小野寺麻里奈は全校男子の敵である 8 (縦書き版)
巷ではゴールデンウイークと呼ばれる春の大型連休初日。
前日に約束したデートに思いを巡らせながら、その朝を迎えることができるのであれば、男子高校生にとってこれほど幸せなことはないのだろうが、現実にはそのような幸せ者は半数に届かないのかもしれない。
だが、運悪くデートの相手は見つからずとも、それは青春真っ只中にある男子高校生である。
長い連休中には何かしらの楽しいイベントのひとつやふたつはあるものだ。
だが、ここ、千葉の田舎に住むひとりの男子高校生は、そのようなことにはまったく無縁であった。
というか、彼はそれとは対極の存在だと言っていいのかもしれない。
せっかくの休日だというのに、その稀有な存在、名門千葉県立北総高等学校通称北高に今年の四月に入学した橘恭平はその日、朝から二階にある自分の部屋に引き籠り、下から聞き覚えのある女性たちの賑やかな声を聞こえてくると、それまで以上に不機嫌オーラを発散し始めた。
「お兄ちゃん、お昼ごはんだよ」
「恭ちゃん、ごはんだよ」
やがて、ふたりの妹が元気よくそう叫びながら、バタバタと音を立てて二階に上がって来た。
「お兄ちゃん、すぐに降りてこないと、麻里奈お姉ちゃんがあの話をお母さんにするって言っていたよ」
「……くそっ。麻里奈め。いつもお前の思い通りにはなるとは思うなよ。ふん。ここはお前の言うとおりにしたふりをしておとなしく出ていってやろう。だが、勘違いするなよ。俺が出ていくのはあくまで悪の芽を摘み取るためだ……ところで、あの話とはいったいどれのことだ。もうありすぎてさっぱりわからん」
それは前日の放課後から始まっていた。
今日も、自称天才料理人が製造した名前だけを聞けば人間の食べ物に思える異次元物質「アイデア満載超豪華クリームカレー 惜春の香りを楽しみながら」なるものを体に入れた恭平による見事な悶絶パフォーマンスもつつがなく終了していた。
「春香」
「わかったよ。おい、橘。帰るぞ」
恭平以外の創作料理研究会関係者たちが、まみ特製春野菜カレーを堪能してからしばらく経ち、くじで負けて当番となった春香が恭平を乱暴に叩き起こして部室を出る準備を始めたところで、砂糖がたっぷり入ったハイビスカス茶を飲みながら麻里奈が突然こう宣言した。
「恭平、明日は十時に恭平の家に創作料理研究会部員全員が集合して、それから買い物に行くから。ファイユームのアップルパイを用意して待っていなさいよ」
もちろん、恭平にとってそれは今初めて聞く話である。
……そのような話があったことは記憶にはないが、俺が知らない間に話がついていたのかもしれない。まあ、こんなことはいつものことだ。
もともとの性能が悪いうえに、先ほど起った大事故による全面停止から完全には復旧をしていない恭平の思考回路では、明日自分の家でなにかよからぬことが起こることが決定したところまでを理解するのが精一杯であり、麻里奈の言葉に彼にとっての一大イベントにつながる重要事項が含まれていることには、このときはまだ気がついていなかった。
……買い物か。どうせ荷物持ちをさせられるのだろうな。重い荷物だったら宅配にして学校に届けてもらうように交渉しないといけないよな。普段は無駄遣いばかりするくせに、こういうところはケチるからな。麻里奈のバカは。
そのようなことをぼんやり考えていた彼の脳に、あらたな負荷をかける事態が発生する。
「ということで、先生も寝坊しないで来てよ」
「え~私も参加なの?」
「当然でしょう。部活動の一環だから顧問も参加するのが当たりまえでしょう」
「いいよ、私は」
「ダメ」
「そうです。だめです」
どうやら、会話の内容から顧問の恵理子はあまり乗り気ではないようである。
「ん?これは」
これは事前に打ち合わせなどはされておらず、麻里奈がたった今思いついたことかもしれないことなど、もはやどうでもよく、恭平にとってそれはささやかな吉報といえた。
当然ながら、明日橘家に面倒事も持ち込む人数はひとりでも少ないほうがいい。
うまくいけば、この後に恵理子に続く落伍者が続々と現れ、麻里奈の悪巧みを粉砕できるかもしれず、それはすなわち有意義な休日、と言っても予定があるわけでもないので寝ているだけではあるが、それでもひどい目に遭わないだけでも十分有意義な休日といえるものが恭平には約束されるわけである。
そのためには、いつものように麻里奈がおかしな条件を出して、恵理子の気が変わるなどという最悪の事態にならぬうちに、この大事な橋頭保を確保しようと、策はないが熱意だけは十分にある恭平による恵理子に対する歯が浮くような全面支援が開始される。
「麻里奈よ、先生にとっては貴重な休暇なのだから、少しは気を使ってやれ。
クラブ顧問というのは気苦労があるのだぞ。特にこの創作料理研究会の顧問は。毎日苦労している恵理子先生に感謝だ」
「そうそう、ここの顧問は本当にたいへんだよ。さすがは橘君」
利害が微妙に一致したらしい共闘相手である恵理子は、うれしそうに大きく頷くものの、薄皮一枚先にはっきりと見える恭平の思惑など、始まる前からお見通しである恭平よりはるかに格上である三人組によるターゲットを恵理子に絞った厳しいピンポイント攻撃が始まる。
「先生はやっぱりおばさんだから、すぐ疲れちゃうのだろうね。おばさんになるとたいへんだ。いろいろ。恭平の言うとおり、私たちよりも十歳も年上のおばさん先生には、少しは気を使わないとだめかな」
「そうですね。なんと言っても先生は私たちより十歳も年上のおばさんですから、すぐ疲れてもしかたないです。私もあと十年経ったら、今の先生のようなすぐ疲れてせっかくの休日も寝ているだけなどという恥ずかしいおばさんになってしまうのでしょうか。先生を見るたびに、おばさんになるのは嫌だと思います。十年後が怖いです」
