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小野寺麻里奈は全校男子の敵である 9 (縦書き版)

 北高一の美少女である憧れの松本まみが自分の家にやってきたという歴史的な出来事と、期間中にあの忌まわしき悶絶パフォーマンスを一度も披露せずに済んだことを除けばまったくいいことはなく、麻里奈の思いつきで次々と企画された「創作料理研究会の校外活動」と称する、肉体的そして精神的に消耗する実に無意味なイベントに参加しただけで、いや、参加させられただけで、あっという間に終わってしまったむなしさだけが残る連休が終了してから三週間が経った第二調理実習室。

 そこで、恭平はこの第二調理実習室で一番顔を合わせたくない人物と対峙していた。

「何をするためにここに来た。しかも、その汚い赤ジャージはなんだ?」


 この世でもっとも常識と縁遠い麻里奈よりは、ほんの少しだけ常識はありそうだが、料理の腕とセンスはまったくないことが発覚した自称天才料理人で黒縁メガネをかけた地味顔の女子高校生ヒロリンこと立花博子は、見た目だけは学業優秀な文学少女的な外見をしているものの、こちらもどうやら見掛け倒しだったようで、連休直後におこなわれた高校に入学してから最初の定期試験の結果は、料理の腕前と同様の散々なものであり、数学と英語が見事なばかりの赤点で、その他の教科も平均点よりも赤点の方に近い点数ばかりであった。


 もっとも、これは中学生時代も同じであり、「先生の、そのまた先生の師匠に教えるほどの腕前」と言われた書道と、鈍そうな見た目とは真逆な、麻里奈をも凌ぐ抜群の運動神経に支えられた体育を除けば、博子の成績は三年間ずっと曲芸飛行並みの低空飛行を続けていたので、この周辺ではいわゆる「いい高校」の部類に入る北高を、麻里奈と一緒に受験すると博子が言い出した時には、教師の半数は自らの耳を疑い、残りの半数はできの悪い冗談だと思ったものである。

 当然博子の成績をよく知る教師たちは、入学試験がおこなわれる遥か以前から彼女の不合格に力強く太鼓判を押していたのだが、話はそこで終わらない。

 直前の模擬試験でも地を這うような成績しかあげられなかったにもにもかかわらず、北高に合格する気満々の博子は、滑り止めとなる私立高校を受験するように勧める教師たちの再三の忠告にも「お金と時間の無駄」と言って耳を貸すことはなく、彼女の両親も「娘を信じる」の一点張りで協議は平行線のまま終了したのだ。

 このままでは、中学卒業後に彼女の行く場所がなくなってしまうのではないかと、博子の明るくない未来を本気で心配する友人も多かったのだが、博子本人といえば、入学試験など端から眼中にないかのように、受験前からクラスメートたちを相手に北高へ入学してからの抱負などを繰り返し語っていたことが多くの証言からあきらかになっている。

 ところで彼女と彼女の家族以外にもうひとり、博子の北高合格を早くから予言していた人物いた。

 麻里奈である。

 学校一の成績優秀者として南校から与えられた特待生待遇の推薦入学合格者という地位を、「担当者が土下座して頼まなかった」という驚くべき理由で蹴り飛ばしただけでなく、わざわざ目と鼻の先にある南校のライバル北高の受験を決めていた麻里奈は、自信満々にこう断言していた。

「ヒロリンは天才だよ。ただ合格するどころか、おそらく入学式では新入生総代として挨拶することになる。私もよほど頑張らないとヒロリンのはるか下になる」

 だが、当然であるが麻里奈のその言葉をそのまま信じる者は皆無といってよかった。

 そして、そのような状況下でその事件は起こった。

 それは、その男が発した「見栄だけで北高を受験したバカなお前が合格することなど絶対にありえない。私の忠告に従わなかったお前はニート確定だぞ」という言葉から始まった。

たしかに博子のこれまでの成績を考えれば、その言葉は丸きりのハズレではないようにも思えた。

だが、それを言った男が悪かった。

 その男とは彼女たちが通う中学校の教師であり、さらにいえば博子や麻里奈の担任でもあったのだ。

 当然博子も怒ったが、博子本人以上に激高したのが、日頃から彼と口論になることが多かった麻里奈だった。

 麻里奈は相手を蔑むように見ながらこう言った。

「この子は本物の天才だよ。ヒロリンは北高程度なら最上位で合格する。そのようなこともわからないとは、あんたの目は節穴、そうでなければ相当なバカだね。そのかわいそうな頭の持ち主というだけでなく、内申書をエサに保護者に金をたかる寄生虫のようなあんたの腐った人間性も、教師という職業にまったく不似合だ。そんなあんたにふさわしい職業とはドブネズミにとりつくノミだ。もちろん、この転職勧告は不似合な仕事をしているバカなあんたのためでもあるけれど、一番の理由は無能で腐臭漂うあんたにバカの極意を教わる生徒をこれ以上増やさないためだからね」

 大勢の生徒がいる前で、麻里奈に無能なうえに金に汚い寄生虫呼ばわりされたその相手である横山欣也という名の男性教師は、「年長者であり、クラス担任でもある自分に対して、まったく敬う気持ちがないのはけしからん」と物凄い剣幕で怒鳴り散らした。

 並みの女子生徒なら震え上がり泣き出してしまうのかもしれないが、麻里奈はその恫喝に怯むどこか、鼻で軽くあしらいながら、こう言い放った。

「そのようなことを言う暇があったら、自分の教え子をバカ呼ばわりする自分が教師失格であることを自覚しなさい。この下品なイモムシ顔の寄生虫が」

 横山の顔を的確に表現した麻里奈のその言葉には、日頃は麻里奈と対立関係にある男子を含めてその場にいた生徒全員は大爆笑したうえに拍手喝采し、この更なる恥辱に塗れる事態に怒りが収まらない横山は、教師という立場を忘れ、麻里奈に殴りかからんばかりの状況となって大騒ぎとなった。

 その時は、たまたま通り合わせた男性教師ふたりが横山をとりおさえ、麻里奈が「もし、ヒロリンが北高を不合格になったら、職員室であんたに土下座してあげる」と宣言したため、なんとか事態は収まったのだが、このとき実際に横山が麻里奈に殴りかかっていたら、大怪我をしていたのは間違いなく横山だったことは、この日の放課後に麻里奈と博子が交わしていたこのような会話からあきらかである。

