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「ゼルダの伝説 ブレスオブザ・ワイルド」という作品は最近、一番驚嘆した作品だった。ここで、ロンドンの霧とターナーの絵にあった関係が再び、現在に蘇った。そんな珍説を唱えるのは僕ぐらいだろうが、説明してみよう。
「ブレスオブザ・ワイルド」にはそれまでのゲームになかった生き生きした世界がある。そこには世界の、リアルな質感がある。海が見えれば、そこに行って泳ぐ事ができる。空を見上げれば雲が動いていて、雲は地上に影を投げかけている。草原を走っていくと、主人公リンクは一旦、雲の影に入り、また影は去っていく。夜、月は動いていて、雲も動いている。風があり、草むらには虫がいる。リンクが走れば、足元から虫が飛び立っていく。
もちろん、それはゲームだから、僕にわからない複雑な計算式の元にそのように動いているはずだ。だが、そのような計算によって現れた世界は僕達の感覚にダイレクトに現れる。植物の分子式がわからなくても、植物は目の前に一つの存在として現れてくるのに似ているかもしれない。世界がどのように動いているかはわからない。が、世界はとにかく目の前に存在している。生き生きと存在している。
「ブレスオブザ・ワイルド」をプレイした後、外を散歩すると妙に感動する自分がいる。川べりを歩くだけで静かに喜びがこみ上げてくる自分がいる。世界はよくできているのだなあ、そんな事を思う。それは一体、どんな感覚だろうか。
例えば、向こうに建物が見える。あるいは風に揺れるすすきがある。それらは、「ブレスオブザ・ワイルド」をプレイするまで、単にそこにあるものにすぎなかった。言い換えれば、風景に埋め込まれたものにすぎなかった。
太陽に着目してみよう。太陽の直径、太陽の温度は知識として調べる事ができる。太陽は毎日、見るか、感じるかしている。だが、太陽そのものに近づいて皮膚を灼かれるとはどんな感じなのか、僕らは知らない。想像もしてみない。しかし、実際に太陽は存在する。僕達と同じようにそれは存在している。それは単に風景の一つではなく、(熱くて近寄れないにしても)実際に触れるもの、存在するものとしてあるはずだ。太陽の存在を感じるとは単に、それが風景の中にあると見る事ではない。そうではなく、実際に、太陽に体を灼かれて、半死しかけた人間、そんな人間がいたら、彼は太陽をリアルに感じたと言えるかもしれない。
「ブレスオブザ・ワイルド」が体現しているのは、そのように、全ての物に実際に触れ、調べ、歩き、見る事ができるという質感そのものだ。世界の様々な場所にあるものが色々な概念と紐付いている。法律によって入る事が禁止されている場所。国境が有れば、無断で越える事はできない。私有地に入る事はできないし、人間には人権が、獣にも同様に権利が付与されている。
もちろんこれらが間違っているわけではない。ただ、それらの全てに対して人間がどのような概念・権利を付与しようと、それら全ては、実際にあるもの、自分と同じようなもの、触れるもの、確かめられるもの、見る事のできるもの、そのようなものとして存在しているはずだ。
もしかしたら、古代の原始人は世界をそのように見たのかもしれない。あるいは彼らは我々よりも遥かに強い共同法に縛られていたかもしれない。それら全ての縛めを解き放ち、もう一度、世界を、自分の足で現に歩き、確かめられるものに還元する事。「ブレスオブザ・ワイルド」はゲームとして、そんな世界を作り上げたのだった。
そうしたゲームをした後、川べりを散歩すると、世界が意外によくできていた事に気づく。風に草が揺れるが、それは前時代のゲームのように一つの方向に同じように傾くのではない。それぞれが似たような方向を取りつつ、生きているかのように、それぞれに変化しながら風にそよいでいる。古代ギリシャ人は自然を生きたものとして見ていた。アニミズムというのは、現代人から見れば馬鹿げた考えかもしれないが、自然に霊魂があるというのは、自然が我々と同じように変化して生きているものであるという素朴な直観から出ているのではないか。自然を概念として見るからこそ、アニミズムは誤った概念を付与しているように見える。それは近現代の見方だ。自然の中を実際に歩いてみると、そこに自分達と同じような変化・動きが絶えず現れる。自然は生きたものとして感じられる。それは自分自身が生きているからだ。