真っ直ぐ進む。目的地はもう見えている。(くさむら)を抜けた先、ポッカリ開けた場所にそびえている。それは白く、空に突き立ち、まるで輪郭のハッキリした夏の雲の様だった。

 真っ白な灯台。

 この灯台だけは、他の朽ちた建物と違って塗装も綺麗な儘、生きていた頃の様子を忍ばせている。

 苔むした、短い石段を上がり、灯台の許へ。此処は波の音がよく聞こえる。海からの風に髪をなびかせ、なびかせ、少女は、そっと、灯台に触れた。

「高い所は怖い?」

 呟く様に彼女は訊く。返事はない。波と風の音に耳を傾ける。

 少女が不意に灯台を仰ぐ。真っ白い灯台の胴体に続く梯子へ手を伸ばす。ワンピースをはためかせつつ、手と足を交互に、しなやかに動かして、少女は宛も青空を目指す様に梯子を昇った。

 そうやって、どうにか梯子を昇り切り、彼女は島の一番高い所に立った。

 見晴らしが良い。緑と灰色の混じり合った島が一望出来る。もっとズット先、四方を取り囲む群青の海と、反対に淡い色合いの空も。

 こうして見ると、この星の丸い事がよく判る。大きく滑らかな曲線を描き、海は水平線に落ちる。波の起源はきっとあの向こうにある。

 風になびく黒髪もその儘に、少女は瞳を遙かの海へ向けた。菫色の瞳は海に浮かぶ他の島々を眺めている。遠くに一つ、山脈を備えた、弓形の巨大な島が霞む。その手前にも二つ、中くらいの島と、耳みたく海面から突き出た小島が浮かんでいる。

 ……家族の様に……。

 そんな言葉が脳裏を掠め、直ぐ消える。

 塔の頂上を周り、島の反対側を見る。この島は何処彼処も散らかっている。散らかっていない場所は植物に占められ、緑色に染まっている。

 そんな残骸と雑草を越えた先、マンションばかり並ぶその向こう、取り分け大きな建物の窓枠に、赤い何かが見えた。

 その赤いものは小さい。けど、数は沢山ある。建物に空いた無数の黒い穴……恐らくは窓……の一つ一つに、何か赤い物がはためいている。バタバタと……それが一体何なのか、遠目には判らない。が、その赤い群れは、灰色コンクリートの上に咲く彼岸花の様だった。

 少女が又不意に地面を見下ろす。そうして、ゆっくり、梯子を下りて行った。

 次の目的地が決まった。

 少女は地面に降り立ち、海の香りをたっぷり含んだ風を思い切り肺に入れてから、足を北へ向けた。

 白い灯台を離れて直ぐ、窓一つない建物の脇を長々歩く事になった。大きいだけの、四角いセメントの塊が捨ててあるみたいだ。丘の(ふち)に横たわるそれは、雑草の中で死に、暑い青空に当てられて、くすんだ石の色が一層強調されている。丘の上にはこれ以外に残骸はない。唯一残されたそれは酷く寂しそうに眠っていた。

 まるで青や緑から仲間外れにされているみたいに。

 道は坂になって下る。孤独に暮れるセメントの土台は煉瓦で組まれている。その煉瓦を伝う錆びた送水管の脇を通り抜ける。

 と、一際雑草の密集する場所に出た。獣道に沿って伸びる其処は草花の楽園。夏の日光を吸い取る為、雑草は好き放題に伸びている。

 それら緑の合間から正方形に切り出された石が二つ生えている。綺麗な四角。きっと人工物。その足下には黒ずんだ材木が山と積み重なる。人の作った物が雑草に負けている。今迄何度も見て来た光景。これからもきっと見る。その機会が何度になるか、数える気にもならないけれど。

 太陽が西に傾き始める。けど時間の意味なんて、空に太陽があるか、それとも月があるか、何の花が咲いているか、今はもうそれだけの事。

 雑草に埋もれた廃材から彼女は瞳を逸らす。他にも、叢から不自然に飛び出た木材や、道端に捨て置かれた窯付きの白い洗い場等々が見える。

 それらを横目に彼女は歩いて、坂道を下り切り、島の中央に差し掛かる。

 と、少女は集合住宅に取り囲まれた。

 道すがら出会した朽ち果て姿を失った残骸とは違う。此処より先の建物は殆どその頃の形を保っている。このマンションにしてもそう。四階建ての白いマンション。

 入口を兼ねた階段から中を覗き込む。と、白と灰色に塗り分けられた壁が、延々折り返し階段と共に続いていた。踊り場には小さな窓と鉄の扉が見える。黒く錆び切ったその扉はピッタリ閉じられている。

 閉じ切った扉の内側に何があるか……誰かいるかも知れない……そんな訳はないけど、開けなければ判らない。少しだけ期待する。

 少女の足が自然と階段を上がって行く。白い階段に朱色のワンピースが躍る。途端、無機質な踊り場が華やいだ。

 サラサラの手すりを掴み、それを支点にして細い腕を伸ばし、彼女はクルリと踊り場を回る。そうやって一階から二階へ、二階から三階へ上がって行く。

 その途中、踊り場の壁、扉の上に貼り付く木の板が、視界の端を通り過ぎた。木板は配電盤らしく、ボロボロになった配線と端子が固定された儘、放置されていた。

 三階に着くと、彼女はようやく鉄扉を開ける気になったらしく、ドアノブを握り、徐に回した。黒々と錆びた扉は、重々しい印象とは裏腹に、ギギィと擦れ声を上げながらも容易く開いた。