「横山先生が制止を振り切ってあのまま殴りかかってくれば、面白かったと思います。残念なことです」

「まったくだ。殴りかかってきたら正当防衛として目を潰して首の骨を折ってやったものを」

「それでは死にます」

「仕方がない。じゃあ両手両足複雑骨折程度で許してやろう」

「常識的には両手くらいが限界でしょうか」

「それではつまらない。後輩たちのために、私の手であの寄生虫を再起不能にしたかったよ」

「まあ、一方だけに負けの対価を設定するのは不公平ですから、私が合格したら何か罰を与えることにしましょう。今回のことだけでなく、横山先生がこれまでおこなった悪行にふさわしい厳しい罰を用意しておきます」

「それではあの寄生虫は厳罰確定だな。どうせあのバカな寄生虫のことだ。ヒロリンが不合格になると本気で思って、私の土下座を心待ちにするに違いない。知らぬが仏とはこのことだ」

「まったくです。まあ、それも合格発表日までではありますけれど」

やがて二月になり、横山が一年間にわたり自分に恥をかかせ続けた憎き麻里奈が土下座する記念すべき日であると、指折り数えて待っていた入学試験の結果が発表される日がやってきた。

だが、横山の期待と教師全員の予想に反して、麻里奈の予言通り博子は見事に北高に合格しており、それは「開校以来最高の奇跡」だと職員室内での大きな話題となった。

 しかも、その結果がどうしても納得できなかった横山が、校長に頼み込みこっそりと高校に問い合わせをすると、さらに驚異の事実が判明した。

 博子は全体の二番目という高成績で合格していたのである。

「いつもの年ならダントツだったのですけど、その上の方があまりにもよかったもので……そういえば、その生徒もおたくの学校の生徒さんで……」

 高校の担当者はそう言ったのだが、担当者が告げたその名前とは横山がこの世でもっとも聞きたくない人物のものだった。

 

 さて、残念ながら高校に入学して最初の定期試験では、奇跡は起きることはなく、博子にとってはいつものポジションに戻ったということになるのだろうが、赤点を連発した彼女を待っていたのは、古くは「無間地獄」と恐れられ、現在でも「入口はあるが、出口は存在しない無限ループ」と畏怖されている北高伝統の補習と再試験が合格点を達するまで延々と繰り返される赤点獲得者に対する厳しい補習コースだった。

「お仕置き部屋送り」という異名もあるこの補習コースは、対象者はその開始から担当教師から合格判定がもらえるまで部活動に参加できないというおまけもついており、そのことは恭平を大いに喜ばせた。

「あのバカが北高に合格したという入学試験の結果こそが、バチカンに報告しなければならないくらいの驚くべき奇跡だったわけで、あのバカがお仕置き部屋送りになることなど当然の結果といえる。まあ、とりあえずこのまま進級できずに退学処分になった時には、『多少なりとも社会貢献をしたではないか』と、あのバカを褒めてやることにしよう」

 博子の「お仕置き部屋送り」に対して、祝福の言葉をうれしそうにそう口にする恭平だった。

 第二調理実習室での恭平の独演会はさらに続く。

「そもそも奇跡というものは同じ人間にばかりに起こるはずがない。いや起こってはいけないものなのだ。というか、日頃のおこないが悪いあのバカに奇跡が一回でも起きる方がおかしいのだ。あのバカに訪れなければならないのは奇跡ではなく厳しい天罰だ。ついでに言っておけば、試験勉強もせずに運と勘だけを頼りに定期試験に臨んでいるようなあのバカが、間違って成績優秀者として掲示板に名前が載るような事態にでもなれば、定期試験前には遊びもせず、まじめにコツコツ勉強をしていた俺のような北高にふさわしい立派な生徒の悔し涙で大海が出来上がり、以後試験勉強を放棄する生徒が続出するというものだ」

 恭平が珍しく人前で、と言っても聴衆はまみと恵理子だけなのだが、これほどの熱弁を振るっているのは、本人の言葉を借りれば「これまであのバカから受けた数々の御恩を、少しでもお返ししたいという謙虚な気持ちが、たまたま今日少しだけ働いただけ」となる。

 だが、彼が敵のいないところでの戦闘のみが得意な、疑い深い小心者で人としての器は小さく、勇気もなければ意気地もないといういわゆる小物と呼ばれる種族を代表する人間であることを考えれば、博子本人や麻里奈はもちろん、最近では麻里奈以上に彼の天敵となっている春香も偶然部室にいなかったことが、彼がこれだけ大口を叩ける唯一の理由であることは間違いないだろう。

 さて、顔はいいが、それ以外は取り柄のないその小物臭漂う恥ずかしい男子高校生の言であるが、実はすべてが的外れというわけではない。  

 なにしろ、博子は常々「私の行事予定表に試験勉強という文字は書き込まれたことは一度もありません」などと、自慢にもならないことを誇らしげに語っており、実際に今回も成績が上がる努力などまったくしていなかったのだから、放課後、まみがつくったおいしいお菓子が並ぶ第二調理実習室の代わりに、厳しい教師たちが仁王立ちして待つ補習教室行きになっても、彼女に対する情状酌量の余地などまったく存在しないのは当然のことである。

 さて、そのような、ある意味どうでもいいような事実がわかったところで、他の部員の試験結果にも触れておくことにしよう。


 エセ文学少女の次に成績が悪かったのは、自称お嬢様である馬場春香で平均点と赤点の中間地帯にすべての科目を見事に並べてみせた。

「いいの。ヒロリンみたいに赤点じゃなければ。それに天は二物を与えずという諺があるでしょう」

 自称お嬢様は、博子とは対照的なその膨らみをまったく感じさせない貧相な胸を張ってそう主張し、自分の不成績を正当化していた。

 もっとも、彼女の場合は高校の授業では絶対教わることのない現代の錬金術といえるものを習得しており、「この成績でも、私は生きていくうえで困ることは絶対にない」という彼女の言葉を疑う者は、創作料理研究会関係者のなかにはいなかった。


「俺は、あのバカがつくった得体の知らないものを無理やり体に入れられて体調が非常に悪かった。そうでなければ、もう少しいい成績がとれたはずだ」

 自分よりも遥かに成績が悪い自称お嬢様に、「取り柄というものがまったくない凡庸で見どころの欠片すらないお前のものらしい、いかにも小心者の小物が取るような論評にも値しない実につまらない成績だ」などと酷評されたその試験結果に対し、必死に言い訳をするまさに面白味もない平均点ばかりの恭平がそれに続いた。

 ちなみに、北高では定期試験の結果を掲示板に張り出すことが伝統となっているのだが、全員の名前が載るわけではなく、上位半数がその対象となる。

 当然ではあるが、掲示板の最後には誰かの名前が載ることになるわけだが、学力だけでは取ることができないため、トップを取るよりも難しいともいわれるその名誉あるポジションを今回の試験で獲得したのが恭平だった。

