小野寺麻里奈は全校男子の敵である 7 (縦書き版)
この日、ついに地獄の門が開かれ、悪魔の宴が始まる。
「今日が記念すべき『第一回ヒロリンとまみたんの料理対決』だね。みんな、拍手~」
創作料理研究会が部室としている第二調理実習室で、誕生してわずかの間に多くの悪行を重ねて関係各所に迷惑をかけているこの悪の組織の頭目であり、とりあえずは創作料理研究会の部長でもある麻里奈が、このような大そうな宣言をしたわけなのだが、通常の部活動である。
これでも。
「今日はパスタ対決。お題はカルボナーラだよ」
現在は放課後であり、少々小腹は空いているものの、今そのようなものを食べてしまったら夕食に影響するのは確実である。
しかし、このクラブ自体が、「自分が食べたいものを食べたいときに、自分以外の誰かにつくらせて食べる」という麻里奈の不埒なコンセプトに基づいて生み出されているようなものなのだから、それがお題になった理由など火を見るより明らかにである。
「今日はカルボナーラが食べたい気分なの」
当然こうなるわけだが、今日は幸か不幸かすぐに賛同者は現れる。
言わずと知れた創作料理研の「悪のツートップ」を「悪のスリートップ」に進化、いや退化というか悪化させた人物である。
「いいわね。パスタ。ここでそれをお腹いっぱい食べれば、夕食代が一回分浮くから経費節減ができるよね。それにしても、ようやく買っておいたワインが飲めるチャンスが来たのはうれしいよ。今日はワインに合うおいしいパスタをお願いするね」
だが、発言者はまったく気がつかなかったのだが、このとき本人以外のこの場にいる全員が「ほら来た」といわんばかりに、申し合わせていたかのように黒い笑みを浮かべていたのだが、それには十分すぎる理由があった。
実は、この発言者すなわちこの学校の教師で創作料理研究会の顧問である上村恵理子は、この前の騒動のドサクサ紛れにこっそりとリストアップし、首尾よく手に入れた高校の部活動にはまったく必要のない黒い高級ワインセラーにスーパーで買い込んできた安物のワインを大量に保管し、さらに冷蔵庫にも発泡酒を詰め込んでいた。
すでに一部では「強欲守銭奴教師」として有名なりつつあったケチな恵理子が、そのようなものを購入したのであるのだから、当然のことともいえるのだが、それからというもの彼女はそれまでの日課のようになっていた居酒屋通いをやめ、学校内でこっそりと飲酒を始めた。
教師が校内で飲酒を始めるなど聖職者にあるまじき言語道断な所業であることは間違いないのだが、ここが悪の組織創作料理研究会であることから、ここまではとりあえずはよしとしよう。
しかし、このあとがいけない。
この「ひとり宴会」に供される肴は、すべてが直接経費の節減のためには、どんな手間を惜しまない恵理子本人の手作りなのだが、言うまでもなくそのために使用されている材料とは、すべて創作料理研究会の倉庫や冷蔵庫から無断で調達したものである。
もちろん、宴会後には完璧な後片付けがなされており、今も何事もなかったかのように、初めての校内飲酒を楽しみしているなどと白々しく話していることから、恵理子が完全犯罪を確信しているのは間違いないだろう。
だが、ここに彼女ひとりだけが知らないおそろしい事実が存在する。
恵理子が大量の備品に紛れ込ませてこっそりと手に入れたワインセラーを目ざとく発見し、恵理子の目的を看破した「ひとり宴会」の命名者であるエセ文学少女ヒロリンこと立花博子の提案を受けた麻里奈は、秘密裏に第二調理実習室と準備室に、春香を通して取り寄せた高額の高性能隠しカメラを取り付けていたのだ。
これによって、校内での飲酒、物品窃盗、備品無断使用、証拠隠滅その他諸々名門千葉県立北総高等学校教師上村恵理子二十四歳が第二調理実習室内で犯した犯罪のすべてが記録され、部員全員の知るところとなっていたのである。
そういうことで、恵理子の「初めての飲酒」発言は、本来ならツッコミどころ満載の案件であり、事実春香は口を開きかけたのだが、それよりも一瞬早く、その程度ではまったく動じることはないこの悪の組織を率いる頭目は、「ちっ、おもしろいことになりそうだったのに」という自称お嬢様の舌打ちと、小さくない独り言を無視して、なにごともなかったかのように宴のルールについて簡素な説明をする。
「で、まみたんは私たち五人分、ヒロリンは恭平の分をつくってね」
「わかりました」
「了解です。私は頑張りますよ~」
