問題篇
タイトルだけお気に入り。真波がかつて吹奏楽部に所属していたことから着想を得ました。
「蒲生先輩から聞いたんです。事件の詳細を話すだけで、喫茶店の椅子に座ったままたちどころに真相を言い当てる名探偵みたいな同級生がいると」
テーブルから僅かに身を乗り出し、黒髪天然パーマ頭の青年は対面に座る碓氷に熱っぽい視線を送る。
「それで、僕が今遭遇している事件についてあなたの意見をうかがいたくて、蒲生先輩に今日の約束を取りつけてもらったわけです」
「はあ――ところで、僕はきみと蒲生との関係をほとんど聞かされていないんだけど、よかったらもう少し詳しいところを教えてもらえないかな。ええと」
「ハナブサです。お花見の花に阿部公房の房で花房」青年は間髪を入れず答える。
「花房くん。僕たちと同じ大学で、今三年生なんだってね」
「はい。僕の兄がもともと蒲生先輩と親しかったんです。兄は僕と同じ吹奏楽部に所属していて、蒲生先輩は推理小説研究会だったから一見接点はなさそうですけどね。兄と蒲生先輩が知り合った経緯は僕もよく知らないのですが、とにかく兄を通じて何度か蒲生さんとお会いしたことがあったんです」
「花房、ね。蒲生にそんな知り合いがいたのか」
遠い記憶を探るように、碓氷は宙を見上げる。その視線の先では、クラシカルな趣のシーリングファンライトがくるくると静かに回転していた。碓氷の目はしばらくライトの羽根の動きを追っていたが、やがて記憶の掘り出し作業を断念するように首をゆっくり振ると目の前の青年に視線を戻した。
「話を聞く分には構わないけど、花房くんが蒲生から聞いた僕の評価に関してはあまり期待しないほうがいい。あいつは物事を誇張して伝える癖があるから」
「それは謙遜ですね。蒲生先輩の名言にこんな言葉があるんですよ。『謙遜するやつほど有能だ』」
花房青年は人の良さそうな笑みを浮かべながら、傍を通りかかったウエイトレスに珈琲を二つ注文した。「迷い言、の間違いだろう」という碓氷の独り言は、青年の耳には届いていないようだった。
あまり知られていないのですが、実は僕たちの大学の吹奏楽部には正式な部室がありません。というのも、第二講堂が主な練習場所で、部室の代わりに第二講堂の控え室と倉庫が一つずつ、優先的な使用を許可されているからなんです。
二週間前のことです。部員の楽器一式を保管している第二講堂の倉庫で、盗難事件が発生しました。盗まれたのは楽器のマウスピース――楽器の吹き口にあたる部分のことです。このマウスピースだけが、なぜか九個、楽器ケースの中からなくなっていたんです。
楽器というのは、マウスピースと本体を組み合わせることではじめて音が出ます。なので、マウスピースがないとまともに練習もできないわけです。
当然、一体誰が盗んだのかという話になるのですが――ええ、鍵を借り出すときの借り出し名簿で犯人が分かるんじゃないかってことですよね。僕も真っ先に疑って確認すると、盗難が発覚した前日、最後に第二講堂と倉庫の鍵を借り出したのは吹奏楽部とは全然関係のない男子学生でした。借り出された時間は、夜の八時過ぎ。サークル棟や講堂の鍵は、大学内の学生や講師であれば夜九時まで自由に借りることができます。人気のない隙に盗みに入るのは造作もありません。
ただ、本人に問い詰めたところ『知らない』の一点張りで。突っ込んでみると、盗難事件の数日前に学生証を紛失したというんですね。ええ、犯人はそいつから学生証を失敬して、鍵を借り出すときにその学生証の名前と学生番号を名簿に書いたのだと僕たちも考えました。学生証を盗まれた彼を犯人と確定するには、証拠不十分だったというわけです。
犯人以外で倉庫を最後に使ったのは、僕たち吹奏楽部のメンバーです。その日もいつも通り、第二講堂で練習していました。倉庫と講堂の鍵を管理していたのは福本さんという副部長の男の先輩です。というか、基本的に鍵の借り出しと返却は福本さんの担当なんですね。
