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「ゼルダの伝説 ブレスオブザ・ワイルド」はそのように、世界を生きたものとして見る事を教えてくれた。世界が変化しつつ動いている事は非常によくできた事に違いない。これはターナーの絵を通してロンドンの霧が、自然の美として見えるのに似ている、と思う。
まとめるならば、僕らはそもそも、世界をありのままに見ていない。あるいは、ありのままとは今の自分のフィルターを通じて世界を見ている事を指す。青いフィルターが貼ってある眼鏡をかけた人物が世界を見た時、彼は「世界は青い」と言う。それは真実だ。僕はそのような人間を沢山見てきた。自分の眼鏡にかかったフィルターだけはどうしても目に入らない。そこで世界は全て「青色」だと信じ、他人が、「世界はそんな色をしていない」と言うと怒り出す人々を。だが、彼は嘘を言っていない。彼にとって世界が青色に見えるのは完全に真実であるし、それ意外には考えられない。彼が忘れているのは、そのフィルターを自ら剥がす事ができるかもしれないという可能性である。
もちろん、フィルターをいくら剥がしても、自分の眼球そのものが最後のフィルターだという可能性は残る。ありのままの真実、ありのままの自然、こうしたものが過去千年単位に渡って追求されてきたのに未だ決定的な答えが出ないのは過去の探求者が無能だったからではない。そもそも何が最後の裸眼なのか、誰にも決められないからだ。
しかし、そうは言っても、ターナーの絵画を通じて見た霧は存在する。「ブレスオブザ・ワイルド」を経験した後の風の体験はありうる。その時、僕らは過去の自分よりも僅かに自由になっているのだと僕は思う。そういう意味で「自然は芸術を模倣する」。
世界を認識する見方を教えてくれるのは、自然よりもむしろ人工だ。突き詰められた物の見方、あるいは、実験室で拷問にかけられた自然物質がその本性を僕らに吐露する。すると、人工の極地を通じて僕らは自然にまた違った相貌がある事を発見する。極めて自意識的、病的なドストエフスキー、ニーチェを通じて再び世界を発見する。その時、僕達にとって健康と病気の二択は消えている。人工と自然の二択は消えている。世界はありのままのものとして現れる。そしてありのままに現れた世界を見る事が僕達にとって喜びとなる。何故なら、世界をありのままに見ている自分というのをまたもうひとつの目でどこからか見ているからだ。自分を感じているからだ。世界を感じている自分を感じるからだ。その時、人は自分が以前より自由になった事を感じるだろう。フィクションを通じて世界を再構築する。「自然は芸術を模倣する」 この言葉は形を越えて、オスカー・ワイルドから、ターナーから、現在まで連綿として続いているように見える。