彼女に憧れる男子ならば、その姿を見ただけで卒倒しそうな北高の制服である紺色のセーラー服に、ヒヨコのアップリケをあしらった薄いピンク色のかわいいエプロン姿のまみは、かなりの緊張感を漂わせて、もう一方の「なぜ今それなのか」と誰かにツッコミを入れてもらうためではないかと疑いたくなる体育の授業で着用するあまりきれいとはいえない上下赤いジャージという、これから料理をつくる女子高校生として必要なものすべてをどこかに忘れてきたらしい地味顔のメガネ女子高校生は、緊張感の欠片もなく両手を上げて元気に麻里奈の指示を快諾した。
だが、それについて全然納得していないひとりの人物が、自分の専属料理人を指さして猛烈な抗議の声を上げる。
「ちょっと待て、麻里奈。こいつもまみがつくったものを食べるというのは、どう考えてもおかしいだろう。こいつは自分がつくったカルボナーラを俺と一緒に食えばいいだろう」
料理対決をおこなっている博子が、自らの料理ではなく相手であるまみの料理を食べるのは確かに妙な話である。
百歩譲って、それが相手の料理の出来栄えを確かめる目的であったとしても、そういうことであれば、お互いに相手がつくったものを食べることになるはずで、博子を含む恭平以外の全員がまみのつくった料理を食べるというこの状況は、小心者で疑い深い恭平が「また麻里奈が俺だけによからぬことが起きる悪巧みを思いついたのではないか」と不安がるのも当然といえば当然であるといえるのだが、実はこの恭平の不安というのは、この後に見事に的中するわけで、もしかしたら、これこそが天啓か、それとも世に言う虫の知らせというものなのかもしれない。
だが、恭平のその発言直後に、すぐさま彼のもとに飛んできた麻里奈が、彼女の計画にとっては邪魔でしかないその見えない虫を追い払うように、恭平を自分のほうに強引に引き寄せると、こっそりと親切丁寧なアドバイスをおこなった。
「あんたはどこまで愚かなの?ヒロリンはあんたが食べる分だけの料理をつくるのよ。これからずっと。それを見せられたまみたんはどう思う?どぅゆーあんだーすたんど?」
「おう、そういうことだった。そこで俺はヒロリンが作ったパスタを食って『うまい、うまい』と言えばいいわけだったな」
「そういうこと」
やはりと言うべきか、それとも当然と言うべきか、せっかくやってきた天からのありがたいお知らせにも気がつくこともなく、再び麻里奈が敷いた天国にだけは向かってはいないレールにうれしそうに戻っていく愚かな男子高校生であった。
「もちろん完食することも忘れずにね」
「まあ、腹は減ってきたし、ちょうどいい。空腹が最高の調味料とも言うからな。任せろ。完食はもちろんおかわりだってするからよく見ておけよ」
「わかった。たしか有言実行だったね」
高性能追尾式ミサイルで愚かなカモを撃ち落とすように、猟師役の麻里奈が、笑顔を絶やさぬままいつもどおりに抜かりなくアフターフォローをおこなうと、ネギどころかすべての具材と各種調味料、さらに調理器具まで背負ったカモ役である男子高校生も、いつもどおり彼にふさわしい愚かな自慢を堂々と披露するのであった。
このように。
「そのとおり。有言実行、そしてどんな約束でも絶対果たす安心と信頼の男橘恭平だ。それよりお前こそ約束は守れよ。麻里奈、あの時の契約は忘れていないだろうな」
恭平の言うそれとは、最初の部内会議が終わったあとに、帰り道でふたりが交わした二件目の契約のことである。
これに対して、これから起こることを唯一知る人物であるこの悪の組織を束ねる首魁小野寺麻里奈は、さらに数段階パワーアップした太陽のような笑顔をつくってこう返す。
「もちろんよく覚えているよ。契約はどんなことがあっても守ろうね。お互いに」
「ふん、言うまでもないことだ」
無事猟師との最終打ち合わせが完了し、撃ち落とされるための完璧な準備が整った愚かなカモは、次に本当にこれまで調理器具というものを手にしたことがあるのかと疑いたくなるような怪しげな手つきで、もたもたと準備をしている赤ジャージ姿の自称天才料理人に近づき、先ほどの重要案件についての確認作業をおこなうことにした。
「ヒロリンよ、忙しいところを済まんが確認しておく。まみの特製パスタを食いたいばかりに途中で作業を放棄して、俺だけが何も食えないなどという事態にはならないだろうな」
もちろん返ってくる言葉など決まっている。
「失礼なことを言いますね。私は料理をつくるのが大好きですからそういうことはありません。ちゃんと恭平君の口に合うおいしい自家製生パスタをつくりますから心配しないでください」
「それならいい」
日頃から彼女のことをまったく信用していない恭平も、この時は「こいつならその程度のことは平気でやるかもしれないので、とりあえずクギを刺しておこうか」程度しか考えておらず、一方言われた方は、常日頃からの自らの言葉通り心の底から自分の料理に自信が持っているため当然のようにきっぱりとそれを否定して、この話はすぐに決着が着いたわけなのだが、これから一時間も経たぬうちに、恭平はそちらのほうが百万倍よかったと泣きながら後悔することになる。