「まったくだ。若いと思ったけど先生はやっぱり本物のおばさんだね。それにしても、連休をすべて睡眠に充てなければならないとは、おばさんになるとたいへんだ。あ~年は取りたくない。先生のようなおばさんにはなりたくない。あと十年になると私も先生のような恥ずかしいおばさんになるのか」
それは麻里奈の隣に座っていつもように仲間の下品なバトルに参加することなく聞き役となっていたまみが思わず吹き出すくらいに、あまりにも露骨な内容であったのだが、麻里奈たちが連呼するこの「おばさん」という言葉こそ恵理子最大のNGワードであり、その言葉を絶対に素通りできない恵理子は大急ぎでそれを否定にかかる。
「違うわよ。私はおばさんじゃないから疲れないけど、えーと、ほら明日はデート……があるとか」
ここで、もし面倒くさいとでも言っておけば、サイコロがいい方向に転がって今回の出番は免除という目が出た可能性もあったのだが、ささやかな見栄を張ったばかりに、恵理子は自らその退路を閉ざしてしまったうえに、火事場にガソリン缶を投げ込むようなさらなる悲劇を呼び込むことになってしまう。
「先生がデートですか?」
「アハハ、先生がデートだって。笑える」
「知らなかったな。デートってひとりでするものだったのか」
「違うわよ」
「では、エア彼氏とデートということか」
「透明人間かもしれません。信じる人にしか見えない先生の理想の彼氏」
「二次元ということもあるな。おばさん教師と、どこにでも持ち歩ける二次元彼氏と熱愛発覚的な」
「なんでそういうもの限定になるのよ。具体的にどういう男の人ですかとか、どこで知り合ったのですかとか、どこに行くのですかとかになるでしょう。こういうときは。それに私はまだ二十四歳だからおばさんじゃないし」
「ならんな。それにおばさんだし」
「なりません。それから先生は立派なおばさんです」
「だいたい、先生は、彼氏どころか友達だっていないじゃないの」
「失礼ね。いるわよ」
「だって携帯のアドレスも通話履歴も、家族と私たち以外は学校とか歯医者とかしかなかったよ」
「なんでそんなこと知っているのよ。まりん」
「この前携帯を借りた時に全部チェックした」
「そして先生は今日も寂しい『ひとり宴会』。かわいそうです。哀れです。哀れすぎる二十四歳のおばさん教師です」
「哀れとか言うな。色々言いたいことはあるけど、まずなによ、ひとり宴会って。それから絶対におばさんじゃないから。だいたい私がその買い物についていったら、絶対にご馳走してとか言うでしょう。あなたたちは」
「本音出た~」
「なるほど。そういうことか」
「さすが強欲守銭奴おばさん教師です」
「おばさんはいらない。強欲守銭奴もいらないけれど……」
このあとにいくら慌てて火消しに走ってもすべては後の祭りであり、せっかくの連休にもかかわらずデートをする相手だけでなく、遊ぶ友達もいない事実までが晒された挙句、参加したくない一番の理由まで発覚してしまった実に哀れな二十四歳の女性教師であった。
「恭平の家で昼食を食べるから、一食分食費が浮くよ。どうする?」
「行くわよ。どうせ暇だし」
結局食費が浮くことが判明すると、考えられる中でもっとも消極的な理由により参加表明をするのであった。
こうして、本来なら一番重要なはずの自宅を集合場所として提供させられる恭平の意見はまったく聴取されることなく、連休初日の予定がめでたく決まった創作料理研究会であった。
すべてが決定した後という絶妙なタイミングではあるのだが、この時点でようやく我が家にやってくるメンバーにまみが含まれていることに恭平も気がついた。
これは自分にとって非常にいいことであると、方針を百八十度変更することにしたのだが、そこは浅はかなことしか考えない恭平である。
そのようなことはおくびにも出さずに、形だけの反対表明をしておくことにした。
……ここで俺が麻里奈の前でうれしそうに賛意を示すようなことをしたら、なにか問題が起こった時に、麻里奈は俺の家に是非来てくださいと俺が土下座して泣いて頼んだので仕方なく来てやったなどと事実とは正反対のことを主張するに違いない。どうせ俺がどんなに反対しても麻里奈たちが家にやってくることが中止なるはずはない。そうであれば問題が生じたときにすべての責任を麻里奈に擦り付けてられるように、自分はあえて反対の姿勢を強く示しておくことが得策だろう。とりあえずは、こういうことにはめっぽう鼻が利く麻里奈やヒロリンに俺の意図がばれないように、本気で反対表明をしておくか。
これまでも麻里奈相手に似たようなことをおこなっては、そのたびにひどい目に遭っていたのだが、その過去の苦い経験からまったく学ぶことなく、再びこのような浅慮の極地のようなことを考えるあたりが、麻里奈いわく「学習能力というものがまったく備わっていない単純で愚かな生き物」である恭平の恭平たる所以なのだろう。
もっとも、麻里奈絡みの案件に恭平が関われば、どちらに転んでも彼のもとには不幸しかやってこないというのは、自然の摂理のようなものであり、当然今回もその法則を完璧に踏襲する結果となるのだが、とりあえずは、何を根拠にしたかは不明であるものの、勝利を確信した学ばない人代表である恭平渾身の演技が始まる。
「ちょっと待て。何を買いにどこに行くのかを俺はまったく聞かされていないが、とりあえず待ち合わせ場所は駅でいいだろう。どこかは知らないが目的地が俺の家から近いというなら、集合場所は部長であるお前の家にしろ。なんといっても、お前の家は俺の家の隣の隣なのだから。俺の家が集合場所になる理由などないだろう」
「あるわよ」
恭平が即席に考えたものにしては、出来の良い部類に入るその反論に即答したのは、恭平にとってはまったくの予想外といえる先ほどまで今回の件にまったく好意的ではなかった恵理子だった。
……なんで、ここで先生が出てくる。先生がわざわざ俺の家に来る理由などあるのか?