 もちろん、これは偶然の産物である。

 だが、これが恭平にとって新たな不幸の始まりとなる。


 残りは恭平よりも成績上位者として名前が載る創作料理研究会が誇るふたりの美人女子高校生である。

この怪しげなクラブ創作料理研究会の掃き溜めに鶴ともいえる全校一のモテモテ女子高校生松本まみは、クラストップだけでなく学年でも五位という極めて優秀な成績を収め、才色兼備のわかりやすい実例というだけでなく、自称お嬢様である春香が、答案用紙返却後と通知表受領後の常套句として頻繁に使用する「天は二物を与えず」という諺には、例外があることを見事に証明してみせた。


 最後は麻里奈であるが、普段の言動を知る者にとってはやや意外に思えるかもしれないのだが、博子と違い真面目に試験勉強をする麻里奈は、どの科目もまんべんなく高得点を叩きだして、まみに次ぐクラスで二番目という十分優秀といえる順位を確保していた。

 もっとも、気に入らない教師が担当だった数科目の試験で、麻里奈が嫌がらせとして披露した見事な崩し字は、案の定それを理解できなかった教師たちによって不正解とされたのだが、実はそこにもかなりの数の正解が含まれており、実際の順位は学年最上位であったことは、麻里奈の入学試験での圧倒的な高得点から容易に想像できるものである。

 ちなみに、その崩し字は博子に教わったものであり、博子本人といえば、すべての答案で解答の半分以上を麻里奈以上の見事な崩し字で記入していたのだが、その結果がアレであった。

 ついでにいえば、麻里奈の崩し文字の師匠であるこのエセ文学少女ヒロリンこと立花博子は、今回の英語の試験で「次の英文を訳せ」と書かれた問いに、ロシア語で解答を書き込み、見事に不正解を頂いたのだが、教師たちが「暗黒の二週間」と呼んだこれから起こる諸々の騒動の結果、七月におこなわれた次の定期試験では「次の英文を和訳せよ」という訂正を勝ち取っているほか、他の教科でも、冒頭に「特別に指定がないかぎり解答は日本語の楷書で記すこと。また解答を記すのに使用する筆記用具は鉛筆またはシャープペンシルとする」などという他校の定期試験では、おそらくお目にかかれない注意書きまで登場させている。

 もちろん最後の一文も筆ペンを使用して解答を書き込んだ博子だけを対象としたものであることは言うまでもない。


 さて、創作料理研究会部員たちの試験結果と、硬軟取り合わせた実に微妙な裏話を披露したところで、そろそろ本筋に戻り、「危険物を違法に製造する天下の大罪人立花博子を合法的に創作料理研究会から抹殺でき、うまくいけばこの学校からも追放できる千載一遇のチャンスである」と、博子の赤点獲得を喜んだ恭平の期待を大いに裏切り、補習会場からあっという間に解放されたエセ文学少女が、いつものとてもきれいとは言えない赤ジャージ姿で、第二調理実習室にやってきたところから話が始めよう。

「ヒロリンよ、心優しく親切な幼なじみの俺からの涙が出るくらいありがたいアドバイスだ。どのような卑怯な手段を用いて補習を免れたかは知らないが、バカなお前の今後の人生のためには、もう少し再試験を受けたほうがいいぞ。そうだ、せっかくだからお前はこれから毎日補習と再試験を受けていろ。もちろん半年でも一年でもなく三年間だ。当然再試験や補習が忙しいので創作料理研は退部だ。だいたい、お前はメガネなのになんでそんなにバカなのだ?お前はメガネをかけながら成績が悪いという世にも珍しい希少生物『メガネバカ』ということなら、この俺が許す。早く死滅しろ。それとも、お洒落とは無縁なお前の黒縁メガネは実は伊達ということか。バカなお前が見た目だけでも少しは頭がよく見えるようにという。だが、今回の試験でその偽装は完全に暴かれたぞ」

 乾坤一擲、この日ばかりは体中からかき集めたわずかな勇気を振り絞って攻勢に出た恭平だったが、自分の成績を恥じ入る気持ちなど微塵もない相手の前では、せっかくの涙ぐましい努力もまったく報われないまま、見事なまでに霧散していく。

「変な言い方をしますね。メガネをかけた人はみんな成績がいいだなんて偏見というものですよ。メガネかけていても成績が悪い人はいます。私は悪くないですけど。もしかして恭平君は小学生の妹さんに顔を踏まれながら見上げるパンツがこの世で一番の絶景だと叫ぶ恥ずかしいロリコンさんというだけでなく、メガネ属性とかいう変態君でもあるのですか。それから言っておきますけど、私は恭平君など眼中にありません」

「ふ、ふざけるな。俺は妹に顔を踏まれて喜ぶ変態ではないし、小学生のスカートの中を覗いて絶景などと思うロリコンでもない。もちろんおかしなメガネ属性とやらでもないぞ。それに、何が『私は恭平君など眼中にない』だ。それはこっちのセリフだ。こっちこそ、お前など眼中になどないからな」

 顔を真っ赤にしておこなった自分の必死な攻撃を軽くあしらうエセ文学少女の涼しい顔を見て、血圧その他上がってはいけない色々なものが急上昇し頭に血が上った恭平は、思わず絶対に言ってはいけないそのひとことを加えてしまう。

「そもそもお前は成績が悪いだろうが。部員の中で赤点を食らったのはお前だけだ。赤点というのは頭が悪いバカなお前のようなやつだけが貰うものだ。そこにいるもうひとりのスーパーバカだって赤点など取ってないというのに、二教科も赤点とはお前は本当に恥ずかしいヤツだ……あっ」

 言い終わってからようやく気がついたものの、時すでに遅し。

 当然ながら、このあとに恭平に待っているのは、春香による厳しいお仕置きである。

「貴様、言うに事欠いてなんという無礼なことを。私の前でそれだけ言えばどうなるかぐらいは愚かな貴様でもわかっているだろう。ではさっそく始めようか」

「ちょっと待て。今のはその……○%×$☆♭♯▲!※、○%×$☆♭♯▲!※」

 言わなくていいことを口にして、春香からふたつのフライパンを使用した非常に痛いご褒美をもらい、恭平は無慈悲に握りつぶされたアマガエルの断末魔のような気持ちの悪い声を上げた。