 部屋に入る。御邪魔しますの一言も、エナメルのサンダルを脱ぐ事すらなく、彼女は玄関を上がる。

 中は思いの外広かった。間取りは三部屋。頭上の板は失われ、天井を伝う(はり)や配線が露出している。配線の先、部屋の中央には割れた電球がぶら下がっていた。壁のスイッチを、パチン、パチンと、人差し指で上に、下に向けてみる。が、電球は点かない。それはそうか。少女はスイッチから手を離した。

 玄関を上がって直ぐ右にトイレ、左に台所。日光差し込む台所の床一面に、ベニヤ板の破片が飛び散っている。ステンレスのシンクだけが光を柔らかく反射していた。

 廊下を進む。トイレの先にもう一枚扉がある。扉の僅かな隙間から中の様子を窺う……薄暗い部屋の奥に、何か、石の(ます)の様なものが据えてある。

 少女は少し考えた。あれは、多分、お風呂。

 あんなに小さな浴槽で満足に身体を洗えるのか、疑問だけれど、彼女はアッサリ其処を通り過ぎ、欄間の抜け落ちた和室へ入る。其処も通り過ぎ、その儘ベランダに出る。

 潮風を浴びながら欄干にもたれる。海一色の光景。南向きのベランダは切り立った丘の上に位置し、景観を遮るものもなく、島の南東と海原を見渡せる。

 少女は欄干に手を着いて、やや前のめりに景色を見下ろした。南東部、この島で一番大きな空き地のある場所。其処には不思議な形の石が一列に並んでいる。あの形は見覚えがある。何と言うんだっけ……少女は少し考えた……そう、痩せぎすの、黒い、鳥居の様な石柱が、前倣(まえなら)え、一列に並んでいる。

 巨大な石鳥居の連なる広場から、もう少し南の方へ視線を移せば、桟橋が見える。少女も彼処からこの島に上陸した。真新しい、壊れていない桟橋……其処からもっと南、群青の海を見れば、一条の白線が波を縦に割っていた。

 あれは航路だ。白い尻尾の様に伸びる航路を追い掛ければ、遠くに小さく、群青の上を滑る一艇(いってい)のボートを見付ける。人の乗っていないボートは、自動操縦を続け、ひたすらこの島と向こうの大きな島とを往復している。

 少女はあのボートに乗って、この島にやって来た。ボートは酷く揺れた。エンジンも変な音を立てていた。故障していたのだろう。直せる人はもういない。誰も。

 延々、独りで海を繋ぐボート。故障したエンジンを抱えた儘ズット、定められた航路を往復し続けている。乗客もなく、黙々と。

 少女は振り返った。やっぱり誰もいない。判っていた事だけれど。

 ベランダから室内に戻る。和室の畳を踏んで廊下を引き返す。御邪魔しましたもなく玄関を出、階段を下りる。

 そうして、飽く迄軽やかに無人のマンションを後にした。

 外の日射は相変わらず、しかし建物の数と共に増えた影に遮られる。道も段々細くなり、終に路地となって、集合住宅の密度に息苦しくなる。密閉感。青空が小さい。雑草も疎らな硬い地面に、カツン、カツン、サンダルの踵が高く鳴る。

 路地を切り取る五階建てのマンション。あのマンションは、暮らしの記憶を未だ保っているのか、見ただけでは判然としない。が、それを確かめようとは思わない。廊下側の窓には目隠しの木板が打ち付けてある。苔でも生えているのか、板の群れは一様に緑色に沁みている。ベランダは今迄見て来たものと同じ、朽ちた窓枠の山は、まるでお揃い、無数に広がる四角い穴は建物の骨格にも見えた。

 視線を下げ、建物の基礎には、無意味な階段が取り付けてあった。石組みの基礎の側面を這う様に伝う階段は、何処にも繋がらず、途中で壁にぶつかって途切れている。行き止まりの階段は、中途半端な儘、イラクサの葉に埋もれている。

 そんな様子をぼんやり眺めていた彼女の足が、ピタリと止まった。行き過ぎたかも知れない、そう思ったからだ。

 倒れた木製電柱や、崩れたコンクリート片、剥がれ落ちた煉瓦の散らばる路地を抜け、三角型の広場に立つ。その広場の先には防波堤がある。

 此処はもう西の端。目的地は北なのに。

 蟻の巣みたいな路地の複雑さに立ち尽くす。

 辺りを見回す。と、右の袋小路にささやかな木立を見付けた。行き詰まった路地奥に茂る黄緑。涼しそうなその色合いに、つい、足が向きそうになる。

 けど是以上(これいじょう)迷いたくない。

 出来るだけ大きな通りを見付けて、北へ行かないと。そう考えて、広場を西に抜け、右に折れる目抜き通りらしき道に入った。

 が、少女は再び立ち止まった。

 又だ。左右をマンションに挟まれた目抜き通りは、全く廃材に埋もれていた。広い道一杯に積もった廃材の中には、よくよく見れば、辛うじて障子の形を保っている物もある。ベランダから落下したのだろう。障子や窓枠、欄干の残骸達に、又道を阻まれる。

