解答篇
「花房くん。いくつか尋ねたいことがあるんだけど」
カップの縁にスプーンを立てかけ、碓氷はおもむろに口を開いた。パーマ頭のホルン奏者は、ビー玉のような丸っこい両目を瞬かせる。
「盗難事件が発生した夜、きみは副部長の福本さんと飲みに行ったんだよね」
「ええ」
「福本さんとは、何時頃まで一緒にいたの」
「七時三十分に店に入って、二時間いたので九時半までですね。あ、もしかして僕と福本さんのアリバイ確認ですか」
「アリバイってのも大袈裟だけどね。ただ、犯行の要所を見ていくと外部犯より内部犯説を考えるほうが自然に思えるんだ。吹奏楽部に無関係の人間が、パートリーダーとかケースのタグキーホルダーとか知っているとは考えにくい。盗んだあと律儀に戻したのも、自分が吹奏楽部関係者で、必要に迫られていたとはいえ楽器の大事な一部を盗んでしまったことに罪悪感を抱いていたから。何より、吹奏楽部が第二講堂の控え室と倉庫を部室代わりに使っていることは、部員以外で知っている人は多くないだろうと、そう話していたのはきみだ」
「墓穴を掘ってしまいましたね」ぺろりと舌先を出し、茶目っ気のある反応を見せる花房青年。
「でも、犯人が鍵を借りたのは八時過ぎのことですよ。その時間、僕たちは居酒屋にいましたし、居酒屋と大学は車で十分くらい、徒歩だと倍のニ十分はかかります。僕も福本さんも、そんな長い時間席を離れたことはありませんでした」
「二人が共犯でなければ、ね」
「動機がありませんよ、僕にも福本さんにも」青年は亀のように首を竦める。
「福本さんなんて、マウスピースを盗まれて一週間練習できなかったことにめちゃくちゃ腹を立てていましたからね。福本さんはプライベートで友人とジャズグループを結成していて、そこで使っている楽器は実は部活のトロンボーンなんです。近いうちにそのジャズグループのミニコンサートが予定されているらしく、貴重な練習の時間が奪われたって嘆いていましたよ」
「実はコンサートに出たくないために、わざと盗難事件を仕組んだって仮説はどうだろう。自分のマウスピースだけ盗まれるのは自作自演を怪しまれるかもしれないから、パートリーダーという共通のターゲットをつくり出した」
「あの怒りっぷりは、演技には見えなかったけどなあ」碓氷の新仮説に、パーマの青年は素直に驚きの声をあげる。
「もし、きみと福本さんのアリバイが確かなものだとすれば、もう一つ確認したいことがある。最初に盗難の罪を着せられた男子学生の見た目を教えてほしい」
「見た目って顔立ちという意味ですか。それとも、全体的な雰囲気とか」
「大雑把な特徴でいいんだ。眼鏡をかけているとか、体型は細身とか、よくパーカーを着ているとか」
「僕は知り合いじゃないんで、服装の好みはよく分かりませんけど――言われてみれば、黒縁の眼鏡をかけていました。僕よりもちょっと背が高くて、どちらといえば細身ですかね。あまり際立った特徴のない、何となくぼんやりした印象だなって僕は思いました。それが事件と関係あるんですか? 彼は濡れ衣を着せられただけなんじゃ」
「だからこそ、彼がどんな外見をしているのかが重要なんだ。学生証の写真とあまりに見た目が違ってしまうと、鍵を借り出したときに管理人さんに怪しまれるリスクがあるだろう。多分犯人は、できるだけ自分が変装しやすい、背格好が自分と似ている学生に狙いを定めたんだろうね」
花房青年は、探偵がいわんとしていることを必死に読み取ろうとしているのか、ビー玉のような瞳を対面の男にじっと向けている。
「楽器を演奏するとき、最初にマウスピースだけで練習する方法があるらしいね」
出し抜けに飛び出た碓氷の言葉に、ホルン吹きの若者は両目を忙しく瞬かせた。
「蒲生から聞いた話を思い出したんだ。いわく、初めて管楽器を演奏するときには、いろんな楽器のマウスピースを試し吹きしてみて、吹くときの口の形なんかを見てどの楽器が適しているのかを見分けることもあるらしい、と」
「よくご存知ですね。僕が中学生のときに所属していた吹奏楽部の顧問は、それで部員の担当パートを決めていましたよ」
「ということは、だ。たとえば一定の場所から動くことができず楽器を手にできなかったり、そもそも楽器を演奏すること自体が体に負担となったりする者でも、あらゆる楽器のマウスピースを揃えるだけで楽器の仮体験ができるわけだね。だから、犯人はすべてのパートからマウスピースを盗んだ。犯人がほしかったのは、九個のマウスピースではなく九種類のマウスピースだったんだ」
蒲生の友人をじっと凝視しながら、花房青年は真一文字に結んでいた唇を開く。
「碓氷さんが言いたいことは分かります。でも、それを本人に問いただす勇気は僕にはない。だって、彼は誰よりも音楽を愛し、楽器を愛しているんです」
「ああ。悪気があったわけじゃないんだろう。だからこそ、すべてのマウスピースを元の綺麗な状態のまま返したんだ。マウスピースが演奏者にとってどれほど大事なものか、彼が一番理解しているだろうから」
「僕は――僕は、今の話を部の誰かに打ち明けるべきなのでしょうか。それとも、誰にも告げないまま自分の中に仕舞っておくべきでしょうか」
青年は、膝の上で両の拳をきつく握る。己に突きつけられた選択にひどく戸惑っているようだった。
「花房くんがどちらを選択しようとも、誰もきみを責めはしないさ。ただ」
すがるような目で見つめるホルン奏者に、碓氷は微かに笑んだ口元の真ん中に人差し指を当ててみせた。
「沈黙によって大事なものが守られることも、時にはあるかもしれない」
それから幾日かが過ぎたころ、碓氷は蒲生に「マウスピース盗難事件」について近況を尋ねた。蒲生の話によれば、結局盗みの犯人は見つからないまま真相は迷宮入りになりそうとのこと。また、新渡戸部長の妹は現在入院しているところよりも大きな病院に移り、そこで手術が行われることが決まった。退院の日取りが決まれば、部長率いる部員一同で祝いをする話も進められている。彼女が憧れの兄のように音楽で人を笑顔にする日が来るのも、遠い未来の話ではないだろう。