小野寺麻里奈は全校男子の敵である 4 (縦書き版)
とりあえずは部員というか部員候補の五人が揃ったところで、最初の打合せをおこなうことになったのだが、まだ届け出を提出しておらず、学校からクラブとしての認可を受けているわけではないので、正式にはまだ同好会ですらなく、当然部室など割り当てられていない創作料理研究会の部員たちが向かったのは、彼女たちがよく立ち寄る駅前にある春香の父親が所有するビルの二階にあるハンバーガーショップ「ネフェルネフェル」だった。
これは少し先のことになるのだが、この「ネフェルネフェル」は、創作料理研究会関係者が頻繁に利用している店であることがわかると、あっという間にあの宗教の信者たちの聖地となる。
やがて、この店はその宗教団体の関係者が使い始めた「サテライト」という愛称で呼ばれることのほうが多くなり、またチェーン店であるにもかかわらず、多くのローカル・ルールが存在し、創作料理研究会部長の名前を冠したこの店のみのオリジナルメニューが多数用意されるなど、他店とはまったく違う独自の発展を遂げていくことになる。
そして、その席を巡って頻発した巡礼者同士によるトラブルを防ぐために急遽設けられたローカル・ルールのひとつによって創作料理研究会関係者以外は食事ができない場所となり、「ホーリー・オブ・ホーリーズ」と呼ばれる特別なシートとして、聖地巡礼でやってきた信者たちが、行列してでも、そこに座る自分たちの記念写真を撮りたい席こそ、この日麻里奈たちが偶然確保し、のちに彼女たちの定席となる店の中央にある六人グループが使用できるテーブル席である。
「じゃあ始めるからね。最初に役割を決めないといけないよね。まず部長は私で……」
「ん?まりんさんが部長をやるのですか?」
「そうだよ」
それぞれが注文したものを持って席に着くと、さっそく打ち合わせが始まったのだが、コーラをズルズルと大きな音を立ててストローで吸い上げると、誰からも推薦をされないうちから、自分を部長と決めて話を進めようとする麻里奈に対して、博子が意外そうな表情でそう尋ねたのだが、それにはそれなりの理由がある。
麻里奈のこれまでの行動はすべて「自分が好きな時に好きなことだけをやる」という行動規範に基づいたものであり、その麻里奈がどう考えても彼女にとっては面倒なことの部類に入る部長職などというものを自ら進んでやるなど麻里奈の人柄をよく知る博子にとっては信じられないことだったのだが、麻里奈には麻里奈の事情があった。
それがなにかといえば、このクラブで活動をおこなっていくうえでの彼女にとっての最重要事項である「食べる料理を自分が決める」の存在である。
そのためには渋々だが部長をやらざるを得ず、誰かが間違って部長に立候補しようものなら、いつものアレを発動させてでも部長職をつかみ取るつもりでもいたのだが、この創作料理研究会そのものが麻里奈のよからぬ目的完遂のためだけにつくられたようなものであり、そのようなクラブがひとたび活動を開始すればトラブル続出は目に見えており、トラブルが起こるたびに関係各所に謝罪に行かねばならない百害あって一利なしの見本のようなこのポンコツクラブの部長職などをわざわざ引き受けたいと思う物好きな者などいるはずもなく、誰もそれに対して異議を申し立てることはなかった。
「次は副部長だけど……」
今度はお洒落でもなければかわいくもない黒縁メガネをかけた地味顔の女子高校生が「ハイハイ」と、この店で一番安く、「諭吉さんどころか漱石さんだって私の財布にやってくるのは年数回だけです」などと、自分の貧乏を自慢する彼女がこの店で購入できるただ一つのハンバーガーである大きな胸に反比例するような小さな百円ハンバーガーを力強く握りしめて立候補をすると、これも簡単に了承されて創作料理研究会が誇る「悪のツートップ」の正式結成が無事完了した。
「次は料理係。名誉ある創作料理研究会の料理係はまみたんとヒロリンだよ」
「わかりました。一生懸命がんばります。よろしくお願いします」
「料理係、あ~なんと甘美な響きでしょうか。まさに料理上手な私にふさわしい称号です」
創作などという実にいかがわしい単語が付いているものの、料理研究会であるならば本来料理は部員全員でやるべきことであるはずなのだが、どうやらこの怪しげなクラブではそうではないらしい。