 だが、厚顔無恥の見本のような自分の天敵になんとしてでも一矢報いたいという恭平の言葉は実は内容だけは正しく、創作料理研究会部員で赤点を取ったのは、確かに博子だけだったのだが、相変わらず赤点を取った当人は懲りた様子も反省する様子をまったく見せないまま、自分が赤点を連発した理由は、自分の学力以外のものにあるのだという驚異の説を展開する。

「私の場合は……まあ、頭が悪かったわけではなくて、チョットだけついていなかっただけです」

「なんだ、それは」

「私が書いた解答が、頭の悪い先生には理解できなかったということです。こういうのを不運というのでしょうか。教師運があれば、赤点どころか、私がまみたんを抜いてクラストップになったのかもしれません」

「そんなことあるわけがないだろうが」

 これまた恭平の言うとおり。

 ……のはずだった。


 だが、ここに恭平の知らない事実がある。

 博子がこの第二調理実習室に戻ってきた前日、すなわち昨日であるのだが、とにかく前日におこなわれた数学の補習授業で驚くべき事件が発生していた。

 のちに「公開処刑事件」として伝説となるそれは、補習開始直後に、この日の担当だったベテラン数学教師高口利明の高圧的な教え方は、赤点を取った生徒に対する補習というこの場にはまったくふさわしくないものだと博子が言い出したことから始まる。

 当然、その言葉にプライドの高い高口は激高する。

 そして、高口が思わず発した「それほど言うなら、どのようなものがふさわしいのか、ここに来てお前が代わりにこいつらに教えてみろ」という言葉によって、教師の聖域ともいえる教壇に博子が立つことになった。

 もちろん、高口はできるはずがないと高をくくっていたわけなのだが、彼の予想はあっさりとはずれる。

 最後列でふんぞり返り、右往左往する博子を笑いものにして、すぐに教壇に戻るつもりでいた高口は、数分後には自分の代わりに教壇に立っている小柄なメガネ少女が、試験問題はおろか試験範囲を完璧に理解していることに気がつく。

 ……こいつは赤点回避どころか、満点を取ってもおかしくないレベルだ。

 生徒たちのほうも、同じ赤点を取った生徒が教壇に立った時には少々戸惑ったものの、博子が解答方法の説明を始めると、そのあまりの的確さに驚き、やがてそのわかりやすさのために彼女こそが本物の数学の教師とさえ思えてきた。

 この様子を唖然として眺めていた高口は思わずある言葉を口にした。

「ありえん」

 このような場合、その言葉は目の前で起こっている状況についてのものであることが大部分である。

だが、高口のそれはこれだけできる博子が赤点を取ったことに対するものだった。

「どういうことだ?……そういえば……」

 その理由を必死に探す高口の思考は、やがて自らの記憶に鮮明に残っていた博子の不思議な解答用紙に辿りつく。

 それは、全体の八割ほどは判読不明の文字で書かれて不正解になっていたのだが、多くの生徒が不正解だった最終問題を含む最後の二割だけがきれいな楷書で正解が書かれているという違和感を覚えるものだった。

 そして、そこからある結論が導き出される。

 ……こいつがわざと赤点を取ったのは間違いない。

 とりあえずそのような結論に達したものの、今度はその理由が何かを考え込み補習どころではなくなっていた高口を置き去りにして、博子の解説は順調に進み、時間の経過とともに博子に対する受講者の信頼は高まり続ける。

「一応今日の範囲はこれで終了です。皆さんお疲れ様でした」

 チャイムが鳴り、この日の補習が終了すると、当然のように生徒たちから博子に対して惜しみない大きな拍手が送られたのだが、普段の補習では起こらないこの拍手には、生徒たちのふたつの気持ちが込められている。

 もちろんひとつは博子への感謝だが、もうひとつは本来教壇に立っていなければならない高口へ向けられた皮肉である。

 ……貴様が普段の授業でこのように教えていれば赤点など取らなかったぞ。

 ……教師失格だな。

 ……無能。

 ……無駄飯喰らい。

 それは高口も感じていた。

 そして、理解した。

 ……そうか。このメガネの目的はこれか。

 この教室内でおこなわれたまさしく公開処刑ともいえる、教師にとってはこれ以上ないくらいの大恥をかかされた高口は、悔し涙を浮かべながら大急ぎで校長室に駆け込み、そこで博子の満点だった数学をはじめとした入学試験での驚くべき好成績を知る。

 その後、いつもの傲慢ともいえる態度から想像できないくらいに憔悴しきった高口から補習会場で起こった大惨事のあらましを聞いた他の教師たちは、頭の悪い真面目だけが取り柄のような地味顔少女に恐ろしい裏の顔があることを知って震えあがり、次は自分が教室内で公開処刑にされて辱めを受けるのではないかと大騒ぎとなった。

 もちろんこれ以上恥の上塗りを避けたい高口が、帰り際に「次回以降の補習と再試験は不要」としたために、博子は二日後にもおこなわれるはずだった残りの補習と再試験は免除となったのだが、この措置は再び博子が補習授業の臨時講師として教壇に立つものと思っていた受講者たちを大いに落胆させた。

 さらにもうひとつの補習科目だったはずの英語にいたっては、今日の朝一番で博子のもとに飛んできた担当教師の藤崎より「補習も再試も必要なし。合格だ」と伝えられ再試験どころか、一度の補習も受けることなく合格判定が出されるという北高始まって以来の栄誉を博子は手にすることになる。

 藤崎は恐怖に満ちた形相で博子にそれだけを伝えると、逃げるように教室から飛び出していったので、その場にいた者にも何が起こったのかがほとんどわからなかったのだが、これだけの事件であり当然後日談がある。

 まず授業中自分たちをいびり倒してきた憎き高口が、地味顔の女子生徒に大恥をかかされるという多くの生徒たちにとって溜飲が下がるこの事件の詳細は、幸運にも博子による公開処刑の現場に立ち会った生徒たちから、学校史に残る武勇伝として各種装飾が加えられてあっという間に学校中に広がっていく。

 一方、その公開処刑の被害者であるが、仲間が持ち合わせたいくつかの資料を検討した結果、自分が不正解とした解答の大部分が、実は珍しい言語や崩し字と呼ばれる判読不明の文字で書かれた正解であったことが判明する。

 これは間違いなく正解を自分が読めない字で記入して不正解とさせて、わざと赤点となり、補習授業で自分に恥をかかせるという手の込んだ嫌がらせであると誤解、ではなく博子の意図を過剰に評価した高口は、今回の悪夢を次の定期試験で繰り返さぬ方法はないかと三日間悩み抜き、ついに「博子の答案に関しては、まず博子自身に採点させ、その後別室で自分が博子にゴマを擦りながら形ばかりのチェックをする」という超法規的措置ではあるが、報復の対象からははずれる画期的な方法を思いつく。