恭平の疑念どおり、彼女の目的は恭平の家ではなかった。
彼女が突然その気になった理由、それは恭平のアリバリ作り用の反論にあったあるキーワードだった。
……お前の家は俺の家の隣の隣。
麻里奈の家、そこはすなわち恵理子がこの悪の組織創作料理研究会に半自主的に参加した理由でもある麻里奈の兄小野寺徹の家である。
あの約束、すなわち麻里奈の兄である小野寺徹とのデートは、約束してからもう一か月になろうとしているにもかかわらず、今もって実現していない。
それどころが、目の前にいる約束した当事者である彼の妹は約束をしたことすら忘れているようであり、あの約束の先にある自分の最終目的を達成するためにも、ここは自らの手で勝ち取るべきであると恵理子が考えてもおかしくはない。
もっとも、日頃の図々しさは影を潜め、恭平案に乗れば確実に実現する憧れの小野寺家への強硬突入ではなく、恭平の家に行くときに、たまたま起こった隣の隣に住む徹とのニアミス狙いなどという偶然性が高く、消極的でもある策を選択するところが、こと恋愛に関しては、高望みはするものの肝心なところでウブな女子中学生並みの意気地なさを露呈する恵理子らしいともいえるものである。
一方の恭平であるが、予定の麻里奈ではなかったものの、まずまずの成功と笑みを浮かびかけたところで、自分をじっと見つめる視線があることに気がついた。
その人物は、「なるほど、そういうことですか」と呟くと、なにやら嬉しそうな笑みを浮かべながら麻里奈に問いかけた。
「ところで、まりんさん、お兄さんは元気ですか」
「えっ?ヒロリンは昨日兄貴と……あ~なるほど、そういうことか」
自分では聞く勇気がなかった恵理子にとってそれは渡りに船のような非常にありがたい質問だったのだが、博子の意図を察した麻里奈の返答は、残念ながら恵理子の希望とは正反対なものとなった。
「いないよ。幸運なことに、しばらくバカ兄貴の顔を見ないで済んでいる」
当然これを聞いてそのエネルギー源が消滅した恵理子のやる気は、あっという間に萎む。
そしてこうなる。
「集合場所は駅でいいよ。歩くのが大変だから」
……くそ、まったく肝心な時に余計なことを言いやがって。
そう思いながら、その人物を恭平が睨めつけようとしたときに、その人物の勝ち誇った視線に出会う。
……これは俺の計画を完全に読み切った顔だ。ということは、あれは先生への助け舟ではなく、聞かなくても知っていることを、先生のやる気を削ぐために敢えて麻里奈に尋ねたということか。まったく忌々しいこの狡猾なメガネめ
恭平は心の中で怨嗟の声を上げた。
とにかく話が自分の希望していない方向に向かっているものの、走り出した逆方向の電車に大急ぎで飛び乗った手前、いまさら百八十度方向転換をして創作料理研究会関係者の自宅訪問に賛成することもできず、さりとて自分の魂胆を見抜いている可能性が高い人物が間近にいる現状で成功しそうな良策も思い浮かばない恭平は、渋々ではあるが、ここは当初の予定通り麻里奈が登場することを期待しながら茶番劇の俳優を演じ続ける以外にはなかった。
恭平は、気がつかないふりをして視線を外すと、やや上ずった声で恵理子の意見に賛意を示した。
「……そうそう。やっぱり駅の方がいいでしょう。俺の家が集合場所である必要などないし……」
「いや、ある」
「ん?」
ありがたいことに、恭平の希望通り、再び同じ答えが返ってきた。
だが、またしても麻里奈ではなかった。
今度そう答えたのは、自称お嬢様馬場春香であった。
……まったく、いつもなら盛大に怒鳴り散らすくせに、肝心なときに麻里奈のバカは何をしているのか。
麻里奈がすでに自分の魂胆の全貌を把握し、心の中で舌を出しながら嫌がらせのためにノーコメントを貫いていることなど思いもつかない愚かすぎる恭平は、自分よりはるかに格上の麻里奈をそのようにこき下ろして憂さ晴らしをしてから、目の前で起こっている事象のうち自分にとって都合のいい部分だけを取り上げて満足することにした。
……だが、とにかくこれでまた俺にとってはいい方向に動いたわけだ。どうだ、メガネ。正義は最後に勝つことになっているのだ。
心の中で勝ち誇りながら、先ほどの人物に目をやった恭平はぎょっとした。
……うっ。なんだ。この顔は。
目の前にいるその人物であるエセ文学少女ヒロリンこそ立花博子は、恭平と目が合うと、これから起こるすべてのことを見通しているかのように、その地味顔に不気味な笑顔を浮かべた。
それは、恭平をこれから何かよからぬことが起きるのではないかと不安にさせるものだったのだが、その不安はいつものように見事に的中し、棚から牡丹餅を狙った彼の愚かな泥船計画はあっという間に座礁する。
これがその残念なお知らせの第一報である。
「この機会にお前が自宅でどれだけの変態行為をおこなっているかを、被害者であるお前の妹に確認するという義務がある。私には」
「うっ」