納得しかかったところで、恭平は博子の言葉に怪しげな単語が含まれていることに気がついた。
「ん。ちょっと待て。自家製生パスタ?」
彼の素朴な質問に博子は両手を腰にあて、「北高一の巨乳」「現在進行形でどこまでも増量中」と同級生の男子の間でのみコッソリと噂される大きな胸を張って自信満々にこう答えた。
「だから、麺がなんと私の手作りなのです。まみたんは乾麺などという邪道な品を使っていますから、それだけで私のほうが一歩、ではなく十歩くらいはリードしています」
「ほう、期待してもいいのか」
「もちろんです。いっぱい期待してください。いや、いっぱい、いっぱい期待してください。恭平君が涙を流して感謝するようなアイデア満載のおいしいパスタができあがることを、この天才料理人立花博子が保証します」
「わかった。では、期待しているぞ」
自家製生パスタ。
それはたいそう立派な名前であり、また日頃から博子は自分の料理の腕前を自慢していたため、人間としての器が小さく小心者で疑い深い性格ではあるが、基本的にはきわめて単純な生き物である恭平が、それなりの期待をするのは当然のことである。
「そうは見えないけど、あの子はそんなに料理が上手なの?」
だが、対決するふたりが料理をつくる様子がよく見えるテーブルに陣取り、すでにワインを飲み始めながら、自称天才料理人と恭平の会話を聞いていた事情を知らない顧問の恵理子が、博子の料理の腕前をおそらく博子本人よりも知っている部長の麻里奈に尋ねたことで、遂にその恐ろしい真実が明らかになる。
「ヒロリンの料理は一言で言えば、創作料理研究会にふさわしいものかな。だいたいヒロリンはいつも自分を料理上手などと自慢しているけれども、ヒロリンが自宅で料理をしたのは小学五年の時の一回だけのはずだよ。その時にヒロリンが作った卵焼きを食べたヒロリンのお父さんは、その後一週間くらい寝込んだそうだよ。一緒に食べてやっぱり寝込んだヒロリンのお母さんは、ヒロリンの料理を凶器と呼んでいる」
「凶器?」
「そう。それで、その話を聞いていた私が先生に頼んで、というか『ヒロリンがつくった料理を試食して入院する生徒を出した責任を取りたいのですか』と脅して、中学校の調理実習ではヒロリンを常に試食係してもらったの。だから中学校の同級生は誰もヒロリンが作った料理を食べなくて済んだのだけど、自分が料理上手だと本気で思っているヒロリン自身は、『同級生に自分の美味しい創作料理を食べさせたかったことを後悔している』とか言って、今でも時々私にチクチクしてくる」
「ということは、まりんは同級生の命の恩人ということか。いやいや、それより凶器って何?ただの卵焼きでしょう。もしかして腐った卵でも使ったってこと?」
恵理子の言う腐った卵を使用することも、調理をおこなう者としては十分問題があるのだが、麻里奈が語る博子が作るその料理の真の姿は、それさえ些細なことに思えるくらいの別次元のものであり、これからそのようなものを口にしなければならない恭平の運命は、あの日にすでに決まっていたことになる。
さて、先ほどの恵理子の問いに対して麻里奈が答える、その恐ろしい話の続きがこれである。
「腐った卵?いやいや材料の問題じゃなくて、ヒロリンの料理が単純にまずいということ。それもまずいという言葉に申し訳ないほどまずいってヒロリンのお母さんは言っていた。ちゃんとレシピを教えたはずなのに、何を入れてどうつくったのかはわからないけれども、出来上がったものは卵焼きとは似ても似つかぬグロテスクな色と形だったそうだよ」
「グロテスクな色?」
「きっと紫色の卵焼きだよ。それともレインボーカラーかな。それは先生は食べるならどっちがいい?」
「嫌だよ。どっちも。春香こそどっちがいいのよ」
「まあ私も両方嫌だけどさ」
「それでも、『見た目は少しだけ悪いけど絶対美味しいから』と言うヒロリンの言葉を信じて、恐る恐るそれを口に入れたら、まず驚くほどの甘さが津波のようにやってきて、その後に何かはわからないけど、とりあえず絶対食べてはいけなかったことだけはわかる得体の知れない妙な食感と変な味がジワジワと体に染み込んできたところまではなんとか覚えているのとか。その時にはっきりと死ぬほどまずいと言えばよかったのだけど、恐怖のあまり父さんが『すごく美味しかった』なんてゴマすりをしちゃったものだから、ヒロリンは今でも自分が料理上手だと勘違いしているみたいだよ。その後、あのような恐ろしい思いは二度としたくないお父さんが『お前のおいしい料理は将来結婚した時までとっておきなさい。お父さんはお母さんの料理で我慢するから』とごまかしてなんとか今に至っているらしいよ」