麻里奈曰く名誉があるらしいその料理係とやらに、まみとともに任命され博子はうれしそうに両手を上げて元気に返事をした。
だが、ここに知られていない事実がある。
実はこのエセ文学少女ヒロリンこと立花博子は、彼女の家族が人間として生きていくためには絶対に必要なのだが、立花家と博子自身の名誉にかかわるため他人にはあまり知られたくない事情により、現在家では料理をつくることが許されておらず、さらに彼女の母親からこっそりとその重要情報を耳打ちされた麻里奈の策謀によって、中学校の調理実習授業では体よく試食係なるものを押し付けられ彼女は調理自体には関わることができなかったのだ。
「ようやく私の時代がやってきました。これからは古い概念を打ち砕く時代の先を行く彩り豊かなおいしい料理をたくさんつくりますから、楽しみにしていてください」
そして、ついに実現することになったアイデア満載の料理作りに喜びを爆発させ、自分の抱負を大いに語る博子であった。
一方あの事情を知る麻里奈は、念願が叶い自己陶酔に浸る博子の言葉を聞き流しながら、自分のすぐ近くにいるある人物に目をやった。
もちろん彼女は知っていた。
それが始まればこの人物の身に何が起こるかを。
「……さて、最後は恭平だけど」
「おう」
もちろん恭平自身は試食と簡単な手伝いをするだけでよいというお墨付きを、先日の入部交渉時に部長の麻里奈から得ているので、すでに大船に乗った気でいたのだが、麻里奈に乗せられたその船というのは大船どころか実はとんでもない泥舟だったことが創作料理研究会の本格的な活動開始とともに判明する。
だが、その時にはもうその泥舟は岸から遠く離れており恭平には溺れる以外の選択肢は残されておらず、一方の恭平をその泥舟に乗せた張本人は豪華な大船に乗って恭平が溺れる様子を鑑賞し、笑い転げるという恭平にとっては不愉快極まりないことが起こるのだが、その悲惨な出来事が起こるのはもう少し先のことである。
「恭平はヒロリンがつくった料理の試食をやってね」
さて、これがその泥舟の正体である。
もちろんこれがどういうことを意味するのか、ましてこれによってこれまで以上の大いなる災いが自分の身に降りかかることになるなど、この時点ではわかるはずもないのだが、別の理由により恭平は異議を唱える。
「ちょっと待て。おい麻里奈、それは話が違うだろう」
麻里奈からは創作料理研究会に入部すれば憧れのまみのお菓子を毎日食べられると聞かされており、自分のこのクラブにおける一番の仕事と言われていた試食でも、まみが作った料理を食べるものと思い込んでいた恭平が、ここで異議を唱えるのは当然のことなのだが、それとともに、実はこれがこれから続々と自分のもとにやってくる災難を回避できる最後のチャンスでもあった。
だが、このような事態が起こることをあらかじめ予想していた麻里奈は、恭平を強引に自分の右隣に座らせていた。
そして、それは起こった。
「……恭平さん、これは私があなたのために一生懸命考えた完璧な作戦よ。あなたがまみさんではなくライバルである博子の作ったものばかり食べて『おいしい』と言ってごらんなさい。きっとまみさんは焼きもちを焼くわ。そして、まみさんはあなたにこう言うの。『橘さん、私が作ったものも食べてください』と。わかったかしら?」
恭平の耳元で囁く麻里奈がここぞという時にだけに使う大人の女性が少年を誘惑するようないつもよりやや低音の甘美な声は、ごく自然に恭平の退路を断ち、まるでローレライ伝説のように彼女が用意した泥舟へと恭平を優しくいざなった。
「なるほど。さすが麻里奈だ。気がつかなかった。まったくそのとおりだ。よし、わかった」
自分が用意したその船に乗れば、まみと過ごす明るく楽しい夢のようなクラブ活動が待っているという麻里奈がつくった甘い幻想に導かれるように、行ってはいけない世界へ踏み出した哀れな男子高校生は、やる気満々の様子で胸を張りこう宣言した。
「俺はヒロリンの試食係をやる。いや、ヒロリンがつくった料理の試食は俺ひとりにやらせてくれ」
それはこの男子高校生が一度乗ったら降りることができない泥舟に自ら乗船すると表明した瞬間であった。