 それなら……外の通りがダメなら、建物の中を通るだけ。

 少女は動ずる事なく、真っ直ぐ歩を進めた。枯れ蔦と雑草の絡み合う叢を、ガサガサ、ガサガサと、かき分けて行く。

 叢を抜ければ、建物の玄関口に立っていた。

 ワンピースに付いた葉っぱを払い落としながら、瞳を凝らす。此処は元々、コンクリートと木材が共生する空間だった筈。今はそのどちらも死んでいる。

 床、壁、天井のコンクリートも、それに寄り添う戸口や柱、窓枠の木材も、同じ四角形。温度と硬度の差。冷たく硬い灰色の箱の中に、温かく柔らかな木の建物が収まっている。

 鉄筋も露わな壁に、ボロボロになった木の窓が取り付けてある。その格子に嵌められた曇り硝子が日射しを曖昧にする。彼女はその光の中にいて、無表情が室内に薄く浮き上がった。夢の様に佇みながら、現実の足を動かし、スカートの裾を揺らしながら一階を横切って行く。

 廊下の入口らしい、古く、上半分がスッカリ崩れた引き戸は、既に開いていた。敷居を跨げば、其処は長い長い廊下。何処に繋がっているのか、何処迄続いているのか、灰色の廊下は果てが見えない。床に転がる廃品を避けつつ歩く。

 割れた硝子から差し込む光は金色、壁や床の近くでは少し茶色っぽくなる。斜めに差し込む西日に廊下は照らされて、時折、ワンピースの朱色と黒髪、白い肌が鮮やかに輝く。

 その時、冷たい風が、サッと、彼女の頬を撫でた。瞳の醒める思いで少女は視線を外へ投げた。枝葉の騒ぐ涼しい音がする。長い廊下の真ん中で、窓に近付く。黄緑色の西日が差し込む窓辺へ。

 窓からは中庭が見えた。マンションとマンションの間にある細い中庭。

 上を見ればマンションが左右に建っている。コンクリートの間仕切りに箱詰めされた木造長屋が、ズラリ、マス目状に並んでいる。一体どれだけの部屋があるのか、数える気にはならない。

 そんなマンションの合間にある中庭には、背の高い木々が林立していた。

 サァサァと、枝葉がそよぐ。木々は地にしっかりと根を張り、石段を緑の天井でスッカリ覆い、細長い空間が狭苦しいのか、彼方此方(あちこち)に枝を拡げていた。二階の窓に枝先を差し込み、三階のベランダに葉っぱを被せ、五階の部屋から若木を生やし、屋上から枝葉を垂らしている。

 少女は窓枠に頬杖を突きながら、瓦礫と木立の中庭を仰いでいた。窓辺にもたれる彼女の着るワンピースの朱色が、緑の中でよく目立つ。まるで彼女自身が地に落ちた赤い果実の様だった。

 又風が吹いた。髪がなびく。少女は暫くぼんやりと木々を眺めていた。灰色のガラクタと成り果てた建物に囲まれた葉っぱの瑞々しさ。この中庭もいずれ森になる。

 彼女は頬杖を解き、窓辺を離れた。

 長い廊下を急がず、ゆっくり、サンダルを鳴らして歩く。一階廊下の突き当たりは直角に右へ折れた。その角を覗く。案の定、曲がった廊下の先は木々と廃材に埋もれていた。

 突き当たりの奥には階段がある。一階は諦め、その階段を上がって二階へ。

 少女は顔だけを廊下に出し、二階の様子を確かめた……廊下の奥に光を見る。其処から風も流れ込んでいる。その出口を目指す為、彼女は二階廊下を進んだ。

 この片廊下の左側には、古風な長屋を思わせる小部屋が並んでいた。

 玄関らしい入口にて木戸が倒れている。その向こうは土間になっていて、上がり(がまち)を越えると畳敷きの部屋、それからベランダへと続く。廊下に並ぶ部屋はどれもこの造りだった。

 けれど、部屋の中に散らばっている物はそれぞれ違った。

 此処に住んでいた人々の個性だけが残っている。上がり框に置かれた「みかん」と記された段ボール箱、土間に置かれた石臼、ベランダに立て掛けられた洗濯板。風に捲られる畳の上の原色版雑誌……少女はゆっくり廊下を行く……土間の上で壊れた柱時計、その傍で倒れたミシン、足の折れたちゃぶ台、引き出しのない箪笥(たんす)、雑草の生えた畳、ベビーベッドの傍にはガラガラや人形が沢山……。