麻里奈からその話を聞いた恵理子と、その隣で同じく顔を引き攣らせながら、表現するのが難しい妙な笑顔を浮かべながら聞いていた春香は、親としての責任よりも、自分たちの命を優先させるほどまずいという博子の料理に恐怖を覚え、どんなことがあってもヒロリンの料理は食べないと心の中で固く決心したのであった。
さて、三人の会話は佳境に入り、ここで恭平が一番聞いてはいけない自分が創作料理研究会に入ることになった経緯が麻里奈の口から明かされる。
「……なるほど。それは凶器だ」
「そういうこと。それもおかあさんの話ではかなり危険な凶器らしいよ。そのうえ、私はヒロリンが中学の 調理実習で料理をしない代わりに、高校に入ったら必ず料理研をつくってヒロリンに好きなだけ料理をさせる約束をしてしまっていたの」
「なるほど」
「で、色々考えた結果、ヒロリン専任の試食係として恭平を入部させたわけ。これなら私がヒロリンのつくった凶器を食べなくていいし、ヒロリンの凶器とやらが、どのような恐ろしいものでも被害者がひとりで済むでしょう」
「ソレハ ヒドイデス。タチバナクンガ カワイソウデス」
「いやいや、それはナイスな人選だ。私はてっきりまりんが橘を好きだから創作料理研に引き入れたのかと思っていたよ。力いっぱい殴っているのは、恭平への愛情表現の一種なのかと思っていた」
「私が恭平を?まさか。というか、私が男どもを見下し始めたのは、もともと恭平があまりにもヘタレだったのが原因だよ。ただ、恭平ってバカで単純だし器の小さい小心者で世界一のヘタレだけど、見た目以上に頑丈だからこの役にはピッタリだと思うよ」
そう、この創作料理研究会をつくるうえでの最大の難関は資金提供者を見つけることに思えたのだが、実は本当の肝は、ヒロリンの料理を食する者を誰にするかだったのである。
この種明かしによって貢献度がやや下がった資金提供者だが、それを気にする様子はまったくない。
「なるほど。そういうことなら、これからは心置きなく厳しいお仕置きができるな。今まではまりんに遠慮して一割ほどの力であっていたからな……」
「……あれで一割?橘君の様子をみると、とても春香が手加減しているようには見えないけど。どっちにしても、かわいそうな橘君」
「でもそうなると、ヒロリンと結婚する人は結婚直後に悲惨な最期を迎えるような気がするよね。とりあえずヒロリンは結婚する前には絶対に彼氏に手料理をふるまっちゃいけないタイプの人だね」
「そういうこと……いや、もう食べているかもしれない。残念ながらまだ元気に生きているけれど」
ふと思い当たる自分の身近にいるある人物の顔が浮かんだ麻里奈が呟いた後半部分は、続く春香に見事なまでに否定される。
「いやいやいや、あのヒロリンだよ。それだけは絶対にないよ。それより未来永劫現れそうもない彼氏とやらよりも先にヒロリンの手料理を試食できる橘は本当に幸せだな。橘がヒロリンの料理を食べてどんな感想を漏らのすか楽しみになった」
「アハハ、まったくそのとおりだね。でも橘君は本当にヒロリンのつくったものを食べても死なないよね。困るよ。本当に死んじゃったら」
「それはなんとも言えない。実物は私も見たことがないから」
「まりん、それはひどいよ。こんな悪党と幼なじみとは本当に橘は哀れだな」
「本当だね」
三人の恐ろしい会話は、手際の悪い博子を見かねて、打ち合わせに続いて自主的に手伝いを始めた恭平の耳に偶然届かなかったのだが、それが彼にとってよかったのか悪かったのか、それは誰にもわからない……いや、やはり悪かったようである。
それからしばらく時間が過ぎた同じ場所。
「お前、俺を殺す気だっただろう」
自称天才料理人本人が言うところの「傑作」らしいそれを口にしてからの空白の時間が過ぎ、やっと意識を取り戻した恭平による恐怖と怒りと悔しさが入り混じった涙ながらの第一声がこれだった。
……まっ、まずい。いや、もう、これはそういうレベルの話ではないぞ。食わずに逃げたら麻里奈のバカに何を言われるかわからないから、とりあえず一口食ったが……。
彼は自称天才料理人がつくりだした異臭を放つカルボナーラとは似ても似つかぬそれを恐る恐る口に入れた瞬間、これが本当に食材から生み出されたものなのかと本気で疑ったことは鮮明に覚えている。
……いったいこれは何だ?……うっ、なにか来た。
だが、恭平の記憶はなぜかここで途切れている。
その後の記憶はなく、気がついた時には床に転がり痙攣していたのだ。