「さすが恭平。わかった。恭平がそこまで言うなら、恭平はヒロリンの料理専属試食係だよ。ヒロリンもそういうことだから恭平においしい料理をつくってあげてね」
「わかりました。恭平君、私のおいしい料理を独り占めできることを感謝してください」
「おう」
「ということで、ヒロリン専属試食係に決まった恭平に拍手~」
泥舟の乗客役を自ら買って出た愚かな勇者に対して、麻里奈はまさに邪神が勇者をあくどい罠に嵌めたときに見せるような邪悪な笑みを浮かべながら、わざとらしく大きな音を立てて盛大な拍手を送ると、なにやら文字がタップリと書かれた紙を取り出した。
「じゃあ、これが契約書。主な内容は、まみたんとヒロリンが料理係。私と春香がまみたんの専属試食係。そして、恭平がヒロリンの専属試食係と雑用係」
「ん?」
「あれ?」
……肝心の恭平が気づかなかったので、ほかの三人もあえてそれを指摘することはなかったのだが、その契約書にはなぜか先ほど決まったはずの恭平の係がすでに書かれていた。
それが何を意味するのかはさておき、たかが弱小同好会の役割分担に契約書の作成とはずいぶん大仰なことと春香やまみは半ばあきれ気味にサインをしたのだが、ここでの例外である恭平は、親切で優しい幼なじみが用意してくれた憧れのまみと過ごす楽しい部活動、さらにそこから続くまみとの恋愛成就まで続く明るい未来を想像し、麻里奈に心の底から感謝をしながら嬉しそうにサインをした。
……それが実は自らの死刑執行許可書に等しいものだということも知らずに。
「それから顧問だけど……」
北高の規則ではクラブは必ず顧問の教師を置かなければならないことになっているのだが、それは部だけでなく同好会にも当てはまる。
もちろん、同好会が専任の顧問を置くことは稀でほとんどの同好会の顧問は名前だけであり、そのようなこともあって複数の同好会の顧問を掛け持ちする教師は北高ではそう珍しいことではなく、なかには生徒の懇願を断り切れずに八つの同好会の顧問を引き受けてしまった強者教師もいたりするのだが、さすがに正式には発足もしていないうえに活動内容もよくわからないこのクラブの顧問を引き受けてくれる奇特な人物を、この短期間に見つけてくるのは困難に思えた。
だが、こういうことだけは手際がよい麻里奈は、いつものように、いつどこでどのようにそれをやってきたのかはわからないものの、すでに決着させていた。
「料理研の上村恵理子先生にお願いしてあるから」
創作料理研究会の顧問を引き受けたというその奇特な人物である料理研究会の顧問上村恵理子という女性教師は、生徒たちだけなく男性同僚たちからも人気がある温厚で童顔の美人であった。
「ということは、料理研と掛け持ちということですか?その上村先生は」
着席時に博子と春香を押しのけて、すばやく麻里奈の左隣の席を確保してうれしそうに座ってからは、いつも以上に幸福感満載のすてきな笑顔を振りまいていた創作料理研究会唯一の常識人であるが、実は本物の麻里奈ラブであるまみがそっと尋ねると、チョイチョイと人差し指を軽く横に振りながら麻里奈は、悪巧みが成功したときにだけ見せる黒い笑みを浮かべながら答えた。
「違うよ。うちの専属。料理研から引き抜いた」
「えっ」
全員がほぼ同じ反応を示した。
当然である。
その上村先生とやらが、程度の差はあるものの所属している自分たちでさえもそう思っているこの怪しげなクラブの顧問を引き受けただけでも十分驚きだというのに、由緒正しき料理研究会の顧問を辞めてまで活動内容も定かではない創作料理研究会の専属顧問になるとはいかなる了見なのか。
「……それはすごいですね」
誰がどうすごいのかはそれぞれ違うようであるが、とりあえずは思わずその言葉を口に出してしまったまみだけでなく、ほかの三人もおなじような感想を持っていたわけなのだが、どうやってそれが実現したのかという肝心の部分を尋ねることについては諸事情により三人が躊躇するなか、麻里奈よりはほんの少しだけ常識はありそうな黒縁メガネをかけた地味顔のエセ文学少女ヒロリンこと立花博子がわざとらしい小さな咳払いの後に、遠慮のかけらもなく思ったことを堂々と口にした。
「それで、今回はその先生のどんな弱みを握って脅したのですか?」