練習を終えたのは、夜の七時過ぎでした。その日、僕は福本さんと飲みに行く予定があったので、倉庫や講堂内の戸締りをチェックして二人で鍵を返しに行きました。福本さんが倉庫にも講堂にも鍵をかけたところを、僕はしっかり見ています。福本さんが鍵を掛け忘れた可能性はゼロです――そうですね。あくまで、僕が福本さんを庇っていなければの話です。
次の日、最初に倉庫を訪れてマウスピースがなくなっていることに気が付いたのも福本さんでした。ちなみに福本さんはトロンボーンのパートリーダーです。福本さんはすぐに部長の新渡戸さんに連絡をして、とりあえず講堂内の戸締りができていたかを見て回って。そうこうしているうちに他の部員も講堂にやって来て、いよいよ事件が明るみになったのです。
「音楽や吹奏楽に疎いから質問させてもらうけど、パートリーダーというのは?」
碓氷の開口一番の疑問に、花房は歯切れよく受け答えする。
「パートというのは、各楽器ごとに構成されるグループのことで、パートリーダーは各パートのリーダーです。フルートパートやクラリネットパート、トランペットパートなど色々あります。現時点、うちの部は管楽器だけで九つのパートがあってそれぞれパートリーダーが一人ずついるので、盗まれたマウスピースの数は九個というわけです」
「オーケストラなんかの団体には、打楽器とか弦楽器とかもあるよね」
「うちにも打楽器や弦楽器パートはありますよ。ただ、彼らのパートで盗まれているものは何もなかったそうです。被害に遭ったのは、マウスピースを使う管楽器だけでした」
「パートリーダー以外で、何か盗まれた部員は」
「いません。倉庫には部員の楽器以外にも、楽譜とかチューナー(調律の際に使う機器)とかメトロノームといったものがまとめてありますが、パートリーダーのマウスピース以外に盗まれたものはありませんでした。あ、もう一つちなみにですが、僕はホルン担当ですがパートリーダーじゃありません。なので、今回はからくも直接的な被害は免れました」
「楽器の吹き口だけを盗む事件、ね。ところで、事件が起きたのは二週間前と言っていたけど、そのあと盗まれたマウスピースはどうなったの」
「そこが重要ですよね。実はちょうど一週間前、盗まれたマウスピースすべてがケースに戻ってきたんです。九個ともきちんと使える状態で、今のところ練習に支障もありません」
碓氷と花房青年は、まったく同じタイミングで珈琲カップに手を伸ばす。ブレイクタイムで数分の沈黙が訪れたあと、碓氷は椅子の背もたれにゆったりと身を預けて思考体勢に入った。
「事件を整理すると、三つの大きな疑問が挙げられる」
「おお、ほんとに探偵みたいだ」ぱっと顔を明るくし興奮気味の声を出す依頼人。碓氷は不本意そうにほんの少しだけ顔をしかめながら、
「第一に、何のためにマウスピースだけを盗んだのか。第二に、なぜパートリーダーの分だけが狙われたのか。第三に、盗まれたマウスピースはなぜ一週間後に戻ってきたのか」
「第一の疑問は正直ちんぷんかんぷんですが、第二と第三の疑問についてはちょっと考えがあります」
「興味深いね。当事者の推理をぜひ拝聴したい」
促された相談者は、たっぷりのミルク入り珈琲を半分まで減らすと小さく咳払いを一つ。
「まず、なぜ盗まれたマウスピースがパートリーダーのものだけだったのか。これは単純に、犯人が必要としていたマウスピースの数がパートリーダーの数、つまり九個だったからではないでしょうか」
「それならば、パートリーダーのものじゃなくてもいいだろう。それぞれのパートには、二人以上の奏者がいるんじゃないのか」
「ファゴットという木管楽器と、ユーフォニアムとチューバという金管楽器はパートリーダーしかいませんが、そのほかのパートはたしかに二人以上のメンバーがいます。ただ、その疑問は楽器ケースによって解消されるんです」
「楽器ケース?」