……いったい俺の身に何が起こったのだ?それに俺がこのようなことになっているのに、麻里奈たちは何をしていたのか?色々やることがあるだろう。それよりも、麻里奈たちの視線が妙に冷たいのはどういうことだ。色々疑問はあるが、とにかく、まずは言わなければいけないことを言わなければならない。こいつに。
そして、恭平は自分をこのようなひどい目に遭わせた料理の作り手である自称天才料理人を睨みつけて口を開いたのである。
最初の一言を発してから数分後。
恭平の抗議はまだ続いていた。
「……おい、ヒロリン。もう一度言うぞ。まずい。まずすぎる。いや、それどころか、もうこれは食べ物という範疇を超えている。お前、わざとこれを作っただろう。というか本気で俺を殺そうとしただろう。これは殺人未遂だぞ。訴えてやる」
たしかに、普段から疑い深い小心者の恭平が、体に悪そうな見た目と、実際食した結果は見た目以上に自分の体に悪影響を及ぼしたそれが、実は偶然生み出されたものだったなどと思い至るはずがないのだ。
「おい、俺の話を聞いているのか。少しは反省の言葉を口にしたらどうなのだ」
「はぁ~」
一方のそう言われた方だが、そろそろ恭平の戯言を聞き流すことが飽きたらしく、普段と変わらぬヘラヘラとしか表現できない気持ちの悪い笑顔のままでこう応じた。
「何が反省ですか。恭平君こそ失礼千万です。さっき恭平君は私の料理のあまりのおいしさに、恍惚の表情で涙が出るくらい面白い感謝の踊りを披露してくれたじゃないですか。しかも異世界語で「おいしい、おいしい」と連呼までして。それなのに、今になって一生懸命料理を作ったこのかわいい女子高校生に対して、そういうことを言うなんてひどいです。最低です。前からわかっていましたけど、恭平君は本当に悪い人ですね」
「何が失礼千万だ。自分をかわいい女の子だとか、異世界語がどうのとか、今のお前の発言にはツッコミどころは山ほどあったが、まず何だ。その感謝の踊りというのは。俺はそのようなことはした覚えもないし、今後もする予定はないぞ。もちろん恍惚の表情にもなっていないし、こんなものを口に入れてなれるわけもないだろうが。ついでに、バカなお前にこれだけははっきり言ってやる。何が悪い人だ。悪いのは俺ではなく、お前の料理の腕とセンス。そして頭だ。だが……」
まみが作ったおいしいカルボナーラも食べ終わり、良質な油で口がなめらかになったらしい地味顔の自称天才料理人の軽やかなその言葉に、さらに頭に血が上がり、血圧その他上がってはいけない様々なものが急上昇した恭平は、自分を殺しかけたこの世のものとも思えぬ異次元物質と、それを製造した自称天才料理人に対してありたっけの毒をまき散らし、ついで間違いなくこの惨事の首謀者で諸悪の根源である自分の幼なじみを指さし、最後の力を振り絞ってこう弾劾した。
「……だが、このバカの頭よりも悪いのは麻里奈、お前だ。お前のねじ曲がった性格と、腐り切った根性が一番悪い。お前は知っていただろう。このバカメガネは、もはや料理などとは呼べないような人間が食えない代物しか作れないことを」
たしかに恭平のこの指摘は正しい。
確かに正しいのだが、だからと言って、指摘が正しければ状況が常に好転するとは限らない。
むしろ悪くなることだってある。
この場合が、その例である。
顔を真っ赤にして怒り狂う恭平を軽くいなすように、黒い笑みを浮かべた麻里奈は待っていましたと言わんばかりにこう言い放った。
「あんた、みんなの前で自分がヒロリンの専属試食係をやるって胸を張って言ったくせに、随分失礼なことを言うよね。それに契約書にだってサインしたでしょう。それで、今頃になって他人に責任を押し付けて被害者ヅラとは相変わらず男らしくないよね。とにかく、まだ一口しか食べていないのだから早く残りを食べなさいよ。完食する約束でしょう」
「くそ、あれはこの時のためだったのか。……しまった」
「ふん。気がつくのが遅いよ、恭平」
麻里奈相手に口論して勝てるわけがないことくらい当の昔に承知していたはずなのに、麻里奈が準備万端整えて待つ土俵、しかも彼女がもっとも得意とする土俵に自ら上がってしまったことに、ここでようやく気づき、恭平は心の底から後悔した。
だが、すべてが手遅れだった。
「ねえ、先生。恭平はさっきそう言っていたよね」
「うん、そのようなことを大声で言っていた。ヒロリンの料理を完食して何千杯でもおかわりするとか」
「そうそう、それから約束したことは死んでも守るとか立派なことも言っていた。それでは今すぐにそれを実行してもらおうか。それともこの場で切腹して死ぬか、橘」
この日のために数々の証拠を用意して待ち構えていた麻里奈だけでなく、すぐさま到着したこちらも栄養補給が完了し準備万端整えていた彼女の援軍まで加わり、恭平はあっというまに窮地に追いやられてしまった。