これはいつものように、どこかで見つけてきた恵理子の弱みを握っておこなう「ねごしえーしょん」と呼ばれる交渉の結果に違いないとは、麻里奈とつきあいが長く、麻里奈がこれまでおこなってきた数多くの悪事に深く関わってきた彼女であれば当然辿りつく結論といえるだろう。
だが、どうやら今回は違ったらしい。
あくまで麻里奈基準ではあるが。
「失礼なことを言うヒロリンだね。脅してなんかいないよ。上村先生は兄貴と高校が一緒らしかったので、『うちの専属顧問をやったら、兄である小野寺徹とデートさせてあげる。その後についても、創作料理研究会に対する貢献具合によってはゴールインまで妹として全面協力するよ』と言ったら、『どうか顧問をやらせてください』と土下座して泣いて頼まれたから、しかたなく上村先生にお願いすることにしただけだよ」
「ブハァ~」
麻里奈の説明の後半部分で、ちょっとしたアクシデントは発生した。
博子が飲んでいたコーラを盛大に吹き出したのだ。
「どうしたの、ヒロリン」
「吹き出すほど面白い話でもなかったよ。コーラを吹きかけられた橘の顔だけは面白いことになったけど」
「俺は全然面白くないぞ。ヒロリンよ、俺になにか恨みでもあるのか。言っておくが、悪の手先であるお前は俺に恨まれることを山ほどしているが、北高男子の鑑のような善良な俺は、お前に恨みを買うようなことは一度たりともしていないからな」
「恭平君の今の発言には大いに異議を唱えたいのですが、とりあえず今回はすいません。それにしても、麻里奈さんのその言葉を信じて顧問になってくださった上村先生には本当に申しわけないとしか言いようがないです」
この時、この場にいるほぼ全員が、博子のその言葉は、麻里奈のペテンの被害者を憐れんだものと素直に受け取った。
この時麻里奈だけは他の三人とは違うちょっとしたいたずらに成功した子供のような笑みを浮かべていた。
もちろん、それは麻里奈が博子の言葉の意味を正確に理解していたからなのであるが、麻里奈以外の残りの部員たちが、地味顔のエセ文学少女が口にしたこの言葉の本当の意味を理解するのは、これから約二か月後に起こるある事件の時まで待たなければならない。
さて、話を元に戻すと、その上村先生とやらが、顧問をやらせてくださいと土下座して泣いて頼んだ事実など、この世のどこにも存在しないのは、いつものことであるのだが、それ以外にも麻里奈がその情報をどうやって入手したのか、七歳年上の兄小野寺徹には上村先生とデートをすることについての了解を本当に取っているのかなど数々の疑問と疑惑は残るものの、それはそれとして、これとほぼ同じ内容のペテン話が、ごく最近麻里奈の周辺であったのだが、そのもうひとつのペテン話の被害者は、愚かにもそれにはまったく気がつかず、それどころか恥ずかしげもなく思ったことを堂々と口にした。
「それにしても、確かに徹さんは麻里奈と違って見た目だけでなく、中身も男も憧れる本当にカッコいい人だけども、それでも男に釣られてホイホイ麻里奈がつくった怪しげなクラブの顧問を引き受けるとは間違いなくアホだな。その上村という教師は」
あまりにも恥ずかしすぎる恭平のこの言葉にいち早く反応したのは、先ほど自らがテーブルにまき散らしたコーラを拭いていた博子だった。
「それは言えますね。まったく恭平君の言う通りです。こんな恥ずかしい罠に引っかかる人がこの世にまだいたなんて信じられません」
彼女に続くのが、恭平がこの怪しげなクラブに迷い込むきっかけとなったあの写真を撮影し、さらにモデルであるまみの了承を得ないままいかがわしさ満載のものに弄った張本人、いわば麻里奈のペテンの片棒を担いだ人物である。
「まったくだ。こんな恥ずかしいペテンに引っかかる愚かなヤツは破廉恥罪で今すぐに死刑すべきだとは思わないか、橘」
ふたりとも恭平の言葉に賛意を示しているようにも聞こえるのだが、あきらかに同じペテンにかかった恭平のことを皮肉ることが主目的であり、まみも微妙な微笑みによってどうやらそのどちらにも同意したようであった。
もちろん麻里奈も同様だったのだが、「恭平、あんたはそれ以上だけどね」という心の声を口どころか表情のどこにも出すことはなく、ニッコリと笑っただけで終わり、この日の会議は終了し解散となった。