さらに悲報が続く。
春香のその言葉が登場することを完璧に予想していた地味顔のエセ文学少女がうれしそうに用意していた言葉を口にしたのだ。
「それは大事なことですね。恭平君がこれまでおこなった数々の変態行為を由佳ちゃんに証言してもらいましょう。まみたんの前で。由佳ちゃんのスカート中を覗き見ただけではなく、それ以上の犯罪行為もやっているかもしれません。たとえば、由佳ちゃんたちの裸を見るために毎日お風呂を覗いるとか」
「うむ。この変態ならその程度のことをやっていることは十分考えられるな。橘よ、余罪があるなら今のうちに自白しておけ。今ならお仕置きの回数を一回減らしてやるぞ」
「くそっ。……このままでは……」
それが事実かどうかと言えば、断じて違う。
だが、兄にスカートの中を覗かれたと主張する自称被害者である今年の四月に小学六年生となった妹由佳は、兄より自分のほうが家庭内での序列上位だと思っており、その上位者である自分に対して日頃威張り散らす無礼な兄への制裁などと称して、証言を求められればあることないこと、ではなく、ないことないことを涙ながらに訴えることは容易に想像できる。
しかも、その取り調べとやらをおこなうのは、「食材からおそろしい何かを生み出す」ことにかけては天賦の才がある自称天才料理人と、「それがおもしろいかどうかがすべてに優先する」ことを自身の行動指針に掲げる自称お嬢様である創作料理研究会の歩く銀行である。
それが真実かどうかなど、彼女たちにとっては取るに足らない些細なことであり、その場のノリやそれが面白いかだけですべてを決する彼女たちがどのような判決を下すかなど火を見るよりも明らかである。
すなわち、自分は無実の罪で罰せられる。
しかも、まみの目の前で。
そう、これはまさにあの忌まわしき「第一回 針の筵タイム」の再現である。
……これはまずい。まずすぎる。
こうなると、もう止まらない。
疑い深く人間としての器の小さい小心者である恭平の物事すべてを悪いほうに考える能力が、ここでいかんなく発揮され、不安材料が次から次へと思い浮かんでくるわけなのだが、その中でも最大なものこそ、「口に食べ物が入っている時以外は、常に話をしている」と近所で評判の社交的すぎる母久美子の存在である。
この自称「見た目はいまだ現役女子高校生」、息子公認「精神年齢は小学生」である母久美子は、どういうわけか実の息子である恭平ではなく、赤の他人であるはずの麻里奈や博子とすべての面で波長が合っていた。
恭平にとっては、これだって決して望ましいことではなかったのだが、今ここでそれ以上に問題なのは、自称天才ストーリーテラーである彼女が、自らが作り上げた息子が主人公である面白い話を娘たちに毎日語り聞かせていることだった。
もし由佳が主張する「高校生の兄が小学生の妹のパンツを覗き見て興奮している」例の案件が明日話題になるようなことにでもなれば、彼女にとってのおもしろい話に属するその話題を素通りするはずがないこの母親は間違いなく参戦する。
それだけではない。
そこで母親は彼女にとっての一番面白いことである息子の恥ずかしい話をいつも以上にはりきって捏造し、自慢げに披露することであろう。
その結果がどうなるかといえば、まさか実の母親が笑いのネタにするためだけに息子を貶めているなどとは想像もしない真面目な性格のまみが、母親の作り話をそのまま信用してしまうことは十分考えられ、それはそのまま自分の評価が大幅に下がることに直結する。
「くそ、最悪だ」
一度は北高どころか周辺で一番かわいいと評判の松本まみを自宅に招くという北高男子なら誰でもが憧れる一大イベントを自らの手を汚さずに進めようと画策したものの、もれなくついてくる麻里奈たち他の創作料理研究会関係者だけでなく、妹の由佳や母久美子までが揃った最悪の条件下でイベントを強行した場合には、取返しのつかない大惨事が発生するのは確実である。
ここは諦めざるを得ないと、恭平は渋々であるが名誉ある撤退を決心した。
「俺の家を集合場所にするなど絶対に認めん」
だが、無念さが滲み出るような恭平のその言葉に、別の人物の言葉が覆い被さった。
「昨日、恭平のお母さんに確認したら、どうぞ来てくださいと言われた。おいしいお昼を用意して待っているそうだよ」
「ちっ、ということは先生に言っていた昼食の件は本当なのか……いやいや、それよりも、今までの俺の葛藤は何なのだ」
不埒なことを考えた息子にお仕置きするように……昨日の時点にすでに決まっていたのだから決してそうではないのだが、とにかく麻里奈たちがやってくることを息子に相談もせず勝手に承諾した母親と、相変わらずこういうことをおこなう時には手際がいい麻里奈に恭平は盛大に舌打ちをした。
「恭平、何か言いたいことでもあるの?」
「フン、何もないぞ。麻里奈の性格の悪さに感服しただけだ。了解を貰っているならもっと早く言え」
