6 天使が舞い降りた
闘技場での悶着の後、コルトー侯爵家の馬車で私をアマート公爵家屋敷まで送ってくださったダリオ様が、どうしても今日の件を私の両親に謝罪したいと仰るので、我が屋敷の客間にお通しした。ゴリちゃんも一緒である。
ダリオ様はすでに何度もいらしたことがあるが、ゴリちゃんはアマート公爵家に来るのは初めてだ。分かり易く緊張しているゴリちゃん。
「ゴリちゃん、そんなに畏まらなくても大丈夫よ。私の両親は堅苦しい人達ではないから安心して」
「う、うん」
「やぁ、待たせたね。コルトー侯爵」
父と母が客間にやって来た。
「アマート公爵、奥様、突然の訪問をお許しください」
「かまわんよ。そちらは御子息のグレゴリオ君かな?」
「はい。私の長男グレゴリオです。グレゴリオ、ご挨拶を」
ガッチガチのゴリちゃん。頑張って!
「グレゴリオ・コルトーです。よろしくお願いします」
緊張のあまり、やや上ずった声で挨拶するゴリちゃん。
「まぁ、まぁ、まぁ! なんて可愛らしいんでしょう! 我が家に天使が舞い降りましたわ!」
いきなり母がゴリちゃんに陥落した。キラキラした目でゴリちゃんを見つめる母。気持ちは分かりますわよ、お母様!
ゴリちゃんは母の発言に真っ赤になってしまった。可愛い!
「落ち着きなさい。グレゴリオ君がびっくりしてるじゃないか」
父が母を窘める。
「あら、私としたことが。つい興奮してしまいましたわ。おほほほ」
「グレゴリオ君。私がジェンマの父、レアンドロ・アマートだ。ジェンマのことを『母上』と呼んでいるそうだね。ジェンマはいつも君の話をしているよ。ジェンマは君のことが可愛くて堪らんらしい」
「えっ? そんな……」
ゴリちゃんは恥ずかしそうに身を竦めた。
「ジェンマの母のイヴァンネですわ。グレゴリオ君、どうぞよろしく。ジェンマだけでなく私とも仲良くしてね」
「は、はい」
ゴリちゃんの緊張も少し解けてきたようだ。
「ジェンマ、お前その頬はどうした?」
目敏いですわね。さすがお父様! 私の頬がほんの少しだけ赤味を帯びているのに気付くなんて。
「そのことでお詫びに伺ったのです」
ダリオ様が切り出した。
ダリオ様は、今日の闘技場での子爵家令嬢との悶着の一件を説明し、父と母に謝罪した。
「私が一緒にいながらジェンマ嬢をこのような目に遭わせてしまい、本当に申し訳ありません」
深々と頭を下げるダリオ様。それを見てゴリちゃんまで一緒に頭を下げている。
「ごめんなさい。僕も側にいたのに母上を守れませんでした」
父と母は困惑した様子で顔を見合わせている。ゴリちゃんまでそんな風に謝罪するとは思ってもいなかったのだろう。
「ダリオ様もゴリちゃんもお顔を上げてください。お二人が謝ることはありませんわ。ねぇ、そうでしょう! お父様、お母様」
父が頷きながら言う。
「ああ、二人が謝る必要はない。子爵家には我がアマート公爵家からも絶縁を申し渡すことにしよう。そこまですれば、さすがにその失敬な娘も侯爵やグレゴリオ君に近付かないだろう。そしてジェンマにもな」
「公爵家にまでご迷惑をおかけして申し訳ありません。けれど、そうしていただけると助かります」
ダリオ様がまた頭を下げる。ゴリちゃんも慌てて一緒に頭を下げる。
「ダリオ様もゴリちゃんも、もうやめてください。この話はお終いにしましょう。ゴリちゃんは今日、剣技大会でベスト8になったのですよ。せっかくですから楽しい話をしましょう!」
「そうね。グレゴリオ君の活躍が聞きたいわ」
母がアシストしてくれた。
私は剣技大会の話を始めた。
「ゴリちゃんは自分よりずっと身体の大きい子相手に圧勝でしたのよ! 動きが速くて正確で、私のような素人が見てもゴリちゃんは身体能力がとても高いことが分かりましたわ」
ゴリちゃんは褒められて嬉しそうな表情になった。良かった。私はホッとした。
談笑は和やかに続き、ゴリちゃんはすっかり私の両親と打ち解けた様子だ。
ダリオ様とゴリちゃんが帰る際には、母がゴリちゃんの手を取って、
「また遊びに来てね。待ってるからね」
と繰り返し、父が苦笑いをしていた。
****************
それから数日後。
「ジェンマ、話がある」
父が私を書斎に呼んだ。
「お父様、何のお話でしょう?」
「……ジェンマ。実はマリウス王太子殿下の事なのだが」
「マリウス様がどうかされたのですか?」
「リリアとの仲が悪化しているようだ。まだ正式に婚約もしていない段階だから、二人の関係が終われば殿下とリリアはそれまでだ」
えっ? 二人の仲が悪化?