その後、いつも一緒に帰る博子が買い物に行くために別行動になったため、麻里奈は二軒隣に住む恭平と帰ることになった。
道すがら何やら話し合うふたりは、遠目には美男美女のカップルが帰り道で愛を語らっているかのようにもみえたのだが、実際におこなわれていたのは、小心者で疑い深い恭平が、自らにとっての最重要案件について麻里奈に執拗に確認しているという、ロマンチックな雰囲気など微塵も感じさせない無粋きわまりないものだった。
もっとも、そのすべての責任を恭平に押し付けるというのは酷というものであり、もし彼に弁明の機会があれば、「これは麻里奈の約束不履行のおかげでひどい目に遭った数多くの苦い経験に基づいておこなっているやむをえないことであり、特に今回は学校どころか地域で一番かわいいという評判である全校男子のアイドル松本まみとのデートがかかっているのだから、自分が念には念を入れるのは当然のことである」という公平にみれば正しいといえる主張をしたに違いない。
さて、その会話だが、ちょうど佳境に入っていた。
「……俺がお前とヒロリンがつくったそのなんとか研究会で仕事をしたら、松本とのデートのセッティングを間違いなくしろよ。今度は誤魔化されないからな」
「なんとかじゃなくて創作料理研究会。自分が三年間お世話になるクラブの名前くらいちゃんと覚えなさいよ。とにかく、あんたがヒロリンの作った創作料理を毎回完食して『おいしい』と言ってくれれば、ちゃんとまみたんとデートさせてあげるから、まずは試食の仕事をがんばりなさい」
「約束だぞ」
「あんたこそ約束したことをちゃんと守れるの?なんといっても、あんたは幼稚園どころか小学校に入ってからだって、毎日のように泣きながら私の後に隠れて、女の子に守ってもらっていた過去を持つ世界で一番恥ずかしいヘタレ男だから、また泣きながらこそこそ逃げていきそうだよね。言っておくけど、もし今回約束を破ったら、あんたが毎回お漏らししながら私のところまで逃げてきた恥ずかしい過去を、北高どころか南校にも熨斗付きで宣伝してあげるからね」
幼稚園だけでなく小学校に入ってからもよくいじめられ、当時たとえ上級生の男子相手の喧嘩でも、兄の徹や博子とともに五歳から習っていた護身術を駆使して圧倒的勝利を重ねていた麻里奈に毎日のように助けてもらっており、「麻里奈のスカートの中に隠れる最弱男子」、「お漏らし恭平」などと、女子にまでバカにされていた触れられたくない幼年時代の黒歴史を、麻里奈に公道上で披露され、その場にふたりしかいなかったにもかかわらず、掻きたくもない汗をタップリと掻いた恭平は、言わなくてもいいことをつい口走ってしまった。
「失礼なことを言うな。現在の俺はお前と違って約束したことは必ず履行する信用がおける男だ。心配するな。たとえヒロリンがどんなまずい料理を作ろうとも三年間毎回あっという間に完食して大きな声で美味しいと十回でも二十回でも言ってやる。もし俺がこの約束を守れなかったりクラブから逃げ出したりしたら毎日全裸で家と学校を往復してやる。そのかわりお前も約束を破ったら全裸で学校に行かせるからな。今俺が言ったことをよく覚えておけ」
「わかった。その言葉よく覚えておくわ。いや、こういう大事なことは書面で残した方がいいよね」
「いいだろう。これで逃げられないぞ」
「そうだね。まったくそのとおり」
この後にふたりはこの日二件目の契約を結ぶことになるのだが、これから起こることを考えれば、恭平にとってこれは本当にやってはいけなかった悪魔との契約だったと言えるだろう。
彼自身も「自分のこれまでの人生の中で最悪の出来事があれだった。あれさえなければ、俺は正当な評価を受け立派な北高男子として称えられて卒業式を迎えられたはずである」と、強い後悔の気持ちを滲ませた言葉を高校卒業間際に残している。
なお、ふたりが結んだこの契約は高校卒業後も効力を持ち続け、最終的にはこれから九年後ふたりが新たな契約を結ぶまで続くことになるのだが、ふたりの力関係そのものは、新契約締結後も今とまったく変わらなかったのは言うまでもないことである。
予告していた縦書き版になります。
縦書き」機能を利用してお読みください。
個人的には、やはりこれが一番読みやすいです。
前書きはカットになるのは、少々惜しい気もしますけど。