計画の全貌を早い段階で把握しながら、自分がうじうじと考えを二転三転させて最終的に降伏するまで黙っていた麻里奈の意地悪さに悔しがる恭平であった。
一方、麻里奈の方は、母親からのある伝言をうれしそうに伝える。
「なんか、おかあさんは恭平がクラブ活動中はどのような恥ずかしいことをしているかを聞きたいそうだよ。ということで、春香は明日親切丁寧に教えてやってね」
「了解した。どうせなら、橘はクラブ活動中ずっと悶絶パフォーマンスをやっているとでも言って、悶絶パフォーマンスの実演をさせるか。母親と妹の前まで実演する恥ずかしすぎる悶絶パフォーマンス。そして、その後ずっと家族中から蔑むような白い目で見られるのは、変態であるお前にとってはこれ以上ないくらいのご褒美だろう。ということで、明日に家族の前で完璧な悶絶パフォーマンスをお披露目できるように、今からもう一度いっておくか。悶絶パフォーマンス」
「橘君、大一番前の予行演習は必要だよ」
「そうです。日々の努力は大事です」
「ふざけるな。俺は絶対にやらん」
だが、抵抗むなしく、結局は見事な悶絶パフォーマンスを再演する恭平だった。
そして、当日である今日。
「一時間遅れまではオンタイム」などと称する稀代の遅刻魔である麻里奈がいるにもかかわらず、奇跡的に定刻どおりに創作料理研究会関係者全員揃って恭平の家にやってきたわけなのだが、「自分にたいへん優しく、他人に非常に厳しい」麻里奈が心を入れ替えて早起きしたなどということなどあろうはずもなく、今回の奇跡に関するすべての功績は、午前七時には小野寺家を訪れ、遅刻する気満々で惰眠を貪っていた麻里奈をちょっとした策謀を用いて叩き起こし、まだ早すぎるとブツブツと文句を言う麻里奈の尻を叩きながら出かける準備をさせたエセ文学少女ヒロリンこと立花博子に帰すると言っていいだろう。
さて、その麻里奈だが、予定よりも三時間も早く起こされて機嫌がよいはずもなく、集合時間の五分前には来たものの、自分よりも到着が遅かったまみと春香にたっぷりと八つ当たりをして憂さ晴らしをしたのだが、なんと麻里奈とともに創作料理研究会が誇る遅刻常習犯である顧問の恵理子が麻里奈たち以上に早い到着を果たし、麻里奈の制裁から免れるという別の奇跡も起きていた。
もっとも、こちらの奇跡が起こった原因は、恵理子が最後の期待をかけた麻里奈の兄徹との邂逅だったわけなのだが、残念ながら、そちらについては奇跡が起きなかったうえに、麻里奈の家を覗き込みながら家の前を徘徊しているその姿が不審者ではないかと、麻里奈の母典子を恐怖させるに十分なものになるという、おまけまでついていた。
さて、抗議の意味を込めて朝から自室に立て籠もっている恭平のことなどお構いなしに、我が家のようにずかずかと橘家に上がり込むふたりの「準この家の住人」に続いて、手ぶらの恵理子、いつもの創作料理研究会随一の凶暴な言動からは想像できないのだが、甘い香りからおそらく中身はお菓子と思われる「Faiyum」と小さく書かれた大きいが厚みはあまりない白い箱を持参し、自らが僭称するお嬢様らしい気配りを見せる春香、最後に手作りクッキーをお土産にしたまみの順に廊下を進む。
その彼女たちを玄関で出迎えていたのが、長女の由佳と次女の千夏というふたりの小学生と……赤いミニスカートから素足が伸びる恭平たちの母である橘久美子四十一歳だった。
「ヒロリン、橘のお母さんはいつもあんななの」
「はい、そうです」
「露出狂の橘君のお母さんらしいとも言えるけど、誰に対抗するつもりなのかな」
自分以上に露出度の高い久美子のスカートに驚く春香に続いて、博子にそう尋ねる恵理子だったが、実は恵理子自身もあきらかになにかを意識しており、念入りに施した若作り化粧に、必要以上にかわいらしさを強調する昨日買ったばかり薄いピンク色のワンピースという万全の臨戦態勢での登場であった。
あえてネタばらしをしてしまえば、久美子はこれでも普段と変わらぬ服装であったものの、恵理子のそれは、博子からの「恭平君のおかあさんは、アラフォーですがすごくきれいですし、服のセンスを非常に良いです。明日先生がいつものだらしない薄汚れた上下スウェットで来るようであれば、確実に先生は恭平君のおかあさんの恥ずかしい引き立て役になります」というありがたい助言に基づいたものであり、博子を含む創作料理研究会関係者の低評価はともかく、恵理子自身は「大きな出費ではあったけれども、とりあえず二十四歳のこの私がアラフォーの引き立て役になるなどという惨劇は回避した」と出費に見合うだけのものがあったと満足していた。
もっとも、恵理子の場合は、まだあきらめていなかった徹とのニアミスこそ本命であり、恵理子本人の言う今回の大出費とやらも、それに備えてのものだったのが、そちらの結果は前述のとおり見事な空振りに終わっている。
ついでに言っておけば、その約束は六月のある日実現することになるのだが、そのときに彼女は春香共々見てはならないものを目にすることになる。