「どうした橘、早く完食してお前の得意技である『悶絶パフォーマンス』をもう一度やってみせろ。それにしてもあんな恥ずかしいものを他人に見せて、よく生きていられるな。少なくても恥を知るまともな人間なら生きていけないはずだけどな。……もしかして橘はアレか?辱めを受けることが最高のご褒美だと悦ぶという。ということは、かなりの変態だな。お前」
「うるさい」
「橘君。君は小学生の妹のパンツを覗き見て興奮するロリコンというだけでなく、心身を虐められると泣いて悦ぶ変わった趣味もあったの?」
「先生、俺はロリコンでもないし覗き趣味もないです。もちろん辱めをご褒美と悦ぶなどという名門北高男子にはふさわしくない、そのような奇怪な趣味もありません」
「またまた、隠さなくてもいいよ。蓼食う虫も好き好きというし」
「隠すなにも、ないですから。本当に」
「橘、お前ほど変態道を極めればたいしたものだと褒めてくれる同好の士もいるかもしれない。それにお前が変態であることは、創作料理研全員が知っていることだ。心置きなく変態道を歩め。ところで、お前のそれは、趣味か、それとも体質か?」
「橘君は両方かも」
「うわぁーキモい。キモすぎるぞ。橘」
「ふざけるな。俺は断じて変態ではない」
ちなみに春香が命名し、博子自慢の創作料理を口にするたびに恭平が披露することになる「悶絶パフォーマンス」とは、博子の創作料理を口に入れた直後に意識がなくなった恭平が異界のものと思われる怪しげな言語を叫びながら、体全体を使ってウツボに噛みつかれた未知の海洋性軟体動物の断末魔のような気持ちの悪い動きで、博子の料理のまずさを無意識に表現したものである。
一方、恭平に恥ずかしい「悶絶パフォーマンス」をおこなうように強いたその料理らしきものを生み出した自称天才料理人ヒロリンこと立花博子によれば、あれは「自分がつくった料理のあまりのおいしさに、恭平君が料理と料理をつくった自分に対しての深い感謝の気持ちを込めて舞った踊り」だそうである。
いずれにしても、自分自身にはそのようなことをおこなった記憶はまったくなかったのだが、博子が言うところの「恍惚の表情で舞う涙が出るほど面白いおいしい料理とそれをつくりだした天才料理人への感謝の踊り」、春香の言葉を借りれば「それを見られてはまともな人間なら生きていけないくらいの恥ずかしい悶絶パフォーマンス」なる、笑われ軽蔑されるなにかを、無意識のうちに憧れのまみの前で披露してしまったらしいことを恭平は理解した。
さらに、その直後、いや直後かどうかは怪しいのだが、とにかく麻里奈や春香だけでなく顧問である恵理子まで加わって自分が辱めをご褒美だと悦ぶ変態であるかのような印象操作までおこなわれたのだ。
「くそっ」
……このままでは絶対に終われない。なんとしてでも本当は自分が名門北高男子にふさわしい人間としての器の大きい品行方正な人間であることをまみに伝えなければならない。とりあえず、面倒な麻里奈は後回しだ。まずは、このバカに正義の鉄槌を下し……。
悔しさのあまりこぼれ落ちた涙をそっと拭った恭平は、この辱めを自分に与えた実行犯に、その罪にふさわしい罰を与えて一矢を報いようと、矛先を麻里奈から再び自分を殺しかけた凶器を製造した自称天才料理人に向けた。
「やっぱり、おかしいだろう。わざととしか考えられない。あれだけまずいものを作るのは至難の技だ」
だが、自称天才料理人の口は止まらない。
「恭平君は本当に失礼なことだけを言いますね。この天才料理人立花博子は全力で恭平君の口に合うおいしい料理を作りました。ほかでは食べられないこのすばらしい料理をおいしくなかったと思うということは、絶対恭平君の舌がおかしいです。恭平君はすぐに病院に行ったほうがいいです」
「病院に行くのは当然だ。お前のつくった食べ物ではない怪しげな物質を体に入れたのだからな。よし、そこまで言うならお前もこれを食べてみろ」
反省するどころか、すべての問題は恭平の側に存在するなどと白々しいことを言い続ける自称天才料理人の言葉にしびれを切らした恭平は大皿に大量に残るそれをフォークですくいあげて突き出した。
「ほら、食え。食ってみろ」
この瞬間、恭平は自称天才料理人が泣いて許しを請う姿を想像し、勝利を確信した彼は実はこのようなことまで考えていた。
……さて、こいつには何をさせるか。やはり、あれだな。麻里奈やこいつが大好きな土下座をさせよう。俺がこれまで何度も意味なく土下座させられた屈辱を今度はお前が味わるのだ。もっともお前は土下座するだけの罪は犯しているが。とにかく全員の前で土下座して辱められるがいい。
だが、実際にはそうはならなかった。
なぜか?