 他の教師たちも同様で、例の注意書きを加えることで予防線は張れると一度は安堵したものの、それによって高口以上の苛烈な報復があるのではと逆に不安がよぎり、自分ひとりが生徒の前で晒しものにされるなどまっぴらごめんとばかりに、博子と、すでに職員室中に悪名が轟いていた創作料理研究会のもうひとりの要注意人物である麻里奈に関しては、高口が考案したすばらしい危機回避方法をこぞって採用する。

 実際には、これでも博子がその気になれば補習教室にやってくることは完全には防げないのだが、博子は教師たちの卑屈極まる涙ぐましい努力と、なにより中学校の教師たちが三年間まったく反応しなかった自分が用意した教師に対する試験に北高の教師たちが気づき、ギリギリではあるが正解を導き出したことに感じるところがあったらしく、おとなしくそれを受け入れ、その結果として七月の定期試験からは、博子は麻里奈とのハイレベルな争いを繰り広げ、成績表で本来いるべきポジションに就くことになる。


 また、こちらはこの「公開処刑事件」に比べれば付録のような小さな出来事ではあるのだが、博子による公開処刑候補者である一年A組を受け持っている教師たちのうち数人が偶然撮影して持ち合わせていた数枚の写真を見せられて、博子と麻里奈が答案用紙上で披露した崩し字解読を依頼された書道部の顧問である赤瀬美紀は、顧問である自分を遥かに凌ぐ博子の達筆ぶりに驚愕し、「立花博子は全国コンクールでも賞を取れる逸材である。彼女を入部させることが私の、そして北高書道部の責務である」と宣言し、博子に「まみたんやまりんさんだけでなく、私にだってストーカーがいます」と、うれしい勘違いをさせるくらいに、教師がおこなうにはあまりにも度を越した熱烈な入部勧誘が始めるのは、このあとすぐのことである。

 そして、このストーカー教師が率いる書道部は、内外の反対を押し切って顧問が敢行した引っ越しにより夏 休み前には旧校舎の二番目の住人となり、その地道な努力が報われ、文化祭終了後しばらくあとには博子は創作料理研究会と兼任というかたちで書道部に入部をすることになる。


 さて、様々な裏話を披露したところで、そろそろ話を創作料理研究会の根城である第二調理実習室で唯一真実を知らない哀れな恭平が、自分よりはるかに優秀である博子に対して実に恥ずかしいことを雄弁に語っていたあの場面に戻すことにしよう。


「……バカなお前はこれからも毎日放課後は再試験でも補習をいいからずっと受けていろ。とにかく、補習会場に戻れ」

「それは謹んでお断り申し上げます。せっかく先生たちが補習も再試験も免除にしてくださったのに、なぜ補習会場に戻らねばならないのですか?」

「誰だ、そんな余計なことをしたのは」

「高口先生と藤崎先生です。だいたい、そのようなことになったら、腹ペコ恭平君が食べる料理を誰が作るのですか?」

「今後は俺の分もまみに作ってもらうから、赤点連発のバカなお前は心置きなく三年間お仕置き部屋で補習を受け続けていろ」

 と、恥ずかしげもなくまだ続けていた。

 ところで、教師だけでなく生徒たちにとっても大きな出来事であったはずの「公開処刑事件」に関する重要情報を、なぜ恭平だけが知らなかったのかというもっともな疑問が誰の頭にも浮かぶことであろう。

 それについては、ガラケー愛用者である彼が情報弱者だったからということがその理由として考えられるのだが、今回に限ってはハズレだった。

 実はその情報とそこに含まれる立花博子という固有名詞は、恭平の耳にもきちんと届いていたのである。

 ところが、中学生時代の彼女の成績を知る恭平は先入観もあり、自分にとって都合の悪いことは素通りするというなんともありがたいフィルターがついた彼の脳はせっかく届いたその重要情報の受け取りを拒否してしまった。

 当然記憶のどこにも残っていない。

 ということで、これが真相ということになるのだが、とにかく、そういう事情でいまだに博子は間違って北高に合格したものであると、本気で信じている恭平は、第二調理実習室にやってきた赤ジャージ姿の博子に毒づき、補習会場へ追い返そうとこうして躍起になっているわけである。

 もちろん、教師たちが補習会場からお引き取りいただいた経緯を考えれば、これは実現するはずがないものである。

 だが、仮にこれが実現してしまい博子が補習会場に戻っていくようなことになれば、その後に彼を待っているものは、間違いなく怒り狂った教師たちからの表裏両面での集団リンチであることを考えれば、その辺の事情を知らない彼にとっては不本意な結果であるそれは、実は彼にとってラッキーなことだったのである。

 もっとも、このときに博子の本当の実力に気がつかなかったことが、次回の定期試験での悲しい出来事に繋がるわけである。

 さて、真実を知る者から見れば、色々な意味で実に愚かで無意味な行為を、一生懸命おこなっていたことになる恭平だが、彼がこれほどまでに必死にそれをおこなっていたのには、無知とそれから博子に対する日頃の恨み以外にも理由があった。

 博子がここに現れないということは、すなわち自分に憧れのまみの前での屈辱の悶絶パフォーマンスをおこなうことを強要するあの違法製造物たちと顔を合わさなくて済むことを意味する。

 そして、それは肉体的に、それ以上に精神的に非常によいことであり、恭平の健やかな高校生活を送るうえでは非常に重要なファクターであるということはまちがいない。

 だが、彼にとってそれが些細なことになるくらいにさらに重要だったのが、博子が部室に現れなかった昨日、ついに恭平の皿にもまみの手作りお菓子がのせられたという歴史的な出来事が起こったことだった。

 ちなみに、これまではおやつタイムになっても恭平の皿だけには、約束されていたはずのまみが作るおいしいお菓子の代わりに、自称天才料理人が製造した見た目が悪く、中身はさらに悪い得体の知れない危険物質がのせられていた。

 もちろん恭平は入部したらまみの手作りお菓子を食べ放題だという約束を履行するように、麻里奈に対してたびたび要求したのだが、そのたびに「あれだけの大言壮語を吐きながら、ヒロリンのつくった料理を完食もできないヘタレなあんたにはそのようなことを言う資格も権利もあるわけがない」と一蹴されていた。

 当然、彼専門の料理係である自称天才料理人しかつくれないその特殊製造物の供給がストップする博子の補習期間については、部長の麻里奈と顧問の恵理子は恭平にお預けを食わせるつもりでいた。