 それらを次々と見送る。あれら、暮らしの道具達が、この建物の彩りだった時もあった筈。今はもうスッカリ古びて、皆一様に茶色く汚れ、或いは錆びている。

 ようやく廊下の終点、即ち出口に着いた時、少女はその手前で顔を窓の方へ向け、外を見た。中庭を介した向こうにも、全く造りの同じマンションが見える。部屋の構造も同じ。どの窓も木戸も壊れているから、その更に向こうのマンションも見通せる。同じ造りの部屋が連続する光景は、合わせ鏡、無限遠方の光景に、囚われる事もなく、彼女は建物の外へ出た。

 久し振りの直射日光に瞳を細める。出口はその儘外階段に繋がっていた。か細く頼りない石段は、建物の隙間を蛇行していて、行き先は見通せなかった。

 それでもこの階段が上に向かっている事は間違いない。高い所から見渡せば、目的地への行き方もある程度見当が付く筈。

 石段を上がって行く。

 こんな所にも植物は逞しく息づいている。日の当たる場所を逃さず、雑草達はこぞって背を伸ばす。石段の隅は勿論、石組みの壁や、建物の硬い壁を走る亀裂にも根を張り、葉を茂らせている。日当たりの良い場所などは、雑草の勢いが物凄く、進むのも一苦労だった。

 上がる度に横幅の変わる石段。二人がすれ違うのも難しそうな狭い場所もある。そんな場所は四方を建物に圧迫され、薄暗い。建物の陰になっている。日向から日陰に入る時には空気の層を感じる。急に気温が下がった所為かも知れない。日陰には植物もなく、茶色く汚れた壁と枯葉ばかりの寂しい場所。其処を朱色のワンピースが通り抜ける。

 薄暗い石段が左に折れ、その先を彼女は見据えた。

 其処にある日向が、俄に明度を失うトコロを、確かにハッキリ見た。

 鮮烈に島を熱する夏の日射しが不意に(かげ)る。と同時に、鋭く冷たい風が少女の頬を刺しつつ髪を(さら)った。吹き乱された髪を細い指で整えながら、彼女は空を見上げた。さっき迄あんなに澄み切っていた青空が、いつの間にか黒く重たい雲に覆われている。

 埃っぽい匂いに気が付く。かと思えば、何か、ポツポツ、細かいものの落ちる音がし始める。石段に丸い染みがいくつも、いくつも、どんどん増えて、次第に雑草の葉が揺れ出す。水の滴が、ポタリ、頬の上で弾けた。冷たいと思うより早く、落下する滴は容赦をなくし、滝に変わった。

 夕立。少女は降り掛かる大粒の雨と黒い雲を改めて見上げた。

 景色は忽ち煙る。雨中にて、濡れたコンクリートは黒く、雑草の緑は深まり、降り(しき)る雨粒と跳ねる水飛沫(みずしぶき)に色は滲んで、物の輪郭がぼやける。少女はその場に佇み、ワンピースが濡れるのも構わず、打ち付ける雨音を聞いていた。石段を叩くパチンという音、雑草が弾くパラパラという音、地面に沁み込むシトシトという音。

 髪がおでこに、ワンピースが身体に貼り付く。酷い雨に浸りながら階段の上の方を見る。未だ未だ先は見えない。肌寒くなってきた。それなら、と、回れ右、少女は未練なく階段を下りて行った。

 雨の勢いはどんどん増していく。まるで冷たいシャワーと変わらない。にも関わらず、彼女の足は落ち着いていた。濡れた石段にサンダルは滑り易いから、転ばないよう注意している、というのもある。が、それ以上に、彼女にとって雨は気遣うべきものではなかった。髪や服は濡れるし、身体も冷えるけれど、ピアノを思わせる雨音と、冷ややかな雨粒の感触が心地好かった。夕立の埃っぽい匂いも嫌いじゃない。

 だから、階段の途中に建物があっても、彼女はその中に入ろうとせず、雨に煙る景色を下へ下へと歩いた。

 やがて階段の最下部に着く。建物の間を通っていた階段から、雑草一本生えていない開けた場所に出る。一面雨に打たれる其処に降り立てば、ピチャリと、水溜まりが跳ねた。

 雨水が頬を伝う。彼女は手近な建物の中に入った。

 朽ちたマンションの軒下に立つ。雨垂れは(せわ)しなく、外より少し籠もって響く。洞と化した建物の中で音はよく反響して、未だ雨の中にいるみたいだった。

 彼女は己の足先を見下ろした。雨を吸い重たくなった髪やワンピースから、ポタポタと水滴が落ちて、灰色の床に黒い染みを広げている。この髪は雨雲……肩や額に貼り付く髪を剥がし、両手で絞れば、途端、雨が絞り出される。次いで顔や腕、足に付いた水を払い落とした。

 最後にワンピースをどうにかしないといけなかった。

 コットン生地のワンピースは、濡れてその色合いを深め、朱色が紅に変わっている。その、紅色の薄布が、ピタリと身体に貼り付いている。彼女の黒髪が雨雲ならば、身体の表皮みたく吸い付く紅色のワンピースは、彼女の肌から流れ出た血に見える。透明な水の滴るワンピースの裾を強く絞る。

 大量の水を含んだ髪や服が直ぐ乾く訳はない。彼女は一頻り絞ってしまうと、それ以上は何もしなかった。猶(まと)い付く髪もワンピースもその儘にして、兎に角、目的地に向かう事だけを考えた。