「まりんさんたちは、橘さんのお家によく来られるのでしょうか」
小学生コンビに手を引っ張られて、恭平の家を我が家のように進む麻里奈に、独り言のように尋ねるまみの心情は、言葉ほど単純なものではなかった。
麻里奈自身は、「私は女子を恋愛対象とはしていない」と公言していることから、熱烈な「麻里奈教」信者であり、中学一年生の春に初めて会ってからずっと本物の麻里奈ラブである彼女にとっては、麻里奈の幼なじみである恭平は、いつも麻里奈と行動をともにしている博子以上の脅威であり、「第一回 橘恭平 針の筵タイム」であきらかになった恭平が遠慮なく麻里奈の家に上がり込み、博子も一緒だったとはいえ麻里奈が自分の部屋に恭平を招き入れ、さらに理由はともかくバレンタインデーのチョコまで渡していたという事実は衝撃的なものだった。
そういうことで、恭平にとっては非常に残念なニュースではあるのだが、まみにとって恭平とは、恋愛対象になるどころか、超えるべきライバル、または恋敵と呼べる存在でしかなかったのである。
もっとも、鈍感なうえに、自称「多くの同士になりかわり、邪神小野寺麻里奈にいかがわしい呪いをかけられた松本まみを創作料理研究会なる悪の組織から救い出す勇者」である恭平が、そのようなことに気がつくはずはないのだが、この場合に限り、恭平にとってそれはたいへん幸せなことだったといえるかもしれない。
さて、その複雑な心境を滲ませたまみに問いに答えたのは、恭平の妹たちとの会話に夢中になっていた麻里奈ではなく、その後ろを歩く博子だった。
「久しぶりです。でも、私とまりんさんと恭平君は小さいときから一緒に遊んでいましたから、昔から恭平君のお家によく来ていました。もちろん恭平君もまりんさんのお家にきていましたけど、私の家はボロ家なのでお客さんを呼ぶことができませんでした。まあ、大きくなってからは、まりんさんが恭平君と密室で二人きりになることはなかったですから、まみたんが心配することはなにもないです。そもそも、まりんさんが恭平君を生物学上の男と認識しているかどうかも非常に怪しいです」
「……そうですか。安心しました。ありがとう、ヒロリン」
だが、その後始まった幼女からアラフォーまで幅広い層を取り揃えた賑やかな女子会で、久美子が恭平の嫁候補としていきなり麻里奈の名を挙げ、まみを再び不安にさせた。
もっとも、久美子の言葉を正確に伝えれば、「麻里奈ちゃんか博子ちゃんが恭平をもらってくれれば、親としてはこれほどうれしいことはない」という本音をオブラートに包んだ軽いジャブのようなものであり、それに対しては、博子の「恭平君は私の好みではないので、引き取りを断固お断りいたします」という遠慮のかけらもない拒絶宣言に続き、麻里奈も「恭平が好きなのは、私ではなくまみたんだよ。だから、恭平との結婚をお願いするなら、まみたんにすべきだと思うよ」と答え、こちらも事実上の引き取り拒否を表明してとりあえずまみは安堵した。
その後、麻里奈が恭平の嫁候補として指名したまみを上から下まで舐めるようにチェックした久美子は、「こんなかわいい子が恭平の嫁になるなど勿体無さすぎる。絶対にありえない。やっぱり恭平は麻里奈ちゃんや博子ちゃんのような自分の身の丈にあった女性を選ぶべきだろうね」とおかしな表現で息子に相談することなく勝手に諦めた。
だが、その言葉に納得がいかない麻里奈は「まみたんが恭平の嫁には勿体ないことはわかるけど、私たちが恭平に丁度よいというところは、まったく納得できないよ」と言い、博子にいたっては「私たちが恭平君ごときの身の丈にあっていると言っているところから、お母さんの話はすでに破たんしていると言えます。そうですね、ここはハルピか先生に恭平君を謹んでお譲りすることにいたしましょう」などと恭平本人がまったく知らない譲渡話を持ち出し、あっという間に本筋とはかけ離れたところに話題は進んでいった。
当然ながら日頃から恭平をこき下ろしている春香にも引き取りを拒否された哀れな恭平は、最終的には多額の持参金を条件に我慢して恵理子にもらっていただくことが、本人のいないところで勝手に決まったのだが、恭平の母が本人になかば本気で自分の息子の嫁になれなどと言えるほど親しい関係であることはまみには驚きだった。
持ち込んだ大量のお菓子をすべて食べ尽くしたところで、ようやくお開きとなった賑やかな女子会は、そのまま昼食へとなだれ込む。
「いや~来て正解。今日は大収穫だよ」
目的であったふたりの被害者への事情聴取ができただけなく、陽気すぎる彼女たちの母親からも重要証言も得られ、次回のお仕置きには十分すぎるネタを入手した春香は満足そうな表情をみせたが、さすがに前日予告していたあれを話題にすることはなかった。