 だが、まみと、それから、いつもは恭平に辛辣な言葉を浴びせている春香から、それでは恭平があまりにもかわいそうなので、期間限定で皆と同じおやつを出してはどうかという恭平にとってはありがたすぎる提案がされた。

 もちろん、麻里奈や恵理子はそれに反対したものの、なぜかふたりもすぐにそれを了承し、意外すぎるくらいにあっさりと恭平の夢が実現する運びとなったのだが、これには当然裏がある。

 まみはともかく、日頃恭平を罵倒し創作料理研究会関係者の中で一番恭平に厳しく接してきた春香のそれは、彼女のこれまでの言動とは想像の及ぶ限りかけ離れたものだった。

 当然不審に思った麻里奈は、その理由を春香に訊ねたわけなのだが、問われた自称お嬢様は黒い笑みを浮かべながら、こう答えた。

「落差があったほうがダメージ倍増。お預けなどよりもこっちのほうが面白いものが見られると思うよ。まみたんのお菓子を取り上げられた時の橘の絶望に打ちひしがれた哀れな顔が目に浮かぶ」

「……なるほどね。それはいい」

 彼女の言葉に大いに納得した麻里奈は、春香以上の黒い笑みを浮かべながら何度も頷き、ふたりの同類である恵理子もすぐさまそれに同意したのだった。

 だが、裏にどのような事情があるせよ、恭平にとってそれは入部してから一か月以上も過ぎてようやく実現した待ちに待った念願のイベントであり、その実現におおいに尽力してくれたまみと春香に対して、恭平は貧困な語彙からかき集められた感謝の言葉を感涙とともに途切れなく垂れ流したのであった。

 もちろん、そのうちの一人は心の中で盛大に舌を出しながら、恭平の感謝の言葉をありがたがることもなく右耳から左耳に聞き流していたわけなのだが、それはさておき、とにかくやっと実現した自分の至福の時がわずか一日終了するなど恭平にとっては思いもよらないことだった。

「麻里奈よ、こいつが部活動に復帰するのにはガマンして了承してやるが、そのかわりに今すぐこいつを料理係から解任しろ。そして今日から料理係はまみひとりにするのだ」

 これは恭平にとっては当然すぎる彼の最大限の妥協であり、心からの叫びでもあったのだが、残念ながら第二調理実習室という名のこの異次元空間においては、恭平の希望どおりにはものごとは絶対に進まないことになっている。

「なるほど。それはそれとして……」

「おい」

「アホな教師どもが職員室で顔を赤くしたり青くしたりしながら右往左往していた様子が目に浮かぶよ。さて、ヒロリンが戻ってきたので、今日からは恭平のおやつはまたヒロリンにつくってもらうからね。春香、それでいいよね?」

「当然だ」

「先生は?」

「異議なし」

「まみたんは?」

「皆さんがそう思うのであれば、私もそれでいいと思います」

「よし、決まりだ。ところで、恭平、何か言いたいことがあったの?あれば、聞いてあげるけど」

「くそっ……」

 恭平の熱弁をあっさりとなかったことにした麻里奈は、例の特例を当然のことのように取り消して、恭平のささやかな幸せをわざか一日で強制終了させてしまった。

 その時の恭平の顔といえば、まさに春香が予言したとおりのものであり、涙ぐむそのあまりにも情けない姿は、そこにいる全員嘲りを通り越し、哀れみさえ覚え、まみの恭平に対する評価はまた一ランク下がることになるのであった。

「さて、恭平のおもしろい顔も見られたし……」

「何がおもしろい顔だ」

「……ヒロリンの復帰記念として、今日はクッキー対決かな」

「くそっ」

 顔を真っ赤にした恭平の猛烈な抗議も、早すぎるアブラゼミの鳴き声程度にしか思っていない麻里奈の宣言に、自称天才料理人である地味顔メガネ女子高校生ヒロリンこと立花博子はいつものように元気にこう返事をした。

「いいですね。私はお菓子作りが得意中の得意です」

あらためて言う必要もないことではあるが、お菓子作りが得意なのはまみであって、お仕置き部屋から出所してきたばかりのこの自称天才料理人ではない。

 というより、この第二調理実習室内でこの四月から始まった恭平を使った各種人体実験が、料理経験のほぼすべてであるこの自称天才料理人のヒロリンこと立花博子は、クッキーを食べたことはあってもつくったことなどあろうはずがないのである。

 すでに、繰り返し心身ともにすり潰す凶悪な人体実験に等しい恥ずかしいだけの悲惨な体験をしたためなのか、今回ばかりはさすがの恭平もどうやらそれに気がついたらしく、自分の幸せの日々を奪い取った自称天才料理人のこの言葉に、すぐさま直接的な表現で疑問を呈した。

「ヒロリン、お前、今嘘をついただろう」

「はあ?」

 愚かで鈍感なこの男子高校生が指摘するまでもなく、「私はお菓子作りが得意中の得意です」という言葉のすべてが嘘なのだが、それに対する自称天才料理人であるエセ文学少女ヒロリンこと立花博子のエセ文学的返答がこれである。

「嘘?私は世界一の正直者で通っています。嘘つき恭平君と違い、嘘なんて今まで一度だってついたことはありません。その証拠に嘘つきは泥棒の始まりというでしょう。私が今泥棒ではなく、かわいい女子高校生だということが、私が嘘をついていないという何よりの証拠なのです。ということで失礼なことを言った恭平君は今すぐ土下座して泣いて謝ってください」

 いわゆる聖人と呼ばれるような人物なら、嘘をつかずに生きてきたということも十分あり得るだろうが、そのような聖人的要素などこれっぽっちもないこのエセ文学少女が、嘘をついたことがないはずはなく、それどころか、「嘘なんて今まで一度だってついたことなんてありません」などと言い張っていること自体が、すでにとてつもなく大きな嘘であるのである。

 とりあえずは、この地味顔の自称天才料理人でもあるエセ文学少女が「かわいい女子高校生」などと名乗る凶悪犯罪に等しいとんでもない大嘘までつけ加えられた三段論法にもならない粉飾と偽装だけで作り上げられたその弁明にまじめに関わっていたら、時間がいくらあっても足りない恭平は、自分にとって一番重要なことだけを訊ねることにした。

「ヒロリンよ、本当はクッキーなんか焼いたことなどないだろう」

「だから、さっきから言っているとおり、もちろんあります。食べた人みんなからおいしいと喜ばれました」

 まったくブレることなく、白々しいことを堂々と言い張る自称天才料理人であった。

「じゃあ、いつ、どのようなクッキーを焼いたのか言ってみろ」

「……え~と」

 だが、さらに問い詰める恭平の一言に答えを窮したらしく、突然左手を腰に当て右手であらぬ方向を指さして高らかに宣言し、博子は自分にとって都合の悪いこれまでの発言をすべてなかったことにしてしまう。