 それで、肝腎の目的地は……。

 雨音の響く建物の中を見回す。四角い空洞と化したマンションは、雨雲の影で一層暗く沈んでいる。

 そんな湿っぽい室内を探索してみる。

 そう広い建物ではない。程なく反対側の軒下に着く。と、当然、此方側にも雨が降っていた。その更に向こう、雨越しに、此処と全く同じ形の建物がある。が、その事は別にどうでもいい。今迄も双子や三つ子の建物は沢山あった。そうではなくて、彼女の視線は建物と建物の間にある小屋へと向けられていた。(いと)わず雨降る中に飛び出て、その灰色の小屋の様なものの前に立つ。

 屋根付きの、コンクリート製のこれは、黒々とした口蓋をポッカリと開き、地下へと通ずる階段を晒していた。

 彼女は物怖じもせず、その階段に踏み入り、地下へと下りて行った。

 仄暗い階段に雨漏りが落ちる。下り始めて直ぐ、ツンと、嫌な匂いが彼女の鼻を突いた。僅かに顔を引く。空気が底に溜まってモヤモヤと(よど)んでいるらしい。が、少女は構わず階段を下り切った。

 地下空間の空気を喘ぐ様に肺に入れる。と、惨い湿気が喉に絡み付いた。ムッとするカビ臭さと、髪が軋む程の錆臭さ。

 暗闇ばかりが支配する地下。此処の明かりは、天井に疎らに空いた穴から漏れる儚いもの。今は外が雨だから、差し込む光は特に弱々しく、却って雨の方ばかり入り込んでいる。

 その微かな光に浮き上がった景色は惨憺たるものだった。

 地下に残された物々は、空気と共に此処に澱んで、堆積する。その堆積物が大部屋の殆どを埋めていた。此処の散らかり様ときたら、この島で一番かも知れない。

 漠然とした視界、部屋の半分は暗闇に没している。もう半分も薄明かりに浮かぶ程度、全体はまるでハッキリしない。が、うっすら見える部分だけでも、崩れ重なった物の多さは尋常ではない。

 充満する湿気に抽出された腐った木の匂い。広大な床一杯に散らばった廃材。原型を留めている物はない。どうも元は木製の台や棚だったらしい。それらが山積したその上に、天井から剥がれ落ちたコンクリートや塗料の欠片、砂や小石等が覆い被さり、分厚い層になっている。

 長い時間を掛けて荒廃を進めた大部屋の、数少ない明かり差す場所を選んで、彼女は歩いた。一見、足の踏み場もない様子だけれど、天井の四角い穴に沿って廃材の山を切り崩したらしい細道が一本、部屋を横切っている。階段下から部屋の真ん中を抜けて、直ぐ右に折れるその道の通りを、嫌な温度と廃材に挟まれながら進む。

 大部屋を抜けた先で道は又右に折れ、その後直ぐ左に折れた。

 薄暗い廊下。此処は廃材も少ない。が、何しろ足下が見えず、少女は壁に手を当てて、それを頼りに進んだ。彼女の触れた壁の表面は鱗みたくハラハラ剥がれ、土色の内部を現した。

 廊下の途中に上に繋がる階段があった。未だ、雨の降る外へ、出る気分ではない。階段の前を通り抜ける。と、廊下は直角に左へ折れた。その角を曲がれば、突き当たりに扉がある。その扉を開けて、中に入る。

 板張りの床を踏む。スッカリ腐って柔らかくなっている。

 暗いばかりで広さも判らない中、奥から淡い光が漏れている。奥の床は白タイル張りに変わっていた。浴場かも知れない。部屋の最奥に大きな浴槽らしい升が造り付けてある。浴槽の傍には窓があって、窓の外にはテラスがあるらしい。コンクリート色のテラスには薄日と雨が降り込んでいた。吹き抜けになっているらしい。

 その窓辺に近付く。足場の感触が、腐敗した木材から、冷たい白タイルに変わる。カツカツと鳴る足音と、シトシト降る雨が重なる。

 少女は浴槽の縁を跨いだ。

 ……意外にも浴槽の中は埃が少なかった。ベンチの様な出っ張りがあったので、其処に腰掛ける。こうすると、雨に濡れた身体をお風呂に漬けているみたいだ。少女は束の間、温かなお湯を空想した。

 どれ程そうしていたか、やがて少女は浴槽から上がり、濡れた髪やワンピースを拭くでもなく、脱衣場……多分……を出て、廊下に戻った。

 廊下を引き返せば、蒸された空気の柔い感触に包まれる。真っ直ぐ歩けば、程なく廊下の曲がり角に着く。

 そうして、少女は角を曲がらず、正面の深淵を覗き込んだ。

 本来、壁があるべき其処には、深々とした底抜けの暗闇が停滞していた。

 そもそも明かりの乏しい場所だから、影に覆われ、辺りは何処もよく見えない。が、其処にある筈の壁は、やっぱりなく、触れようとした手は宙を切った。空虚な闇は、何処に繋がるのか、出口はあるのか……誘われるように、足は自然と入り込んでいた。