たしかにあれを言葉だけで説明するのは非常に困難であり、唯一の表現方法である実演もこの場に恭平本人がいないため不可能だったこともあるのだが、さすがの春香も最低限の常識は持ち合わせてはいるようであった。
そうなると、この世でもっとも常識からかけ離れた存在である麻里奈こそが恭平にとって危険な人物となるのだが、どういうわけか彼女もそれについてまったく触れることはなかった。
彼女も実は常識があったなどとはもちろんならないのだが、麻里奈には麻里奈なりの触れない理由はあった。
昼食の用意が整い、ふたりの妹たちに恭平が立てこもる部屋に呼びに行かせた時に、「すぐに出て来ないと、私があの話をすると言っていた」という魔法の言葉をふたりに授け、恭平を部屋から引きずり出すことに成功していたのだが、これこそが、麻里奈があの話をしない理由、すなわちこのような情報は実際に使用するよりも使用をほのめかした時の方が、恭平のような妄想力の高い人間にはより大きな効果が得られるうえに、何度も使用できるという利点もあるのだ。
さて、恭平も引きずりだすことにも成功し、無事昼食が始まることになったわけなのだが、ここで問題が発生する。
いや、発生していたというほうが、より正しい表現であろう。
不機嫌な顔で渋々やってきた恭平がギョッとするほど、彼以上の強烈な不機嫌オーラを発している人物がいたのだ。
まみである。
……どういうことだ。何が起こった。
だが、鈍いうえに洞察力がない恭平でも、まみの不機嫌の原因が何であるかは、その様子を見れば一目瞭然であった。
……なるほど、そういうことか。
まみの不機嫌な原因、それは創作料理研究会の根城である第二調理実習室でもネフェルネフェルでもまみの指定席となっている麻里奈の隣を恭平のふたりの妹が占拠していたことである。
しかも、先ほど閉会した女子会開始から、それはずっと続いていた。
……これはこのまま放置するわけにはいかないな。
さすがの恭平でもそう思うほどの緊急事態である。
博子や春香が相手なら押しのけてでも席を確保するし、そもそも創作料理研究会のなかでは、彼女のために麻里奈の隣の席を空けておくことが暗黙の了解となっていたのだが、さすがに事情を知らない小学生にそれを期待するのは無理であり、さりとて乱暴な手段を用いることもできず、このままガマンをするかといえば、もうとっくにガマンの限界を超えており、時間を追うごとにまみのイライラが募っていった。
……橘さんのバカ。こういう大事なことは、事前に妹さんたちにちゃんと伝えておかないとだめでしょう。それとも、私に対する嫌がらせ?
本気で不法占拠者たちの兄を呪っているまみの隣では、面白いことになってきたと黒い笑みを浮かべる博子が、どうやら同じ感情を有しているらしい麻里奈とのアイコンタクトでしばらくこの状況の放置を決め込むにしたのだが、あまりお目にかかれない鬼の形相のまみの顔に恐れをなしたのが、ふたりと違いそれをおもしろいことだとは思えぬ他の創作料理研究会の関係者たちである。
「橘、やれ」
「橘君、君の出番よ」
春香、続いて恵理子が恭平に催促する。
こういう時にだけアテにされるというのも悲しいものはあるが、事情を知る創作料理研究会関係者の中でこの事態を変えられるのは、たしかにふたりの兄である恭平だけであり、これは正しい選択である、となるはずだった。
が、選択の余地がなかったとはいえ、結果だけみれば、やはり春香と恵理子の人選は悪かったようである。
もちろん、ここで恭平が普段から兄に従順である次女の千夏に声をかけていれば、おそらく別の結果、すなわち彼女たちが望んだものになったのだろうが、彼が声をかけたのは日頃兄に対して反抗的な長女由佳だった。
「由佳、お前はおかあさんの隣に行って、そこの席を開けろ」
このような時に日頃の恨みを晴らそうとする彼の人として小さい器量が招いたものではあったのだが、天罰のようにここから多くの誤解にもとづいた恭平の悲劇が始まる。
最初の一撃は恭平から命じられた移動を拒否する由佳からである。
「なんで私がまりんお姉ちゃんの隣にいてはいけないの?もしかして、また床に転がって私のパンツを見ようとしているのでしょう。パンツ覗き魔の変態兄ちゃん」
頬を膨らませた由佳は恭平を虐げるようにそう言い放った。
それに続くのはもちろん社交的すぎると評判の母親である。
「恭平、麻里奈ちゃんの隣に行きたいなら、ちゃんと由佳に土下座してお願いしなさい」
「まあ泣きながら土下座して、それから私の足を舐めてお願いしたら代わってあげてもいいよ。ただしパンツを見るのは絶対禁止だからね」
まるで麻里奈の言葉ではないかと思えるくらいの小学生のものとは思えぬ容赦のない由佳の一言である。
これを聞いた春香と恵理子は、もしこの子が高校生になる頃にまだ創作料理研究会が存続していれば、間違いなく麻里奈に負けない立派な創作料理研究会部長になると心の中で太鼓判を押した。
そのようなはるかに格上の妹相手に対して、恭平はいつもの「いってはいけない一言」を繰り出してさらに事態が悪化させる。