もちろん、この一言で立場を悪くしたのは恭平の方だったからである。
「は~」
それまでのヘラヘラした安っぽい笑顔を消すと、博子は深い失望という要素を大量に含んでいることを露骨に匂わすわざとらしい溜息をついた。
「恭平君」
「……なんだよ」
さて、このあとに自称天才料理人が披露したものが、後に春香が「私はこれまで、これ以上に見事な開き直る姿を見たことがなかった。そして今後もないだろう」と語った「ヒロリンの大どんでん返しショー」とも呼ばれる伝説の開き直りである。
これがその幕開けである。
「恭平君はなにもわかっていないです。本当に困ったものです」
それは人生の師が出来の悪い弟子にこの世の理を諭し聞かせるかのような、なぜそのようなこともわからないのかと言わんばかりに両手を上にかざすオーバーアクションとともに困り顔で首を振りながら語るものだった。
「なんだ。何がどうわかっていないというのだ」
「私は創作料理研究会の名誉ある料理係ですけど、恭平君は何係ですか?」
「それは、もちろん試食係だ」
「そうです。恭平君は私専属の試食係です。すなわち、それを食べるのは恭平君の仕事であって私の仕事ではありません。いわば恭平君は『私の料理の実験用モルモット』なのです。それを私に食べさせようすることこそ職務放棄そのものなのです。そもそも、恭平君が今おこなっているのは試食であって、豪華ディナーに参加しているわけではありません。なぜ恭平君はそのようなこともわからないのですか。恭平君はバカですか?いや、バカですね。大バカです。まったく情けないかぎりです。こんなバカな人と昔から知り合いだったとは私は本当に恥ずかしいです」
「うっ」
文字通り瞬殺である。
「あらら」
「勝負あったな」
「まったくだ」
こうして博子が圧倒的な格の違いを見せつけたわけなのだが、もちろんそれだけに終わるはずがない。
この時点ですでに勝負がついていたのだが、美しい笑顔を湛えて恭平の前にさっそうと登場した外見は天使のように美しいが中身は悪魔そのものであるその強力な援軍は、中身の方にふさわしい実に悪魔らしい厳しいダメ押しをおこなう。
「忘れているみたいだからもう一度言うけど、恭平の最初の仕事は、ヒロリンが作った料理を完食することだからね」
もちろんこれで終わりではない。
そしてついに繰り出す。
隠し持っていた最終兵器を。
「……そう言えば、前に恭平と契約していたよね。あの契約では、恭平がその仕事を完遂できなかったり、放り出して逃げたりしたらどうなるかが書いてあったよね。私はちょっと忘れたけど、言い出した恭平ならなんと書いてあったか覚えているはずだよね。なんと書いてあったかをみんなに聞こえるように大きな声で言ってくれる?」
めったにお目にかかれない素敵な笑顔を披露する麻里奈は、わざとらしく忘れたふりをして恭平にこう言ったが、当然こういうことは絶対忘れるはずのない麻里奈であることは恭平も十分承知している。
……くそっ、あの契約を書面にしたのは、この時のためだったのか。……いつか、いつか絶対こいつを泣かせてやる。
「切腹だろう」
麻里奈と恭平の間で交わしたあの契約の内容を知らない春香は、うれしそうにそう言うものの、それは切腹などよりも、お年頃の男子高校生にとっては、はるかに耐え難い実に恥ずかしいお仕置きである。
しかも、相手が麻里奈ということであれば、たとえどのようなものでも履行させられる。
もちろんあのお仕置きを回避できないわけではない。
だが、そのためにはあれを完食しなければならないわけであり、それも絶対に無理である。
「前門の虎、後門の狼」とはこのようなことを言うのであろう。
ここに来て、ようやく恭平も麻里奈の挑発に乗った自分の愚かさを気づくのだが、それは後の祭りというものである。
項垂れる恭平を遥か高みから見下ろした麻里奈が口を開いた。
「恭平、今日は特別に土下座して泣いて許しを請えば、あれはしなくてもいいことにしてあげるけど、どうする?」
もちろん憧れのまみの前でそれをおこないたくはない。
だが、自分にはもうそれ以外の選択は残されていないのだ。
「……それでお願いします」
屈辱に満ちたあの日から数日経った放課後。
「……だいたい何が極上トマトソースだ。トマトの味はまったくしなかったぞ。隠し味にさえなっていなかった」
「おかしいですね。ケチャップを三周もさせたのに。やっぱりもう一周させたほうがよかったのでしょうか」