 このように。

「私は未来志向なので、過去は絶対に振り返りません!思い出す必要もありません。そして、初心を忘れないように、私は常に初めて作るつもりで頑張るだけなのです」

ということで、今日は、すぐにでも立派な大泥棒になれるこの地味顔の女子高校生が、初めてクッキー、というか最終的には作者だけがクッキーだと言い張る異次元物質になるのだろうが、とにかくそのクッキーらしきものをつくる記念すべき日であることが確定した。

「大丈夫かな?この調子でヒロリンに好きなようにやらせていたら、いつかこの部屋が大爆発するとか、変な化学反応を起こして私たちも巻き添えを食って異次元世界に送り込まれるとか、そんなことが起こりそうだよ。嫌だよ。私はまだやりたいことがあるのだから」

「とりあえず顧問権限で揚げものだけは絶対させないから、そこは心配しないで。それに少なくても今日は大丈夫でしょう。だってクッキーだよ。小麦粉と卵と砂糖を捏ねて型抜きして焼くだけだよ。黒焦げになることはあっても橘君の今日の被害はその程度だよ……たぶん」 

「普通はね。でも、なにしろつくるのがヒロリンだからね。きっとやってくれるよ。今日も」

「まあ、それは否定できない」

「右に同じ」

 これは、昨日までと同じように、まみがこれから作るわずかにレモンの香りがするグラニュー糖がかかったサクサクのクッキーを、春香が持ち込んだ高級ティーセットで楽しむアフターヌーンティーのお供とする予定のこのクラブの大スポンサーである春香、顧問の恵理子、部長の麻里奈の会話である。

 ちなみに、春香が最初に口にした部室が大爆発するという心配であるが、本人も半ば冗談のつもりで言ったそれは、原因や規模こそやや違うものの、七月のある日に実際に起きる大事件を予言したものとなり、後者についていえば、創作料理研究会の部室に指定され部長の麻里奈が足を踏み入れた四月のあの日から、この第二調理実習室はすでに悪が蔓延る常識が通じない異次元世界になっていたわけなのだが、被害者を装っているものの春香も恵理子もその異次元世界の中心人物として、創作料理研究会と名乗るこの悪の組織の勢力拡大に日々努力していることをつけ加えておく必要はあるだろう。

「ヒロリンよ、手伝いが必要なら言え。手遅れになる前に」

「恭平君の手伝いなど必要ありません。恭平君は私が作るおいしいクッキーが出来上がるのを待っているだけで結構です」

「おい、今おいしいと言ったな。では、絶対においしいものをつくれ。いや、お前にはそれは無理なのはわかっている。おいしくなくても構わないからせめて人間が食べられるものをつくれ」

「失礼なことを言いますね。私のつくったものは、いつでもどこでもおいしいです。私がつくるクッキーをおいしいと思わなかったら、それは恭平君の頭と味覚がおかしいということです。すぐに病院に行った方がいいです」

「ふざけるな」

 「これまでは手伝いなどと称して、恭平君が私の調理の邪魔をしたから万人が喜ぶすばらしい料理が出来上がらなかっただけなのです」などと、料理が失敗したすべての責任を恭平に擦りつけた自称天才料理人ヒロリンこと立花博子の強い希望により、今回からは手伝いをすることを一切許されなくなり、恭平は試食が始まるまで麻里奈たちの脇に強制的に正座させられていた。

 手伝いを拒否され、あとは自称天才料理人がなるべく被害が少ないものも製造することを、心の底から祈るしかない恭平だったが、むろん、これまでの経験からそれが叶うはずがないことは恭平自身も、うすうすは感じてはいた。

 そして、これから訪れるものはいつもと同じあれであることも。


 さて、結果であるが、恭平にとっては残念ながらいつものとおりである。

 小麦粉に自称天才料理人の美的センスにより棚や冷蔵庫からかき集めてきた様々な材料を混ぜ合わせ力任せに捏ね繰り回したわけだが、そこは彩りが最優先されたため本来クッキーをつくるときには不必要なものも多く、その中でも分量を絶対に間違ってはいけない最高レベルの鮮やかな赤色をした数種類のあれがなぜかタップリと含まれていた。

 そうしてできあがった異界の食べ物のような異臭が漂う油まみれの粘土状のものを、ここだけは丁寧に型抜きして、まみのまねをしながらオーブンで焼き、博子曰く「少しだけ焼き過ぎた」それは、炭化した「なにか」になった。

「ヒロリン、時々味見……は無理だから……まずは、もう少し考えて材料は選んで、それから分量もきちんと量ったほうがいいと思いますよ。それから、文字ばかりの難しい本だけでなく、たまには料理本も読んだほうがいいかな。やっぱり」

 黒焦げのその「なにか」を口に入れ、もはや甘いのか辛いかもわからないまま、いつもどおりこの世では使われない言語らしきもので異世界の呪文のようなものを吠えるように唱えながら、他の追随を許さぬ見事な悶絶パフォーマンスを演じ切り、今は抜け殻のようになっている恭平を眺め、浮かび上がる笑いを必死に噛みしめながら、まみは博子にささやかなアドバイスを送るのであった。


 だが、恭平の悲劇はこれで終わらない。

 それは、一連の騒動がようやく終息した、博子が第二調理実習室に戻ってきて一週間が経ったこの日の会話が発端だった。

「……それにしても最下位に名前を残すとは、橘はつくづく恥ずかしいヤツだな。まあ変態である橘にとっては晒しものになることは、最高の悦びだろうけどな」

「本当ですね。それにしてもすごい才能です。どうやったらその恥ずかしいポジションを獲得できるのかを、ぜひ恭平君にご教授いただきたいものです」

「私は恥を恥とも思わぬその鋼のような精神力をどうやって手に入れたのかも知りたいものだな」

「それはいいですね。でも、私は恭平君のような変態にも笑い者にもなりたくないです」

「同感だ。そういうことは橘の専売特許だからな」

「……くそっ。好き勝手言いやがって」

 春香と博子が恭平本人を前にして堂々と語り合っているのは、掲示板に張り出された定期試験成績表についてである。

「実質的には橘が最下位だ。これこそ最低の人間である橘にふさわしい卑しい居場所といえるな」

「まったくです。あのような恥ずかしい成績を取りながら、よく堂々と神聖不可侵なこの部室に顔を出せたものです。恭平君の厚顔無恥ぶりには感服してしまいます」

「本来なら切腹ものだが、橘は鈍感なうえに辱めをごちそうだと思う変態だからこのような人類史に残る恥でも恥とも思わないのだろう。まみたんもよく見ておくといい。これが世界一の変態ヅラというものだ」