「誰がお前の汚いパンツなんか見たいものか。とにかくさっさと席を開けろ。バカ」
「い・や・だ」
「どけ。バカ」
「絶対イヤ」
さらに未来の創作料理研究会部長の母親が再び口を開いて混乱に拍車をかける。
「そんなに麻里奈ちゃんの隣に行きたいの?恭平」
確かにこの場には麻里奈の隣に行きたい人物はいる。
もちろんそれはまみであって恭平ではないのだが、創作料理研究会内部の事情を知らないうえに、もともと麻里奈に恭平をもらって欲しいなどと発言している久美子であり、発想がそちら側に傾くのは当然の成り行きというものである。
「麻里奈の隣になんか行きたいものか」
「ほら、やっぱり私のパンツが見るためでしょう」
「お前の汚いパンツなんか金をもらっても絶対見ないぞ」
「嘘ばっかり。見たいくせに。でも絶対に見せないからね」
「ふん」
「こっちこそ、ふんだよ。この変態兄ちゃん」
兄妹の真剣だが滑稽でもあるにらみ合いが続く。
ここでまみが「麻里奈さんの隣に座りたいのは私です」とでも言ってくれれば、すべてが丸く収まったのだろうが、正真正銘の麻里奈ラブであるまみもここでカミングアウトをする勇気はさすがになかったためにそうはならず、結局このまま恭平にとってはいつものパターンともいえる最悪の事態へ直進することがほぼ確実となった。
だが、ここで恭平にとっては思わぬ救世主が現れる。
「千夏ちゃん、たまには私のところに座ってかわいい顔をよく見せてください。ほらほら、邪魔なまみたんは向こうに行ってまりんさんの隣にでも行ってください」
「わかった。お姉ちゃんよりかわいい私はヒロリンのところに行く」
「ちょっと待ってよ。私の方がかわいいのだから、私がヒロリンの隣に行く」
博子に指名された妹の千夏だけでなく、小学生らしく「かわいい」に過剰に反応した姉の由佳までが椅子から飛び降り争うようにまみの席を目指す。
「アハハ、ふたつとも空いてしまいましたので、まみたん、好きな方をどうぞ」
「……ありがとうヒロリン」
こうして兄妹がお互いに一歩も譲らぬ泥沼状態となっていたプチ家庭内争議は、博子が魔法の言葉とともに「自分の隣に来てほしい」と頼んだだけで、あっという間に解決してしまった。
「なんじゃ、この驚くべき手腕」
「魔術師ヒロリン」
「うわっ、さすがヒロリン」
それは春香や恵理子だけでなく、事の顛末がどうなるのか見守っていた麻里奈が思わず声をあげるほどの鮮やかな手並みだった。
一方またも評価を下げたのは恭平である。
「橘、お前の無能さにはガッカリだ。死んで反省しろ」
「この程度のこともできないとは。橘君には本当に失望しました」
これまでは家族の前ということで遠慮していたものを、もはや隠すことをせず、いつもと同じように口汚く罵る春香や、両手をあげて必要以上のオーバーアクションで残念さを表明する恵理子とは違い、上品とは言えない言葉を口に出すことはなかったが、麻里奈の隣に座り笑顔を取り戻したまみも、春香達と同様の気持ちで胸がいっぱいである。
しかも、なんとか失地を回復しようと、「ヒロリン、いい手があったのなら最初からやれ。お前は本当に気が利かないのろまなヤツだな」などと自分の器の小ささを棚に上げ、今回の大恩人を批判するという更なる大失態まで演じ、各方面からの非難が集中し、このような問題を理解するには少々幼かった千夏以外の全員から軽蔑の眼差しを浴びる恭平であった。
「恭平は、本当にクズだな」
「まったくです。助けてあげた恩人にそのようなことを言う恭平君は正真正銘のクズです。土下座して泣いて反省してください」
「ヒロリンにそんなことを言うなんて本当にひどいです……私も橘さんがクズだと思います」
「橘は無能だけでなく最低のクズだ。切腹して人生を出直せ。このクズ」
「橘君はクズいう言葉に申しわけないほどのクズです」
「私の息子とは思えぬクズだ」
「さすがは私のパンツを床に転がって覗き見しようとする変態クズ兄貴だ」
「……なんで俺ばかり……しかも、みんなで……言い過ぎだろう」
恭平を恋敵としか思っていないまみに対しては所詮なにをしても無駄な努力となるのだが、少なくても自分の中での目的を果たすことができないどころか、まみからの評価上昇を得る絶好の機会を逃した上に、余計なひとことを言ってしまったために、自分のもとに届くのはこれ以上ないと思われるくらいの負の称賛ばかりに涙を浮かべる恭平だった。
「おかあさん、恭ちゃんはクズなの?」
「そう。世界一のクズだよ。千夏もクズ兄ちゃんと言ってやりなさい」
「……クズ兄ちゃん」
最後には、自分の唯一の理解者である小学四年生の妹にまで見放された哀れな男子高校生だった。
「俺はクズじゃない。クズじゃないから。○%×$☆♭♯▲!※」
縦書き版で読みやすいように、というか、こちらが本来の形で、ここから横書きしても読みやすいように直しています。