「そういうレベルではないだろう。そもそも極上トマトソースと名乗りながらケチャップを使うところがすでにおかしいだろう」
「何を言っているのですか。ケチャップを使わずに、トマトソースができるわけがないじゃないですか。まったく無知な恭平君には困ったものです」
あの日の自称被害者で他称お仕置きされることが大好きな変態男子高校生と、他称加害者で自称では天才料理人となる地味顔女子高校生による、あれから何度目かの壮絶なバトルがおこなわれていた。
ちなみにこの自称天才料理人は、紆余曲折のすえカルボナーラという当初のお題とは無縁の存在である「気品漂う漆黒の自家製生パスタ❤こだわりの極上ピリ辛トマトソースとともに」なるものを作り上げてしまったのだが、どちらにしてもこの自称天才料理人の手にかかってしまえば、どのような食材が用意されたとしても、カルボナーラの範疇に入るものは出来上がらないことくらい最初からわかっていた麻里奈は笑ってこれを許していた。
さて、先ほどの続きである。
「恭平君、まずは、あの無礼な名前を取り消して、それから土下座して、泣いて謝罪してもらいましょうか」
両手を腰に当てた自称天才料理人の抗議に対して、その無礼な名前の命名者である恭平は、こう言って彼女の要求を撥ねつけた。
「なにを言う。あれこそお前がつくったあのゴミにふさわしい名前だろうが。言っておくが、あれでも俺の言いたことの百分の一にも達していない。今ほど自分の語彙の貧困さを呪ったことはないぞ」
自称天才料理人は、自分が「気品漂う絶品!漆黒の自家製生パスタ❤こだわりの極上ピリ辛トマトソースとともに」と命名した自慢の創作パスタを、恭平が勝手に怪しげな名前に変えたと怒っているわけなのだが、恭平が改名したその新しい名がこれである。
「黒い液体に浸かったドブ川の腐った匂いと奇怪な見た目が自慢らしい実に気持ちの悪い食感が永遠に記憶にこびりつく人間であれば絶対に口に入れてはいけないコーヒーかすと激辛唐辛子まみれの人類の味覚の限界をはるかに超えた宇宙一まずいこの世に存在してはいけない最悪生煮えうどんもどき風猛毒化合物」
自称天才料理人の、料理に対する無知と無理解が生んだ様々な誤解と勘違いに、失敗という調味料を大量に振りかけて出来上がったそれには、どちらの名前がふさわしいのかは言うまでもないことではあるが……。
のちに「創作料理研究会の最終兵器」と呼ばれることになる博子作の創作料理群の最初の一品はこのようにして誕生し、この後も進化、正しくは退化しながら続々と開発されていくそれらは、それらを試食する恭平から味覚や記憶だけでなく、彼が清く正しい男子高校生として生きていくことにとって大切ないろいろなものまで奪っていくことになる。
……ヒロリンは本物の天才。すべてのことでパーフェクト。唯一の例外が、彼女が大好きな料理づくりだったところが、創作料理研究会というか恭平にとっての悲劇ということなのかもしれない。私にとってそれはすばらしいショータイムではあるけれど。
……ヒロリンが料理上手になるようなことになれば、不平等すぎるこの世界をつくった神を私は一生恨むよ。
これらは、博子の料理スキルについては語られたものであり、前者は小野寺麻里奈、後者は六月に起きたある事件後に呟いた馬場春香のものとされている。
さらに、同一人物と思われる別の関係者の言葉も残されている。
……あのバカは極彩色の料理をつくろうとしていたに違いない。俺を使った実験で。そうであれば絵具かクレヨンを塩で煮ろ。それの方が、まだあのバカが製造しているものよりもずっと食えるものになるだろう。
……試食は自分でしろ。というか製造過程を確認するのは製造者の責任というものだろうが。
……化学の実験は他でやれ。ここは調理実習室だ。
……製造物責任法違反だろう。いや、これは殺人未遂か。
……これぞ、本当の飯テロだ。
こちらについては、その内容から、おそらく創作料理研究会関係者で唯一自称天才料理人がつくった料理を口にしたあの人物のものであろうことは想像できるものである。
また、最後のコメントについては、この年の北高文化祭でおこなわれた某クラブの行事に参加した多くの男性たちが病院搬送中に同様の発言をしていることが確認されている。
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個人的には、やはりこれが一番読みやすいです。
前書きはカットになるのは、少々惜しい気もしますけど。