 視界は忽ち黒く塗り潰される。目蓋を閉じて歩いている様だ。彼女は両腕を前へ突き出し、手探りで歩いた。時折、手の平に触れる土や金属やビニールの感触。それらを頼りに、覚束ない足取りで、壁伝いにどうにか歩く。

 実際の距離は判らないが、酷く長く歩いた気のする闇の中から、やっと抜け出す。と、暗がりに慣れたからか、薄暗い景色が存外ハッキリと瞳に映った。

 皮膚を塞ぐ湿気……此処も地下らしい。

 傍ら、天井の穴が朧に照らす壁に、鉄格子が立て掛けられている。赤黒く錆びた鉄格子の足下から、暗い床の隅を伝って、白い紐の様な物が這っている。真新しいその紐は、鉄格子の奥にある部屋から伸び、隅を伝って、先程少女の通った深淵に入り込んでいる。

 深淵の中で手の平に触れたビニールはあの紐かも知れない。

 白い紐から瞳を逸らし、地下を進んで行く。

 此処には他にも奇妙なものが沢山ある。その内の一つが砂礫に埋もれた美容室だった。看板に「美容室」と記されているのだから間違いない。店の入口近くに落ちた、白いプラスチック製の看板。


『貸衣装

 打掛・振袖・ウェディングドレス・モーニング・留袖・訪問着・男物紋付・喪服

 詳細は当店へ御相談下さい

 厚生課美容室』


 晴れ着なら着てみたい。もう衣装は貸していないだろうけど。そんな店内を覗いて見る。

 戸口も壁も壊れているから、店に入らずとも中は見通せる。

 美容室は細かな砂に埋もれていた。クッションの柔らかそうな赤い理容椅子、ドーム型のパーマ促進機、灰皿、その全てが半身を砂に埋めていた。緑色の壁に鏡はなく、唯、鏡のあったらしい場所に日焼けの跡だけが残っている。美容室らしく、デザインの凝った菱形格子の欄間がある以外は、窓硝子も失われた店先を離れる。

 地下室の片隅、壁に書かれた黄色い文字を、彼女は黙読した。


『LPG タバコヲステナイ』


 ペンキで書かれたらしい大きな文字は、端々から塗料の垂れた跡がある。文字の直ぐ隣には鉄錆の扉があって、隙間から光が漏れ出ている。

 少女はふらりと黄色い文字に近付き、鉄扉を押し開けた。

 一段と鉄錆の匂いが深まる。扉を開けた向こうは灰色の壁に仕切られた小部屋だった。入って直ぐの壁を迂回する。と、中央を壁で左右に区切られた部屋があった。

 室内には何も無い。天井を伝う太いダクトだけ……部屋の奥の壁に小さな窓もある。

 天井近くに空いた窓の向こうには、叢があった。密集する雑草の一群が、葉を濡らす露と共に燦然と輝いている。日光を受け風にそよぐ草と、葉の表面で小さな玉となり(きら)めく露を見た途端、彼女は踵を返した。部屋を出て足早に地下を横切る。上へ行く階段を必死に探す。

 暗がりを歩き回って暫く、地上と繋がる階段を見付けると、少女は濡れたスカートを摘まみ上げ、カランカラン、忙しなくサンダルを鳴らして、地下から脱出した。

 階段を上がった先はマンションの中だった。

 明るい色の壁が日の光を照り返す。日向の匂い、乾いた空気の匂いが懐かしい。

 上半分が白く、下半分には緑色のタイルが貼られた壁には、円柱と三角梁とがくっついて、幾何学的を描いていた。

 少女はそんな廊下を進み、直ぐ近くの部屋に入った。

 古めかしい分電盤。スイッチの折れたブレーカーと停止した電気メータを潜り、玄関を上がる。台所と、その奥の畳敷きも通り過ぎ、窓硝子のない窓辺に立つ。

 途端、濃密な草と土の匂いに顔を覆われた。

 コの字型のマンションに囲まれた中庭は四角く、広く、全体が草の園と化している。雨露(うろ)に濡れた草は艶やかに、弾かれた滴の玉は草葉の表面でキラキラと光っている。少女の瞳、澄んだ菫色の瞳は、萌黄色の宝石を一面に(ちりば)めた様な中庭の乱反射を眩しく思いながらも、じっと見続けた。

 雨上がりの庭。空から雨水を恵まれた雑草達は生気に溢れている。死んだ建物の灰色と変に対照的だ。この配色は度々見た。けど、こんなに綺麗だと思ったのは初めてだった。

 窓枠に寄り掛かって彼女は上を向いた。四角く切り取られた空は青い。それも単なる青じゃない。夕立の後だからか、それとも地下から出て来たばかりだからか、久し振りに見た青空は、さっきよりズット鮮やかに、気持ち良く晴れている気がする。いっそ落下する様な心地すらする青空。その端に、何か、たなびく物がある。