 春香が指さした先には当然怒りと恥ずかしさで真っ赤になった恭平の顔がある。

「何度見てもまったく変わらない各種変態が混じり合った実に醜いお顔です」

「この気持ちの悪い顔でよくもまみたんに好かれようと考えられるものだな」

「さすが最下位に名前が載るだけのことはあります」

「まったくだ」

 ふたりの言われるまでもなく確かにそのポジションはよく目立ち、実は恭平自身も恥ずかしいと思っていた順位ではあった。

 さらにこのふたり相手に口で勝てるはずもなく、訂正を求めて間違ってふたりの会話に口を挟めば、自分の名誉が回復されるどころか、さらに状況が悪くなるだけであることはわかっていたので、嵐が過ぎ去るまで黙って耐えるつもりだったのだが、憧れのまみの前でここまでこき下ろされては恭平も反撃せざるを得ない。

「何が変態ヅラだ。俺より成績の悪かったお前たちにだけは言われたくないぞ。そういうことは成績表に名前が載ってから言え」

 恭平の言うとおり、彼より成績の悪いふたりの名前は上位半数だけが載る成績表にはない。

 だが、それだけのことである。

「ほ~橘、言ってくれるではないか……」

「まったくです。恭平君の分際で私たちを侮辱するとは不敬罪に当たります」

「何が分際だ」

「では、恭平君ごとき。恭平君のくせに、でもいいですけど」

「ふざけるな」

 当然ながら、その言葉を待っていましたと言わんばかりに、自分の成績に恥じ入ることのないふたりからの苛烈な報復は即座に開始され、恭平自身が開戦前に想像していたとおりにことは進み始める。

「橘、お前は本当に何もわかっていないな」

「何だよ」

「最下位で名前が載る恭平君と、名前が載らない私たちと、学校内ではどちらが有名人になると思いますか?」

「ん?……まあ、俺だな」

「その通りだ。もしかして、お前は本当に最下位で名前が載ることを恥ずかしいと思わないのか。あ~そうだった。すまなかった。お前にとっては晒しものになって辱めを受けることが人生最高の悦びだったのだな。私のような恥を知る常識人には変態である橘の心情を汲み取ることはできないのだ。許してくれ」

「しかし、存在自体が人類の恥、恥の権化、恥の象徴である恭平君が同じ創作料理研究会部員であることは屈辱の極みであることはまちがいないでしょう。恭平君の昔からの知り合いとして本人に成り代わり、恭平君の恥ずかしい趣味と言動によって日々迷惑している創作料理研究会関係者の皆さまにお詫びいたします」

「くそっ」

 定期試験期間中には使用する機会があまりなかったよく回る二つの口が、あっという間に恭平を追いつめたわけだが、ここでいつものように一気に形勢逆転を狙って失敗する恭平の余計なひとことが飛び出す。

「なにを言う。たしかに俺は最下位で名前が載ることをまったく恥だとは思っていない。だが、それはお前たちの言う名門北高男子にふさわしい高潔な俺の人格とは無縁な理由からなどではない。いいか、よく聞け。あそこは学年トップをとるよりむずかしいと言われている名誉あるポジションなのだ。だから、俺はこれからもずっと最下位で名前が載りたいくらい誇らしいと思っている。どうだ」

 もちろん、恭平は現在戦闘中の博子と春香という創作料理研究会が誇るバカふたり組を黙らせるためだけに強がりを発しただけだった。

だが、彼は重要なことを忘れていた。

 ……自分のすぐそばに誰がいるのかということを。

 ……そして、その人物の前ではそのようなことを決して言ってはいけないということを。

 案の定、どす黒い笑みを浮かべたその人物が口を開く。

「わかった。じゃあ校長先生にこれからずっと恭平を基準になるようにお願いしてきてあげる。そうすれば、恭平はずっと成績表の一番下に名前が載るよ。これで恭平は学校史に残る有名人なれるわけだ。恭平、私に感謝してよね」

 もちろんその人物とは麻里奈のことである。

「おい、麻里奈、ちょっと待て。今のは、その、言葉の綾というか……」

「私も校長先生たちに口添えしてあげる。特別に無料で。かわいい部員のたっての願いを叶える努力をするのも顧問のつとめだからね」

「いいね。じゃあ、先生に助太刀をお願いしようかな」

「ラジャー」

 当然ながらすべてが手遅れであり、恭平のしどろもどろの言い訳を吹き飛ばすかのように、すぐさま恵理子がなんと無料で手伝うことを約束し、続いてエセ文学少女と自称お嬢様からの祝福の言葉も届く。

「よかったですね。これで恭平君はどんなに成績が悪くても名前が載るわけですね。憧れの最下位で」

「三年間ずっと晒しものになれるこのご褒美。橘、お前の大好きな晒しものになれるすばらしいご褒美をくださった優しいご主人さまに土下座して泣いて感謝しないといけないぞ。さっそくお前の得意な悶絶パフォーマンスで感謝の意を示せ」

「ふ、ふざけるな。麻里奈よ、そのようなことは言葉だけにしてくれ。頼む、冗談だと言ってくれ」

 だが、恭平のこの望みが叶うはずもなく、翌日には博子と恵理子を従えた麻里奈が職員室に乗り込むことになるのだが、数度にわたる恐怖体験により、もはや創作料理研究会が誇る「悪のツートップ」に諍う気力など微塵も残っていない教職員たちは、麻里奈の交渉とは名ばかりの一方的な要求をあっさりと呑み、結果として卒業までの三年間、恭平は彼の希望通り毎回試験結果の最下位に名前が載る栄誉を得ることとなる。

 それから三年後、彼はすでに創作料理研究会の伝説の一部となっていたのだが、それとは別に「橘恭平」という名前は、「三年間すべての定期テストの成績表で最下位に名前が載った驚異の人物のもの」として嘲笑とともに積み上げられた彼の三年間にわたる輝かしい実績の頂点として関係者の記憶に刻み込まれ、北高の長い歴史で初めてであり、そして今後も間違いなく現れないであろう空前絶後の偉大なる記録保持者として彼の名前は永遠に語り継がれることになるのだが、彼にとってそれが名誉なことなのか、それとも不名誉なことなのかは本人以外の誰にもわからない。


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