「はい。パートリーダーの楽器ケースには、専用のタグキーホルダーが付いているんです。タグにはパート名とパートリーダーの名前が書いていて、どの楽器ケースがどのパートのものか一目瞭然です。けれど、パートリーダー以外のケースはパートがすぐに判別できる目印がありません。つまり、パートリーダーの楽器ケースをターゲットにすれば、すべてのパートのマウスピースを確実に盗み出せるのです」
「なるほど。すべてのパートからマウスピースを一つずつ失敬したいときには効率的な方法だね。マウスピースを戻すときでも、パートリーダー以外の奏者だとどのケースから盗み出したかいちいち覚えておくのも面倒だ」
「犯人は合理主義というか、効率第一の考えの持ち主なのでしょうか」
「そんな人間は、マウスピースを十個近くも盗み出すなんてことをまずしないんじゃないかな」苦笑を浮かべる碓氷に、依頼主は「それもそうか」とあっけらかんと笑ってみせる。
「次に、なぜ盗まれたマウスピースが一週間後に戻ってきたのか。これも単純に、犯人にとってマウスピースが一週間で用済みになったからだと考えられます」
「最初から、目的を果たせば返す前提だったのか。とすると、僕の想像は早速外れたことになるな」
「碓氷さんの想像とは?」眉にかかった癖のある前髪をいじりながら、花房青年は問う。碓氷は小さく肩を竦めると、
「犯人は、てっきりマウスピースを盗み出して金儲けを企んでいるのではと思ったのさ。ターゲットがパートリーダーだったのは、メンバーの中でも高価な楽器を所有していそうだから。パートリーダーをするくらいなら楽器に拘っているのでは、とね」
「マウスピースを売りさばいて臨時収入にするのですね。実は、蒲生先輩もそんな推理を組み立てていたんですよ。でも、碓氷には速攻で否定されるだろうなとぼやいていました」クスクス笑いながら珈琲を飲み干す青年。蒲生の大学来の友人は額に手を当て首を振ると、依頼人に聞こえないほどの小声で「悪い癖が出たな」と忌々しげに呟いた。
「補足すると、僕たちが使っている楽器のほとんどは大学の所有物です。中には自分で楽器を購入した人もいますが、多くは部内で代々受け継がれているもので、取り立てて高価でもなさそうですよ。ずっと使い続けているものだし、むしろ売ったところで大した値段にはならないかもしれません」
「そもそも、マウスピース九個よりもてきとうな楽器一つを売るほうがよほど金になるだろうな」
碓氷はあっさり自説を却下すると、
「パートリーダーの中でマイ楽器をもっているメンバーはいないの」
「いえ、たしか新渡戸さんは高校時代から吹奏楽部に入っていて、自分で楽器を買ったと話していました」
「新渡戸部長?」
「ええ。新渡戸さんは、僕と同じホルンパートでパートリーダーなんですよ。とても練習熱心で、部内でも生粋の音楽好き。趣味でも市民楽団に入っていて、アマチュアとは思えない実力の持ち主なんです」
「ふうん。そんな人からすれば、今回のマウスピース盗難事件はさぞショッキングだったろうね。無事に戻ってきたとはいえ」
ホルン奏者の青年は大きく二度頷いた。
「まったくです。新渡戸さん、よく言っていますから。『音楽は純粋で、美しく、人の心に大きな感動と勇気を与えるものだ』って。彼にとって、音楽は人生の支えであり汚されたくない清純なものなんです。妹さんも音楽が好きで」
「妹がいるの」安楽椅子探偵の興味は、マウスピース盗難の謎よりも吹奏楽部の面々に移りつつあった。
「ええ。ただ妹さんは病気でずっと入院生活でして。時々病院の庭とかで新渡戸さんが演奏を聴かせているんです。妹さん、『病気が治ったらお兄ちゃんみたいにかっこよく楽器を吹いてみたい』とよく話しているそうです」
碓氷は、僅かに残った珈琲に角砂糖をひとつ投入すると、むっつり黙り込んだままスプーンでかき回し始めた。頭の中に浮かぶ謎の塊を溶かそうとするかのように、砂糖の粒子が完全に消えてもなおかちゃかちゃ音を立てて回し続けていた。