 赤い……それは赤くたなびく、布の、群れだった。

 マンションの上階の窓一つ一つに、括り付けられた赤い布。灰色コンクリートの上に咲く色褪せた彼岸花。

 どうにか形を留めている欄干や窓枠に固く結び付けられた赤黒い布は数知れない。一、二、三、四……布の結ばれたバルコニーは上の方……七、八、九階。

 それだけ判れば充分。

 俄に窓辺を離れ、急いで部屋を出る。

 さっきは気付かなかったが、廊下は両側に部屋が連なっているので、窓がない。だから随分暗い。崩れた壁から入る光を背に、廊下を戻り、地下から上がって来た階段を目指す。あの階段は上階にも繋がっていた。

 少女は幾何学的な玄関に戻ると、駈ける様に階段を上がって行った。

 折り返す階段を、クルリ、クルリと、舞う様に上る。壁のコンクリートは抉れて、内部の鉄筋が剥き出しになっている。各階の踊り場に設けられた窓硝子は全て割れている。夕立の名残か、階段は濡れていた。何処からか、バシャバシャと、水の落ちる音も聞こえてくる。何処かと思って窓から顔を出せば、外壁を伝う配水管から盛大に水漏れしていた。

 配水管の継ぎ目から漏れた雨水は、マンションの壁を打って、その儘真っ逆様に地面へ流れ落ちていく。

 何もかも時間に壊された後。

 しかし、そんな階段の様子も、少しずつ、上へ行く程変わっていった。

 階段の壁に鮮やかな落書きが残っている。

 いつ誰が描いたものかは判らない。が、少なくともこのマンションが生きていた頃のものではない。七色の虹や、(つたな)い動物達の絵は、塗料やコンクリートの剥がれ落ちた上に描かれている。

 子供が描いた様な、虹と青空と人と動物の絵。色彩豊かな壁画の手前には、ほつれたテディベアと花瓶が置いてあった。

 少女は七階の廊下に入った。

 一階と造りは同じだ。廊下の左右には、部屋の入口、曇り硝子の嵌め殺された木戸が整列している。

 此処はコの字型のマンションだから、廊下も勿論コの字型になっている。

 廊下は左へ直角に折れていた。其処を曲がる。

 と、内装はその趣をガラリと変えた。

 西洋風の木戸が並ぶ先程迄の廊下と異なり、此処は引き戸が並んでいる。角を折れただけで時代が一つ退行した様な、古めかしい廊下を歩きながら、物珍しさに室内を次々覗く。開けっ放しの引き戸から片付いた板敷きの部屋が見える。

 その板敷きに色取り取りの物が落っこちている。

 ピタリと彼女の足が止まり、廊下から、じっと、それを凝視した。形は角張っていて、大きさは手の平より少し大きい程度。表面の色は赤、青、緑、黄色とバラバラで、どうも何か金属で出来ているらしく、独特の光沢に艶めいていた。

 埃に汚れたそれらの表面には、食べ物らしい写真も印刷されていた。ハンバーグやスープ、魚の煮付け、他にも果物の林檎や、桃や、蜜柑。

 缶詰だ。

 隣の部屋も覗いてみる。と、全く同じ様に大量の缶詰があった。その隣も、その隣にも、缶詰は板敷きの上で転がっている。封の開いているものもあれば、未開封のものもある。

 赤、青、黄、緑の缶詰。その色合いは、ついさっき見た落書きと似ている。

 缶詰達は、まるで崩れた後の虹の様に、放置されていた。

 廊下は再び直角に左へ折れる。もう我慢出来ず、少女は角を折れると、近くの部屋へ駆け込んだ。

 引き戸を開け、部屋に上がり、缶詰を蹴って室内を横切る。目指すは窓辺。其処にきっとある。

 やっぱり、欄干の支柱には赤い布が括られている。

 しっかりと結ばれた布が潮風にはためく。元々、生地は真っ赤だったのだろう。が、埃に汚れて黒ずんでいた。更に、長年風雨に晒された所為で、端の方がビリビリと破れている。

 少女はバルコニーにしゃがみ込んだ。もっとよく布を観察する。じっと。すると、欄干に括られた結び目に、手書きの文字を発見する。が、布はさっきの雨にビッショリ濡れて、文字はスッカリ滲んでしまい、何と書かれてあるか全く判らない。

 少女は立ち上がって、隣室のバルコニーに移った。仕切りなど()うに失われている。隣室に移るのも訳はない。

 移った先の欄干にも赤い布は結ばれていた。が、此方のものは損傷が酷く、最早布切れと呼んだ方が正しいくらいだった。勿論、結び目の字は読めず、彼女は更に隣のバルコニーに移る事になった。

 此処には欄干がなかった。だから布もないかと思ったが、そんな事はなく、欄干の代わりに窓枠に結び付けてあった。

 欄干がないから、踏み外せば七階から落下する。それでも窓枠に近寄って、赤い布の結び目に顔を近付けて見る。

 この布はあまり濡れていない。文字は少し滲んでいるが、この程度なら読める。細かな、優しい手書きの文字――


『ケンジ、チエ、生きて』


 ――書かれているのはこれだけ。これを読むと、少女は急いで振り返り、中庭を囲むマンション全体を見た。

 コの字型のこのマンションは、今迄見て来た建物の中で一番大きい。まるで珊瑚礁の死骸の様に、ひしゃげた部屋がひしめき合う光景は、コンクリートなのに柔らかそうだった。

 そんな建物を覆うバルコニーの殆どに、赤い布は結び付けられていた。

 日射しがマトモに中庭とマンションを照らす。太陽は西に深く傾き、空の色も徐々に黄色味を帯びて、午後の色を深めている。西日を受け煌びやかに、けれど何処か寂し気に、はためく赤い布の群れ。まるで赤い花園の様に。