「マリウス様はあんなにもリリアにご執心だったではありませんか?」
そう、私との婚約を解消するほどに。
「うむ。だがまぁ、リリアという女が王太子妃に相応しくないのは誰の目にも明らかだし、殿下の目が醒めるのも時間の問題だったのかもしれん。ただ二人の不仲を決定付けたのは、ジェンマ、お前のノートをめぐる諍いだ」
は? なぜ、そこで私が出て来るの? 「ノート」って王妃教育のノートのことよね?
「どういうことでしょう?」
「お前が作った王妃教育のノートが引き金になったのだ。王宮に届けられた数十冊のノートをリリアに渡す前に、殿下はその中身全てに目を通したらしい。お前がいかに真剣に勉強していたか、ノートを見れば一目瞭然だったろう。殿下はそれをリリアに渡した。リリアがそこで奮起して頑張れば問題は無かったのだろうが、あの女は渡されたノートを床に叩きつけて癇癪を起したそうだ。『自分には無理! ジェンマ様と比べないで! 王妃教育なんて受けなくても結婚できるでしょ?』というような事を言ったらしい」
えーっ!? 私がせっかく送ってあげたノートを!? リリア許すまじ!
「殿下もリリアのその姿を見てようやく気付いたのだろうな。ご自分の過ちに。リリアが床に叩きつけたノートを更に足で踏み付けた時に、殿下はリリアに手を上げたそうだ」
ウソ?! あり得ない! マリウス様は優しいお方だ。決して女性に手を上げるような方ではない!
「まさか! マリウス様は何があっても女性にそのような振る舞いはされませんわ!」
「私はこの話を陛下から伺った。陛下はマリウス殿下から直接話を聞かれているのだ。殿下は『ジェンマが必死に勉強した証を、そしてそれを譲ってくれたジェンマの好意をリリアは叩きつけて踏みつけた! 我慢が出来ずに手を上げた』と陛下に話されたそうだ」
マリウス様がそんなことを……
それが事実だとすれば、マリウス様は今、随分と精神的に追い詰められているのではないだろうか?
手を上げてしまうほどリリアに幻滅したのだ。リリアのような女に入れあげた自分の過ちに気付いたなら、次に襲ってくるのは後悔だろう。
リリアに夢中になって失った信用、友人、そして私という婚約者……今のマリウス様は独りだ。ご両親である陛下と王妃様すら私との婚約解消以降はマリウス様と距離を置かれ、弟君である第2王子に肩入れされていることは周知の事実――
私が心配する筋合いはない。わかっている。もう私には関係のないこと。マリウス様と私はとっくに終わっているのだ。
なのに、どうしてこんなに胸が苦しいの?
マリウス様、大丈夫かしら……
独りで、今、何を想っていらっしゃるの?