 少女はバルコニーに背を向けた。

 見たいものを見た感慨も、満足もなく、人気(ひとけ)のない暗い廊下にたった一人、下りの階段を目指す。此方の階段も、子供の落書きで彩られていた。が、夢の様に曖昧で幸福な絵は見ず、彼女は七階分の階段を下り切った。

 一階の玄関から屋外に出る。

 と、赤らんだ空の下、影を被った草原が其処に広がっていた。

 夕方の生暖かい潮風に草が揺れれば、合わせて景色全体が揺らめく。草原に被さる影は背後のマンションのもの。此処は島の北端らしい。草原の向こうに防波堤が見える。風に乗って潮騒も耳に届く。

 草原の中には、二階建ての小柄な建物が、草に埋もれながらポツンと建っている。海を背に、孤独に建つあれは、多分、住宅か何かだろう。

 草原を行くと、景色を区切る様に、四階建ての別の建物がそびえていた。

 程近い場所に建つその建物の壁にも、窓が連なっている。が、このコンクリートの箱、打ち捨てられた建物は、多分、住宅ではない。何故か判らないけれど、そうだと判る。あの建物から昔嗅いだ匂いがする。

 その匂いに釣り込まれて、正面玄関でなく、廊下の突き当たりにある勝手口から、その建物に入る。

 勝手口を上がると直ぐ小部屋があった。白タイルの張られた小部屋の床には、浅葱色のポットが二つ、転がっていた。

 真っ直ぐと伸びる暗い廊下は、扉の開かれた箇所だけ、ポツ、ポツと、扉型に赤く照らされている。小部屋の前を過ぎ、次の戸口から室内を覗き込めば、此処も白タイル張りの部屋だった。随分と大きな部屋だ。大きな窓と崩れた壁から、夕日が思い切り入り込み、白いタイルを赤く染めている。室内には何も残っていない。ガラクタと砂の床に、吸盤の様な無影灯の頭が埋もれている。此処は手術室だったらしい。

 頭だけの無影灯を見るや否や、彼女は戸口から離れた。その儘他の部屋は覗かず、正面玄関迄進む。

 玄関に着くと、少女は今来た廊下とは別の、建物の奥に通じる廊下を見た。途中に鉄格子のある渡り廊下を。

 夕暮れに沈む屋内は何処も赤々と照らされている。そうでない所は黒々とした影に覆われている。赤と黒の明暗に分けていながら、どちらの色も矢張り褪せて映った。建物の残骸は、やがて来る夜に備え、一層深い眠りに落ちている。きっとこの建物だけじゃない。この島全体が夜支度を始めている。夕日の照らす灰色の建物群は、それ自体が墓標の様で、巨大なのに寂しそうだった。

 朽ち、暮れる廊下にて、生乾きの黒髪と朱色のワンピースが揺れる。少女は正面の廊下を進み、鉄格子を潜った。

 辺りは静まり返っている。少女の足音だけと、雨漏りの音だけが響く。ベッドの残された部屋の前を過ぎる。

 と、奇妙な部屋の前にいた。

 その部屋は茶色い山に占領されていた。元は段ボールか何か……溶けて一つの茶色い山と化した物の中に、大量の硝子瓶が埋まっている。(うずたか)く積もった山に埋没した大きな薬品瓶の数々。まるで硝子を食す大きな軟体動物が、数多の薬品瓶に(おび)き出され、この部屋に封じ込められた後、茶色く固まったと思える程、有機的な光景だった。夕日に照らされた硝子が赤く光っていた所為かも知れない。

 日は更に傾き、影は益々長く、濃くなる。暗がりの廊下の果て、勝手口から、少女は建物を出た。

 外に出ると目の前に防波堤があった。大きな影を彼女に被せる防波堤は、見ればその一部が崩れて、瓦礫の山となっている。

 少女はその山の前でしゃがみ込んだ。そうして、サンダルの紐を足首から解き、そうやって脱いだサンダルを両手に提げた。

 裸足の少女は、ザラザラとした瓦礫を足場に、灰色の山を登り、やっとの事で防波堤の上に立った。

 塩気を含んだ風が、少女の頬と身体を包み、乾き始めた髪とワンピースのスカートを、ふわり、舞い上げる。少女は両腕を広げた。帆を張る船の様に。夕焼けは、そんな少女の姿を切り絵みたく黒く浮き上がらせた。

 遠く、向こうで霞む水平線を見やる。暮れ泥む夕日に染まった赤い赤い風景。眼下の海は銀色に凪ぎ、空はそろそろ藍色に変わる。燃える様な色をした雲は風に流され、滑る様に海の上を渡る。足下からせり上がる波の音。真っ赤に照る太陽は今、水平線に沈み、灯を消して、海にかえった。

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